生活と文化
明治末から大正初頭にかけて、日本の都市空間は根本的な変貌を遂げ始めていた。
特に東京・大阪・名古屋などの大都市圏では、鉄道網の整備、電灯・上下水道の普及、公園・商店街の整備といったインフラの近代化が進行し、**「都市の快適さ」**が可視化されていった。
「これからは、“暮らし”にも格というものが要るんですよ」
こう語ったのは、東京・浅草で洋品店を営む三田耕作(架空人物)。
彼のような新興中産層は、年収で言えば300〜800円程度、丁稚から商店主へと成り上がり、「衛生・教育・体裁」を生活の柱に据える。
•子供は小学校から高等小学校へ。男子なら商業学校へ進学
•着物から洋装(ズボン・セーラー服)への移行
•日曜には芝居・活動写真(映画)鑑賞
•娘には裁縫とピアノを習わせるのが“良き家庭”
彼らは、旧士族や大商人とは異なり、「努力と倹約による上昇」を信じる層であり、都市化・消費文化・教育意識を支える都市型国民像の原型をなしていった。
一方で、都市の近代化の背後には、農村の沈滞と構造的変化があった。
•小作制の固定化(地主と小作の分離)
•地方銀行の都市志向化と、農村資金の流出
•若年労働力の都市流入・出稼ぎ常態化
•米価の乱高下と不作年による生活不安
ある村会議員(長野県東筑摩郡)は、県庁宛の請願でこう述べた。
「今や我が村には、“働く者”はおれども、“希望を語る者”がいない。子は町へ出て、田には老父母のみが残される」
このような状況の中で、農民運動や社会主義思想がゆっくりと浸透し始める。
•1907年:「日本社会党」が非合法結社として結成
•1911年:「農民義勇団」や「小作争議互助会」が東北・九州で誕生
•農業改良会による肥料・用水・信用の自主管理運動が発展
とくに宗教的背景を持つ運動(法華系・新宗教など)が多く、**「反体制ではなく、生活の正義を求める自律的運動」**という色合いを持っていたのが特徴である。
この時期、女性の教育と社会的位置づけも大きく動き始めていた。
文部省は1907年に女子高等師範学校の地方設置を正式承認し、東京・広島・奈良・仙台などに順次拡大していく。
これにより、教員・看護・保育といった“女性の専門職”への進出が現実化し、知識層家庭では次のような会話が交わされるようになる。
「娘に裁縫だけでなく、修身や数学も学ばせております」
「うちの子も女学校で“体操”を習っておるのですって。体も精神も鍛えねばならぬと……」
女性雑誌『女学世界』や『婦人画報』では、以下のような特集が人気を集めていた。
•「理想の良妻賢母とは?」
•「家庭における女の学問」
•「欧米の婦人教育と日本の課題」
•「結婚前の修業と、結婚後の“家”の守り方」
もちろん、こうした議論は都市部中流以上に限られ、農村や労働者層では依然として伝統的性役割が支配的であった。
それでも、社会の“語られ方”が確実に変わり始めていたことは注目に値する。
次回からは、この時代を生きた人達の日常生活にスポットを当てて描いていく。