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交互政権

「お互いに、火薬庫の上で舞を舞うようなものだな――」


明治四十一年(1908年)、桂太郎が西園寺公望と向き合ってそう呟いたのは、宮中での私的な対話の場であった。

前年、第二次桂内閣が終わり、西園寺が再登板したばかりである。


「君が火薬を背負い、私が笛を吹いている……そういう按配かもしれんな」

と微笑む西園寺の目は、どこか憂いを帯びていた。


桂と西園寺――陸軍出身の官僚政治家と、貴族院と政党政治の調整者。

彼らは、互いの違いを承知の上で、天皇制政府の安定を支えるために事実上の交互政権体制を築き始めていた。


この時期、政界では「一強による独裁」ではなく、「分権と調和による統制」が意識されていた。

これは、満洲・台湾といった外地を含む統治範囲の拡大により、中央集権では対応しきれない国家運営の現実があったためである。


明治後期、日本の政党政治はなお発展途上にありながらも、確実に制度的地歩を築きつつあった。

•立憲政友会(西園寺・原敬)による議会運営の本格化

•衆議院選挙制度の改革議論(普通選挙への期待)

•政党幹部による官僚任用への介入(文官任命内規問題)

•地方政界での政友会・民政党・同志会の三分構図


とくに、原敬が内務省から政友会幹部へ転じた後は、地方知事や警察人事にも政党の意志が浸透するようになり、「政党=内政の実行主体」と見なす声も強まっていた。


だがその一方で、元老・貴族院・軍部はあくまで「政党は天皇大権の補助者に過ぎない」との立場を崩さず、政党政治には構造的な上限が課されていた。


「政党は、国を動かすことはできる。だが、戦を起こす覚悟があるのか?」


桂太郎がある非公式の閣僚懇談会でそう発言したとき、原敬は黙ってうつむいた。


当時の日本では、陸軍・海軍は依然として独立した“政策決定機関”としての力を持っていた。

•陸軍省の「軍部大臣現役武官制」

•海軍省の「軍令部の独立性」

•軍部予算の国会提出に関する“事前内諾制”

•陸海軍ともに、外地派遣に関する独自計画を保持


政党内閣が軍部の同意なく軍拡予算や作戦変更を実行することは、実際上不可能であった。


ただし、桂太郎自身が“文官的軍人”であり、また西園寺公望が「軍事に不介入」を原則としながらも軍部との信頼を築いたことで、“冷たい共存”は保たれた。


その均衡が破れるのは、まだ数年後の話である。


一方、帝国政府の根幹を支える官僚機構は、1905年から1914年にかけて制度化と専門化が飛躍的に進展した。

•文官高等試験の体系化(1907年)

•各省庁内の“政策部局”と“事務部局”の分離傾向

•内務省・大蔵省・逓信省の“政策エリート”の登場

•満洲・台湾・朝鮮からの「外地経験官僚」の本省起用


特に、**満洲から還流する経験者たち(後藤新平系・大浦兼武系)**が東京の政策形成に大きな影響を与えるようになっていた。


彼らは「国家は管理できる」という理念を持ち、政党や元老の“政治”とは一線を画した、テクノクラート型官僚集団を形成していた。


これにより、外地統治と内政が次第に「一体化」していく構造が生まれたことは、のちの帝国体制に深く関わることとなる。

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