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実験

1909年、春。奉天総合庁舎。


赤煉瓦の建物の一角に、「奉天教育特別局」が新設された。この局こそ、満鉄理事会の合議に基づいて発足した日米共同教育管理機関である。日本側局長は元文部官僚の井上誠一郎、米国側教育顧問は、マサチューセッツ州出身の教育学博士ハーバート・W・グレアムであった。


初会合、開口一番。井上が慎重に切り出した。


「まず確認しておきたいのは、“満洲の教育制度”は我が国の文部省制度を準拠とすることが閣議決定されているという点です。国家の整合性を優先するためでもあります」


グレアム博士は、薄く笑みを浮かべた。


“A uniform system is efficient—but not always just.”

(画一的制度は効率的ですが、常に公平とは限りません)


井上は眉をひそめた。


「一つお聞きします。貴殿は“正義”をどう定義されますか?」


“Justice, to me, is when a Chinese child, a Korean child, and a Japanese child can all read the same book—and be proud of their place in it.”

(私にとっての正義とは、中国人の子も、朝鮮人の子も、日本人の子も、同じ本を読み、その中で誇りを持てることです)


井上はしばし黙した後、返した。


「理想ですね。しかし、現実の国家は“国民教育”を担っております。誇りは“国籍”に拠って生まれるものだと、我々は考えております」


その後、白熱した議論を経て――

妥協案として、**「初等教育は地域住民の言語と文化に配慮、師範学校は日米共同運営」**という二重構造案が採択された。


この制度は後に、満洲教育連合方式と呼ばれる先進的モデルとして注目を集める。


1909年晩夏。大連市公衆衛生局会議。


この日は、下水道建設における予算案が審議されていた。日本側衛生局長大江智章は、明治陸軍衛生制度の実績を背景に、軍医中心の保健行政モデルを提案していた。


「予防は重要です。しかし現場では、迅速な伝染病対応こそが最も求められております。つまり、軍式でよいのです」


これに対し、アメリカ側保健顧問エイミー・ノートン女史が異議を唱えた。


“Public health is not battlefield triage. It is a matter of dignity and daily life.”

(公衆衛生は戦場の応急処置ではありません。それは尊厳と日常生活の問題です)


大江が静かに返す。


「日本には、伝染病と飢饉を克服してきた衛生行政の知恵があります」


“And we have cities with sewage systems that don’t overflow every summer.”

(我々には、毎年夏に溢れかえる下水道を抱えていない都市があります)


議場がどよめく。


だがこのやり取りが転機となり、満鉄理事会は**「予防医療・地域保健・上下水道整備を含めた“都市衛生包括行政”」**を大連・奉天・長春の三都市で導入することを決定。


日本式“衛生軍政”とアメリカ式“市民保健モデル”の融合が、ここに初めて実現する。


1909年末。奉天警備局・治安官会議。


日本側は、警備司令として柴田秀樹大佐を派遣。アメリカ側の法務顧問は、ハーバード法科出身の弁護士ウィリアム・M・フォード。


この日議論されたのは、政治集会の規制に関する条例案だった。


柴田は言った。


「満洲における集会は、しばしば民族主義的暴動に直結します。公共の安全のため、厳重に許可制を採るべきです」


“In my country, people assemble because they are free—not because they are permitted.”

(我が国では、人々は“許されたから”集まるのではない。“自由だから”集まるのです)


柴田は即座に反論した。


「ならば、暴徒が役所を焼き討ちにしても見守るのですか?」


“We arrest those who burn—not those who speak.”

(焼き払う者を逮捕します。語る者ではなく)


両者の間に火花が散る中、後藤新平が割って入った。


「では、集会は許可制とするが、“記録の開示”を条件としよう。議事録と出席者名簿を提出すれば、事後制とする」


これが採用され、満洲において「準自由集会制度」が導入された。

日本本土よりも表現の自由が広く保障される一方、監視機構もまた精緻に整備されていった。

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