04 屋上(義継)
見渡す半分が青い空。
義継は屋上にいた。
新入生の義継は、本来なら校内の地図が頭に入っていなかった。だが、職員室へ呼び出された午前中に確認していたので、迷わず行動できた。逃げ回っている最中、さらに陸上部の勧誘が増えた気がしたが、もちろん立ち止まって確かめなかった。
最後は、非常階段を上り、突き当たりの柵を越えて、屋上にたどり着いた。
屋上は汚かった。床一面に土埃が溜まっていた。その土埃は分厚く、ひび割れていた。
スリッパを両手に走り回っていた義継も、さすがにここではスリッパを履くことにした。靴下は既に泥だらけなので、それを脱いで裸足で履く。靴下は、汚れていない面を外に丸めて、尻のポケットに突っ込む。
一面空の屋上は、大の字になって寝ころびたい開放感だった。が、汚いので、学ランを脱ぐだけで我慢する。学ランを掛ける場所もないので、肩に担ぐ。
グラウンドや中庭を見下ろしたい気になるが、それでは逆に下からも見つかることになる。ぐっとこらえて真ん中あたりで立つ。ここなら、義継が入ってきた柵からも死角になっていた。
「しかし、これからどうすっかなぁ」
義継は呟いた。
父親の教えに従ってとりあえず逃げたが、逃げるだけでは根本的な解決にならない問題は多い。今回もそうだ。一応、話題がホットだから追いかけられただけで、そのうち冷めるだろうという見方もできる。が、クラブ勧誘が絡んでくるとそう簡単に飽きられないだろうとも思う。というか、むしろ、勧誘は続くだろう。
だったら、どこかに属した方がいいかな。
そう考えるが、あまり気が進まない。
なら、母ちゃんに相談するか。と考えて、義継は余計に気が重くなった。クラブ活動についてだけを相談できれば問題ないが、つい勧誘が多いと口を滑らせたら、その訳を聞かれるに違いない。そうしたら、桑実先生との手合わせや、校長室への呼び出しまで、ほじくり出されかねない。そこで、母親が怒らない保証はない。というか、怒る可能性の方が高い。そして義継は、自分が口を滑らさない事に自信はなかった。
「悩み事?」
背後から女の声がした。
瞬間、義継は振り向いた。そちらを向いた時には、足を前後に開き、腰を落とし、両腕を構える体勢はできていた。
柵のこちら側にいたのは、クラスの女子だった。義継の後ろの席で、義継の睨みにも動じなかったあの女子だ。あいにく名前は覚えていない。
女子は義継の構えに驚いた様子だった。「キャッ」と小さく声を上げた。
直後に、横でパサッと音がした。義継は自分の学ランが汚れてしまったと気づいたが、目は逸らせなかった。
「な、何よ。別に敵じゃないんだから」
女子は動揺していた。
義継は異常事態だと感じていたが、具体的に何が異常なのかは把握してなかった。少なくとも今は、相手の態度から敵ではないとわかったが、どう接するべきかはわからない。
その時、声がした。はっきりと聞こえないが、義継を探している先輩たちのようだ。
義継は一旦構えを解くと、女子を手招いた。もう一方の手は、静かにする指示として唇に人差し指を当てる。
女子がパタパタと近づいてきた。それを聞いて、義継は異常の一つを認識した。近づくのにあわせて数歩下がる。今の差は四歩ほどだ。
「やっぱりこっちにはいないぞ!」
近くで声がした。下の踊場まで来たらしい。が、すぐに足音が遠ざかっていった。
追跡者は、鍵のかかった柵を乗り越えたとまでは考えなかったようだ。
完全に足音が聞こえなくなるまで、義継は女子を観察した。
身長は百六十後半くらいあるだろうか。女子としては高い。肩まであるウェーブした黒髪が、風にそよいでいる。義継の疑わしい眼差しには、視線を合わせてこなかった。さすがに居心地が悪いのか、スリッパの中で小さく背伸びを繰り返していた。
「お前、何者だ?」
気がつくと義継は相手に対して半身になっていた。そのまま、改めて緩く構え直す。
女子はそんな義継を見て、小さくため息を吐いた。
「御礼千茶、一年B組の同級生でしょ」
みれい、確かに傘波羅はそう言っていた。が、聞きたいのはそういう事じゃない。
「どうやって、ここに入ってきた?」
「どうって、さっきの扉を越えて――」
義継が首を左右に振って発言を遮った。
「違う、もし越えて来たならガチャガチャと音がしたはずだ。もしかして、前もって隠れていたのか?」
屋上にはまともに身を隠せる場所はない。だが、入り口の柵を越えた横側は壁になっている。階段にいる時は壁向こうだから見えないし、入った直後は背後にあたる。確か義継は、振り返らずに屋上の真ん中へ歩いていったから、気配を消されていたら気づかなかっただろう。
「隠れてません。後から来ました」
義継が思いついた可能性を御礼はあっさり否定する。もちろん義継には信じられない。
「どうやって?」
御礼が何か言おうと口を開いたが、途中で止まり、口を閉じてから薄ら笑いを浮かべる。
「さっきの質問、そのままお返しするわ。『あなたも何者?』」
御礼は両手を腰に当て、身体の左右に三角形を二つ作る。
「ただの高校生じゃないわね」
そんな事言われても、答えに困る。義継は、相手も答えに困っていたのかな、と気付いた。
「やっぱり美濃部くん、鬼に出合った事があるんじゃない?」
義継は自分の顔が強ばるのがわかった。
「図星、みたいね」
こうなれば義継は開き直るしかなかった。
「だったら、どうってんだよ!」
「きゃっ!」
突然の怒鳴り声に御礼は驚いて後ずさりした。義継は悪かったなと思ったが、警戒心は弱まらない。
「べ、別に興味本位よ」
御礼は恥ずかしそうに言った。悪意はないようだが、興味本位で覗かれたくない物事はある。
「お前には関係ねえだろ」
今度は怒鳴り声にならないよう注意した。
「そ、そうだけど……」
御礼が視線を落とした。ようやく、普通の女子らしい対応だ。女子と視線が合うのはまれなので、正直やりづらい。と思ったのも束の間、御礼が義継を真っ直ぐ見つめてきた。その目には決意めいた光があった。
「わかった。こっちが聞きたいのに隠しているのもフェアじゃないからね。うん」
頷いて覚悟を決めると御礼は、右手の人差し指を立てて顔の高さへ持ってくる。そして、目を閉じるとぶつぶつと何か呟いた。
ひらひらと何かが漂ってきて、御礼の人差し指に止まった。派手な模様をしたチョウチョだ。
だが、それ以上何も起きない。
「ん?」
何が伝えたかったかわからず、義継は頭を傾げた。それに御礼は淡々とした口調で質問する。
「何が起きた?」
「何がって、チョウチョが止まっただけだろ」
「どう思うの?」
「どうって……」
義継は質問の意図が分からず、口ごもる。御礼の指にチョウチョが止まっただけ、当たり前のことだ。そう思ってから、違和感が湧き上がる。いや、チョウチョが人の指に止まるのは、当たり前ではない!
一度奇妙に思うと、その気持ちが爆発するように大きくなる。
義継はチョウチョがどこから飛んでくるのか見ていた。チョウチョが飛んできたのは、御礼の頭の上からだった。その前は、チョウチョの頭の上に止まっていた。
頭の上にチョウチョを乗せた女子高生。ちっとも当たり前ではない!
義継はぎょっとして、身を引いた。御礼の怪しさより、自分が異常に気づけなかった事が気持ち悪かった。
義継の反応を見てから、御礼は静かに告げる。
「私、術者の修行の身で、だから、鬼に興味があって……」
瞬間、義継の中でつっかえていた謎が解けていく。警戒心は一気にとれた。
「あ、そっか。どうりで」
納得ついでに、丸めた右手を左の手のひらにポンとつく。先ほどの疑わしい気持ちが広がったのとは逆に、今は理解が広がっていく。
チョウチョについて異常と感じなかったのは、術でそう思わされていたからだ。
「そっか。音を立てずに柵を越えてきたのも術を使ったわけだな」
理由がわかると、過剰に警戒していたのがバカらしくなってきた。恥ずかしくもある。義継は鼻の頭を掻いた。
そんな義継を、御礼は驚いた顔で見つめていた。
「うん、そうだけど……美濃部くん、怖くないの?」
言われて初めて、無条件に警戒を解きすぎていたのに気付いた。敵かもしれない、という考えが浮かび、義継は身構える。が、完全に構える前に、その考えが間違っているのに気づき、力を抜く。
「いや、怖くないぜ。だって、俺に悪さするつもりはないだろ? もし、その気だったら、とっくにしているはずだし」
義継は、敢えて言わなかったが、今の間合も安心材料だった。術を使おうとすれば、それが完了する前に義継の拳が届く距離だからだ。もちろん、発動時間が一瞬の術もあるが、それなら最初から抵抗しても無駄だ。
「ま、まあそうだけど……勇敢なのね」
誉められたがピンと来ない義継は軽く流す。
「そうか」
「うん。……」
微妙な間があいてから、御礼が口を開く。
「それで、鬼なんだけど――」
「それについては、パス!」
間があいた時にその質問が繰り返されるのは予想していた。逆に質問で切り返す。
「お前の方はどうなんだよ? 鬼に遭ったことあるのか?」
「わ、私? 私はもちろん遭ったことないわ」
ぶんぶんと左手を左右に振る。その勢いにチョウチョが右手の人差し指からふわりと離れた。ひらひらと舞って御礼の頭に止まる。
一度気になると、明らかに違和感のある姿だ。義継の視線に気づいたのか、御礼は目を閉じるともごもご呟く。チョウチョはふわりと舞って、御礼の頭の後ろに消えた。
義継と目が合った御礼は、義継の興味を理解してくれた。くるりと振り返ると、御礼の後頭部にチョウチョが止まっていた。
「この位置だと髪飾りに見えるでしょ?」
確かに、位置としてはそうだが、チョウチョはチョウチョだ。目立つ。
「少なくとも、他の人はそう見えるはずよ」
「へぇ、面白い術だな。チョウチョも操れるんだな」
「まあ、簡単な指示ならね」
「そういや、そういうやつの話は聞いたことがあるな。なんだっけ?……」名前が出てきそうなのに出てこない。「えーと、チリガミ――」
「式神よ!」
予想外に鋭い指摘が返ってきた。口調だけでなく、御礼の目つきも鋭かった。
思いついた言葉を何気なく出してしまったが、確かにちり紙扱いは失礼だった。
「えーと、ナニガミだっけ」
「し・き・が・み」
「うんうん。何にせよスゴい」
怒りをやり過ごすためテキトーについた相づちだったが、言ってからその内容に驚く。
「っていうか、本当にスゴい事じゃねえか! その歳で術が使えるなんて! いつから使えるようになったんだ?」
「そ、そんなに昔じゃないわよ。わりと最近かな」
最近かあ、と義継は自分の身において考えてみる。格闘技の大会で言えば、大人の大会に出るくらいの実力に当たるだろうか。
「最近って言っても、中三の時だろ? じゃあ、やっぱりスゴい事なんじゃねえか?」
「そ、そうかな? うちではこれが普通というか、むしろ、ちょっと遅いっていうか」
御礼は、横を向いて、自分の髪の裾を指に巻き付けるようにしてもてあそぶ。
「へぇ、そんなもんか」
実際のところ、術者がどんな具合に成長をするものかはあまり知らない。御礼がそう言うならそんなものかと思う。
御礼の態度が変わったが、変わりきる前に、義継は聞き流し掛けていた事に驚いた。
「え、もしかして、家族に術者がいるのか?」
言ってから、当たり前だと気づいた。そうでもなければ、若くして術を覚える機会はないだろう。
「うん、そうだよ。家族全員」
「えっ! 全員!?」
これは義継の予想を超えていた。ただでさえレアな術者が家族全員だなんて、宝くじで大きな等が当たる確率くらいじゃないだろうか。と驚いてから、両親とその娘の三人ならそうでもないかと思い直す。
「家族って、親とかだけか?」
「ううん。両親でしょ、お婆ちゃんにお兄ちゃん」
「ええっ! そんなにも」
やはりかなりレアのようだ。
「というか、お爺ちゃんもそうだったし、たぶんその前の世代も全員術者だと思うよ。従兄弟の筋だと、全員とはいかなくなるけど、私のとこの家系では全員ね」
「すげーな」
驚きを口にしてから、ある可能性に気づく。
「もしかして、有名人?」
御礼は口を横に広げ、笑顔としては微妙な表情をした。
「それなりにね。でも、名前だけ。顔が知られているわけじゃないわ」
「ふーん」
「あ、名前が知られていると言っても、業界内というか、そういうのが興味ある人にだけだから、美濃部くんが知らなくても変ってわけじゃないから」
フォローしてくれたらしい。義継はテキトーに相づちを打っただけで、知らなかった事に対して特に何も思わなかった。今は気を使わせて悪かったなと思う。
「それで、お願いなんだけど……」
義継は眉を寄せた。もう、鬼について聞かれるのはうんざりしていた。
「私が術者って事、内緒にしてくれないかな?」
予想していた内容でなかったので、義継はポカンと口を開けた。
「え……まあ、俺はいいけど、別に隠すことないんじゃないか? むしろ、自慢しても良いくらいの実力じゃねえか。俺が桑実先生を投げた事より、ずっとスゴいじゃん」
今度は御礼が少しずつ驚いた顔をした。それから、微笑む。
「ありがとう。でも、いいの」
本人が良いなら義継がとやかく言う事ではない。きっと御礼は、目つきの印象と違って大人しい女子なのだろう。
「じゃあ、俺もいいか? もう鬼について質問はなしだ」
「うん、わかった。約束する。考えてみたら、話を聞いた所であんまり参考にならないだろうし」
それを聞いて義継は真剣な表情にさせられる。この変化を御礼は、不機嫌になったと受け取った。
「あ、ごめんなさい。そういうつもりで言ったんじゃないの」
「ああ、分かってる。俺も怒ったわけじゃなくて、なんつーか……御礼も強くなろうとしての努力だったんだな、と今わかった。それなら、気持ちは分かる」
「うん、そうだね。私も深く考えてはいなかったんだけど」
「それだけ、強くなろうって考えが染み着いてるって事じゃねえか?」
御礼がふふと笑った。今までの笑顔と比べて素直な笑みだった。
「そうかな? そうだったらいいな」
釣られて義継も微笑み、御礼と目が合った。言葉がないまま数秒間見つめ合うと、途端に気まずくなる。
その時、チャイムが鳴った。スピーカーが近いのか、いつもより音が大きい。
「やべっ、遅刻しちまう」
言葉とは裏腹に義継は慌ててなかった。間に合わなかったなら、今更慌てても無駄だ。だから、ヤバいと言ったのもチャイムが鳴り終わるのを待ってからだ。
意外な事に、御礼も慌てていなかった。一見優等生タイプかと思っていたが、術者だからか落ち着いている。と判断したのは、義継の早とちりだった。
「今のは予鈴だから、まだ間に合うよ」
そう言えば、昨日も末伴にそのような事を言われていた。昼休みの後は、すぐに授業開始のチャイムではないのだ。
「そっか。じゃあ、間に合ううちに戻るか」
入ってきた柵を乗り越えようと歩き始めたが、ふとある事に思い当たる。
「そういや、音を立てずに越えたんだろ? どうやったか見せてくれよ」
御礼は少し考えてから、左右に首を振った。
義継は気にするなと、片手を挙げた。術は気軽に他人に見せられないとか、理由があるのだろう。
「ごめんなさい。私は未熟だから、立て続けに使えないの」
「そっか。じゃあ原始的に乗り越えるしかないな」
義継がニンマリ笑うと、御礼も恥ずかしそうに笑う。柵に手を掛けたところで、義継は騎士道についての教えを思い出す。
「あ、だったら、先に行けよ。バランス崩しそうになったら、こっちに倒れてきてくれたら、支えられるぜ」
御礼は驚いた顔をしたが、また左右に首を振る。
「ありがとう。でも、後で独りで行くから、先に行っておいて」
「遠慮すんな、って。確かに御礼は女子としては大きいけど、俺も力がある方だから、受け止められるって」
気をつかったつもりだったが、裏目に出た。
御礼は顔を赤くすると、頬を膨らませる。
「そんなんじゃないの! 邪魔になるから、先に行って!」
邪魔だと言われるとさすがに腹が立つ。
「何だよ。せっかく手助けしようと思ったのによ」
「だから、ありがとうって言ったでしょ」
「礼を言う口調じゃないよな」
御礼に睨まれて、義継も睨んでいる自分に気づいた。反射的に目を反らす。一睨みで泣かした女子は数え切れない。目を反らしてから、御礼は例外かも、と思ったが、また睨みつけるほど腹を立てているわけでもない。義継は柵に向き直る。
「私、スカートでしょ」
ためらいがちに御礼に声を掛けられて、義継は振り向いた。
「ああ」
義継は、御礼が何を言いたいかわからなかった。黙っていると、御礼はうつむいたまま理由を説明し出す。
「だから、その扉を越えようと登った時、風で舞い上がったり、引っかかったりするかもしれないから……」
ここまで言われて、ようやく義継も理解した。スカートの下のパンツが見えるのが嫌だったわけだ。それなのに重ねて上れと言った自分は、パンツを見せろと言っていたのと同じだ。
「あ! すまん」
今度は義継が赤くなった。慌てて柵をつかむと、勢いよくそれを上る。そこで一気に飛び降りると、教室まで逃げるように駆け出した。