07 廊下(航太郎)
二日が過ぎたくらいでは、悪霊騒動の話題はなかなか収まる気配がしなかった。部分的な目撃者となった航太郎は、何度も状況説明を繰り返させられた。うんざりしたが、無口な若葉の代役でもあるのでその都度答えた。航太郎が応じている限り、みんなは話しかけにくい若葉に声を掛けない。何人かは若葉からも話を聞こうとしていたが、予想どおりあっさりし過ぎていたので、話したくないのだろうと判断して話しかけなくなった。
そのせいで、若葉がクラスから浮いているのが決定的になった。
事件発生直後、若葉を追った航太郎は若葉と何らかの関わりがあると考えられ、関係を聞かれた。航太郎は、小学校以来の幼馴染と答えた。昔から無口で無表情だったと言うと、たいていそこで質問してきた相手は、同情的な顔をして話題を変える。
若葉がやっかいな存在だと扱われているのを助長する役目は気に入らなかったが、若葉の要望だから渋々従っていた。過去に、クラスに無理やり馴染ませようとして、余計に若葉の立場が悪くなった失敗をしていた。今では航太郎も、本人の主張どおり、若葉をそっとしておくのが一番良いと思っている。
そういうわけで、お昼休みもこれまでどおり、航太郎は周りの男女とわいわい話しながら昼食を摂った。航太郎自身は、会話の中心には成れないが、たまたま近くにその素質がありそうな男子がいたので、けしかけたところ、男子だけでなく女子も巻き込むことに成功した。それがクラス最大のグループにまで発展するのはすぐだった。
若葉は自分の席でひっそりと一人だけでサンドウィッチを食べていた。航太郎はお母さんにお弁当を作ってもらっていたのだが、若葉は同じお弁当を断っていた。弁当の中身が同じだと、航太郎との同居が簡単にばれてしまうからだ。これについても、航太郎は知られても気にしないのだが、若葉の好きにさせていた。
しかし、若葉への訪問者が教室へと踏み込んできた時、さすがに航太郎は無視できなかった。無遠慮に他の教室へ入ってきた三人の男。そのうちの一人に航太郎は見覚えがあった。赤く明るく染めている頭髪は、この高校ではあまりいないのですぐにわかる。
例の悪霊騒ぎが起きた時に、廊下で騒いでいた先輩だ。航太郎はあの先輩を押し止めた記憶が鮮明に残っていた。他の二人、長めの茶髪と丸刈りに近い黒髪、には見覚えがなかったが、赤髪の先輩のツレであることは間違いないだろう。
「おい、そこのおかっぱメガネ! 話があるから外に出ろ」
怒鳴り声に教室の空気は凍りつく。喧嘩を吹っ掛けている調子なのは誰の目にも明らかだった。
若葉は振り返り、ゆっくりと訪問者たちを見回した。そして認識したのにもかかわらず、再び前を向き食事を続けた。完全な無視だ。
「てめぇ!」
新入生にバカにされ、乱入者たちはたちまち色めき立つ。クラスもざわつく。クラスメイトの大半が食事を終えていたが、そのまま席に座って話し続けているので、野次馬は多い。
たまらなくなった航太郎は、席を立つと、先輩たちが若葉へ近づく前に、彼らの行く手を遮る。
「まあまあ、ここは落ち着いて下さいよー」
雰囲気を和ませる為にわざと軽そうな声で割り込む。じろりと睨まれたが怯まずに笑顔を浮かべると、赤髪の先輩が航太郎を思い出した。
「おお、てめえもあの場にいたな」
「なんだ? お前はあいつのツレか?」「知ってるのか? ヤマモト」
後の二人が、航太郎と赤髪のヤマモト先輩に話しかける中、航太郎は三人をやんわりと押し戻そうとしたが、うまくいかない。
「おい、どけ。俺たちはあのガキに用があるんだよ」
あっさりヤマモト先輩に押しのけられそうになる。航太郎は、その腕に取りつく。
「あ、はい。じゃあ、連れて来ます。でも、その前に用件を聞かせてもらえますか?」
さりげなく割り込んだつもりだったが、短髪の先輩が眉間に皺を寄せる。
「あぁ?」
睨まれたが、こういう時に弱みを見せると付け込まれる。内心はドキドキだが、怯えた素振りを一切出さず、さも最初に用件を告げるのが常識だという顔をしていると、長髪の先輩から教えられた。
「メロディが今日も来ねえんだよ。あいつのせいだ」
メロディと言われて一瞬外国人の顔が浮かびそうになったが、あの時悪霊に取り憑かれていた女の人のあだ名がそうだったらしいのを思い出す。
「メロディは繊細なんだ。あいつに首を絞められて、心が深く傷ついているんだよ」
「俺たちの呼びかけにもほとんど答えてくれねえって、ありえねえ」
言いながら三人が進もうとするのを、航太郎は体で塞いで邪魔をする。
「あ、そうなんですか? でも、それは若葉、いや、領内くんとは関係ないと――」
みるみる三人の顔が怖くなる。だが、航太郎の話に割り込んだのは、三人ではなく若葉だった。
「鷹森くん、好きにさせてあげたら?」
三人の圧力に参っていた航太郎は、若葉が対応する気になったのだと思い込んだ。若葉に非があるとは思っていないが、とにかく平謝りすれば、若葉も酷い目には遭わないだろう。
航太郎が体をずらして道を開けた時、若葉はランチボックスに視線を落したまま言葉を続けた。
「どうせ、その人たちは僕に関係ないんだから放っておけばいいよ」
――あ、まずい。
航太郎が心配したとおり、若葉の素っ気ない一言が、怒りをくすぶらせていた先輩たちの精神を逆撫でした。
「てめぇ、俺たちを舐めているのか!」
先輩たちが一斉に突撃しそうになった。
「ちょ、ちょっと待って下さい」
慌てて、航太郎はその背後にすがりつくが簡単に振り払われた。教室の壁に取り付けられている棚に、腰を打ちつけられて、思わず呻き声が漏れる。
その時、ガタリと椅子が動く音がした。痛みに閉じてしまった目を開け、そちらを見ると、若葉が立ちあがっていた。立ち上がった時に、頭を振ったらしく、すだれのように顔の上半分を隠している前髪が一筋開いていた。そこから片目が覗き、光っていた。
若葉はいつも無表情だ。今も普通の人にしてみれば、無表情だと思うだろう。だけど、付き合いの長い航太郎にはわかった。これまで見たことがない表情のはずなのに、わかった。
それは、航太郎が初めて見る、若葉の怒りの表情だった。
「わかった。僕が外に出ればいいんだろ」
声も変わらず平坦だった。でも、やけに迫力があった。航太郎は思わずつばを呑み込んだ。
気が付くと、三人組も足を止めていた。教室も静まり返っていた。どうやら、迫力は表情のわからないはずの皆にも通じたようだ。
だけど、先輩たちはその迫力負けを認めない。空いた間を埋めるかのように、声を出し、胸を張って、若葉に近づいていく。
「けっ、最初から言うとおりにしやがれ」「そうだ。手間かけさせるな、ってんだ」
若葉は先輩たちが傍に来る前に、淡々と歩き出す。すぐに、三人組はその周りにまとわりついた。
「えらく細いな。これじゃあ一人で来ても引きずり出せたんじゃねえか」「だけど、俺たち三人とも恨みがあるから仕方ねえだろ」「白いモヤシじゃねえか。これじゃすぐ倒れちまうぜ」
三人の話から、明らかに彼らはこれから若葉に暴行を加えるつもりだ。航太郎は、一緒に食事を摂っていたクラスメイトの小森に駆け寄ると、低い声で手早く伝える。
「早く先生を呼んで来い!」
航太郎は怒っていた。本来なら、自分が最初に時間稼ぎをしている時点で誰かが動きだしておくべきだった。だけど、クラスのみんなは自分たちが傍観者だと思っているから行動をしなかったのだ。
航太郎が睨みつけた小森は、動揺しながらも頷いた。だが、小森の見る先には二年生の三人がいる。職員室へ向かうには彼らを追い越す必要があった。それくらいでビビるなと思うが、一人で時間稼ぎと救援要請の両方をできない以上、小森を頼るしかない。
時間を稼いで救援を呼ぶ余地を作る為、航太郎は三人と若葉に追いすがる。
「ちょっと、俺もあの場にいたから関係ありますよ」
廊下へ出たところで三人が振り返ったが、返事は前を見ている若葉から来た。
「鷹森くんは関係ない。彼らは僕に用事があるんだから」
「おうおう、弱っちいくせに度胸があるなあ」「へへ、こりゃ楽しみだ。時間いっぱい可愛がってやるぜ」
若葉の返事のせいで、暴行されるまでの時間を稼ぐどころか、導火線は短くなってしまったようだ。それでも航太郎は、彼らの横へと回り込む。
廊下には騒動を嗅ぎつけた野次馬の人垣ができていた。しかし、先輩たちが通ろうとすると、人の壁がさっと割れる。
救援を頼んでいた小森は、航太郎が先輩たちの注意を引き付けた反対側を駆けて行った。身を低くして、人垣が割れた穴を突破しようとする。
小森の脱出がうまくいったと思ったその時、小森は人垣から出て来た人影に止められた。
――でかい。
それが第一印象だった。しかし、改めて見ると、そうでもなかった。確かに航太郎より背が高いが、身長そのものはヤマモト先輩とあまり変わりない。でかいと感じたのは、堂々とした態度のせいだろう。
小森は、この現れた男子生徒に胸を掴まれて動けなくなっていた。小森は小さめの体とはいえ、この男は片腕だけで軽々と小森を壁際へ押しやる。
「おっと、ちょい待ち。たぶん先生のところへ行くんだろ?」
余計な事を言ってくれた。小森が答える前に、先輩たちが怒鳴り出す。こちらの魂胆に気づいていなかったので当然だ。
「何だって?」「てめえ、チクるつもりだったのか?」「いい度胸じゃないか、こいつもついでに締めちまうか?」
小森が怯えて助けを求めてくる目を向けてくるが、航太郎にはどうすれば良いかわからなかった。もちろん助けたい気持ちはあるが、全く予想外の出来事が起きたので、まだうまく頭が働いていなかった。
しかし、このピンチは、ピンチを作りだした本人がまとめ始めた。
「まあまあ、待って下さい。何があったか知りませんが、どうやら三人掛かりで一人をボコるつもりみたいっすね」
乱入者は、先輩たちが連れて行こうとしている若葉を見ていた。確かに、いきなりこの現場を見た者でも、何が起きようとしているのかはすぐわかるに違いない。
「何だと? てめえ、良く見ると一年坊主じゃねえか。ガタイが良いからって調子こいてんじゃねえぞ」
すごまれるが、乱入者に全く怯えた様子はない。その堂々とした態度から信じ難かったが、長髪の先輩が指摘したとおり、この男の襟元についている校章は一年生を示す赤色だった。
「こういうのって、せめて頭数をそろえるってのがスジじゃないですか?」
そう言うと、その一年生は若葉と廊下の端で立ち竦んでいる小森を次々に指差す。
「いち、にい、と」そして最後に彼は自分を指差した。「さん」
にんまりと笑うと、笑っているはずなのに威圧感が増した。航太郎は、長髪の先輩が思わず後ずさっているのを見た。
「俺は、し――」何か言い掛けて、その一年生は咳払いをして中断した。「俺は、美濃部義継っていう名前です」
周囲が一斉にざわめく。航太郎も美濃部という名前を知っていた。悪霊事件が起きた午前中に、教師を投げ飛ばしたと言われる最も危険とされている新入生だ。
「お、おい、こいつ、あの桑実を一瞬で倒したって言われている一年だぜ」
先輩たちにもその名は知られているようで、露骨に三人は動揺し始めた。
よく見ると、美濃部は強いと言われるのが納得できる風貌をしていた。背が高いだけでなくがっちりしていると思ったのは、学ランの下に鍛えられた肉体があるからだろう。堂々としている態度も、自信があるからこそ滲み出ているに違いない。顔は決して男前ではなかったが、太い眉、角張った顎など力強さに満ちている。
「なんなら、そちらは三人で、俺が代表として一人でも構いませんよ。その場合、こっちも手加減はできないので、それなりの覚悟をしてもらわなきゃいけませんが」
この一言で、戦う前に勝負が着いた。
「くそっ、引き上げるぞ」
人垣を強引にかき分ける事で苛立ちを解消しながら、先輩たちが立ち去って行った。
一拍の静寂が流れた後、若葉は無言で教室へ戻ろうとした。航太郎は急いでそれを止める。
「待てよ、若葉。お礼を言わないと」
「何故? 僕たちは助けてくれと頼んでいない」
美濃部は救援を呼ぼうとしていた小森に、もう呼びに行く必要がないな、と話しかけていたが、こちらの話を聞きつけて振り返った。当然ながら、不満そうな顔をしている。
若葉は美濃部を恐れていないようだが、航太郎は怖かった。若葉は、育った環境が特殊過ぎて常識に疎いところもある。そこで、まず礼儀を教える。
「理由はどうあれ助けてもらったんだから、こういう時は礼を言うもんだ」
それから強引に若葉を美濃部に向き直させると、先に航太郎が頭を下げた。
「ありがとう、助かりました」
「ありがとう」
若葉が真似をするが、いつものように心のこもったセリフにはならない。頭を上げると、美濃部はやはり若葉の言い方に不満を持っているような顔をしていた。航太郎はまず救援を頼んだ小森にジェスチャーで礼を伝えてから、美濃部へ向き直る。
「ごめん。こいつは変わった奴で昔からこういう調子なんです」
「ふーん」
信じてくれたのかどうか不明だが、とりあえず美濃部は渋い表情をほどいてくれた。
「まあ、いいってことよ。弱い者イジメが嫌いなだけだ」
美濃部は、航太郎から若葉に顔を向けると、「ケガはないか?」と聞き、若葉がそれにコクリと頷く。乱暴者とは聞いていたが、悪いヤツではないらしい。
「ケンカも好きなわけじゃないが、こういう場合、ああ言えばとりあえず何とかなるだろう?」
美濃部がこちらに聞いてきたが、航太郎には答えられなかった。そんな経験がないから「何とかなるものだ」とは思えなかったし、そもそも「ケンカが好きではない」という話も本当には思えなかった。
若葉は、こちらをちらりと見て、航太郎が何も言わなかったから、その場を去ろうとした。航太郎は、何も言わなかったのではなく、まだ混乱が残っていたので、何も言えなかった。美濃部がおっかないのもあり、そのまま若葉に続いて、立ち去ろうとしたが、その時になってようやく、一つ疑問が湧いた。足を止めると、美濃部の方は立ち去る気配がなかったので、質問をしてみる。
「なんで、ここにいるんですか? たしか、特介ですよね」
同じ一年生なのに敬語は変だが、敬語を使わないと怖かった。
「トッカイ?」
自分たちが所属するのに、美濃部はわからないように聞き返してきた。仕方ないので、答える。
「特別介護科」
確かそういう名称だったはずだ。普通科である航太郎は、良く知らない。美濃部の噂が広まる時には、ほとんど「トッカイ」としか言われていなかったからだ。
「ああ、なるほど。特介ね。そうか」
うんうん、と美濃部が頷く。もうそのまま放置しても良さそうだったが、質問したので答えられていない航太郎は立ち去りにくい。なんといっても、相手は最も危険とされている新入生なのだ。悪いヤツではないと見せつけられたところだが、やはり怖い存在だと言うのも目の当たりにしたところだ。
航太郎の上目づかいに気づいて、美濃部が質問されていたことを思い出す。
「ああ、そうだ。余計な事をしていたから、忘れるところだった」
どちらかというと、忘れるところではなく、既に忘れていたのでは、と思ったが、もちろん航太郎は口を挟まない。
「実は人を探していてさあ。良かったら手伝ってくれないか? 普通科の一年生なんだが……」
嫌な予感がしたが、若葉を助けてもらった手前、こちらが協力しないわけにはいかない。
「どんなヤツですか?」
「ほら、こないだの妖魔騒動で、二年生の女子の首を絞めたとかいう男だよ」
やはりそうか、と思った。ある程度、予想がついていたから、航太郎は反射的にそちらを向くのを止められた。顔を伏せて、目だけを向けると、視界の端で、若葉が教室に入ろうとしたところで足を止めたのが見えた。それだけではない。周りの生徒たちは、露骨に若葉へと視線を集めていた。
まずいと思い、顔を上げると、美濃部はまだ周りの視線が集中していることに気づいていないようだった。こちらの答えを待っているように、見ている。
どう答えるべきか迷う。
若葉を、新しい問題に巻き込ませたくないから知らないふりをしたいのだが、これほど多くの知っている者の前でシラを切るのは難しい。なんとなく、美濃部は単純そうなので、うまくごまかせそうな気がしたが、どうせ他の者は知っているのだから、今は何とかごまかせても、やがて若葉にたどり着いてしまうだろう。なんせ、相手は最も危険な新入生なのだ。聞かれた者は簡単に口を割るに違いない。その時に、知らないふりをした事を責められるのは確実だ。
そう考えると、正直に答えるしかないのだが、航太郎は正直に答える気にならなかった。若葉を簡単に売るわけにはいかないからだ。だったら、時間稼ぎをして午後の授業が始まるのを待つ作戦があるが、これもまだ十数分残っていたはずだ。先輩が若葉を連れて行こうとしたのも、まだ時間に余裕があったからだった。
「ボクだよ」
航太郎は思わず舌打ちした。若葉が、素直に答えるだろうという考えは頭の隅に浮かんでいた。それが実行される前に、何ら手を打てなかった自分に腹が立った。
美濃部が若葉を見て、そこでようやく、周りの視線が若葉に集まっていたのに気付いたかのように周りを見た。
「へえ、お前だったか。先約がつくところを割り込んで、大当たりだったな」
美濃部がニヤリと笑った。
今や周りは、教師を投げ飛ばした最も危険な新入生と、悪霊退治をした謎の新入生、との初遭遇に期待していた。他人事だと思いやがって、と航太郎は腹が立つ。
「ちょっと待ってください。あなたも若葉を連れて行くつもりですか?」
若葉に一歩踏み出した美濃部の前に、航太郎が体を入れる。言ってから、みんなの前では「領内」と呼ぶべきだと気づいたが、もう遅い。
「まあ、そのつもりだが」
そう言って、美濃部が肩をすくめる。
「正直言うと、俺は用がなくて、話が聞きたいってヤツがいてな。そこまで来てほしいんだ」
航太郎はちょっとホッとした。もしかしたら、美濃部は、高校全体をシメるつもりで教師を投げ飛ばす行為をしたが、その日のうちに、もっと話題をさらう相手が出たことが気に入らなくて、力を示しに来たのかと思っていたのだ。
「いいけど、今すぐ?」
若葉が聞いた。おそらくまだ食事の途中だから、先に済ませたいのだろう。これは、うまい口実になりそうだった。
「あいつ、いつも食べるのが遅くて。まだ食べ切れてないんですよ」
航太郎が説明すると、意外にも美濃部はあっさり受け入れる。
「確かに、ガツガツ食いそうな体をしてないからな」
言ってから、ボリボリと頭を掻く。
「……しかし、連れてくると言っちまったからなあ」
若葉をちらりと見ると、前髪の奥からこちらを見ていた。あいつは妥協線を探るという行為をしようとしない。気は進まないが、航太郎は妥協案を提示する。
「放課後でもいいですか?」
「うーん、放課後なあ……」
決定権がないのか、美濃部が唸る。この姿は、この恐ろしい男の背後にもっと力のある存在がいるという可能性を示していた。航太郎は、それについて恐ろしく思ったが、とりあえずは話をまとめるのが良さそうだ。美濃部の判断を動かす言葉を重ねていく。
「今からだったら、往復時間を含めるとそんなに時間がないですよ。 特介には行ったことないけど、片道五分だったら往復十分でしょ。だったら話は数分だけです。それでいいんですか?」
「どうなんだろうなあ。たぶん、もっとかかりそうな気がするんだけどな」
はっきりしない答えだ。長くかかる用事なら、この場は避ける口実になるが、後で何をされるかわからないので怖い。
「まあ、仕方ねえか。とりえあず、この場は帰ることにする」ここで美濃部は若葉へと語り掛ける。「放課後また来るから、悪いが、ツラ貸してくれ」
若葉は細い肩をすくめた。行くとも行かないとも言ってないが、受けた方は自分が都合良く解釈しがちだ。
おそらく美濃部は、「いいよ」と受け取ったのだろう。頷いた。そのまま数秒、若葉を見つめてから、聞いてくる。
「そんな前髪じゃ、見えにくくないか?」
特徴的な髪型をしている若葉に、その疑問を持つ者は多いだろう。だけど、相手の髪型について、何か言ってくる人は少ない。初対面ならなおさらだ。
当然、航太郎はその理由を知っている。若葉は、「人形みたいに可愛らしい顔立ち」が原因で絡まれたことがあるのだ。それを避けるために、顔を半分隠すのはやり過ぎなのだけど、他人からどう見られようと気にしない若葉は、絡まれるより面倒くさくないと考えているのだ。
「サングラスを掛けている人が周りを見えていないわけじゃないよ」
若葉らしい物言いだったが、美濃部には通じなかった。「こいつ、何を言っている」と言いたげに、航太郎を見てきた。仕方ないので通訳してあげる。
「サングラスを掛けている人は、こちらから目が見えないけど、向こうはちゃんと周りが見えていますよね。それと同じで、あの髪型も見えている、って言いたいんじゃないですか?」
「へえ、なるほどな。ふーん、そうやって顔を隠す方法もあるわけか。……でも、前髪が顔に当たってうっとうしくないか?」
「慣れた」
若葉のあっさりとした答えに、美濃部も「そうか」とあっさり応じる。
「んじゃ、また来るぜ。邪魔したな」
そう言うと、美濃部は悠然と帰って行った。
こちらの様子を黙って見守っていた周りが、ざわざわと騒ぎ始めた。何も起きなかったことに肩透かしを食らった雰囲気があったが、航太郎はそれには「ざまあみろ」と思った。
とりあえず、まだ壁にへばりついて美濃部を見送っている小森に、礼を言うと、航太郎は、食事に戻ろうとする若葉を止める。声を掛けたわけじゃなく、視線でその意思を伝えたのだ。若葉にそれが伝わり、廊下に出てきたが、周りにはまだ多くの目があった。美濃部が去った今、その集合は崩壊しつつあったが、航太郎が若葉と二人きりで話すのにはまだまだ人口密度が高すぎた。
「話がしたいから、ちょっといいか?」
若葉は教室の自分の席を見てから、航太郎に向き直る。
「いいよ」
それから航太郎は若葉を連れて歩き出す。トイレで話ができるかと思ったが、昼休みは出入りが多いので諦めた。結局、二階の渡り廊下を会話の場所に決めた。
「なぜ、あんな挑発する言い方をしたんだよ。あのままじゃ殴られていただろ!」
わざわざ呼び出せて言いたかったのは、不良な先輩たちを前にしての若葉の言動が危う過ぎたという説教だった。余計な注目を集めたくないので声は小さくしているが、込めている苛立ちは本物だ。だけど、若葉は相変わらずクールに答える。
「なぜって、そうさせたかったから」
小さく肩をすくめた後、その理由を続ける。
「公衆の面前で暴力を振るえば、あの人たちは停学処分だろ。運が良ければ退学処分になって、今後あの人の事で悩まなくても済む」
航太郎は黙り込むしかなかった。
若葉がそこまで考えているとは全く思わなかった。若葉の作戦は痛みを伴うものだが成果は大きい。だが、意図を知らされても、あの時自分が手や口を出さずに我慢できたかを考えると、できると思えなかった。
「……それはそうかもしれないけど、それを俺に黙って見ていろと言うのか?」
自分の方が単純だったと知らされた今、説教する目的はなくなっていた。航太郎はすぐに教室へ戻るのが恥ずかしくて、無理に話を継続させた感じで言ったが、予想外に若葉に影響を与えた。
「……そうか。そうだったね、忘れていたよ」
表情にほとんど変わりはないが、航太郎には若葉が驚いているとわかった。なぜそうわかるのは航太郎自身でもうまく説明できない。おそらく瞬きや声の抑揚などの微妙な違いをなんとなくわかるようになっているのだろう。
「僕は航太郎が傷つけられるのを見ていられなくて立ち上がった。航太郎もそう思ってくれていたんだね。考えつかなかった」
若葉は、自分の被害を考慮しない傾向がある。そんな彼にとっては自分が殴られるのより、航太郎が殴られる方が我慢できないのだろう。それが若葉の気質だと知っているが、面と向かってさらりと言われると、妙に恥ずかしくなる。さらに若葉は、航太郎の目を見つめて、一言付け加えた。
「ごめん」
昔からずっと見慣れているはずなのに、航太郎は若葉にじっと見つめられるとドキドキしてしまう。普段は謝るような行為をしないから、それに慣れていないんだろう、と自分で言い訳をする。
「わ、わかればいいんだよ」
こうなった時は決まって航太郎から視線を外す。ついでに、話も切り替えた。
「それはそうと、美濃部の話はどうする? 何をされるんだろうな?」
「聞きたいことがあるって言ってた。中身は……聞いてみないとわからない」
若葉はあっさり言ってのけるが、航太郎には不安が残る。
「でも、あいつは校内一の乱暴者だぞ。危なくないか?」
「それって噂だよね」
またじっと見つめられる。目は口ほどにものを言う。航太郎は若葉が言外に何を言いたいのか理解した。
若葉は中学時代「呪われた子」と呼ばれていた。他にも多くの悪いあだ名がつけられていた。去年、初めて若葉の生い立ちを教えてもらって以来、何も知らずに若葉に対して陰口を叩く連中には激しく怒りを感じる。だけど、それよりも始末が悪かったのは、若葉に会って間もない頃は航太郎自身が根も葉もない噂を信じているところがあった点だ。航太郎はかつての自分に対しても腹が立ち、そして自分を恥じた。
「……そうだな。噂だけで人を判断するのは良くないな」
「それに、あの人には恩があるんだろ?」
感情がないわけではないが、やはり情には薄いように思っていた若葉から意外な発言が転がり出る。航太郎は重ねて自分を恥じた。美濃部の悪い噂を信じて、若葉の身を心配するあまり、つい先ほど美濃部が暴力事件を未然に防いでくれた恩を忘れていたのだ。
「要請に応じれば、その恩も消える」
続く若葉の言葉に、航太郎はほっとすると同時にがっかりもした。やはり若葉が情に篤くなったわけではなくて、貸し借りの計算として把握しているらしいと理解したからだ。若葉らしいが、人並みに他人の感情の変化に敏感になって欲しいと願う。
「貸し借りってのは、単純な算数とは違うんだけど、まあ大筋では間違ってないか」
無理な望みを抱くのも、若葉に対して勝手だと思い直した。航太郎は、若葉の過去の傷が癒えるまで待てばいいのだ。
――もし、治らなければ……。
ふと怖い想像をしそうになり、航太郎は考えを振り払った。
「なら、俺も付いて行く」
美濃部の悪い噂を信じたわけではなかったが、無視するつもりもなかった。何か面倒な事が起きた時に若葉を助けられる為に航太郎は近くにいておきたかった。
きっと若葉も危険かもしれないという予想はしているだろう。若葉は、航太郎よりずっと頭が良い。そして、自分の身より航太郎の身を心配する若葉は、航太郎の付き添いは不要だと言うだろう。
そう予想したが、若葉はすぐに答えなかった。不思議に思って顔を覗き込むと、若葉は小さく頷いた。
「わかった。航太郎と一緒なら心強い」
淡々とした物言いの中に信頼が含まれているのがわかるだけに、若葉の言葉は航太郎の心に響く。恥ずかしくなって顔を逸らすと、すぐに若葉は会話を強制終了させてしまう。
「じゃあ、僕はまだ食事が残っているから」
若葉は背を向けすたすたと教室へと歩き出す。その細い後ろ姿を見て、航太郎は溜息をついた。
「相変わらず、クールだよな」
先に教室へ帰ろうとする理由は、航太郎と余計な接触を増やして、航太郎まで偏見の渦に巻き込まれないようにするための配慮だろう。理解している航太郎は、敢えて時間を置いてから教室へ戻った。