麻痺しちまってるんだよ、おれもおまえも
人生には危険な罠がいくつも仕掛けられている。そのうちのほとんどが金か恋にまつわるものだ。もちろん罠には近づかない方がいいにきまっている。みんなそれはわかっている。罠はしっかりと目に見える形で仕掛けられていて、どうやら隠すつもりもないらしい。みえみえの罠ってやつだ。違う道を選ぶなり、来た道をそのまま戻るなり、罠を避ける手段はいくらでもあるはずだ。
でも、なぜだろう。ほとんどの連中が罠にばっちりはまってゆく。ひとつ罠にはまってしまったら、もうおしまいだ。次の罠、その次の罠、またその次の罠……。綺麗に、面白いほどに、わざとかってくらいに、それはもう見事にはまり続けてゆく。どす黒い血をだらだら流しながら、ニヤニヤ間抜け面をさらしながら、自分はとても幸せだと言い張り続ける。こうなったらもう末期だ。そいつはもう、救ってやれない。そいつはもう、酒でも、麻薬でも、自転車レースでも救ってやることなんてできやしない。
罠には近づかない方がいいにきまっているのだ。ものすごく痛いに違いないし、罠にはまったトンマが信頼されるわけがない。だが警告したって無駄なのだ。連中、聞く耳なんて持っていない。進んで罠にはまってゆく。だからもう知らない。好きにしろ!!
「それじゃ、おれは行くけど」警察官が帰り支度をしながら言った。「山田、おまえもう少し真面目に人生考えた方がいいぞ」
「大きなお世話だ馬鹿やろう」
「なんか言ったか?」
「お心遣い痛み入ります、って言ったんだよ」
警察官が去った錦ハイム102号室は引っ込み思案しかいないダンスフロアのようだった。
なんだか気まずい雰囲気の中、山田ダチトと藤田たもつは向かい合って座っていた。山田ダチトは大きなあくびをしたり頭をぼりぼり掻いたりしていた。藤田たもつは靴下のかたっぽを伸ばしたりいじくったりしていた。しばらくはそんな感じだった。
「たもつ、昼メシ食ったか?」山田ダチトが口を開いた。
「いえ、まだですけど」
「ラーメンでも食いに行こうぜ」
「別にいいけど、お金あるんですか?」
「奢れよ」
「あのねえ!」藤田たもつがいきり立った。
「わかってる」山田ダチトが藤田たもつを制した。「家賃だろ? わかってるよたもつ。さっきからずっと考えてる。これ以上おまえに迷惑を掛けたくない。だからどうすればいいのか考えてるんだ」嘘だった。山田ダチトはずっと白石つぐみのことを考えていた。「実を言うと、三日なにも食っていない。まともに頭が回らないんだ」嘘だった。山田ダチトは腹が減れば法を犯してでも食物を確保する。そういう男だった。「恥を忍んで頼む。たもつ、ラーメンを奢ってくれないか。こんな頭でよければいくらでも下げるぜ」神妙に言って、山田ダチトは頭を下げた。実は少し金もあったが、山田ダチトは金がないとは言っていないので、これは嘘にはあたらなかった。少なくとも山田ダチトの中では。
「山田さんは何系が好きなんですか?」
「あ? ナニケーってなんだよ、ガチョーンか?」
「ラーメンに決まってるでしょ。どういうラーメンが好きなんですかって」
「味がすりゃなんでもいいよ」
「実は私、気になる店があってですね。最近出来たばかりなのですが、元パティシエの方がやられているラーメン屋という変わり種でして」藤田たもつが幾分か早口になって言った。
「パティシエ? 大丈夫かよそれ。チョコとか生クリームとか入ってるんじゃねえの」
「鋭い!」
「たもつ、声でけえよ」
「ああ、これは失礼をば……」藤田たもつは額を叩いて言った。「で、そのラーメン、さすがにチョコは入っていないようですが、ココアパウダーと生クリームは使われているようでして。新機軸のラーメンということで、業界内の注目も高いですし、味の評判も上々、特に女子人気が高いようですな」
「女子人気か……いいな、それ」
「ちょっと山田さん? 我々はただラーメンを食べに行くのですから、他のお客様に迷惑を掛けるような言動、行動はくれぐれも慎んでくださいよ。あくまでもいちラーメン好きの紳士として振る舞ってください」
「ああ? ……ああ、いや、そんなんじゃねえよ」山田ダチトが少し寂しそうに笑いながら言った。
「では、そのお店で決定ということで。少し距離がありますので、わたし車出してきます」
そして、錦ハイム102号室は山田ダチトひとりになった。
「アホかおれは……」
呟いて、山田ダチトはタバコに火をつけた。タバコを深く吸った。天井に向けて煙をゆっくりと吐き出した。カーテンの隙間から漏れ出る日光に照らされたり照らされなかったりするタバコの煙を眺めた。なんだか胸が痛む気がした。急かされているような焦らされているような、変な気分だった。自分が小さくすり減っているような、変な気分だった。
しばらくして、藤田たもつが車で戻ってきた。
「ずいぶん速そうな車だな、おい」助手席に乗り込みながら山田ダチトが言った。
「いやいやそこまで速くもないですよ。まあもちろん遅いわけではないですが」藤田たもつが嬉しそうに言った。
「ふうん」
「あ、山田さん」
「なに?」
「禁煙ですからね」
「え~、今どきそういうの流行らねえよ、たもつ」
「絶対に駄目です。これだけは譲れません」
「へいへい」
車は速そうだったが、藤田たもつは極めて安全運転だった。むしろ一般的な感覚からするととろくさいと言えた。後ろにパトカーでもいるのかと山田ダチトが何度かバックミラーを覗いたくらいだった。
「なあ、たもつ」窓からの風を顔に受けながら山田ダチトが言った。「おまえ、好きな女いるかよ?」
「ちょっと山田さん」藤田たもつが吹き出しながら言った。「なにが悲しくて中年男二人で恋バナしなくちゃいけないんですか」
「なにもかもだよ」山田ダチトが言った。「なにもかもがひどく悲しいぜ。なにもかも悲しいのに、涙のひとつも出やしない。麻痺しちまってるんだよ、おれもおまえも。本当なら大声あげて泣いたっていいくらいだ。それが無理なら、せめて好きな女に痺れていたいじゃねえか」