恋をしようよ
なぜ生きるのか。人生は不平等だとか不条理だとか不合理だとか不可解だとか、色々と言われちゃいるが、そんなことより。生きることは単純に面倒なのだ。不得意なことばかりを強制させられる終わりの見えない労働だ。しかも休憩時間は冗談みたいに短いときている。こんなものにはうんざりしない方がおかしい。なあ、きみはなぜ生きるんだ?
ある者はこう言う。「人は生きるために生きるのさ」こういうやつはただのアホなので相手にしなくていい。
またある者はこう言う。「人は死ぬために生きるんだ」こいつはおそらく格好つけなので適当にあしらおう。
「家族の為です。家族が私の力の源泉です」こいつはそもそも質問の趣旨を理解していない。二度と会うこともないだろう。
「理由などない。生まれたから生きる」こいつは相当嫌なやつだ。叱ってやろう。
神様云々いうやつには一理ある。説得力もあるし、美しさもある。だが信仰心を持てるかどうかは理屈じゃどうにもならん。
なぜ生きるのか。結局のところ、こうなんじゃないか?
それは白石つぐみがきっとどこかにいるから。
違うか?
「麺屋ぬうべるばあぐ」の行列は決して長いものではなかった。だが問題は行列の長さではない。行列があること自体が問題なのだ。まともな人間にとって行列に並ぶほど苦痛なことはない。行列を目視した瞬間に、速やかにその場から離れるべきなのだ、本来は。
一度よく考えてほしい。本当によく考えてみてほしい。列の先に待っているものは、精神と肉体を停滞する時間にさらして、こっぴどく傷つけるほどの価値があるのか。未来あるきみ、この世にただひとりのきみ、世界に祝福されて生まれてきたきみ自身が、驚嘆すべき間抜けどもの一員に加えられる屈辱に耐えるほどの価値があるのか。列の最後尾に魂を捧げる前に、一度立ち止まって、落ち着いて、よくよく考えてみてほしい。
まともな人間でない山田ダチトと藤田たもつはしっかり列に並んだ。20分ほど待った。店内に入り、券売機の前に立った。
「1280円!?」山田ダチトが驚愕した。「ラーメン一杯が1280円だと? いかれてる、とことんいかれてやがる」
「ちょっと山田さん、やめてくださいよ。あんたが払うわけじゃないんだからいいじゃないですか」藤田たもつが店内を見回しながら言った。誰も見ていなかったので藤田たもつは少し安心した。
カウンター席のみの狭い店内は木の茶色が前面に押し出されていて、柔らかめの照明、あくびの出そうなソフトロックが微弱な音量で流れていた。ださいやつが精一杯背伸びした感じ、あるいは自分はセンスがあると思い込んでいるださいやつ、そんな感じだった。
カウンター席の中ほどに山田ダチトと藤田たもつは座った。
「なあ、たもつよ……ここ本当にうまいのか……?」と言って山田ダチトが横の藤田たもつに目を向けた。
「おまえ、なにやってんだ?」山田ダチトはびっくりした。
「注文してから着丼するまでの時間を計っているのです」ストップウォッチを構えながら藤田たもつが言った。
「おまえも大概いかれてんな」
「基本です」
「そうか。じゃあ仕方ないよな」
山田ダチトは気づいていた。藤田たもつの横にいる男女二人組が藤田たもつを笑いものにしていることを。気取られないように笑っているつもりらしいが、嫌でも意識に入ってくるのだった。
「おまえ横の連中に笑われてるぞ」山田ダチトが藤田たもつにこっそり告げ口した。
「知っていますよ」藤田たもつが微動だにせず言った。
「いいのか?」
「いいんです」
「なんでよ?」
「気にしなければどうということはありません」
「切れちまえよ。おれには切れるくせに」
「山田さんとは事情が全く違います。それに店内で騒ぎを起こしたくありません」
「でもよ、傷つかねえか?」
「私はこういうことには慣れていますから」
「あ、そう」
ラーメンが着いた。全体的に白っぽい汁の中にやけに貧弱な麺が折り畳まれていて、その上にパプリカ、ベビーコーン、ゆでたトマトなどが立体的に添えてあり、これが噂のココアパウダーなのだろう、中央部分に茶色い粉が振りかけてあった。
藤田たもつが立ち上がり、真上からスマートフォンのカメラでバシャバシャやり出した。藤田たもつの横の男女は相変わらずだった。とにかくおかしくてたまらないらしい。そして、その笑いは他の客にも伝染していた。コックコート姿の店主らしき男も顔を歪めて笑いを誤魔化している始末だった。
確かにおかしい光景であることは間違いない。だが連中は勘違いをしていた。自分たちもその光景の一部だということをまるでわかっちゃいなかった。自分たちの嘲笑がいかに醜く、まっとうな人間をどれだけ不機嫌にさせるのかを、連中はまったくわかっちゃいなかった。
山田ダチトはまともな人間ではなかったが、まっとうな部分がかろうじて残っていた。ラーメンもふざけた代物だった。ぬるく、腑抜けていて、少なくとも1280円を巻き上げる資格があるものではなかった。山田ダチトはうんざりしていた。このつまらない冗談に。くすりともこない笑い話に。ただただ腹の中がむかむかするたわごとに。
「たもつ、急いで食っとけ。このあと走るぞ」
藤田たもつに告げて、とうとう山田ダチトが立ち上がった。
そのまま嘲笑男の後ろにまわり、男の整髪料でベタベタの髪をがっちり摑みヒネり上げて顔をこっちに向かせた。逆の手で顎を摑み、身動きできないようにして言った。
「おい、おまえよ。おれの連れはそんなに馬鹿笑いするほどか? おれはまったく笑えないんだがよ」
女の方が悲鳴を上げた。藤田たもつも悲鳴を上げた。男は恐怖していた。
「お客さん、ちょっと、やめてくださいよ」コックコートの店主らしき男が叫んだ。
「うるせえ! インチキ野郎が! ぶっ殺すぞ! たもつ、おまえは早く食っちまえ!」
そうわめいて、山田ダチトは更に腕に力を入れた。男はゴムボールで芸をするアシカのような恰好になった。
「おまえらよ、人を嗤うんならよ、当然こうされる覚悟を持ってたんだよな?」
山田ダチトが店内を見渡しながら言った。言ってから、男を自由にしてやった。
「クソどもが! クソでも食ってろ!」そう言って山田ダチトは走り出した。「たもつ、逃げるぞ」
「ごちそうさま、すみません!」藤田たもつは律儀に頭を下げてから、慌てて山田ダチトの後を追った。