08 クラブハウス前(千茶)
妖魔事件の渦中の人となっていた一年生に会いに行く計画は、実行前に修正した。美濃部くんと話した時は、二人で会いに行くつもりだったが、その姿を想像して、男女二人で行動したら目立つと気付いたからだ。
そもそも美濃部くんに協力してもらったのは、千茶が一人で話に行くのが嫌だったからで、だから二人で行くのがダメなら千茶が一人で、とはならなかった。そこで、美濃部くんに相手を呼び出してもらうということに修正したのだ。
修正の指示は、机がすぐ近くだから簡単にできた。美濃部くんは、なぜか千茶の指示を反論どころか意見すら出さず、丸々受けてくれた。乱暴者というイメージがあったが、根は素直なのかもしれない。
ところが、お昼休憩時に派遣した美濃部くんは手ぶらで戻ってきた。「邪魔が入った」という事については詳しく話してくれなかったが、「昼の休憩時間の残りじゃ、詳しく話をする時間がない」という指摘は、言われてみればそのとおりだった。
それに、千茶は、例の屋上前の階段で待っていたのだが、「三人だと狭いな」と考えていたところだった。放課後にまた連れてくるという話だったので、一時的に沸いた怒りは収まった。待ち合わせ場所もこの際、グラウンド隅のクラブハウス近くに変えることにした。
その後、千茶はもちろん美濃部くんと別々に教室に帰った。
ちなみに、美濃部くんは昼食を終えて傘波羅くんたちと別れた際に、どこへ行くのかと聞かれていたが、「ヤボ用」と答えたら追及されなかった。先輩たちに追い掛け回された後始末をしているのだろうと解釈されたようだ。千茶の方は、離れる際には何も言われず、教室に戻った時に「どこへ行っていたの?」と聞かれた。この質問は想定できていたので、答えは用意しており、「まだ慣れていないから、覚える為にも学内を散歩していた」と答えた。
実際には、もちろん散歩などしていないのだが、美濃部くんを待っている間はする事がなかったので、階段や廊下の窓から色々見回していた。
そうして目にとまった中庭の花壇は、「使えるな」と思った。
今まではアゲハを髪飾りのように見せて、千茶の頭に止めていたが、いくらお祖母ちゃんが掛けてくれた避目の術とはいえ、みんなにずっと効き続ける保証はない。何かのきっかけで「変だ」と少しでも思われれば、避目の術は解けてしまうのだ。術全般に言えることだが、ずっと安定維持できると期待してはいけない。
だから、少しでも、術が解けるリスクを減らす為、学校に着いてからは、アゲハだけ中庭の花壇で遊ばせておくのが良さそうだ。必要な時や、帰る時に呼び出せばいいのだ。放したり戻したりする指示も、簡単ではあるが、式神使いの練習にもなる。
そして、放課後。
千茶は先に待ち合わせ場所に向かい、聞き込み相手を連れて来る美濃部くんを待つことになった。
グラウンド隅のクラブハウスは、昼間に階段の上から見えていた時より、多くの人が行き来した。考えてみれば当たり前だ。クラブ活動は今からが本番だ。
人通りが多いと話しづらいな、と考えていると、もっと厄介な事が起きた。
三年生の男子三人に声を掛けられたのだ。
クラブ活動に興味があるが、恥ずかしくて話しかけられないで立っていると思われたのか。それとも、ナンパ的な声掛けだったのか。声を掛けられてすぐは分からなかったが、千茶の「そんなんじゃないです」という答えに関わらず、「バスケ部のマネージャーになってみない」と言われた声色から、ナンパ色が強いな、と千茶は感じた。
その後に浮かんだのは「これが普通の女子高生の感覚なのか」という思いだった。
中学時代、千茶は学内でこのように勧誘されたことはなかった。知らない学生に話しかけられたら、確実に心霊現象に関わる相談だった。
そういう意味では、この勧誘は新鮮だったが、ちっとも感動的ではなかった。むしろ、ウザいと思った。
もちろん千茶は、いつでも術者の娘と恐れられたわけではない。電車に乗った時や、本屋で本を探していた時に、痴漢に被害に遭った経験がある。向こうは、こちらが術者の娘と知らないから、恐れることなくしてくるのだ。そういう時は、手加減なく殴れる。むろん、ゲンコツで殴るのではなく、霊的、精神的な打撃だ。その頃は千茶も未熟だったので、一撃で気絶させられず、よろめかせたり、しゃがみこんだりさせるだけだった。そして、千茶は素早くその場を去った。痴漢に指を差されて、こちらがまるでバケモノのように訴えられたくなかったからだ。
クラブハウスで先輩たちに声を掛けられた時、過去の痴漢撃退について思い出したが、ここでも同じようにするべきではなかった。もし、昏倒させた後(たぶん今ならできると思う)素早く去ったとしても、学校内という限られた場所なので、千茶が術者の娘であることは後にバレてしまう。
ちょっと困った千茶は、ある程度は正直に話すしかないかと考え、すぐにそれが名案かもしれないと気づいた。案の定、「美濃部くんを待っている」という言葉は、数秒の間を経た後、先輩たちに衝撃を与えた。
「美濃部って言ったら、あの軍隊上がりの先生を投げ飛ばした新入生じゃねえか!」「って、事はコイツ、いや、キミは美濃部のカノジョなのか?」「なんで、こんな紛らわしい場所で待ち合わせしてんだよ」「お、俺たちは勧誘しようかと思っただけで、ナンパじゃなかったからな」
先輩たちが口々にまくし立てたところで、ちょうど校舎から美濃部くんらしき姿が出てきたのが見えた。千茶が、そちらを向いて「あ!」と小さく言うと、先輩たちはびっくりしてそちらを振り向き、まだ逃げる余地は十分あると判断したらしく、とっとと退散した。
術者の娘だという事実に動じなかったことから、美濃部くんを協力者にした千茶だったが、思っていた以上に使い道がありそうだと、この時実感した。だが、この評価はすぐに曇る。美濃部くんが、連れてきた男子が二人だとわかったからだ。
どちらが本命かはすぐにわかった。プライバシー保護の観念は生徒の間では働かない。千茶は噂話を拾い集めて、すぐに目当ての男子が領内だという名前で、「変わったおかっぱ頭をしている」という特徴を知っていたからだ。遠目からでも、細い男子の前髪が異常に長いのがわかった。不気味とさえ言っていいくらいだ。でも、千茶はすぐにその感想を取り下げる。「気味が悪い」と陰口を叩かれる身の心情はよくわかっているからだ。
「ほら、あそこにいるヤツだ」
美濃部くんの声は大きいので、少しくらい離れていても聞こえた。見えているのに、片手を上げてくるので、こちらも肩の高さまで片手を上げて応じる。
これでも術者のはしくれだ。クラブハウスから先ほど逃げた先輩たちがこちらを窺っている視線を、気配として感じた。鬱陶しいが、話の内容を聞かれないなら無視していいだろう。
美濃部くんについて来る男子のうち、領内くんは表情が見えなかったが、もう一人の男子は陰鬱な顔をしていた。……まあ、入学してからあまり経っていないのに、学内一の乱暴者に目を付けられたなら、そう思っても仕方ない気がする。
「おう、連れて来たぜ。こっちが、えーと、何だっけ」
美濃部くんが、連れて来た男子を紹介しようとして早速つまずく。
「領内」
わかっている方の男子が呟いた。体型だけでなく、声もか細い。
「俺は、鷹森」
鷹森くんは乗り気じゃなさそうに言った。「それなら、付いて来なけりゃいいのに」と、部外者を混ぜたくない千茶は思ったが、もちろんその思いを口に出さずに、返す。
「私は、御礼です」
「で、何?」
領内くんがぶっきらぼうに言ってきた。こちらから切り出さないといけないと思っていた千茶は、面食らった。それから、「この方が手間が省けていいか」と思い直す。
「先日の妖魔事件について、直接本人から話が聞きたいな、と思って」
「でも、何が起きたか、もう知ってるんでしょ?」
領内くんの話し方は、普通の人とは違った。すぐに言い返してきた割には、棘がなかった。多少なりの反発を予期していた千茶にとっては、肩透かしを食らった。だからと言って、体験談を触れ回りたいという喜びも感じられない。プラスもマイナスもない、ゼロのテンションだから、普通と違うと感じたのかもしれない。
違和感を探るのに少し間を置いてしまったが、質問自体には素直に答えられる。
「噂話では、ね。それってたぶん、事実と異なるんでしょ?」
前髪の隙間から、領内くんの目の光が見えた。思わず目を反らしてから、千茶は何故自分がそうしたのか自問した。何となく不安にさせられていたが、見られたくないから隠しているのだろうという答えを見つけると、安心できた。
「……それについてはわからない。僕は噂を回収していないから」
返ってきた答えはやや的外れだった。千茶が、噂と事実が異なる、と言ったのは一般論だ。今回の場合もそれに当てはまるだろうとは思うが、それが正しいのかどうか本人に確かめたと言うつもりはなかった。困惑していると、領内くんはまだ話を続ける。
「でも、君の意図は理解できた。何から話せばいい?」
千茶の困惑はまだ続いていた。領内くんが、理解が良いのか悪いのか、判断に困ったからだ。話が早いと思う点もあるが、何かがずれているという感覚もあった。千茶は、長めの瞬きをして、気持ちを落ち着ける。聞きたい内容は何度も頭の中で反芻していた。その一つ、時系列で言えば一番前の物を引っ張り出す。
「まずは、どうして授業中に起きた憑依事件に、違うクラスの、新入生の、領内くんが首を突っ込んだの?」
これにまず反応したのは、領内くんの連れ、鷹森くんだ。何かマズそうなことをみられたような顔になり、口を開く。
「そ、それはだな、なんつーか……」
「ん?」
千茶は眉を寄せ、小首を傾げた。これは明らかに領内くんに向けた質問だった。部外者の鷹森くんが慌てて答えようとしなくていい。こちらの意図は、表情で伝わったようだ。鷹森くんが、説明を始める。
「あ、そっか。俺は、わか――いや、領内と一緒に、と言うか、後から? うん、後から付いて行って、事件を目撃してるんだよな」
「ああ、それで」
千茶は納得した。鷹森くんも当事者だったのだ。そして、こちらが指示しなかったのに、二つの視点を用意してくれた美濃部くんに、感心した。
「へえ、お前も見てたのか? 面白かったか?」
すぐに千茶は、美濃部くんへの評価を取り下げる。どう見ても、初めて聞いたというリアクションだ。
「いや、面白いって言うか……」
ただでさえ、口ごもり気味だった鷹森くんが余計に詰まってしまう。ややこしくなりかけた空気を戻してくれたのは領内くんだった。
「いい?」
話してもいいのか、という許可だろう。千茶は、美濃部くんと鷹森くんの方を向いていたが、そちらの話を聞き続けたいわけではない。むしろ、さっきの美濃部くんの振りは邪魔だ。
「もちろん。どうぞ」
手を差し伸べると、領内くんは頷きもせず話し始める。
「下から騒ぎが聞こえて、耳を傾けても混乱が収まる気配がなかったから、僕が向かった」
報告終わりというように、領内くんが口を閉じる。千茶は、言われた内容がすぐに理解できなかった。もちろん、日本語としての意味はわかっている。でも、言われた内容は、何か跳んでいるような、ずれているような感覚があった。
「あ、領内の席は、窓際で、その時、窓が開いてたから、聞こえてきやすかったんだよ」
鷹森くんが言い訳をしているかのように付け足した。その説明は、千茶の「繋がっていない」という感覚を幾らか修正してくれた。おかげで、ボケていた「跳んでいる点」について焦点が合い始める。
「授業中よ。自分のクラスで起きたならいざ知らず、下の階で起きた妖魔騒動にわざわざ首を突っ込んだのはなぜ?」
そうだ。千茶は、日頃から術者としての腕試しをしたいと機会を窺っていたけれど、自分が同じ状況に立った時に、そこまで早く動けない。それは、術者の娘だと知られたくないせいでもあるが、もしそこを知られても良いと開き直れていたとしても、それほど早く判断できそうになかった。やはり、領内くんは……
「もしかして、貴方、術者なの?」
浮かんだ疑問を言葉にして直接ぶつける。意外にも、領内くんからは何の反応も感じられなかった。代わりに、鷹森くんが大きく動いた。
「な、何でそうなるんだよ! 確かに、こいつは変わっているけど、それだからって、バケモノみたいに扱わなくていいだろ!」
これまで領内くんの後ろにいた鷹森くんが、領内くんの肩を引きながら前に出てくる。そのまま、千茶へと抗議しながら迫りそうな勢いだったが、それを美濃部くんが止めた。
「あぁ? 何だって!?」
明らかな、怒りと脅しの表現だった。鷹森くんの肩を掴み、眉を吊り上げた美濃部くんの顔が見えるように、鷹森くんの向きを変える。
千茶は大いに驚いた。これまで、術者の娘として、面と向かって言われたことはあまりなかったが、バケモノ的扱いをされているのはわかっていた。それは悲しいことで、子供の頃は何度も泣いたことがあったが、今では慣れてしまった。だから、千茶は鷹森くんが術者をバケモノのようだと言ったことについても、悲しさこそあれ、怒りはなかった。
なのに、美濃部くんは、まるで自分が侮辱されたかのように怒ってくれた。これまで、クラスメイトはまだしも、廊下ですれ違う生徒たちから恐れられている美濃部くんの姿を見てきたが、彼が本当に怒った様子を見たのはこれが初めてだった。それは、そこらの男子なんかちっとも怖くない千茶でさえ、怖いと思う迫力があった。
そして、千茶は、不覚にも(その晩、寝る前にこの場面を思い出し、千茶は改めて「不覚だった」と歯噛みすることになる)、ときめいてしまった。
「な、なんですか。……俺はべ、別に」
「てめえ、今、術者はバケモノだと言っただろ?」
美濃部くんが、肩から胸倉へと掴む場所を変え、顎を出し気味に顔を鷹森くんに近づける。当然、鷹森くんは目を合わせず、顔を背ける。
千茶は、そうとは知らず悪口を言った鷹森くんが脅されているのを見ていて、痛快だったが、暴力を振るわれるまでされたらかわいそうだ。それは、美濃部くんのためにもならない。そろそろ止めてあげるべきかなと様子を見ていると、領内くんが声を掛けてくる。
「今のは、鷹森くんが悪い」
「お、おい。若葉ぁ」
鷹森くんが情けない声を出す。「若葉」という言葉がわからなかったが、遅れて、領内くんの名前ではないかと当てがついた。
「だって、術者は妖魔との戦いにおいて最前線で戦っている連中だよ。それを妖魔と同じように分類したらダメだよ」
「そういうこった」
美濃部くんが、鷹森くんを掴んでいた手を放した。少し突き飛ばされたようで、鷹森くんがよろめく。
「不可思議な力を使うことが不気味なんだろうけど、不気味なのが悪いなら、僕だって――」
「わかったよ、悪かった。……それに、お前は不気味じゃない」
鷹森くんが領内くんの言葉を遮った後に、ぼそりと呟いた。
この様子を見て、千茶は前から考えていた可能性が正しかったのではないかという思いを強くした。それをぶつけようとした時、クラブハウスからジャージ姿の女子生徒がぞろぞろと十人ほど出てきて、近くで横一列に並び始める。向こうがこちらを邪魔だと言いたげに見てくるので、自然と千茶たちはそこから離れるよう動く。女生徒は並び終えると、一人が「アメンボ、赤いな、アイウエオ」と大きな声を出す。残りの人たちが後に続く。発声練習のようだ。話し続けるのには邪魔だから、千茶たちはさらに離れる。
「なんだありゃ?」
離れながら美濃部くんがボヤくと、鷹森くんが答えた。
「演劇部だろ。中学校の演劇部も似たようなことをしていたぜ」
そうなんだ、と千茶は素直に感心した。そう言えば千茶は、中学校の頃、クラブに所属せず、すぐに帰宅していたので、クラブがそれぞれどんな活動をしているか良く知らなかった。
高校を取り巻く塀に沿って、ある程度離れた所で止まる。邪魔が入ったせいで、続けにくくなった。どう切り出し直せばいいかと悩んでいると、美濃部くんがグラウンドを見回しながら口を開いた。
「そういや、俺も剣道部に顔を出さないといけないんだよな。一応、遅れるとは言ってるが、ペーペーがちんたら遅れて現れても、先輩たちはいい気しないからな」
暗に、千茶に「早く終われ」と言っている。千茶はムッとしたが、美濃部くんは善意で協力してくれているのだからと、自分をいさめた。美濃部くんは、グランドのあちこちで始まりつつある部活動を見ていた。
「あれ? もう剣道部に所属しているの」
鷹森くんが驚いたように聞いた。
「いや。うーん、なんつーか、その前の体験ってところかな」
「ん? その体験入部も来週じゃなかったっけ。……あ、特介は違うのか」
鷹森くんが、間違って認識しかけたので、千茶が口を挟む。
「ううん。私たちもオリエンテーションは来週だけど、……美濃部くんは、なんていうか、特別で……勧誘の人たちに追っかけ回されるくらいで」
「ああ」
鷹森くんが納得したように頷き、そして美濃部くんから半歩離れた。「引いた」のわかりやすい例だ。
美濃部くんは、そんな自分をお笑いのネタに思っているようで、肩をすくめる。
「ごつい男の先輩たちにモテても仕方ねえんだけどな」
これは、傘波羅くんと末伴くんとの間で定番になっているネタだった。が、鷹森くんは笑わず、驚いた様子で、美濃部くんと千茶を交互に見る。
「あれ、君たちって……」
続く言葉は出てこなかったが、態度で何を言おうとしているかは明らかだった。千茶は慌てて、目の前で手を振って否定する。
「いや、私たち、そんなんじゃないの。ただのクラスメイトで、その……」
説明しようにも千茶に適した言葉は見つけられなかった。しっかり説明するためには、自分が術者であることを明らかにしないといけない事も、何も言えない理由だった。しかし、美濃部くんはあっさり答える。
「ああ。俺は、御礼のボディーガードみたいなもんだ」
「な?」と言いたげにこちらを見てくる美濃部くんに、千茶は何だか腹が立った。こちらが誤解されそうだと焦ったのに、向こうにはそんな感じはなかったからだ。つい、むすっとしたまま、「そうよ」とだけ答える。
「続き、話さなくていいの?」
微妙な間が少し空いたところで、領内くんが淡々と言う。というか、言ってくれた。聞き込みに戻りたかった千茶は、すぐさまそれにすがりつく。
「あ、うん。そうね。続きに戻りましょう」
「僕は術なんか使えない。むしろ、霊力が欠けている存在」
領内くんがあっさり言いのける。術が使えるか使えないかは自明として、「霊力が欠けている」と言い切る点に、千茶は驚いた。霊力という言葉は、まさに素人の口からも出てくるくらい一般的だったが、術者の世界では、その感知や推量は難しいとされていたからだ。むしろ、正確に量る事なんかできないじゃないかと思う。自分でも、あとどれくらい霊力を練りだせるか、疲労という感覚でしかわからないのだから。
しかし、この驚きは長続きしなかった。領内くんが、自称するとおり、術者としての訓練を積んでいないなら、霊力に対する認識も一般同様甘いはずだった。「運動神経ゼロ」という表現と同じように「霊力が欠けている」と言ったに違いない。むしろこれは、領内くんが素人だという証拠ともいえる。
でも、領内くんが術者じゃないなら、それで疑問が残る。
「だったら、どうして、妖魔騒動が起きた時にその場に行こうと思ったの?」
「それは……」
領内くんが言いかけて止まった。前髪のせいで目のあたりは見えないが、口は小さく開いたままだった。それが、どういう内面を示しているのかはわからない。もしかすると、術者じゃないふりをしてミスをしたと焦っているのかしら。それなら、術者だと知られたくないという気持ちは千茶もわかるので、気付かないふりをしてあげるのは構わない。
鷹森くんが領内くんの隣に立つと、領内くんの横顔を見てから、千茶の方を見た。
「ちょっと待って。考えているから」
考えている中断だったのか、と意外に思った後、そう言い切った鷹森くんに不審さが残った。時間稼ぎか何かをしているのかと疑ったが、また領内くんを見守る鷹森くんの顔に、嘘は感じられなかった。ひとまず、信用するとして、話を繋ぐ助け舟を出してみる。
「日下術者を何故待たなかったの?」
「日下?」
領内くんが首を傾げ、前髪が揺れた。すぐに、鷹森くんが説明する。
「ほら、あの白衣を着た先生だよ。美人だけど、なんかすげー怖い雰囲気の……あれ? 若葉は会ってなかったっけ? ほら、保健室で……そうか、そういや、教室に戻った時には、お前が先に戻っていたな」
領内くんは、言葉を発していなかったが、少し動く首やら体の向きなどで意思疎通ができているのか、鷹森くんは、まるで電話口で誰かと話しているように、会話の片側だけで話を進めた。
そこでようやく、領内くんが言葉を発する。
「忘れていた」
「忘れて、いた?」
意味が分からず、千茶が繰り返した。
「うん。そんな人がいる事を忘れていた。騒ぎがあって、早くしないと騒ぎが大きくなると思って、行った」
「でも、行ってなんとかできる……自信? そう、自信があったの?」
「半分イエス。妖魔相手にはどうすればいいかわからなかった。でも、大人の声も頼りにならなさそうだったから、僕の方が何とかできるとは思った」
「大人ってのは、先生の事だよな」
鷹森くんの指摘に、領内くんが小さく頷く。
千茶は、軽く握った拳を口元に持っていって、考える。言われたとおりであれば、この領内くんはかなり勇気も実行力もあることになる。見かけからは全く想像できないが。しかし、その行動の原動力についてはどうなのだろう?
「それって、正義感から、かしら?」
「ううん」
領内くんはあっさり否定した。
「たぶん、みんなと一緒。せっかくの新生活を邪魔されたくなかった」
「邪魔? 妖魔相手にそう思ったの?」
身の危険どころか心まで侵される危険がある妖魔に、邪魔という感覚は、ずれている。千茶は理解できずに聞き直した。
「ううん。僕が邪魔だと思ったのは、事件が大きくなりすぎて、マスコミが来たら面倒だなってこと」
「マスコミ……」
確かに、他に事件がなければ、高校で起きた妖魔騒動がニュースとして報道されてもおかしくない。特に、死傷者が出たなら、確実に問題になり、報道されていただろう。
だけど、妖魔騒動が起きた時点で、そこまで心配できるものだろうか? 少なくとも千茶には、そこまで回る頭、というか余裕はなさそうだ。そうなると、にわかにこの主張は信じがたい。
が、鷹森くんはそう思っていないようで、にやにや笑うと領内くんを小突く。
「こいつぅ。いっちょまえに偉そうなこと言いやがって」
領内くんは突かれた勢いのまま、反対側によろめくが、それを予測していたのか、鷹森くんがすぐに腕を掴んだ。
「じゃあ、目的は、騒動の現場へ行って、憑依された人の首を絞めることだったの? 騒動を抑えるために」
むしろ、そちらの方がニュースのネタにされそうだ。
「いや、いきなり首を絞めたわけじゃなくて、最初は羽交い絞めにしてたぜ」
鷹森くんが千茶を少し睨むように見てきた。まるで友達を犯罪者扱いするなと言いたげだ。でも、この言い方じゃ鷹森くん自身も、噂で聞いたとおり、領内くんが憑依された女子の首を絞めていることを暗に認めている。
「でも、結局は首を絞めたんでしょ?」
「それは、その瞬間は、背中向けていたから見ていないけど、若葉はこんな体から抑え込めなくて、仕方なく、だよな?」
同意を求めるように鷹森くんが領内くんに言った。しかし、領内くんからは反応はない。イエスなのかノーなのか、千茶にはわからなかった。わかったのは、変わっているのが外見だけではなく内面も、ということだ。
それだけでなく、首を絞めたという事実に対して、男子三人の反応の薄さにも違和感があった。領内くんは、除霊を試みるつもりだったのかもしれないが、女子を一人殺しかけているのだ。その大きさが男子たちには響いていない。千茶は、まるで自分一人が感覚がおかしいと言われている気にさせられた。はっきりさせるためにも、その事実を突きつける。
「妖魔を退治するつもりで、女子ごと殺すつもりだったの?」
「いや、なんでそうなるんだよ!」
鷹森くんが驚きつつ怒った。予想していなかったことに、美濃部くんまでもが向こう側に立った。
「いやいや、それってスリーパーだろ?」
「うん、そうそう」
美濃部くんの問いに、鷹森くんが頷く。千茶には、何の事を話しているかわからない。
「スリーパー?」
「そう。スリーパーホールド」
言いながら美濃部は千茶に近づきかけ、そこで一旦止まってから、鷹森くんを掴んで引き寄せる。抵抗する間もなく、鷹森くんは美濃部くんの前に引きずられ、あっという間に後ろから首に腕を巻かれる。
「ほら、これ。ここで頸動脈を圧迫して――」言いながら美濃部くんが腕を揺すると、鷹森くんがすぐに美濃部くんの腕を細かく叩く。「絞め続けると相手を気絶させられるってわけだ」
そこで美濃部くんは鷹森くんを解放した。
「協力ありがとう」
美濃部くんがぽつりと付け足す。首をさすりながら鷹森くんは領内くんの傍に戻り、さらに領内くんの手を引いて一歩遠ざかる。その目は「協力する気はなかった」と美濃部くんに訴えていたが、美濃部くんはそちらを見ず、千茶に説明を続けていた。
「柔道では裸締めというけど、プロレス技としてのスリーパーホールドの方が有名だな」
「……男子って、全員そういうの知ってるの?」
ようやく、知識の差があったのがわかった。千茶は半ば呆れたように聞いた。
「全員かは知らねえが、だいたいは知ってるんじゃねえの?」
美濃部くんの振りに、鷹森くんも一応頷く。
「そうか。じゃあ、殺すつもりではなくて、気絶させるつもりだったんだ。その前に、妖魔が……胃液と共に出てきたと」
「ゲロだな」
美濃部くんがしなくてもいい訂正をし、今度は鷹森くんがより積極的な頷きを返した。
「それって、予期できていたの?」
「ううん」
領内くんが、あっさり否定した。
「じゃあ、偶然か」
千茶が呟いた。
除霊。術者にとっても、難しい行為だ。術者は、数え切れないほど多くの流派に分かれているけれど、それは除霊の最適解を求めた結果かもしれなかった。未だに人類は、その方法を模索し続けているともいえる。あるいは、元より無理を押し通そうとしている行為なのかもしれない。
それを、術者ではないと言っている男子高校生が、結果的とはいえ、なしてしまった。偶然や幸運というしかないのかもしれないが、それだけで納得はしづらい。
「関係あるのかどうかわからないけど、脅しもかけた」
領内くんが付け足した。
「脅し?」
「うん。『このまま、体から抜け出ないと絞め殺すぞ』って。ハッタリと言った方がいいのかな?」
「え? それが効くとわかっていたの?」
「ううん。でも、ハッタリってそういうものじゃないの?」
千茶はまた、繋がらない状況に、思考が一時停止していた。その間に、鷹森くんが「いや、ハッタリってそういうもんだぜ」とフォローしているのが聞こえたが、それに反応する余裕はない。
「へえ。妖魔にハッタリが通用するのか」
美濃部くんが感心した。
千茶は、体は動かなかったが、心の中では首を左右にブンブン振っていた。ハッタリだけで除霊できるなら、術者なんて存在がここまで成熟しているはずがなかった。だからといって、ハッタリが通用しないと断言もできなかった。それだけの知識や経験が千茶にないからだ。考えられるのは、今回の妖魔には、たまたまハッタリが通用したかもしれない、という事くらいだ。もしくは、ハッタリは関係なく、妖魔は自発的に動けなくなった肉体を放棄したかもしれない。憑依や除霊に関するこれまで聞いたことからすると、妖魔があっさり憑依した肉体を放棄しているように思えるが、根が深くないいわば低級の妖魔だったのかもしれない。
「……もういいの?」
黙って考えていた時間が長すぎたせいで、領内くんから逆に聞かれてしまった。ちっとも良くないのだが、混乱し、考えをまとめないといけない部分は後回しにするしかない。
「じゃあ、女子から抜け出た妖魔はそれからどうなったの?」
「女子トイレに入っていった」
これには鷹森くんが答えた。話は、噂で聞いていたのと同じだ。
「それからどうなったの?」
「さあな。……日下先生が来て、女子トイレに入って行って、『逃げた』って言ってたけれど」
「やっぱり排水口から逃げたのかな」
妖魔騒動について、あくまで噂レベルの段階だったが、お母さんに話していた。そこで、お母さんは、妖魔は排水口から逃げたのだろう、という見解を示していた。それなら、もう弱った妖魔を狙って退治したくともできないだろう。
「……御礼さん、こっちも質問いい?」
千茶にはまだ細かく聞きたい事が幾つかあったが、ずっと一方的なのも悪いと思い、領内くんに頷いた。
「君、術者?」
この質問はぐさりと千茶に突き刺さった。自分が真っ先に投げた質問だったのに、投げ返される想定はしていなかった。
「じゅ、術者? えーと、む、昔から霊感はあるって言われているかなー」
我ながら見苦しいごまかしだったけれど、領内くんは前髪の向こうから見てくるだけで、しばらく何も言わなかった。だけど、見えない視線でも意外に痛い。
「じゃあ、もう一つ。どうして、あの女子に憑依した妖魔が入って来たかはわかる?」
聞かれた意味が良く分からなかったが、とりあえず思いついた事を語る。
「うーんと、妖魔って目に見えないけど、そのへんに漂っていると言われているの。それが、その女の人にとり憑いた。空中に漂った病原菌に運悪く当たったのと同じで、その女の人自体は悪くない――」
千茶は、鷹森くんが手のひらをこちらに向けてきたので、話を止めた。ストップというわかりやすいジェスチャーだ。
「なんか、そういうつもりじゃないみたいだぜ」
言いながら鷹森くんは、領内くんの横顔を見ている。読み取っているのだろうか。
すると、領内くんが言い直す。
「あの女子についてではなくて、妖魔について。ここって、日下って人が守っているんでしょ? 結界とか張ってないのかな?」
千茶はガツンと殴られたような衝撃を受けた。領内くんに指摘された点について、千茶はまるで気付かなかったからだ。言われてみれば、確かに不思議だった。守護術者なら、学校に妖魔が入ってこないように結界を張っていてもおかしくない。それなら、先ほど千茶が語った浮遊妖魔など存在できないはずで、女子が憑依されることも起きないはずなのだ。
おかしい!
千茶は、心の中でそう叫んだが、すぐに本当にそうなのかなと自信を無くした。千茶には、知識も経験も足りないのだ。表面的にはおかしいことでも、違う角度から見れば、あるいはある知識を適応すれば、理屈は通る可能性はあった。
考えるべきことだった。今話しながらでは、とても整理できる問題ではない。
「ごめんなさい。わからない」
千茶は正直に答えた。自分の知識のなさを認めることは悔しかったが、それを認めない事には先に進めない。
「うん。わからなければいいよ」
領内くんは今回もあっさりしていた。今回の件にはあまり関心はなく、浮かんだ質問を口にしたという感じだった。それとも、千茶よりはるか高みから見下ろしているから持っている余裕を見せられたのだろうか。
「もう、いいかな?」
領内くんは、立ち去りたがっているようだった。千茶は、まだ確認したい事があったはずだが、思い出せなくなっていた。それくらい、妖魔の侵入経路に考えが至っていなかった事実が、千茶にはショックだった。当然、聞き込みを続けられる精神状態でもない。
「うん。わざわざ話しに来てくれてありがとう」
そこで解散となった。美濃部くんは、剣道部に急ぐと言って、走って戻っていった。一人で考えたい千茶は、少しほっとした。