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ラブずっきゅん

 なにかに追い立てられている。振り切ることなどできやしない。むこうのスタミナは無尽蔵で、こっちはいつだって満身創痍の状態だ。治りかけの傷の上にまた新しい傷が刻みつけられ、その上にまた傷が、その上にまた……。痛みが常態化していて、痛覚はすっかりいかれてしまった。

 それでも時折、とんでもない激痛が襲ってくる。黒くて大きい蛇がのたうちまわっているみたいに。

 悲鳴をあげることはできない。そんなことをしたら、居場所がばれてしまう。

 助けを求めることはできない。そんなことをしたら、密告されてしまう。

 しゃがみこむことはできない。そんなことをしたら、たちまち追いつかれてしまう。

 できることはただ、足を進めるだけ。ずっと遠くの方、遠くの遠くの遠くの向こうに見える、見える気がする、光。そこを目指すことだけ。

 手を伸ばしたって届きやしない。だから、一歩一歩、足を進めるだけ。いつかたどり着ける、そう信じることだけ。



「だめだ……電話に出ないよ……わたし、最低だ……わたしがミツの名前を間違えたせいで、ミツは自己の尊厳を否定しちゃったんだ、それがミツにアイデンティティクライシスをもたらしちゃったんだ……。ミツはきっと今、自我を忘却した状態。自分がどんな存在だったかもわからずに、この街のどこかでふらふら彷徨っているんだ。かわいそうなミツ……!わたし……取り返しのつかないことをしてしまった。謝っても謝っても謝りきれない過ちをおかしてしまったよ……」

 みほは憔悴しきっていた。涙が化粧を溶かして、それを手で何度も拭ったものだから、ジーン・シモンズみたいな顔になっている。

「みほとミツってさ、やっぱりあれか? その、恋人同士、ってやつなのか?」

 山田ダチトがちょっと恥ずかしそうに訊いた。

「当たり前でしょうが!」突然、藤田たもつが興奮しはじめた。「見ればわかるでしょう、見れば! まさか山田さんあんた、そうやってイノセント装って、弱っているみほさんの心を揺さぶって、あわよくば自分の方に引き寄せちゃおう、なーんて企んでいるのではないでしょうね? そうは問屋が卸しませんよ山田さん、ええ、私がそうはさせませんとも。山田さん、あんたはおっさん、私と同じおっさんなんです! 身の程をわきまえてくださいね!?」

 ずぼっ、と山田ダチトの拳が藤田たもつの腹にめり込んだ。

「確かにおれは当初の予定以上に年を食った」うずくまる藤田たもつを見下ろし山田ダチトが言った。「だがおれは自分のことをおっさんだと思ったことがない。これからもおっさんとやらになってやるつもりもない。それでもおれをおっさん呼ばわりしたいやつはすればいい。その覚悟があるならな。だがな、たもつ。おれはてめえのことをおっさんと言うやつが許せねえ。それはなぜか! みほ、わかるか!?」

「え、わたし?」

「そうだ、おまえだ! 考えろ、みほ」

「えーっと……」みほはこめかみに手をやってしばし考えた。「つまり……であるからして……うん、わたしわかった気がする」

「言ってみろ」

「こういうことでしょ、自分をおっさんと定義することによって、なにかから免除された気になってるのよ、それは例えば、かっこよく生きようとすることだったり、到底許しがたい悪に屈しない気概だったり……そう、戦うということ。生きることは終わりのない闘争よ。決して勝ち目のない負け戦よ。それでも戦い続けないといけないの、なぜならそれが人間だから。謙虚ぶってるつもりなのかしらないけど、自分をおっさんと言う人は、その戦いから勝手に降りたつもりになってる……そんなことは不可能なのにも関わらず! 違いますかっ、山田さん!」

 そう言って、今までしゃがみ込んでいたみほが、すっくと立ち上がった。山田ダチトに対峙し、一歩も引く気がないという顔をした。

「みほ、やるじゃねえか。できるやつだと思っちゃいたが、想像以上だぜ。……たもつ、立てぇい! いいか、おっさんという名の個人なんてこの世に存在しねえ、いもしねえもんに振り回されてどうする! おまえは藤田たもつというおっさんじゃねえ、おっさんと呼ばれてもおかしくない年齢になった藤田たもつだ。

 その昔、森高千里がわたしがおばさんになってもと歌ったぜ。一見、弱気な女の歌に思えるがな、歌詞をよーく読むとわかるぜ。森高千里はおばさんになる気なんてさらさらねえ。見た目の若さは失うかもしれないことは一部認めつつも、自分の中身が変わるなんてこれっぽっちも思っちゃいねえ。むしろ男の方に警告するんだ。てめえ、19が女ざかりだとかじじくせえんだよ、かっこばっかつけやがって、てめえの将来が心配だよ、ビールっ腹つき出して、若い子はいいねえ、とかだっせえこと抜かすんじゃねえぞってな。これだよ、たもつ。わかるか? いまこそ学ぶんだよ森高によ! 若いとか若くないとか関係ねえんだよ。せっかく、たもつって名前をもらったんだからよ、精神を保つんだ、新鮮にな。わかったか、たもつ!」

 藤田たもつはわかりましたと言うしかなかった。


 そのあとなんやかんや細かいやりとりがあったが、三人はまだどこかの有料駐車場にいるのだった。

「ありがとう、山田さん、たもつさん。なんか知らないけど元気が出てきたよ」

 みほは晴れ晴れとしたジーン・シモンズに変わっていた。

「まあそんなことはどうでもいいんだけどよ、どういう感じなんだ? 恋人ってよ」

 山田ダチトが興味津々の眼差しで尋ねた。

「え、いたことないの?」

「ないよ。なあ、たもつ」

「えっ、え~っ、なにがですか?」藤田たもつがめがねの位置を直しながら言った。

「言わせんなよいちいち」山田ダチトが言った。「流れでわかるだろ? 恋人がいたことだよ」

「ええと……」藤田たもつが言葉に詰まった。どう答えるか迷っているようだった。

「いたの?」みほがまっすぐ藤田たもつを見つめて訊いた。

「どうなんだよ」山田ダチトも藤田たもつを睨んで言った。

「プッ、プライベートのことをあまり根掘り葉掘りされるのは、私としてはあまり好まないと言いますか……」

「そういうもんなの?」山田ダチトがみほに訊いた。

「うーん、まあ、ハラスメントにもなりうる質問だし、そういうものと言えばそういうもの……かな」

「じゃあたもつはいいや。おれはいたことないよ。だから知りたいわけよ。恋人ってどんな感じなのか」

「そこがすごく不思議なんだよね」みほが納得いかないといった感じで言った。「だって山田さんは普通にもてそうじゃん」

「その言い方だとまるで私が……」藤田たもつが小声で呟いたが、みほは聞こえていないふりをした。

「もてるもてないと、恋人がいるのってまったく別の話だろ。すげえ好きになった相手がいて、そいつと恋人同士になりたいって思って、相手も同じように思って、もしくはそうなるようにあの手この手尽くして、どうにかして気持ちを伝え合って、そこで初めて恋人同士になるわけだろ? これって結構な奇跡じゃねえか。恋人いたことないやつがいたってなんも不思議じゃねえじゃん」

「かっけー……」

 みほが山田ダチトの言葉に感心している時であった。

 突然そう遠くないどこかから、地響きのような手負いの獣の咆哮のような音が響いた。周囲の建物の窓ガラスはびりびりと震え、電線に止まっていたドバトとムクドリが一斉に飛び立ち、向かいの中華屋のおやじがなにごとかと表に出てきた。

「嘘……」みほが絞り出すように言った。「ミツだ……! ごめん、山田さんたもつさん、私行かなきゃ。ミツが、ミツが……!」

「事情はわからねえけどよ」走りだそうとしたみほの肩に山田ダチトが手を置いて言った。「お供するぜ。ただごとじゃないんだろ」

「気持ちは嬉しいよ……けど! 今のミツは抜き身の妖刀村正のような状態……危険すぎるよ!」

「上等だよ、なあたもつ」

 山田ダチトが指を鳴らしながら言った。

「やれやれ、まあ乗り掛かった船ですからねぇ……」

 藤田たもつが屈伸をしながらめがねを光らせた。

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