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やばいぜ、やばいぜ、やばくて死ぬぜ

 失恋を恐れる必要など全くない。そもそもが最初から失敗していたのだから。

 きみは、彼、あるいは彼女、あるいは何かからのリアクションやノーリアクションがもたらす脳内のスパーク、そして精神性、身体性、その両面から発生する混沌……その全てを思いきり楽しめばいい。

 嘲笑うやつは嗤わせておけ。もちろん、顔面に一発喰らわせることができる機会に恵まれたのであれば、そいつを逃さないことをお勧めするが。



 白石つぐみ。

 白石つぐみこそが神経症世界にただ一筋差し込む救いの光である。全ての牢の鍵は彼女が持っている筈だし、なにより白石つぐみはとてもキュートだ。

 白石つぐみはよく笑い、よく走り、よく転んだ。機嫌が良い時に見せる、妙に細長い手足をくにゃくにゃと動かす白石つぐみのダンスはユーモラスで、まるで軟体動物のようだった。くりくりとよく動く目玉は好奇心旺盛な小動物を思わせるが、そこに知性の光を見出すことは難しかった。学業や運動で目立った成果を出したことはないし、白石つぐみがなんらかのイノベーションを推進させる存在になることを期待する者は存在しなかった。澱のように積み重なった種々の問題と向き合おうとする勢力にも、逆に隠蔽しようとする勢力にも、白石つぐみが加担することはないだろう。だがひとつだけ。白石つぐみはとてもキュートだったのだ。


 そのことに山田ダチトが気づいたのは、今みた夢の中でのことだった。山田ダチトが白石つぐみと最後に交流してから、すでに二十年以上の月日が経っていた。

「なんてこった……」

 明け方、起き抜けの山田ダチトは思わず頭を抱えた。山田ダチト、生まれて初めての後悔の瞬間である。それじゃ、なにか……? おれはまるで無意味な時間を……味のしない飯を食い、臭いのしない糞を出し、誰の助けにもならない労働に従事し、リズムのない音楽で踊り……ただそれだけを繰り返し、ただそれだけでおれは、ただそれだけで生きていると、そう思い込んでいたってわけか……?

 山田ダチトはわなわなと震える両手をじっと見た。夢の中での、あの夢のような体験。白石つぐみの水分の少ないひんやりとした手のひら、すべやかに通る芯の強い髪の毛、手のひらと比べて驚くほど熱く湿ったほっそりした首筋、うなじ、頬、唇、乳房、脇の下、それら全ての感覚がまだしっかり両手に残っていた。だが早晩この感覚はきれいさっぱり消えてなくなるだろう。

 その時おれは、生活と呼ばれる、あのグロテスクな営みに戻っていけるのか? 死刑台へと続く群れの行進に今更?

「否、だ!」

 山田ダチトは力強く叫び、力強く立ち上がった。ついでに部屋の壁を力強い蹴りでぶち破った。身体の内でなにかが暴れている。このままここにじっとしていられないような、今すぐなにかをかき鳴らしたいような、どうにも制御できないこの感じ。こいつの正体は一体なんなんだ? 

「恋、だ!」

 そう悟った瞬間、山田ダチトの身体を比喩の稲妻が貫いた! その衝撃たるや凄まじいもので、山田ダチトの身体は浮き上がり、万年床にもんどりを打ったほどだ。

「なるほど、これが恋ってやつか……。こいつはやばいぜ、やばいぜ、やばくて死ぬぜ……。ほんの少し気を抜いただけで、魂ごと持っていかれちまいそうだ。……だが、悪くない。……悪くないどころか、最高じゃないか。いいね。しくじりゃ一発おだぶつってか。ふん、上等じゃないの。こいつは最高におれ向きだね。つぐみ・オア・ダイってな」

 山田ダチトは布団の上を転がり回りながら、クケケケケと笑い続けた。だが同時にいつまでもクケケケケと笑っている場合ではないことには気づいていた。問題が山積みだということにも。


 現在白石つぐみがどこでなにをしているのかさっぱりわからないという問題があった。故人である、という可能性すらあるが、現状その可能性は決して高くはないと考えられた。とは言え、その可能性は完全に無視できるほどでもなく、絶対時間の推移により、ゆっくりとではあるが確実にその可能性が高まってゆくことは言うまでもなかった。

 つまり、山田ダチトが白石つぐみに会いたいのであれば、今すぐ彼女を探しに出るべきだということだ。

 ではどこに? 闇雲に歩き回って尋ね人が見つかるほど、この世界は狭くない。むしろとてつもなく広い、と言える。山田ダチトには白石つぐみの情報がどうしても必要だった。

 心当たりがひとつだけあった。山田ダチトにとっては、非常に気の進まないことだったが、どう考えてもそれ以外に選択肢はなかった。非常に、非常に、憂鬱な選択肢だったが、白石つぐみと天秤にかければ、憂鬱など軽快に吹き飛んでゆくのだった。

「帰らねばなるまい……地獄によ」

 故郷。こいつに思いを馳せる時、人はなぜか間抜けなツラして空を見上げると言う。まるでその視線の向こうに理想の世界があるかのように。よだれをたらさんばかりに恍惚の表情で。だが、待ってほしい。もう少しだけ深いところまで記憶を掘り起こしてみてほしい。からになった牛舎に染みついた牛糞の香り……皮膚病を患った野犬の群れ……腐った魚の臭い漂う小さな漁港……突然、転校していった同級生……そして大人たちから伝わる真偽定かでない噂の数々……シンナー中毒になってしまった妾の子……虐めと暴力を愛する若者たち……。そういったことをちゃんと思い出してほしい。気づいてほしい。そういったことこそが、きみを形成したのだと。うすぎたないきみを。


 山田ダチトに懐かしい想いなどは一切なかった。二度と足を踏み入れるまい、そう強く誓った地であった。だが……山田ダチトと白石つぐみとの最後の接点がある地でもあった。

「帰らねばなるまい……地獄によ」

 山田ダチトがもう一度同じことを呟いた。自分に言い聞かせているのかもしれない。萎えそうな気持ちを奮い立たせているのかもしれない。いずれにせよ、その言葉は強い気持ちの表れに思われた。

「帰らねばなるまい……地獄によ」

 山田ダチトがまた同じことをうわごとのように呟いた。実を言うと強烈な眠気が山田ダチトを襲っていた。つまりこいつは本当にうわごとだった。早く目を覚ましすぎた反動が今更やったきたのだ。

「ちくしょう……」

 そう呻いて万年床に突っ伏し、山田ダチトは静かに寝息をたてはじめた。眠っている場合ではない。そんなことは百も承知だったが、抗いようのない眠気というものがある。まあ、こういう状況のなかでの睡眠はなかなか悪くないものだ。目が覚めた時、きっと調子は最高になっているに違いない。それに、夢の中でもう一度、白石つぐみと会えるかもしれない。白石つぐみが夢の中で待っているかもしれない。夢の中の白石つぐみこそが本物の白石つぐみかもしれない。白石つぐみは山田ダチトの夢の中にお引っ越ししたのかもしれない。もしかすると

山田ダチトが白石つぐみかもしれない。……白石つぐみ。かも、しれ、ない。

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