抱いてね息が詰まるほど
記憶の海にダイブする。くだらない記憶、取るに足らない記憶、忘れたい記憶、ほとんどがゴミだ。この広大なゴミの海の中から、白石つぐみの記憶をサルベージしようと試みる。
固定化された記憶、いまや白石つぐみのシンボルとなった、いつのものなのか、それは実際に在ったことなのか、もしかすると実際にはなかったのかもしれないポートレイト風の巨大な白石つぐみの静止画が、空一面に微笑んでいる。それはまるで太陽……いや太陽そのものだ。生活感と神秘性を両立した微笑みが、暗い海の底近くまで、光を届けているのだ。
探してみてはじめてわかる。驚くほど白石つぐみの記憶が少ないことに。断片ならある。例えばなにかの帰りのバスの中、なぜか席が隣同士になり、たくさんおしゃべりをしたこと。信じられないほど楽しい。そのとき、確かにそう思った。そういった記憶がある。のだが、では一体なにをそんなにたくさん話したのか、それがどうしてもわからない。そのときの白石つぐみの表情は? 服装は? そもそもそれはいつのことだ? わからない。なにも。
一事が万事この調子だ。エピソードとしての輪郭はかろうじて残っているが、ディティールに意識を向けると、途端になにも見えなくなる。こぼれ落ちる。流れてゆく。暗い海の底へと。
そんなことを繰り返していると、自信が持てなくなる。不安になってくる。本当に白石つぐみは実在したのか? 全ては妄想が作り出した産物なのではないか? 疑わしくなってくる。不安になってくる。
危険だ。酸素が少なくなってきている。頭が痛い。鼓動が早くなる。でもこのままでは。もう少しで捕まえられるかもしれないのに。駄目だ。苦しい。もう限界だ。
結局、戻ってきてしまう。あの日に。あの瞬間に。辛うじて保たれるリアリティ。そして聞こえてくる……。
あの日の。あの瞬間が。
「おーい」
「あ? ぁんだよ」
「あんた本当に東京行っちゃうの?」
「あぁ」
「住むとことか決まってんの?」
「うるっせぇな、おまえに関係ねえだろう」
「いやそうだけどさ。あんたアホだからなー。悪いことしちゃだめだよ」
「うるっせえ」
「たまには帰ってくるんでしょ」
「知らねぇよ、んなことよ」
「ふうん。まあ……元気でね。じゃねっ」
「おぉ」
外から足音が聞こえてきた。藤田たもつが来たのかもしれない。腹が鳴っている。山田ダチトはラーメンをほとんど食べていなかったことに今更気づいた。空きっ腹でタバコを立て続けに吸っていたので、ほんのり吐き気がした。それでもまたタバコに火をつけた。
山田ダチトの予想は外れた。足音は藤田たもつではなかった。隣の部屋のやつだった。山田ダチトと同じくらいの年の、現場仕事をやっている男。
見上げた男だった。毎朝4時くらいに起きて、朝飯とたぶん弁当のおかずを作っている。事情はわからないが、離れて暮らしているたぶん中学生くらいの子どもと、よく電話で楽しそうに話している。たまに説教もしているが、ちゃんと言葉を選び、子どものまっとうな成長を心から願っていることがよくわかった。まったく大したやつだった。家賃もちゃんと払っているに違いない。
やりきれねえな。山田ダチトは思った。おれがこのぼろアパートに住んでいるのはわかる。おれにはここがお似合いだ。でも、おまえは。おまえはもっといい暮らししたっていいんじゃねえか。
前にその部屋に住んでたやつは、ロサンゼルスの古着卸からひと山いくらのクソみたいな古着を年に一回大量に買い付けて、ぼったくりなんてレベルじゃない値段で売りさばいてたクズだった。今じゃ店から足を洗って、でっかい戦車みたいな車を乗り回して悠々自適の左うちわだ。なら、おまえは。おまえはもっともっといい暮らししたって許されるんじゃねえのか。
「余計なお世話様ってやつだけどよ」
もともとそこかしこがぶっ壊れていた。いまじゃほぼ大半がぶっ壊れてる。もうどうでもいいや、って気になってるやつが日に日に増え続けている。せめて山田ダチトの隣の部屋の男に幸あれ。
藤田たもつがやってきた。足音もたてずにやってきた。
「やきとりは?」
「いいですね」
と、いうことでガード下の焼き鳥屋に行った。山田ダチトはハイボールとビール、藤田たもつはレモンサワーを頼んだ。
「たれ? 塩?」
「あ、どっちでもいいです」
「おれもどっちでもいいや。じゃあ大将のおすすめで」
「なにに乾杯するんだ?」山田ダチトがジョッキを上げて言った。
「えっ?」
「だから、なにに、乾杯をするのかって聞いてるんだよ」
「えっ、えっ、え~と、なんでしょうね……」
「素敵な人生に」山田ダチトが言って、ハイボールをぐいっと飲んだ。
「えっ、あっ、素敵な人生に」藤田たもつが後を追った。
「うまいな」
「そうですね」
「たもつはよく飲みに出るわけ?」山田ダチトがお通しをつつきながら言った。
「ごくたま~に、ですね」藤田たもつが電子タバコを取り出して言った。
「えっ! たもつ、タバコ吸うの?」
「お酒飲むときは、はい」
「なんだそりゃ! そんなんなら吸うなよ。体に悪いんだぞ、知らないのか?」
「いや普段はやめてるんですよ、ただお酒飲むと吸いたくなちゃうじゃないですか」
「おれはいつでも吸いたくなっちゃうよ」そう言って山田ダチトはタバコに火をつけた。
「あの山田さん、彼女いたことないって本当なんですか?」
「急に話変えるね」
「すみません、気になっちゃって」
「本当だよ。付き合ったこともないし、そういう関係にもなったことねえ」
「え、本当ですか」
「だから本当だっつってんだろ」
「すみません」藤田たもつが頭を掻いて言った。「実は私もなんです。なんか心強いな……」
「たもつ……」
「はい?」
「だせえな」
「えっ」
「たもつ!」ジョッキを乱暴に置いて山田ダチトが立ち上がった。「おれはおまえに恋人いたことがあろうがあるまいが、自分が情けねえとか、ほっとしたとかぜんっぜん思わねえ。おまえには芯がねえんだよ、芯が!」
山田ダチトが説教モードに入った時だった。
「でも山田さん」藤田たもつがめがねを光らせた。「今日、みほさん見てすごい心動かしてましたよね。羨ましいって思ったんじゃないですか?」
これは効いた。山田ダチトの心臓に比喩のナイフが突き刺さった。山田ダチトは絶句して、静かに腰を下ろした。
「確かに……たもつ、おまえの勝ちだ」
絶筆。




