「勝ち戦」の帳簿
明治三十八年(1905年)秋、日比谷焼打事件の熱がまだ東京の空に燻っていた頃――。
霞ヶ関の大蔵省地下会計室では、硝煙と喧噪とは無縁の、しかし国家の未来を大きく左右する数字の計算が進められていた。
「……これが、戦勝国の帳簿とは思えん数字だな」
若き主計官補佐の松浦修一郎がそう漏らすと、隣にいた初老の官僚がゆっくりと頷いた。
彼こそが、大蔵次官にして財政行政の重鎮、阪谷芳郎その人であった。
「戦争の勝敗は、軍が決める。だが、戦後の安定と秩序は、財政が決めるのだよ、松浦君」
彼が差し出した帳簿には、以下のような数字が並んでいた。
•日露戦争 総戦費:約18億円
•外債(ロンドン・ニューヨーク等):約11億円
•国内公債:約4.5億円
•増税・資産課税・特別金等:約2.5億円
「……つまり、戦いは“借金”で行われたということですか?」
「そうだ。勝ったとはいえ、このままでは国家が破産する」
阪谷はさらに一冊の分厚い資料を広げた。
そこには、明らかに他の帳簿とは異なる様式で記された、特殊な勘定科目が並んでいた。
「これは……“満洲管理収支案”?」
「そう。桂・ハリマン協定の履行により、我が国は“国家外の財源”を手に入れた。南満洲鉄道、鉱山、港湾、通信、いずれも含めた一体運営だ」
阪谷は眼鏡の奥から、冷徹な光を放って言い切った。
「この“帝国の外貨財布”を活かさねば、我々の財政は持たん」
翌年、大蔵省主計局と逓信省を中心とした「帝国経済委員会(非公式)」では、ある一人の行政官の発言が注目を集めていた。
後藤新平――
日清戦争後の台湾統治に辣腕を振るい、次いで逓信大臣としてインフラ統一を推進したこの男は、いまや南満洲鉄道初代総裁として大連に赴任していた。
彼が東京に戻るたび、阪谷と秘密裏に会談が行われていた。
「阪谷さん、我々が満洲でやっているのは、単なる事業ではありませんよ。“国家経営の縮図”です」
「縮図?」
「そう。我々が初めて、自国の外で“鉄道を持ち、鉱山を掘り、通信を繋ぎ、税を取り、労働を管理”している。それはつまり――国家機能の民間的代行です」
阪谷は黙ってその言葉を受け止めた後、低く問うた。
「つまり君は、大蔵省の外に“国家”を作っているつもりか?」
「そうは申しません。ただ、もし東京の財政が満洲の利益に頼る時代が来れば、満鉄は“大蔵省の外郭団体”では済まなくなります」
このやりとりは、後に“外部国家論”と呼ばれる一連の学説に影響を与える。
1907年以降、日本本土では急速に「満洲投資ブーム」が起こっていた。
•大阪商人による撫順炭鉱株の大量購入
•東京の証券市場で「満鉄債」が国債並の扱い
•地方銀行の満洲不動産投資部門開設
•東北や九州からの“青年渡満計画”の推進
「我が地元の銀行の融資先の七割が“外地”だ。農家への融資は後回しになる……」
衆議院本会議では、こうした「資本の外流」が問題視され始めた。だが、阪谷芳郎は慎重だった。
「たしかに本土の空洞化は課題だが、それを食い止めるには、まず外地で利益を出すほかあるまい。本土の富は、もはや“帝国全体の還流構造”に支えられている」
彼のこの言葉は、のちに帝国経済政策の根幹となる。




