05 廊下(航太郎)
四月。新入生にとって期待と不安の季節。
メディアの向こうの誰かがそのような事を言っていたが、実際のところ、期待は埋もれてしまって自覚できないくらい、不安が大きい。みんなそうだろうと、航太郎は思う。
授業についていけるのだろうかという不安。同級生に|のけ者にされ<ハブ>られないだろうかという恐怖。可愛い女の子に会えるかもしれないという期待は、確認する前から、夢幻だと分かっている。いや、会えるのかもしれないが、仲良くなれるわけがない。いずれにせよ、不安をかき消すほどには至らない。
幸い、航太郎は、ひとまず人間関係の問題をクリアしつつあった。不安なのはみんな同じと強く意識すれば、一歩踏み出すのはそれほど怖いことではない。お昼休みに、周りの者に声を掛けて、円を作るように席を移動させるのに成功したら、後は自然に流れた。みんな打ち解けあうチャンスを待っていたのだ。その機会を提供した航太郎は、それだけで一目置かれる立場になれた。一応、会話が流れるよう、話を振ったり、ツッコミを入れたり、多少の努力もした。
ただし、これだけでこの一年安泰だとは思っていない。しばらくすれば、派手に動いた航太郎をやっかむ声が生まれる危険があるのは分かっている。次の課題は、そう言い出す奴より多くの友達を早く作れるかだ。地盤が固まっていれば、多少の悪口にも航太郎の立場は揺るがないだろう。
対して、勉強についての不安は簡単には消えなかった。元より背伸びをして、この三徳高校に入った身だ。最初の一週間が過ぎる前なのに、もう難しいと感じていた。一応、同級生も難しいと語っていた。それが、うわべの発言でなかったなら、高校は中学校とは違うという事なのだろう。冷静に考えれば、周囲の者に合わせたうわべの発言の可能性が高い。「難しい」と洩らす同級生を前に、「全然そう思わない」という配慮のない奴はそういない。とはいえ、学力に不安を感じている航太郎も、さすがに数日では出遅れているという実感が湧かなかった。勉強で実際に悩むは、まだ少し先だろう。
今、航太郎が一番不安に感じている事は、ぐるりと回って、やはり人間関係だった。しかし、それは自分についてではない。若葉の人間関係だ。
航太郎は、古文の女教師が話しているのをほとんど聴かずに、窓側へ視線を向ける。
そこにいるのは、教科書に視線を落とす同級生。領内若葉。航太郎の同居人だ。
若葉は、平均よりやや背の低い細身の男子だ。一言で言えば、変わっている。まず、鼻までかかる前髪が目に付いてしまう。もちろん、髪のせいでまともに目は見えない。本人は髪のすだれを通して世界を見ている。性格は無口。他人に関心がなく、そのせいか遠慮もない。正直なのだが、その美徳に気づく人はあまり居ない。むしろ、腹を立てる人の方が多いだろう。
当然、こんな容姿と性格の者は周囲に馴染めない。中学校の頃は実際そうだったので、航太郎はとても苦労をした。
けれども、そこで学んだのは、親切が必ずしも正しいわけではないという苦い真実だった。航太郎は、強引に若葉を自分のグループに混ぜようとして、逆に騒動を作ってしまった。ショックだったのは、若葉を余計に傷つける結果を生んだ事だった。
若葉から「僕のことは放っておいて欲しい」と告げられた時、航太郎は自分の無力さが悔しかった。だから、高校になった今、同じ過ちを繰り返すつもりはない。
だからと言って、何も手を打たなければ、若葉がいじめられる危険があった。それだけは絶対に阻止しなければならない。だが、そのための有効な手段が、ひとつも航太郎には思い浮かばなかった。
勉強に身が入らない理由の何割かは、お前のせいだからな。
心の中で苦情を投げつけた相手が鉛筆を動かした事で、航太郎は、先生が黒板を書き始めたのを知った。慌てて、ノートをとる。
それから少し時間が経ってから、突然叫び声が聞こえた。それはすぐに複数の人の騒ぎ声に変わった。下の階だ。
ざわめきはこのクラスにも伝染する。お互いに顔を見合わせ何事かと聞くが、もちろん誰も答えは知らない。
「静かに!」
先生が手を叩いて注目を集めるが、先生自身何が起きているのか気にしている顔をしていたので、効果はいまいちだ。
窓側の席の者の方が、聞き取りやすいらしい。耳にした「妖怪」や「悪霊」という不吉な単語をポロポロと周囲に洩らす。
航太郎の中で不安が広がる。若葉に目を向けると、若葉は首を窓側へ少し傾けていた。不安が航太郎の心臓の鼓動を早くする。若葉は、聞き耳を立てていた。
良くない事が起きようとしている。その考えはすぐに証明された。
突然、若葉が立ち上がった。周りの生徒が椅子を引いた音に反応し、そちらを見るが、もうそこには誰も居ない。若葉はためらいなく、教室後ろ側の扉へ進んでいた。
この変化にクラスで一番対応できていたのは、航太郎だった。それでも、「おい、若葉! 待てよ!」と声を掛けられただけだった。
若葉は扉を開けて出て行く時に、こちらをちらりと見た。若葉の前髪のせいで、普通の人は若葉の表情を読めない。だが慣れている航太郎は、隙間の奥に若葉の目が光るのがわかった。
これまでにない最悪の事態だ。航太郎は愕然とする。若葉はこちらを見ていた。航太郎の止めた声が聞こえなかったわけではない。つまり、若葉は明確な意志を持って行動している。あまりない出来事だ。良くないのは、その目的が妖怪騒動に関わっている可能性が高いという点だ。
「ちょっと君、待ちなさい!」
教師が呼び止めるが、もうその相手は廊下に出て姿が見えない。教師は教卓の隅を指差して何かを探す。ちょっと考えて、きっと座席表を見ているのだと航太郎はわかった。教師が名前を確定する前に、航太郎も立ち上がる。
「あ、俺、あいつを連れ戻して来ます」
航太郎が開け放されたままの扉へ向かう途中、何人かのクラスメイトと目が合う。半分ほどは何が起きているのかわからない顔をしていた。わかっていない点は航太郎も同じだ。残りの半分は、にやけたような顔で目を輝かせていた。おそらく野次馬根性というやつだろう。行動原理がそんなものではない航太郎は、腹が立った。当然無視して出て行く。廊下を出るあたりで、後ろから何人かが立ち上がる音がした。
「あなた達、席に着きなさい! 危険です!」
教師の警告に航太郎は振り返る。教室の中で立ち上がっている何人かの生徒は、凍りついていた。
妖魔大戦の話を含めて、妖怪魔物の類が危険であると、みんな小さい頃から聞かされてきた。中には、実際妖魔に関係する体験をした者もいるかもしれない。親戚や知人がそういう目に遭ったという者なら、大半が当てはまるだろう。
もちろん航太郎も危険については承知している。むしろ、危険だからこそ、足を止める訳には行かないのだ。
若葉が去った方角は確認していた。そちらの廊下にはもう若葉の姿はない。だが、行く先はわかっている。
航太郎は追いつくために駆け出す。後ろからまた教師の声が聞こえたが、後を誰かが追ってくる足音はしなかった。
予想どおり、若葉は騒動の現場にいた。
航太郎たち教室から一階下の二年生のクラスがある廊下。そこに生徒たちが集まっていた。
大人の声が席に着くように叫んでいたが、二年生は新入生ほど素直じゃないらしい。今なお、教室から新しい生徒が出て来ていた。
航太郎はまだ隙間があるうちに、人をかき分けて前へ進む。意外に人の壁は薄かった。前が開け、航太郎は思わず「嘘だろ」と呟いた。
若葉は騒動に首を突っ込んだだけではなく、その中心にいた。
意味不明な言葉をわめき、両手を振り回し暴れている髪の短い女子生徒。それに後ろから組み付いているのが、若葉だった。
「てめぇ、メロディーから離れろ!」
怒鳴り声がし、航太郎が横を見て、ぎょっとした。髪の右半分を赤く染めている男子学生がいたからだ。
この三徳高校の入試には面接があった。だから、いわゆる素行不良の学生は排除されているものだと思っていた。実際、今までこんな気合いの入った先輩が居るとは知らなかった。入試の後、本性を発揮したのだろうか。いずれにせよ、あまり関わり合いにはなりたくない。
航太郎は周囲を見回し、状況を確認する。若葉と暴れている女子の周りには二メートルほどの距離が空いていた。航太郎の逆側にへたり込んで泣いている女子がおり、そこは距離が近かったが、見ている間に別の女子が手を貸して、人の壁の奥へと消えていった。周りの人は近くの人と話しながら、中心の二人を見ていた。その聞こえてくる単語を拾って推理すると、暴れている女子が取り憑かれたので間違いないだろう。泣いていた女子は、この憑依された女子に襲われていたらしい。たぶん、廊下に逃げたが追いつかれ、揉み合っているところを若葉が後ろから組み付いたのだろう。
よく見ると、若葉は女子の首を絞めていた。肘のあたりが女子のあごに位置するように手を回し、締めながら後ろに引っ張っている。プロレスのスリーパーホールドといわれる締め技だ。髪を振り乱した女子の顔は、赤くなっている。
「離れろってんだろ!」
赤髪の先輩が、一歩前に出る。気合いが入った格好をしているだけあって、根性も座っているらしい。今では、取り憑かれた女子に一番近い位置にいた。もちろん一体化している若葉は除いてだが。
「航太郎、近づけさせないで」
苦しそうに息継ぎをしながら、若葉が指示を出した。
航太郎は目を見張った。
若葉はあまり自分の意志を示さない。多くの物事に「何でもいい」と答える性格だ。だから、他人に指示をすることは滅多にない。航太郎がすぐに思いつかないくらい稀だ。
しかし、驚いていたのは数秒だ。稀な指示だからこそ無視するわけにいかない。航太郎は、赤髪の先輩の前に立ちふさがる。
「なんだぁ、てめぇ! あいつの仲間か?」
怒鳴りながら振り払われる。強い力に、航太郎は横によろめく。
その瞬間、怖い先輩の表情が変わった。それが何の気持ちか理解する前に、また顔は怒りの表情が戻る。航太郎は姿勢を立て直しながら、怖い先輩の足元を確認する。
一歩前に出ていた立ち位置がいつの間にか他の人たちと同じラインに戻っていた。
吠えてはいるが、この人も怖いんだ。
そうわかると航太郎は、この先輩がそれほど怖くなくなった。
「先輩、近づくと危ないですから」
言いながら、体を押す。
「うるせぇ、どけよ!」
先輩が押し返すが、そこには先ほどの勢いがない。吹き飛ばないように調節してくれているのだ。むしろ、女子を助けてやりたいのに邪魔をされているという、言い訳として役に立つと思われている可能性が高い。
「日下先生が来るまで近づくな。君も離れなさい」
男の教師らしき指示が聞こえた。離れろと言った相手は若葉だろうが、きっと効果はない。
日下先生というのは、たぶん妖魔対策専門の人だろう。名前はうろ覚えだったが、若くてキレイな女性だった気がする。入学式での紹介だったので、遠くて顔ははっきり見えなかった。
突然、航太郎が押さえている側の人の壁がどよめきと共にずるずると奥へ下がった。赤髪の先輩もワンテンポ遅れて下がる。数秒してからも同じ事が起きた。どうやら、若葉たちがこちらに移動しているらしい。
若葉は華奢な見た目どおり、力はない。暴れている女子を押さえきれずよろめいているに違いない。
助けにいかなくては、という考えが浮かんだが、体はそのように動かなかった。怖いからだ。
妖魔大戦時多くの犠牲者が出た理由の一つとして教えられているのは、憑依の伝染だ。取り憑かれた人に近づくと、近づいた者が次の犠牲者になる。それに対抗できるのは霊能者だけだ。
だが、若葉にそんな能力はない。
正直なところ、航太郎には若葉の行動が理解できなかった。困っている人を放っておけないというタイプではない。むしろ無関心だ。なのに、今日、こんな出来事に限って、驚くほどの行動力を発揮している。
その理由に、心当たりがない訳ではないが、理解できない点は同じだし、できれば考えたくなかった。
それに、若葉は俺にこの先輩を押さえろと言ったし、と考えてから、航太郎は自覚した。航太郎も先輩も、お互いが騒動の中心に近づかなくて良い言い訳になっていると。
「君、頑張れ! 日下先生はもうすぐ来るぞ」
先ほど離れろと指示した教師が、急に旗色を変えた。航太郎はムカッとした。そうなった理由は簡単だ。この教師も怖いのだ。若葉の危険を省みない行いがあるからこそ、憑依された女子生徒が動きを制限されている事実を重視するようになったのだろう。まだ、怖いのは理解できる。航太郎も同じだ。それなら最初から若葉を励ましたら良かったのに、教師らしく格好をつけようとしたのが腹立たしかった。格好をつけるなら、若葉と交代するくらいの度胸を見せろ!
そう心の中で毒づいている間にも、ずるずると移動は続く。一度に二歩三歩動くようになり、航太郎は若葉のスタミナが切れかかっているのではないかと心配になった。振り返ろうとして、バランスを崩した。同時に先輩が下がったせいだ。が、すぐに先輩が支えてくれた。あれっと思い顔を上げると、先輩はそっぽを向いていた。立場上すべきではなかった事を、反射的にしてしまったのかもしれない。もしそうなら、根は良い人なのかもしれない。
その時、背後でこれまでのわめき声と異なるうめき声が聞こえ、直後に周りから女の人の悲鳴が上がった。また人の壁が、先輩も含めて、下がる。航太郎は先輩を押さえておらず、姿勢を直して立ったばかりだったので、取り残された形になった。役目が一時的になくなったついでもあり、航太郎は振り返る。
周りの女子の悲鳴が気になった。あれは怖いからと言うよりも――
目に入った情景から、航太郎は理解した。
憑依されて暴れ回っていた女子生徒が、体をくの字に曲げて、ゲーゲー吐いていた。若葉はまだその女子の背中に張り付いていた。
二三度、盛大な戻す音を絞り出した後、女子生徒は突然がくりと膝を折った。若葉はそれに持っていかれるようによろめいたが、首から手を離し、女子生徒の胴へ手を回すと支える。しかし、体重全てを支えきれないようで、若葉は後ろに腰を落とす。突然電池が切れたおもちゃのように動かなくなった女子は、若葉の膝の上にダラリと座り込む形になった。
終わったのか、と疑問に思っていると、背後で先輩が吠えた。
「くそっ、てめぇ!」
航太郎は反射的に動いた。反転すると、両手を突き立て、先輩の突進を防ぐ。振り払われたが、吹き飛ばされなかった。おそらく先輩もまた反射的に力を弱めてしまったのだろう。茶番を続けていた名残だ。が、手加減されたのはその一回だけ。次は、航太郎を掴み本気で引き剥がしにきた。その行動を予測していた航太郎は、先輩の腰に食らいつく。お互い本気の相撲になった。
あいにく航太郎は、若葉ほどではないが、腕力に自信はない。勝負はすぐに着く、はずであったが、悲鳴がそれを阻んだ。
これまでで一番大きな悲鳴だった。人が引くのも勢いよく、慌てたあまり転びそうになっている人さえいた。
向きの関係上、先輩が先に気づいた。口を開くと、息を止めた。悲鳴はなんとか呑み込んだ感じだった。航太郎は、腕を解くと振り返る。
若葉のことが心配だったが、若葉は最後に見た姿勢のままだった。意識のない女子を抱えて座り込んでいる。その時視界の中で何かが動いた。
それは冗談みたいな情景だった。先ほど若葉が組み付いていた女子が吐いたゲロが、床をずるりと這っていた。
航太郎が初めて目にする怪奇現象だった。後で人に話すとバカにされそうな体験だが、目にしている今は衝撃的だった。
航太郎の頭に、昔プレイしたゲームに出てきたクリーピングなんとか、というスライム系のモンスターが思い浮かんだ。後日、辞書で偶然「クリーピング」という意味が「這いずり回るもの」だと知った。今目にしているゲロは、まさしくクリーピングと呼ぶべきものだ。
「クリーピング……」頭の中でそう呟いた航太郎は、壁にぶち当たる。そういえば、ゲロは英語でどういうのだろう?
若葉がクリーピング・ゲロから視線を切って、抱きかかえている女子に目を落とした。それを認識した航太郎は、ふと我に返った。ゲロは若葉から離れて行っていた。騒動の渦はいつの間にか、教室の前から階段近くのトイレ前に移っていた。ゲロは、女子トイレの方へと向かっている。
まだそのゲロに一番近い位置にいるのは若葉だった。だが、本人がもう気にしていない事が、航太郎を勇気づける。航太郎は若葉へと駆け寄った。
「大丈夫か?」
声を掛けると若葉は航太郎を見上げた。髪の隙間から、瞳が見える。
「うん、大丈夫。気を失っているだけだと思う」
返事は相変わらずのか細い声だ。
航太郎が質問したのは、若葉自身についてだった。だけど、若葉は女子の事だと判断して答えた。昔から、若葉は自分の事を軽視している。いかにも若葉らしい答えに、航太郎は微笑んだ。その瞬間、航太郎は日常に戻れたと実感する。まだ近くに怪異がいるのはわかっているが、ほとんど気にならなかった。
「そっか」
質問の意図を勘違いされたことは改めて指摘しなかった。若葉の態度で航太郎が知りたい情報は得られていた。
「航太郎、手伝って」
若葉がもぞもぞと動き出す。立ち上がりたいらしいとわかった航太郎は、ひとまず女子を引き受ける。まともに考えれば、悪霊に取り憑かれていた女子を引き取るのは恐ろしい。でも、若葉がそうしたいと差し出してきたので、航太郎に躊躇いも恐怖もなかった。
しかし、女性の身体はどう受け止めればいいのかわからない。ひとまず航太郎は片膝をついて姿勢を安定させると、無難に右腕を女子の背に回す形でもたれ掛けさせる。
髪を振り乱し暴れていた頃は、よく見る余裕はなかった、というかむしろ恐ろしい形相をしていたと思うが、目を閉じて小さな寝息を立てているこの女性は美人だった。ただし、ケバい格好がその美しさを幾らか損なっていた。いや、そうでもないか。航太郎は考え直す。少なくとも、短くなるようにカスタマイズされたスカートから伸びる白い脚は魅力的だ。注意してなかったが、若葉が抱きかかえていた時、角度によってはスカートの奥が見えたのではないか。
「おい、メロディーをどうする気だ」
邪な考えを抱いていた航太郎はビクついた。声をした方向を見ると、赤髪の先輩が近づいてきた。先輩はちらちらとトイレの方を気にしている。びびっているのは明らかだ。が、逆にそれが先輩の勇敢さの証明でもある。
航太郎は抱いている女性に目を落とす。前からそうではないかと思っていたが、この女子のあだ名がメロディーなのだろう。
「倒れたから、保健室へ運ぶ」
若葉が素っ気なく答えて、航太郎の手からメロディー先輩を受け取ろうとする。航太郎はもちろんそれに従う。
「倒れたからって、てめぇ! てめぇがやったんだろうが!」
赤髪の先輩が数歩の距離を駆けてきた。腰を落としていた航太郎は、それを止められなかった。若葉が、メロディー先輩をいわゆるお姫様だっこしたところで、赤髪の先輩に襟元を掴まれた。が、殴られはしなかった。メロディー先輩が、盾になっているからだろう。
若葉は相変わらず、怯えたり動揺したりしない。
「だったら運ぶ?」
赤髪の先輩が、掴んでいた手を離すと、両手をごしごしと自分の服で擦る。
「え、いいのか?」
こちらに許可を求めるのは変だ。顔が、髪ほどではないにしても、赤くなっているあたり、動揺しているのだろう。
「うん。でも……」
若葉が何かを言い掛けて止めた。
「でも?」
赤髪の先輩が促す。若葉が躊躇っていると先輩の顔が怒りに歪んだが、手を出される前に話し出し、航太郎はほっとした。
「また暴れたら、押さえてね」
まるで蚊に刺されたら叩いてね、と言うかのようにあっさり言う。赤髪の先輩だけでなく、航太郎もギョッとして一歩離れる。むろん離れた相手は、若葉ではなくメロディー先輩だ。
唾を呑み込んで何も言えない先輩に変わって、航太郎が聞く。
「また暴れるのか?」
「たぶん、大丈夫と思うけど……わからない。さっき出て行ったので全部だと思う」
若葉があごでトイレを示した。赤髪の先輩はクリーピング・ゲロについて束の間忘れていたようで、びくりと肩を揺らしてそちらを確認した。
クリーピング・ゲロは居なくなっていた。おそらく、扉の下の隙間を通って中に入ったのだろう。
周りの人のざわめきも大きくなっていた。開いていた人の輪もじわじわと狭まってくる。
「連れてく?」
返事ができない赤髪の先輩に、若葉が確認した。
「い、いや、任せる。俺が勝手に触ったら怒られそうだしな」
言い訳がましく呟いた言葉から、何となく普段は尻に敷かれているのだろうと窺える。
「じゃ」
若葉が素っ気なく言い、メロディー先輩を抱えたまま歩き出す。
「俺も手伝おうか?」
航太郎もまたメロディー先輩が暴れ出すのは怖かったが、若葉一人に任せるのは心配だった。
「いや、航太郎は日下先生って人が来た時に説明してあげて。それに――」
若葉はちらりと赤髪の先輩の方を向き、すぐに航太郎に首を戻し少し傾ける。
「――倒したのは僕だからね。責任ってやつを取るよ」
言い終えるとさっさと歩き出す。進行方向で、まるで奇跡を起こす預言者のように、人の壁が割れていく。
男子教師が若葉にどこへ行くか問いかけ、というよりも足止めさせたかったようだが、若葉が「保健室」と答えると、それ以上何も言わず見送った。あっさりし過ぎている態度に取っ掛かりが見つからなかったのだろう。よくあることだ。
若葉の後ろ姿を見ながら、航太郎は微笑んだ。若葉の口調は変わらなかったので、他の人にはわからないだろうが、航太郎に自分が運ぶ理由を告げたのは、若葉なりの軽口だった。責任についても、本人としてはいまいち掴みそこねている感じがあるが、昔に比べるとかなり理解が進んでいる。このままでいくと、大人になる頃にはだいぶ一般的になれているかもしれない。
それは嬉しい事であったが、同時に寂しいことでもあった。航太郎に限っていえば、若葉は今のままで良いからだ。むしろ、若葉が一般常識を身につけると若葉らしさが失われてしまう。とはいえ、どちらがよいか天秤に掛けると、一般化を進めるべきだと航太郎は考える。今のままの若葉では、社会に出るうえでハンデが大きすぎるからだ。
「よし、もういいだろ。お前ら教室へ戻れ!」
教師が生徒に声をかけ始める。複数の大人の声がするので、近くにいる他の教師も廊下に出ていたのだろう。いつもどおり、生徒たちの行動は遅い。ノロノロと、トイレ前を横切る時はビクビクとしながら、動いていく。
「おい、一年生! あいつは何者だ?」
赤髪の先輩が航太郎の肩を小突く。この先輩は、教師の指示を素直に聞く素振りを見せてなかった。航太郎も、若葉からの頼みを果たすまでは残るつもりだったので、先輩から逃げられなかった。
「えーと、なんて言うか、まあ、幼なじみです。いつもあんな感じです。変わってますよね」
敢えて明るく答える。ビビってないわけではないが、それを表に出すと付け込まれるかもしれない。
「変わっているというか、あいつの方が化け物みたいだったな」
吐き捨てるように言われて、航太郎はカチンときた。怒りが顔に出たが、幸い先輩は若葉が消えた方を見ていた。あわてて表情を繕うと同時に、視線を落として振り返られても顔が見られにくいようにする。
「名前は?」
先輩の声が降ってきて、航太郎は答えに詰まった。誰の、が欠けていたからだ。こういう時は都合の良い解釈をするに限る。航太郎は答えやすい方を名乗る。
「鷹森です」
先輩が顔を覗きこんできた。今になって、誰の名前かを指定しなかった事に気づいたらしい。疑わしく見てくる態度から、知りたい名前を得られなかったと感じているようだ。
「あいつのか?」
こう聞かれれば、勘違いで通す余地がない。航太郎は正直に言う。
「いえ、僕のです」
直後頭を叩かれた。その音に近くにいる生徒がこちらをハッと見たが、すぐに知らないふりをする。そういうものだ。
「てめぇみたいな、雑魚の名前はどうでもいいんだよ。あの妖怪オカッパ頭の方だ」
言ってから、自分でおかしかったようで、ハッハと笑う。
「お、こりゃ、いいな。あいつはカッパと呼ぼう」
赤髪の先輩は自分の発想にご満悦だったが、とりたてて優れた発想ではない。既に中学三年生の時、若葉はそう呼ばれていた。
航太郎が黙っていると、また頭を叩かれた。
「で、名前は?」
あだ名を付けたから良いだろうと勝手に理解していたが、やはり駄目だったらしい。溜め息とともに航太郎が教える。
「領内です」
「え? りょ、りょうな?」
馴染みのない名前を赤髪の先輩はすぐ覚えられなさそうだ。敢えて航太郎は、二度言わない。期待したとおり、先輩は聞き取れなかったのは恥だと感じたのか、聞き直さなかった。
「まあいい。カッパの野郎か。覚えておくぜ」
呟きと共に、固めた拳が不穏だ。若葉を近づけるべきではないと強く思う。
「おい、山澤! お前らも早く教室に戻れ」
生徒たちを戻している教師に声を掛けられて、初めて赤髪の先輩の名前がわかる。
「あ、俺は日下先生に何が起きたかを説明するんで」
「それは先生がするから、生徒は教室に帰りなさい」
「ちぇっ」
舌打ちをして赤髪の先輩がノロノロと動き出す。本人としては反抗的な態度なのだろうが、航太郎からすれば、素直に従っているに等しい。
「ほら、君も……ん、一年生か? 一年生が何でここにいる」
疑問形から一気に詰問形に変わる。
「あ、こいつはさっきのおかっぱのツレで――」少しでも居座る時間を稼ぐつもりか赤髪の先輩が立ち止まる。「――そういや、何でてめぇがいるんだよ?」
航太郎は赤髪の先輩を無視する。まさか教師の目の前では暴力を振るわれないだろう。それに、居座るのはこうするのだ、と見せつけてやれば文句はないだろう。
「先生こそ、教室に戻らないと授業が続けられませんよ。その、説明は一番近くでいた僕たちでしますから、大丈夫です」
教師は少し考え込んでから、教室の中を見る。生徒たちは騒がしかった。答えはもう決まっている。
「日下先生に説明すれば、ちゃんと教室に帰るんだぞ」
「はい、アレが出てこないように見張ってまーす」
赤髪の先輩が余計な事を言った。心配したとおり、教室へ入りかけた教師が足を止めた。
周りは、事件がほとんど終わったという雰囲気になっていたが、実際に終わったかどうかは誰もわかっていなかった。みんな終わったと考えたかったのかもしれない。でも、そこで先輩が具体的に残った問題、クリーピング・ゲロは見えなくなっただけ、を指摘してしまった。そうなると、立場上、教師はそんな不安定な現場に生徒だけ置いていいのか、考えなくてはならない。答えはおそらくノーだろう。すぐに出ているはずだ。考えているのは、どうせ自分の安全の為に残らなくて良い理由だろう。
その時、周囲がざわついた。まだ生徒たちは半分ほどが残っていたが、一部が足を止め、階段のある方を見ていた。ほどなく、そちらの人の壁が割れて、白衣を着た女性が現れた。右手に刃渡り六十センチほどする剣を持っていた。航太郎は物騒さに驚いたが、すぐにそれが木製だと気付いて、ほっとした。
「どこ?」
大きくないがよく通る鋭い声だった。よく見ると、その若い女性の近くに息を切らしている男子学生がいた。聞かれても、おそらく今先生を呼んで来たばかりのその人には答えられない。時間的に、呼びに行ったのはゲロを吐く前だからだ。
「え、えーと……」
「あ、日下先生! こっちです」
赤髪の先輩が挙げた手を振る。やはり白衣の女性が日下先生という人らしい。鋭い眼差しをこちらに向け近づいてくる。
「日下先生、ありがとうございます」
難しい顔をして考えていた教師も、にこやかに近づいてくる。明らかに好意を抱いている顔だ。確かにこの教師は若い男なので、日下先生を狙っていても不思議ではない。もし、廊下に残る理由にこの不純な理由が混ざっていたなら、航太郎は基本的に教師が嫌いだが、この教師は特に嫌いだ。
「先生は授業があるだろ!」
赤髪の先輩もウザいと思ったようで、それがわかる表情をそちらに向けた。
「な、……私はだな!」
大きく声を張り上げられたところで、日下先生が剣を持っていない左手を挙げて、手のひらを見せるように突き出す。黙れというジェスチャーだ。
「先生は戻っていただいて結構です」
宣言された教師はもごもごと何か言い掛けたが、教室からふざけ合っている大きな声が聞こえたのを契機にそちらへ向き直る。
「コラッ! 静かにしろ!」
完全にとばっちりだが、自分たちが安全だとわかった途端、ふざけ合う生徒たちにも同情はわかない。
教室へ戻る教師に対してはざまあみろと思ったが、同時にこの日下先生への怖さがじわじわと染み出てきた。
「で、女子はどこ?」
ほとんど睨むような視線を向けられ、航太郎は萎縮したが、赤髪の先輩は美人補正が上回るらしい。弾む声で答える。
「メロディーなら、今保健室にいます。あ、メロディーっていうのは、天宮さんのあだ名で――」
「どういう事?」
日下先生が眉間にしわを寄せて、赤髪の先輩の発言を止める。赤髪の先輩は、言い続けるつもりだった内容を呑み込むのに少し手間取ってから、答える。
「えっと、そうだ! こいつ、こいつのツレが勝手に」
赤髪の先輩の指差しによって、日下先生の鋭い視線が航太郎に突き刺さる。航太郎はうつむく事で視線を逸らしたが、日下先生の苛立ちは理解していた。妖魔騒動が起きたから駆けつけたのに、その対象がいないのだ。
「悪霊ならあっちです」
航太郎は女子トイレを指差した。
「あの中に逃げたの?」
「はい、そうです」
赤髪の先輩が素早く答えたが、それに対する日下先生の不審そうな顔を理解していない。たぶん、暴れた女子がトイレに逃げ込むのはおかしいと思っているのだ。
「いえ――」航太郎が否定すると、赤髪の先輩が睨んできた。横入りするな、と言いたいのだろう。が、あいにく、航太郎にとっては日下先生の方が怖い。「――入ったのは、その、なんて言うか、ゲロだけです」
これも、日下先生の納得できる答えではなかったようだ。不審な顔つきは変わらない。でも、あごが小さく動いて、続けるよう促してきた。
「憑依されていた人が吐いて、それがズルズルと動いてあっちへ」
改めて口にすると馬鹿げた話だった。信じてもらえないかもしれないが、これが真実なのだ。気は進まなかったが、航太郎は顔を上げ、日下先生の視線を受け止める。
意外にも、目が合ってすぐ日下先生は床に目を落とす。右手の木の剣で、足元近くから女子トイレの方へと、指し示す。
「確かに、跡はあるわね」
確かによく見ると、汚れは幾らか残っていた。日下先生が動いたのでそちらを見ると、白衣のポケットからたくさん角のある板切れを取り出した。表面には漢字があちこちに書かれ、中央には方位磁針のようなものがついていた。
「反応も微かにあり、か」
日下先生は呟くと、取り出した板切れをまたポケットにしまい、軽く剣を振ってから、スタスタと女子トイレに近づき、入ってしまった。
航太郎を含めて、廊下にいた生徒たちは黙って、日下先生の姿を見送った。しばらく中から何の音も聞こえてこない。
「おい、なに出しゃばってんだよ」
赤髪の先輩が不機嫌そうな顔で小突いてきた。航太郎は、矛先を逸らす事にする。
「日下先生って、美人ですねぇ」
言い方を間違えると、生意気だ、と殴られかねない。航太郎は、イヤらしくならないように、憧れている感じを演出した。それは成功した。
「そうだろ? 若いしな。この高校一番の美人だぜ」
赤髪の先輩が、女子トイレの方を見ながらニヤニヤと笑う。が、突然何かに気付いたように付け足す。
「あ、もちろん、先生の中ではだからな。生徒はまた別だ」
おそらくメロディー先輩へのフォローなのだろう。が、それを航太郎にしても意味がない。本人もそれに気づいたようで、航太郎は睨まれた。とばっちりだ。
また暴力が振るわれるかと警戒したその時、ガラガラと引き戸が開き、女子トイレから日下先生が出てきた。そのまま、航太郎たちの方へと近づいてくる。
「どうでした?」
赤髪の先輩はこれまでは空気が読めない発言ばかりだったが、これは航太郎も興味があったのに聞きづらい内容だった。代表質問として、役に立っている。
「逃げたわね」
日下先生はあっさり言うと、航太郎たちの前で立ち止まる。
「聞かせてくれない? どうして被憑依者は吐いたの?」
視線の先にいたのは航太郎だった。しかし、若葉の行為が非難されるかもしれないと思うと喋る気になれない。だけど、赤髪の先輩は違った。
「こいつのツレが、メロ――天宮さんの首を絞めやがって」
「首を?」
また納得していない顔だった。赤髪の先輩は、具体例を示した方がいいと、航太郎の後ろからスリーパーホールドを掛けてくる。
「こんな感じです」
本気を出してないつもりかもしれないが、十分苦しかった。思わず咳き込む。
日下先生は航太郎たちから視線を外して、考え始めたが、航太郎がなおも咳き込むと、剣を動かし、赤髪の先輩の腕を軽く叩いた。その速さにぎょっとしたように、赤髪の先輩は手を離すと後退る。
「その首を絞めた生徒はどこに?」
「保健室です」
今度はあまり驚きがなかったようだ。また少し考え込む表情をしてから、聞いてくる。
「その子は何者?」
航太郎の背中をヒヤリとしたものが伝わり降りる。一ヶ月前なら何のためらいもなく、それどころか怒りをもって対抗できた。だが、入学前に航太郎は若葉から聞いてしまっていた。だから、無垢に知らない振りはできなかった。日下先生が、知りたいのは今回の事件に関しての情報だ。若葉が見せた行動力の根っこに、あの事が関わっている可能性は高い。若葉本人も、話してくれた際に秘密にするように言っていなかった。だったら、この場で聞かれた以上話すのが筋だ。
しかし、航太郎は話したくなかった。まず航太郎があの事実を改めて直視したくなかった。そして何より、あの事を話してしまえば世間が若葉を見る目が決定的に変わってしまうのが怖かった。日下先生だけになら、守秘義務を押しつけることで話せるのかもしれない。だが、航太郎は信用できなかった。あんな話をされて、秘密として一人で抱え続けるなんて普通できないからだ。
「何、ボーッとしてんだよ」
赤髪の先輩が後ろから頭を叩いてきた。そのまま、航太郎の代わりに答える。
「鼻まで届くおかっぱ頭で、ひょろひょろとした気持ち悪い奴です」
普段は若葉の悪口ばかり腹が立つが、今はあの事を話すのに比べれば全然気にならない。
「ほら!」
今度は肘で背中を突いてきた。痛いが、この程度の痛みではあの秘密は転がり出ない。
「見かけは変ですが、別に特別な力などない普通の男子です」
嘘は言っていない。だから、航太郎は日下先生を見て言ったが、ずっと視線を受け続けられなかった。顔を落とした所でまた、後ろから小突かれる。
「名前くらい言えよ」
それくらいなら問題ない。
「領内若葉くんです」
日下先生の視線が外れた。木の剣がくるりと回ると、先生の首をトントンと叩く。やはりまた何かを考えているようだ。
航太郎はじっとりと汗ばんでくる。これ以上踏み込まれると逃げづらい。
が、とどめの一言は降ってこなかった。日下先生は木の剣を白衣の左袖にしまった。長いので肘は必然的に伸びる。剣の柄部分は逆手に左で握る。一見、剣など持っているように見えないので物騒さは消えた。
「キミ、クラスと名前は?」
「一年四組の鷹森です」
日下先生が小さく頷く。
「何かあればまた話を聞くかもしれない。今はもういいわ」
「あっ、俺は――」
赤髪の先輩が口を開いたが、すぐに撃ち落とされる。
「あなたはいいわ」
日下先生の口調に興味のなさがありありと現れていた。先輩は大きな舌打ちとともに航太郎の背中を突き飛ばした。結果、航太郎は日下先生へぶつかりそうになる。
日下先生は移動し始めていたので、ほとんど背を向けていた。が、航太郎がぶつかる直前身を翻す。白衣がフワッと広がるのが見えて、気がつくと航太郎の動きは止まっていた。日下先生の右手が航太郎の胸の中央やや低い位置に置かれていた。
「どうしたの?」
間近で聞く日下先生の声は意外に優しかった。急に恥ずかしくなった航太郎は、気を付けの姿勢をとってしまう。
「いえ、なんでもありません。つまづいただけです」
「そう」
日下先生の手がそっと離れた。階段の方へ向かいながら、周りの生徒に告げる。
「もう問題ありませんが、今日一日はこのトイレを使わないように」
ようやく廊下に残っていた生徒たちも動き出し、その動きに紛れるように、航太郎もその場を離れた。
教室に戻ると、若葉はもう自分の席に着いていた。クラスメイトの視線が航太郎へ集中する。その眼差しは、露骨に、興味の輝きを放っていた。
後で話をせがまれるんだろうなぁ。
しかし、航太郎は騒動から背中を向けていたので、語ることは余りない。もちろんクラスメイトはそんな事など知らない。授業中もチラチラと何人もがこちらを見てくる。
むしろ中心にいたのは、若葉だ。が、そちらに興味深い目を向ける者はいなかった。考えてみれば、ケロリとした顔で早めに帰ってきた者より、何やら疲れた顔で遅く帰ってきた者の方が、事件に関わっていると考えるのが普通だ。
仕方ないか。航太郎は覚悟を決めると、いかに若葉を巻き込まないよう話をすれば良いかを考える。もちろん、古文の授業の方はさっぱり頭に入らなかった。