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萌芽

明治三十八年(一九〇五年)秋、ポーツマス条約の交渉が終結して間もなく、東京・霞ヶ関の外務省では、閣議決定に至らぬまま進められた一つの重大な了解事項がひそやかに扱われていた。


桂・ハリマン協定――。


これは、日本の南満洲における鉄道経営に関し、米国の実業家エドワード・H・ハリマンが率いる財団と日本政府が協定を交わしたものである。


内容は以下の通りである:

•南満洲鉄道の税後利益を日本55%、アメリカ45%で分配する。

•経営権は日本が保持するが、アメリカは「監査機能」を有する。

•満鉄理事会においてアメリカ人監事を配置。

•鉄道沿線の鉱山・港湾における共同出資と利潤分配。


この協定は、表向きには「経済協力」であったが、実態としては準同盟的枠組みと外務省内では認識されていた。


当時の外相・小村寿太郎は私的書簡でこう綴っている。


「我等がロシアと争いし戦費の多く、米国の公債市場にて集められし以上、これは返礼に非ずして、国家としての分岐点に他ならず」


すなわち、桂・ハリマン協定は、日本が初めて欧州以外の列強、特にアメリカとの協調関係を本格的に模索する出発点であった。


1911年、ウィリアム・ハワード・タフト大統領の下、アメリカ政府は**「道義外交(Dollar Diplomacy)」**を掲げ、アジア・ラテンアメリカへの資本と外交の連動を強めていた。


東京の米公使館にて、特命全権公使チャールズ・ペイジ・ブライアンはこう語った。


“We do not seek colonies, but commerce. Not dominance, but cooperation.”

(我々が求めるのは植民地ではなく商業であり、支配ではなく協力です)


これに対し、日本の外務次官石井菊次郎は率直に懐疑を述べた。


「それが貴国の“理想”であることは理解するが、現にアジアで展開されている貴国の銀行・電信・鉱業出資は、いずれも“国策”として動いているように見える」


“Perhaps because your eyes are trained to see empires, not enterprises.”

(それは貴国の目が“帝国”を見慣れすぎて、“企業”を見分けられないのかもしれませんね)


このような応酬は、日米関係において理念と現実、表と裏の齟齬を象徴するやり取りであった。


日本外交のもう一つの柱である日英同盟は、1905年の改訂を経て、より強固な軍事的性格を帯びていた。


1907年、外務省では、以下のような内部覚書が交わされている。


「日英両国の防衛協定は、すでに実質において“戦争責任の共有”を伴う連携関係と化しつつあり、条文以上の拘束力を持つに至れり」


この時期、英本国では極東における影響力を維持するため、清国への圧力やインド防衛ラインとの連動からも、日本との協調を最重要視していた。


しかし、幣原喜重郎ら若手外交官の中には、早くから**「英国の思惑は時に日本の利害と齟齬を来す」**とする指摘があった。


「英国は、同盟を保ちたがる一方で、日本の“南下政策”や“大陸投資”には逐次制限を加えてくる」


特に朝鮮・満洲における日本の行動が国際的に注視される中、英国内部や議会筋から「日本の拡張主義への懸念」が燻り始めていたのも事実である。


1908年、光緒帝と西太后が相次いで崩御すると、清朝内部は急激に動揺する。

これに伴い、日本では清国における秩序の不安定化を危機として捉える派と、混乱を機に権益拡張を図ろうとする革新派のあいだで外交方針が分かれた。


後藤新平、幣原喜重郎、石井菊次郎らは、中華民国の誕生(1912)を前に、袁世凱政権との実利的関係構築を重視し、日本資本の鉄道・鉱山への出資を進めた。


また、北京駐在公使館には外務省内で最も柔軟な人物とされた内田康哉を派遣し、満鉄を通じた中国側官僚層との連絡体制を強化した。


「我が国は、中華の混乱に際して覇を唱えるのではなく、秩序と安定を支援することで自らの利を守るべし」


この「秩序外交」理念は一部で評価されたものの、対中干渉的性格は欧米に警戒を生み、“門戸開放・機会均等”原則との摩擦を避けがたくした。


この時代の外交において、最も重く国際的視線が注がれていたのが朝鮮半島の統治問題であった。


1905年11月の第二次日韓協約(乙巳条約)により、大韓帝国は外交権を日本に委譲。以降、統監府が設置され、伊藤博文が初代統監として赴任した。


そして1910年8月、韓国併合条約の公布により、朝鮮半島は正式に日本の一部として統治されるに至る。


日本国内では、新聞各紙が「歴史的偉業」「東洋平和の礎」と賛辞を送ったが、欧米各国の反応は概して冷淡であった。


アメリカ国務省は当初沈黙を貫いたが、内部文書において以下のような評価を残している。


“Japan has consolidated its position, yet at the cost of native autonomy and the moral premise of international equal rights.”

(日本はその地位を固めたが、それは現地の自治と国際的平等原則を犠牲にしてのことである)


また、英国も表向きは同盟国として併合を黙認したが、ロンドン・タイムズ紙には「日本がアジアにおける“準欧州列強”として振る舞い始めた」という懸念の声が掲載された。


統治政策においても、日本政府は「文明開化」の名の下に:

•戸籍制度・義務教育制度の導入

•朝鮮総督府による中央集権化

•日本語教育と司法制度の一元化


を進めたが、現地の反発は根強く、1910年代初頭から既に非合法的抵抗運動や亡命知識人の活動が活発化していた。


特に中国・上海に拠点を置く「大韓民国臨時政府」構想が後の展開へと繋がっていくことになる。


1912年、日本とロシアの間では、三度目となる日露協約が締結された。

この協約は、ロシアのバルカン方面重視という戦略転換と、日本側の**「満洲安定と資本保護」を優先する路線**が一致したことによる。


内容は次の通り:

•満洲北部(ロシア勢力圏)と南部(日本勢力圏)を相互承認

•清朝政府に対して協調的態度を維持する

•シベリア鉄道と満鉄の交差運用計画を「検討する」文言を盛り込む


だが、これを軍部は「必要悪」と見なし、参謀本部の田中義一らは協約文を「脆弱」と批判していた。


一方、陸奥宗光以来の「戦略的二正面外交」は、ここにきて難しさを増し、対露・対清・対米の調整が日本外交官の頭を悩ませる常態となっていた。


1914年、第一次世界大戦が勃発。


この時、日本は日英同盟に基づき参戦を表明するが、それ以前から既に、欧米諸国における「日本観」は明確な転換点を迎えていた。

•アメリカでは「信頼できる同盟国」から「静かなる拡張主義国」への視線の変化

•英国では「軍事同盟国」であると同時に、「アジアの新たな競争相手」としての警戒

•中国では「秩序の守護者」としての期待と、「旧帝国主義の延長線上」とする失望が混在


日本はこの時期、国際的な“誤解と二面性”に基づく外交構造を抱え込むことになった。


外交官・幣原喜重郎はこのように記している。


「我が国が国際社会においていかなる姿で見られ、何を期待され、何を恐れられているか……この三者が一致することは、けして無い」


1905〜1914年の日本外交は:

•日英同盟の深化と、欧州列強との形式的安定

•日米経済協力の本格化と理念的摩擦の始まり

•清朝崩壊に伴う権益再編と複数勢力への接近

•朝鮮併合と統治体制の国際的波紋

•ロシアとの再接近と軍政外交の温度差


を通じ、かつてない重層的かつ対立的な外交圏を形成するに至った。


この複雑な外交体制は、やがて大戦という巨大な外圧のもとで破綻するか、あるいは深化するかの岐路に立つこととなる――。

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