06 屋上前階段(千茶)
学校で妖魔騒動があった翌日の午前中の授業で、待っていた機会がやって来た。
心臓がバクバク鳴る中、千茶は後ろから回収されてくるプリントを受け取ると、その一番上に用意していた紙を置いて、前の座席の美濃部くんの背中を突く。
美濃部くんは後ろを振り返ることなく、手を出してプリントの端を掴むと、引っぱる。が、千茶は手を離さず、むしろ少し引っぱり返す。不審に思った美濃部くんが振り返る。千茶はその目を覗き込み、それからプリントへと目を落とす。つられて美濃部くんがそちらを見、紙に書いた大きな字を読んだ、はずだ。
「放課後、屋上で」
千茶の心臓は未だ高鳴り続けていた。他の列のプリント回収は止まらず進んでいるので、当然千茶の列がダントツで遅れている。
長く感じられた数秒の後、美濃部くんが小さく頷いた。その瞬間、千茶はプリントを引き戻すと、手を離した。
プリントがバラバラと床に落ち、そうなるのがわかっていた千茶が素早く立ち上がる。
「おい、美濃部。しっかり取れよ」
音に気づいた隣の列の傘波羅くんが振り向いて、注意する。でも、これはプリント回収が遅れているのをみんなに納得させるための手だ。詳しく考えれば、プリントが散ってから回収が止まったのではなく、回収が止まってから散ったので、変だが、普通はそこまで気付かない。
「せめて御礼さんじゃなくて、お前が拾え」
さらに注意を続ける傘波羅くんに美濃部くんが真実を告げてしまう前に、千茶はプリントを回収し終えると、美濃部くんと傘波羅くんの間に立つ。もちろん、同時にメッセージを記した紙も回収している。
「はい」
千茶は、一旦集めたプリントを美濃部くんの机に置き、そこに美濃部くんのプリントを加えて、さらに前の末伴くんへ渡すと、自分の席へと戻る。その途中で、美濃部くんから話しかけられた。
「さっきのいいけど、三十分ほど遅れると思うぜ」
千茶は長めの瞬きで返した。承知はしたが、その理由がわからない。
「早く集めろよ。授業を続けるぞ」
教壇で先生が急かしたので、千茶は着席するしかなかった。
放課後、屋上。
アゲハの力を借りて、また柵を乗り越えようと思ったが、美濃部くんが「三十分遅れる」のであれば、ずっと立ち尽くすのは疲れる。それなら、柵の前の階段で座って待っておこうと考えを変える。
ドラマやマンガなんかでは、ハンドタオルをさっと広げて座る女の子がいるが、千茶は自分のハンドタオルが汚れるのもイヤだ。カバンの中から、今日もらったプリントのうち、必要なさそうなものを選び、それを敷くことにする。
美濃部くんが遅れる理由はわかっていた。お昼休憩の時に、話しているのが聞こえたからだ。特に、傘波羅くんの声は大きいので自然に聞こえてしまう。
千茶は、近くの席の女子数名で集まってお弁当を食べていたが、まだ仲良くなる前なので話があまり弾まない。一方で妙に相性が良い美濃部くんと傘波羅くんと末伴くんは楽しそうに話しているので、自然とそれを聞く形になる。きっと、クラスの他のグループも似たようなものだろう。実際、男子の多くはあの三人に近づくようにして、お弁当を食べている。
美濃部くんが放課後にする予定だった用事は、「先輩たちと話をつける」ことだった。これだけ聞くと、ちょっと物騒だけど、中身は、追いかけ回されていたクラブの勧誘について、「興味があるクラブに、こちらから順番に回っていく」という話をすることだった。実際、朝から授業の合間に、何人か先輩たちが美濃部くんを訪ねてきていたので、美濃部くんは先輩たちに「放課後、グラウンドの朝礼台前で話がある」と告げていた。
千茶は、中学校の頃は帰宅部で、そしておそらく高校でもそうなるだろうから、ここまで引っ張りだこになっている美濃部くんは、見ていておもしろかった。ただし、うらやましくはない。千茶は、自分があれほど迫られたら、迷惑だと思う。
美濃部くんが来たら話すべき内容を頭の中で繰り返していると、階段を駆け上がってくる音が聞こえた。こんなに騒がしい人は他に考えられず、千茶は立って待つ。ほどなく、予想どおり、美濃部くんが下の踊り場に現れた。
「おっと、ここにいたのか。上じゃなかったのか?」
美濃部くんが、千茶の背後にある柵を、あごで示す。
「うん。何も中で待つ必要がないなと思って」千茶は、さらに、待っている間に気づいた事を付け足す。「それに、屋上で立ちっぱなしだと、誰かが気づいて注意されたり、通報されたりするでしょ」
「そういや、そうか。……あれ? そういや、お前は、その、あれをどうにかできるんじゃないのか? そのチョウチョみたいに」
美濃部くんが手ぶりで何か示そうとしたけれど、千茶には全く分からなかった。最後にアゲハを示したことで、ようやく、考えて言いたいことを推測できた。
「『避目の術』のこと? ……これは、あくまでアゲハの存在が気にならなくなるだけで、私自身がどこにいても気にならなくなるわけじゃないから」
「ふーん」
自分から聞いておきながら、美濃部くんがあまり関心なさそうに言う。千茶は、「お前」と呼ばれたことを含めて、ちょっとイラっとしたが、嫌な方に踏み込まれなくて良かったなと思う。それは「だったら、自分の存在を気にならなくする術を掛ければ良い」と言われることだった。
千茶は、まだ、避目の術は使えない。アゲハには、毎朝お祖母ちゃんが掛けてくれている。もし、千茶がアゲハに対して、避目の術を掛けられたとしても、自分自身に掛けられるかどうかは別だ。小さな虫より、人の存在の方が目立つ。それを気付きにくくする方がずっと難しいのだ。
「しかし、屋上とはね。体育館の裏とか便所とかには呼び出されたことはあったけど」
小さく笑う美濃部くんに、千茶は恥ずかしくなって目を伏せた。そう思われるのは仕方ないことだ。体育館裏なんて、告白の場所の定番だ。だから、今日、メモを見せるのに勇気をかき集めなくてはいけなかった。でも、千茶は告白をするために美濃部くんを呼んだわけではない。そもそも、出会って一週間も経ってないのに告白なんてありえない。
と考えたところで、先程の美濃部くんの発言が一か所引っかかった。
「トイレ?」
「ああ。便所の方が多いよな。小学校の頃と中学校と。二回、三回だっけ?」
女子が男子をトイレに呼ぶことは絶対にない。美濃部くんが呼ばれたのは、おそらくガラの悪い男子だ。照れていた自分が急にバカらしくなった。
「それって、果し合いとかいうやつ?」
「いや、インネンってやつだな。ま、それはそれとして、そっちの用事は妖魔についてなのか?」
いきなり本題に踏み込まれて、千茶は焦った。どういう風に話すべきかは、何度も考えていたはずなのに、向こうからズバリ言い当てられる想定はしていなかった。心を落ち着かせるためにも、少し間を稼ぐ。
「まあ、そうなんだけど、美濃部くんの方は、先輩たちとの話し合いは着いたの?」
「ああ、まあな。大したことなかったからな。明日から俺が気になるところを体験入部するってことになった」
「……でも、確か、クラブのオリエンテーションだっけ? 説明会みたいのは来週にあるんじゃなかったっけ?」
「そうか? だけど、その前から体験するのがダメだってわけじゃないだろ」
確かに、そうかもしれない。そう言いだしたら、学校行事のほとんどが「ルールとして決まっているわけじゃない」と言えそうだけど。
「まあ、美濃部くんはそれくらい前倒しにしておかないと、回り切れないからちょうどいいかもね。モテモテだったから」
昨日、美濃部くんが先輩たちの勧誘から逃げ回る様を思い出して、千茶は笑いを浮かべてしまう。しっかり数えてはいないが、少なくとも片手で数えられるよりは多くの勧誘を受けていたはずだ。
「いや、興味がないとこは断るから、それほどでもないぜ。剣道部に柔道部、あと合気道部……」
美濃部くんはまだ指を折っていたけれど、千茶は当然、それらの共通点に気づいた。
「格闘技ばっかりね」
「ん? 一応、陸上部にも顔を出すつもりだけど、それもまあ基礎体力重視というか……だから言っている事は合ってるぜ。格闘技にしか興味はない、っていうか、そもそも球技は苦手だからな」
「あら、意外。美濃部くんはスポーツ万能と思ってたけど」
「それ、よく思われるんだけどな。ちっともそんな事なくて、格闘技にしても単に慣れているだけっつーか」ここで美濃部くんは小さくため息をついた。「でも、才能ないからこそ、努力で埋めないとな」
最後は下を向いて自分に言い聞かせている感じだった。千茶は、美濃部くんの悩みを垣間見てしまった気がして、言葉を掛けられなかった。すると、美濃部くんが顔を上げた。
「で、お前は昨日逃げた妖魔を退治したいんだろ?」
また急な切り込み。今度は心の準備ができていたのだけれど、こちらの核心を突いてきているので、やっぱり動揺してしまう。
「うーん、その前に情報収集をしたいな、と思って」
「情報収集って?」
「だって、聞いているのはあくまで噂でしょ? はっきりしたところはわかってない。放課後、放送があったけれど、それで正式認められたのは『妖魔事件が発生した』ってだけ。どこの誰が関わったのかは不明のままよ」
「それって、あれだろ? プライバシーのなんとかいう――」
「というより、被害者の保護かな。憑依された人って暴れたらしいから、肩身が狭いじゃない? もっとも、学校内じゃ知れ渡るのは避けられないけれど。普通科の二年生女子よね」
「そうだっけ? 俺、あんまりそのあたり知らねえんだよな」
千茶が妖魔事件について関心があると見抜いた割に、美濃部くんは関心がないらしい。意外、というか、理解できない。
「じゃあ、噂では何を知ってるの?」
「ゲロが動いたってやつだな」
美濃部くんがニヤリと笑った。確かに、話だけ聞くとコミカルだけど、千茶は笑えない。事件について、千茶が聞いた話を、家に帰ってからお母さんに話したところ、妖魔が吐き出されて動いて逃げた事について、「珍しい」と言われた。それで、千茶はその妖魔に近づかないように釘を刺されたのだ。
本当は、美濃部くんが言ったように、弱っているに違いない妖魔を探し出して倒そうと考えていた。千茶は、まだ自分の力で妖魔を退治したことがなかった。弱った相手なら初めての妖魔退治に向いていると思ったのだが、お母さんは珍しい点を危険視した。
お母さんの話では、本来人に憑依していた妖魔が、無生物である胃の内容物(つまりは、ゲロだ。男子の前でそういうつもりはないけれど)に憑依し、さらに動いて逃げたのは、かなりの無理をしているらしい。だから、妖魔そのものが弱っているに違いないという見解は、千茶と同じだった。でも、行動が変わっているなら、むしろベテランが対処すべきだと諭されて、経験のない千茶は従うしかなかった。
しかし、この事件をみすみす見逃すつもりはなかった。妖魔に近づくのは止めるとしても、事件の全容について知ることは、知識として身につくからだ。いや、千茶が一番気になるのは、別にあった。
「じゃあ、妖魔を退治したって生徒についてはどう? 噂では守護術師が来る前に、妖魔は逃げたんでしょ」
「ん? しょご?」
千茶は、先走ってしまったのに気付いた。
「ごめんなさい。今、言ったのは守護術師。学校とか会社とか、特定の施設を妖魔から守るために雇われている術者のこと。ここは確か……日下って女の人だったよね?」
千茶が聞いたが、美濃部くんは質問に答えず、納得する
「ふーん、守護か。守るって意味だよな。そういや、そういう術者がいてもおかしくねえよな」
「……ともかく、私が知りたいのは、その妖魔を退治したっていう生徒。普通科の一年生という噂よね?」
「そういや、そうだな。そいつも、お前と同じで術者って事か?」
そう、それだ。千茶は、家族の中では一番下なのは自覚していたが、世間の中ではそれなりに術者の卵として習熟している自負があった。それなのに、同等の存在があっさり現れたことが気になって仕方なかった。
「そうなるわね。この若さで妖魔を撃退するなんて、只者じゃないわ」
美濃部くんが一瞬ポカンとしてから笑った。
「いや、お前も同じだろ」
千茶は、自分の目つきが鋭くなるのをどうしようもなかった。
お母さんにも「似た存在」というような事を言われたが、正確にはそうではないのだ。向こうは少なくとも一度妖魔を撃退しているのだから。
苛立っている千茶はきつめに言ってしまう。
「『お前』っていうの止めてくれない。御礼、って名前があるんだから」
「あ、そうだったな。そうそう。ミレイ、ミレイ。オレイって言っちゃいそうになるよな」
「オレイだったら、名前順で座っているのに、美濃部くんの後ろにならないでしょ」
「……ホントだ。そこまで考えた事なかったなあ」
呑気な答えに、千茶は呆れ、そのせいで少し落ち着けた。焦りは千茶の問題であって、美濃部くんは悪くない。
「でも、噂ってどこからどこまでが本当かわからないでしょ? だから、本人に直接聞きに行きたいなと思ってて――」
「なるほど、それで俺が何かあった時に守ればいいんだな」
千茶は開けた口を閉じるのに数秒かかった。美濃部くんの呑み込みの早さが意外だったからだ。
「そ、そうだけど……美濃部くん、いいの?」
「ああ、いいぜ。あんまり強いわけじゃないけど、そこらの生徒には負けねえからな」
どちらかというと、頭脳派ではないと思っていた美濃部くんが、あまりに物分かりが良いのが不思議だったが、千茶としてはそちらの方が助かる。
「今からか?」
美濃部くんは、物分かりが早いだけでなく、気も早かった。
「ううん、今からだと、もう向こうも帰っているだろうから、明日の放課後とかは?」
「えーと、放課後は無理だな。剣道部へ行かなきゃいけないから。……昼休みでどうだ? 早く食えば時間があるだろ」
早く食事をする自信はなかったが、だったらお昼ご飯を抜けばいいだけだ。むしろ、ダイエットのきっかけになる。
千茶は、簡単に明日のプランについて考え、気になる点を提示する。
「傘波羅くんたちとは別行動にしてもらいたいんだけど」
「何でだ?」
「何で、って。それは、私がまだ術者だと知られたくないからよ」
「そういえば、そんな話もあったな」
その言葉に千茶は、約束が守られているか不安になる。
「でもまあ、いいぜ。クラブ関係だと言えば、あいつらも付いてこないだろうし。でも、内緒にしたいなら、そもそも動かない方がいいんじゃないか?」
これは美濃部くんの言うとおりだが、自分が術者だとバレて普通の女子高生として暮らせない事より、自分より実力が上の生徒が身近にいる方が気になるのだ。それに、うまく立ち回れば、千茶の正体も知られないはずだ。
胸の内を細かく話す気にならず、短く答える。
「そ、それは……気になるからよ」
「ふーん、そんなもんか」
あっさり言うと、美濃部くんは肩を回し、腰から体を左右にねじる。運動をする前のストレッチみたいだ。
「するってーと、明日が俺の初仕事みたいなもんか。予想してなかったけど、やるってなら受けて立つぜ!」
美濃部くんが気合を入れた。むしろ、自分の方こそ気を引き締めないといけないと思った千茶だったが、置いてけぼりを食らったような気持ちはなかなか戻せなかった。