聖女失格
私の名前はレネ。職業と呼んでいいものかはわからないけれど、この国の聖女と呼ばれている。聖女とは分け隔てなく人々を様々な苦難から救い、守る存在だ。
そんな私はこれから人を殺す。ヴィンセント王太子とオデッド王太子妃。私の世界で一番大好きな男性か、世界で一番大好きな女性のどちらかを一人を。
息をひそめ、気配を殺しながら、ゆっくりと二人の背後へ近づいていく。
懐には、ナイフが入っている。
私はそれを使って、取るに足らない悲劇と、ちっぽけな嫉妬と、仮縫いで終わってしまった恋と。それでも全身全霊を使って感じ耐えてきたフラストレーションの全てに、今日ここでケリを付けようと決めたのだ。
王宮のバルコニーからは、花盛りの庭園が見えた。青い月が明るかった。誰かを殺すのにも、自分が死ぬのにも良い夜だと思った。
ヴィンセントを殺したならば、私はそのまま身を投げるつもりでいる。オデッドを殺したならば、きっとヴィンセントは、その場で私の首を刎ねてくれるはずだ。
明日、二人は結婚式をあげる。国中が彼らを祝福し、喜びに満ち溢れることだろう。だから私にはもう、時間が残されていなかった。
聖女が道から外れる行いをしたとき、神は罰を与え、その身を雷で貫くという。だけど、私はそんなものに殺されはしない。それは雲の上から、今も覗き見しているだろう何かへの、私に出来る唯一の反逆だった。
誰も何も話さなかった。ヴィンセントも、オデッドも。寄り添うように、欄干へ向かい並んで立つ二人の、いったいどちらを殺せばいいのかだけを、私はまだ決めることが出来ずにいた。
ふたりとも殺すことは出来ない。だって、私の命はひとつしかないのだから。
そのひとつを使うというのなら、贖うことが出来るのも、ひとつだけだと思う。
私たち三人は、幼なじみで親友同士だった。ただの男の子と、ただの女の子。それはこの世界にいる幾万の幼馴染となんの変わりもない。一人は王太子で。一人は貴族の令嬢で。一人は聖女候補である神官だっただけのこと。泣いたり、笑ったり、幼少の私たちはそのほとんどのときを、一緒に過ごしていた。
絵本の中にいるような、穏やかな子供時代が過ぎ去ったとき、私はヴィンセントに恋をした。それは、宵の空に星が現れるような。花のつぼみが、陽の光に撫でられて開くような、自然な恋だった。
ヴィンセントは幼い頃から美しく聡明で、文武にも優れていた。人間性も申し分なく、誰に対しても丁寧で、貧富の差で人々を区別することもない。王位継承の暁には、この国の歴史の中でも語り継がれるような偉大な王になるだろうと、王宮の誰もが口を揃えて言った。
オデットも美しく、とても優しくて、それでいて明るい女性だった。上級貴族である自身の身分をまるで鼻にかけるようなこともなく、普通の令嬢であれば嫌がるような公務にも、自ら進んで参加するような人だった。民からは反感を買いやすい立場でありながら、彼女のことを悪く言うような人には出会ったことがない。
わかっている。そんな二人が結婚すれば、この国はより素晴らしいものになるはずだ。勇気と愛との二つで行われる治世は、今以上の繁栄を人々に約束するだろう。この国の聖女として選ばれた私が望まなければいけないのは、ひとつでも多くの笑顔であるはずだ。
国王と王妃として、これ以上などないほど二人はふさわしい。前途に広がる未来も、月明かりに照らされ伸びる影さえも、ヴィンセントとオデッドはお似合いであることを。わかっては、いるのだ。
けれど、聖女にふさわしくない私は、心が醜い私はこう思わずにはいられない。
私の方が、先だったのに。
三年前。国が信仰する神の神官として仕えていた聖女候補だった私は、神託を受け正式な聖女となった。一度聖女になってしまえば、生涯に渡り伴侶を持つことは許されない。その身は、髪のひとふさに至るまで、もはや自分のものではないのだ。聖女とは神に愛された、いわば神の妻なのだから。
聖女として初めて人々の前に紹介される前の日、私はヴィンセントに長年の恋心とその想いの全てを伝えた。聖女になんかなりたくないと泣きじゃくる私を、彼は強く抱きしめて、私の身体を奪ってくれた。私とヴィンセントは拙い愛を、互いに伝えあった。
初めてヴィンセントを受け入れた夜のこと。彼の艶やかな黒髪、どこまでも澄んだ青灰色の瞳。私の髪を撫でる大きな手と。熱い吐息と。窓から漏れる星明かりと。尽きることなどないように思えた幸せと。あの優しい揺れを。
こんなときですら、私はまだ思い出してしまう。
ヴィンセントに想いを打ち明けたこと。それを彼が受け入れたこと。少し申し訳なさそうに、それでも、喜びを隠しきれないといった風に打ち明けてきたオデッドの美しい顔に向かって、あのときの私は、いったいどんな表情を浮かべていたのだろう。
それは仕方のないことだった。ヴィンセントは王太子。私は聖女。そんなことは許されないのだ。それにオデッドもまた、ヴィンセントを深く愛していたことを、私はずっとずっと知っていたから。抜け駆けをしたのは、私の方なのだ。二人が婚約したことはすぐに国中の人も知ることになった。
ヴィンセントとオデッドが正式に婚約し、オデッドが王太子妃と呼ばれるようになっても、私は二人から離れることが出来なかった。聖女として、必死に職務をこなすかたわらに、私の心をいつも満たしてくれていた、三人での他愛のないおしゃべり。
「私達の結婚式には、たぶん色んな人から祝福されると思うの。それはきっと素晴らしいことなんでしょうけど、それでも私はレネ、あなたに一番に祝福されたい。この国でたったひとりの尊い聖女のあなたに。私達のかけがえのない親友のあなたに」
ヴィンセントとオデッドと過ごす時間の全てが、いつしか細かなガラス片のように変わってしまった。痛くて、痛くて。だからといって、どうすればいいのかもわからない。
こんな想いを抱えた自分は、聖女になどふさわしくないと知りながら、それでも私は歯をくいしばって聖女としての役目を果たし続けた。どんな危険な場所や戦場にも自ら赴いて、授かった奇跡で、私は手の届く誰かを癒やし、救い、そのことに全てを捧げようとした。
そんなことをしているうちに、私の名声は高まった。いつしか救国の聖女などと呼ばれるようになった。だけど、実際の私はそんなものになりたかったわけではない。私はただ、死に場所を求めていただけなのだ。
気付いたときには、目の前に横たわっている世界は、すっかりその姿を変えてしまった。生き物の内臓のように、ときおり不気味にうごめき、煽動をする巨大な何かに。
どんな感謝の言葉も、美しい讃美歌も、不可解な音の羅列にしか聞こえなくなった。誰と居ても、過ごしても、自分はたったひとりなのだと感じる。むしろ、ヴィンセントとオデッドと一緒に居るときにこそ、その気持ちは一層ひどいものになった。
何も望まなければ、何も願わなければ、私は二人とこれからも一緒にいることが出来るだろう。でも、ヴィンセントへの想いだけが、どうしても消せない。オデッドのことも、幼いころからずっと、私は大好きだったはずなのに。
二人のことを憎みたくなんてなかった。私はもがいた。自己欺瞞と、矛盾が交じり合う迷宮から抜け出そうと、毎日、毎日、必死で出口を探した。けれど、絶え間ない苦しみの中で、私の中にひとつの願望が浮かび、その黒い考えは次第に心を捉えて離さなくなっていた。
懐の中できつく握りしめた短刀が、とくとくと、温かく脈打っているような気がした。ヴィンセントか、オデットか。私は聖女としてはおろか、人間としても、とっくに壊れていたのだ。
「あなた、そろそろ中へ戻りましょう。明日は結婚式だというのに、お風邪を召したら大変です」
「オデッド。君に話しておかなければならないことがある」
ヴィンセントは前を向いたまま言った。
「すまない。私には、君を愛することは出来ない」
その拳はきつく握りしめられ、震えていた。
「君だけじゃない。私には生涯、誰を愛する資格もないんだ。私が本当に愛した女性は、この世でたったひとり、レネだけなんだ」
私はハッとして、その場で立ちすくんだ。雷で貫かれたような気さえした。
今、彼はなんと、なんと言ったのだ?
「……存じています。子供の時からずっと、あなたがレネのことしか見ていなかったことも。そして、レネがあなたをずっと愛していたことも」
オデットは優しい声音で言った。
「あの子が聖女に選ばれることがなければ、今ごろあなたの隣にいたのはレネだったはずです。しかし、それは叶わなかった。それはあなたのせいでも、あの子のせいでもありません。天が定めたことです。それは誰にも、どうすることも出来なかった」
「レネが聖女に選ばれた日。私は、レネと肌を重ねたんだ。私はあの日、彼女を連れて逃げるべきだった。国も、地位も、民も、何もかも投げ捨てて。そうしていれば、今ごろは……。でも、意気地の無い私には出来なかった。与えられた責務を投げ出すことも、みなに等しく与えられた聖女という希望を、それを奪うことも……。しかし、そんなものが愛と呼べるのか?」
「……あなたとレネの気持ちを知っていながら、あなたたちの優しさに付け込むように、あなたの隣をあの子から奪ってしまった。罪があるというのなら、その責めを負うべきはすべて私です。あなたではありません。でも、ごめんなさい。私もずっと、あなたを愛していたの」
「レネを殺したのは私だ。私の弱さが、彼女を死に追い込んだんだ。この国の聖女を、たったひとりの、かけがえのない女性を。そして私はいま、優しい君の心も踏みにじっている」
私はそこで、今の私がいったい何なのかを、全て理解した。そうか。これはそういうことなのか。
私は亡霊。ただの残響。はかない影法師。
それがわかったとき、私は嬉しかった。こんな自分を、少しだけ褒めてあげたい気分だった。だって、生きていたときの私は、二人のどちらかを殺す前に、ちゃんと自分を殺したのだから。
「レネが自ら命を絶ってしまったあの日から、あなたがどれほどご自身を責めているか。私にはわかっておりました。あなたはもう充分に苦しんで、苦しみ抜いています。だからどうか、これ以上は」
「私の苦しみなど、レネの苦しみに比べたら石ころのようなものだ。なんの意味も、なんの価値もない。彼女は一人で行ってしまった。誰にも何も告げず、冷たい水底に身を投げたんだ。たった一人で。せめてレネが、ひと言でも私を糾弾してくれていたら、どれほど救われただろう。彼女と最後に言葉を交わしたときのことを、覚えている。彼女は私に言ったんだ。いつも元気で、幸せで居てと。彼女のことを聖女失格だと言う人間がいる。本物の聖女では無かったのだと。私はそういう奴らに出くわすたびに、絞め殺してやりたくなるんだ。彼女が聖女にふさわしくないというなら、いったい誰がふさわしいと言うんだ」
ヴィンセントは肩をふるわせ、振り絞るような声で言った。
「私はいったいどうすればいい。この世に魂というものがあるのなら、レネどうかお願いだ、私の前に現れて、私を苦しめてくれ。安らぎなど一時も与えずに、苦しめて苦しめて、呪い殺してくれ。そばにいてくれ、私のことを狂わせてくれ! 君がいない世界で、私は生きてなどいけないというのに」
誰がヴィンセントの願いを叶えたのかはわからない。もしかしたらそれは、私の本当の願いだったのかもしれない。そんなことはどうでもいい。
私はここにいる。私は聖女だ。良い聖女ではなかったかもしれない。それでも、目の前に傷ついている人がいるなら、泣いている誰かがいるのなら、それを救うのが、私の役目であるはずだ。
今、全てが消えようとしている中で。あの日と同じ言葉を、もう一度だけあなたに言わせて。見えなくても。声が届かなくても。それでも私は手を組み、力の限り叫ぶ。
まるで、本物の聖女のように。
「ありがとう、ヴィンセント。あなたの瞳が私を捉えたときから、私は変わることなく、ずっとあなただけのものだった。私はあなたのことが好き。心から、愛してる。だから、お願い。いつも元気で、幸せでいて。オデッドと一緒に。これからもずっと、ずっと!」
ごめんなさい神様。与えられた使命を放り出した聖女があなたに祈るなど、虫の良いことだとわかっています。それでも、もし許されるのならば、どうか。どうか。
その瞬間、ヴィンセントがハッとしたように後ろを振り返った。釣られるように、オデッドも振り返る。二人はまるで何かを探すように、その何もない場所へ、視線をさまよわせていた。いつまでも。
翌日。ヴィンセント王太子とオデッド王太子妃の結婚式が、国を挙げて盛大に執り行われた。空はどこまでもどこまで青が続き、夜には無数の星が瞬き、夜空の全てを彩ったという。参列者は口を揃えて、天にも祝福された結婚式だと、誰もが言った。
ヴィンセントとオデッドは、式が終わるとすぐに、小さな花束をひとつずつもって、小さな墓にそれを供えた。ふたりの心を救ってくれた聖女に、彼らは心から祈りを捧げた。
「ヴィンセント。私はレネの前でもう一度あなたに誓います。たとえ、あなたが私を生涯愛することがなくても、私はあなたを愛し続けると。あなたと、レネの二人のことを。ずっと」
つたない話をお読み頂き、ありがとうございます。
聖女もの、書いていて楽しかったです。
次はもう少し明るい聖女ものを書きたい(書けたら)なと思っています。
少しでも楽しんで頂けたなら幸いです。