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妖霧の卵  作者: 最勝寺 蔵人
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03 食堂(義継)

「おい、俺たちの英雄様だぜ!」

 教室の自分の席でうつらうつらしかけていた義継(よしつぐ)は、その声ではっとした。

 ほとんど走るようにして教室に入ってきたのは傘波羅(かさはら)だ。その後ろをゾロゾロと男子が続く。それぞれが、自分の席に荷物を置いてすぐ、義継の元へと集まってくる。たちまち義継は男子に囲まれた。

美濃部みのべはむちゃくちゃ強かったんだな!」「格闘技、何をやってたんだ?」「あの技はプロレスだよな?」「職員室で何を言われたんだ?」

 次々と投げかけられる質問に答える暇などない。

「静粛に!」ダンダンと義継の前の席の机面をたたいたのは、その席の主の末伴(まつとも)だ。「質問は一つずつ受けつけます」

 くりくり頭に小さい丸メガネ。体も顔も小さい末伴がにこりと笑う。いかにもかわいらしい少年といった見かけだが、中身がそうでもないのは、話した初日から明らかになっている。

「はい、はい、議長!」

 傘波羅が手を挙げる。前髪を上げて広いおでこを出している傘波羅は、義継の隣の席だ。初日から馴れ馴れしく話しかけてきて少し驚いたが、おかげで悪い奴ではないことがすぐわかった。

「はい、傘波羅くん」

「えーと、…何聞こうかな」

 末伴がガクリと傾く。末伴が体勢を立て直す間に、傘波羅は周りの男子の顔を見回し、誰かの質問を拾い直した。

「何であんなに強いんだ?」

「いや、強いっていうか…」

 義継は答えに困った。自分が強いという自覚はない。もちろん、格闘技をやっていない連中に比べれば強いが、少なくとも桑実(くわみ)先生より強いとは言えないだろう。今回勝ったのは、分の悪いクジで当たりをうまく引けただけだ。

 が、この感覚を格闘技経験がない連中に言ったところで理解してくれるかは難しい。まして義継は説明下手だ。

「じゃあ、何か、桑実の方が弱かっただけ、って事か?」

 早速、傘波羅が違った解釈をする。

「ひゅーひゅー、言うねぇ」

 末伴がチャカし、周りが「おぉ」と湧く。義継は慌てて否定する。

「いや、違う! 勝てたのはまぐれ。運が良かっただけ」

 周りの興奮が少し冷めかけると、末伴がマイクを持った仕草で話す。

「さすがは我らの英雄! 謙遜しています!」

 今度は違った感じの「おぉ」という歓声が上がり、拍手が起きる。

「いや、そんなんじゃなくて、マジで。先生の油断を突いたってとこもあるし、実力で言えば――」

「いや、それを含めての実力だろ?」

 傘波羅が遮る。義継は黙った。確かに、指摘は鋭い。そもそも実力とは何なのか、義継が考え始めると、末伴が、両肘を義継の机の上につき、花のように開いた両手に自分のあごを乗せて小首を傾ける。

「で、職員室の呼び出しは? やっぱり始業式から一週間経たずの退学処分?」

 かわいらしい態度でさらりと口にしたのは、大変な事態についてだった。思わず、義継は椅子の音を立てるほど身を引いた。

 周りの者もぎょっとして息をむ。

 止まった空気を破ったのは傘波羅だった。

「ギャハハ、それは面白いな!」

 笑いながら、義継の肩をたたく。義継はそれを振り払う。

「笑い事じゃないだろ。そんなんじゃなかったから良かったけどよ」

 言いながら最後は、義継も笑ってしまった。そこで雰囲気はたちまち元に戻った。

「で?」

 周囲を凍りつかせた事に悪びれた様子もなく、末伴が逆の角度に首を傾けた。

「ああ、あれは職員室に行ったら、校長室に行くようにって言われた」

「校長室?」

 予想外の答えに傘波羅が驚く。その表情に心配も見えたので、義継は笑顔で右手を左右に振る。

「いや、そんな危ない話じゃなくて――」

 その時、席の列の合間に立っていた男子たちが動いた。誰かが来て道を空けたのだ。隙間から現れたのは、背の高い女子。名前は覚えてないが、義継の後ろの席に座っているのは知っている。この女子はクスクスと笑っていた。どうも、やりとりを聞いていたらしい。

「あ、そこも空けて」傘波羅もこの女子の席を知っていた。「どうぞ、どうぞ、御礼(みれい)さん」

 席だけでなく、名前も知っていた。

 そう言えばそうだ。男子しか居ない時に、傘波羅はその女子を既にクラストップクラスの美女だ、と判定していた。確かに、スタイルは良いと義継も思う。ただ、顔に関しては、整ってはいるがややつり目できつい印象があるので、積極的に同意するほどではない。しかし、クラストップクラスという点については同意だ。なんせ、このクラスには女子が十人くらいいないのだから。

 傘波羅が勧めたのに、御礼は歩き出さなかった。じっと義継を見つめてくる。

 義継は居心地が悪くなってきた。そもそも、女子と見つめ合う経験などほとんどない。何か違和感があったが、それが何かを確かめる前に、義継が目を反らした。すると、御礼が話しかけてきた。

「私も、質問いいかな?」

「いいよー」

 義継本人の意思確認をせずに、末伴が気楽に答えた。

「もしかして、美濃部君は鬼に遭った事あるのかな?」

 さりげない調子の言葉だったが、義継の心臓に刺さった。思わず、御礼を見上げる。

 御礼は、義継の視線を受け止めた。口元は笑みをたたえたままだったが、その目には笑いと違う何かの光があった。そこで、ふいに、義継は先程の違和感の正体に気付いた。

 この女、俺を怖がっていない。

 これまで同級生の女子は義継と目を合わせようとしなかった。それは仕方ないと思う。自分でも怖い顔つきだと知っているから、むしろ、当たり前だ。その当たり前の事が御礼には起きていなかった。

 ……もしかして、こいつ知っているのか?

 義継が背中にヒヤリとしたものを感じた時、パコーンと軽い音を立てて義継の頭が(はた)かれた。

「いってぇ」

 反射的にそう言うと、はたいてきた相手を見る。傘波羅だ。

「おい、美濃部。何、御礼さんをにらみつけてんだよ」

 傘波羅の目は本気だった。怒りの程度は大きくないが、ふざけて怒ったふりをしているのではない。そうわかると、義継もハッとさせられた。

 確かに、一方的な思い込みでにらみつけていた。普通の女子だったら、泣いていたかもしれない事態だった。ちらりと見上げると、御礼は口元を片手で押さえて心配そうな顔をしていた。たぶん、気持ちよい音が出たくらいはたかれた事を心配しているのだろう。その様子を見ると、先ほど感じた威圧感めいたものが勘違いだった気もする。

 反射的に痛いと言ってしまったが、頭の方はそれほど痛い訳ではなかった。

 周りの男子が固まっているのにも気付いた。どうやら、頭をはたかれた事でキレるかも、と心配しているのだろう。

 見方を変えて考えれば、傘波羅は義継が暴れてしまう事を予想してなかったのだろうか? ……この程度で義継がキレないと信頼してくれたのかもしれないし、それ以前に、可愛い女子がにらまれているのが我慢できないくらい、女子に優しいのかもしれない。

 いずれにしても、義継が改めて怒りを爆発させる理由にはならなかった。

「悪かったな。生まれつき目つきが悪いもんでね」

「そうだよ、傘波羅。美濃部はたんに御礼さんに見惚みとれていただけだよね?」

 フォローしてくれると思った矢先に、末伴が恐ろしい疑いを被せてくる。

「ち、違うに決まってんだろ!」

「またまたー、照れちゃってぇ」

「ホントだホントだ。他にじっと見続ける理由ないもんな」

 末伴と傘波羅の連係攻撃に義継がタジタジになっていると、御礼がクスクス笑い始めた。この笑いはすぐ周囲の男子に伝染し、張りつめていた空気が和らぐ。それから御礼は歩き出し、自分の席に座った。

 質問に答えなかった事は改めて問われなかった。視線こそ追わなかったが、義継は御礼の事が気になって仕方なかった。見ていないのに御礼が自分の席に座ったのがわかったのは、聞き耳を立てていたからだ。

「で、校長室の退学事件の話、続きはどうなったの?」

 末伴につつかれて、義継は我に返った。

「だから、退学になってないって!」

 周りの男子が笑った。

「それよか、校長先生ってすげーいい人でさー」

 話し始めると、御礼の事は気にならなくなった。


 が、休み時間が終わり、授業が始まると、再び御礼の事が気になった。

 あの夜の事を知っている者は確かにいる。御礼が、関係者の娘であれば、事件について知っていてもおかしくない。だけど、そのいわば関係者の一員であれば、ここでほじくり返してくるはずはない。そもそも、あの事について知っていたとして、義継について脅しめいた事を仕掛けてくる理由もわからない。義継はお金持ちの坊ちゃんではない。絞り上げたところで出る物はない。

 ……狙いがわからない。

 そう、ぐるぐる考え続ける義継は、当然ながら、いつも以上に数学の授業が頭に入っていなかった。


 昼休み。

「じゃあ、俺はパンでも買ってくるかな」

 傘波羅が席を立つと、弁当箱の包みを取り出した末伴が「いってらっしゃい」と送り出す。

 義継は少し考えてから、傘波羅を呼び止める。

「ちょっと待った。俺も行く」

 義継が立ち上がると、末伴が驚く。

「あれ? 美濃部はお弁当組じゃなかったんだ」

「いや、そうなんだけど…」義継は笑われるのがわかっていてためらったが、正直に打ち明ける。「校長室から帰った後、食べちまった」

「えー、早弁!?」

 末伴の叫びに、クラス中の視線が集まる。義継は決まり悪くて鼻の頭をいた。

「まあ、そうなるかな」

「ハッハッハ、それは美濃部らしいな」

 教室をほとんど出ていた傘波羅が戻ってきて、義継の肩をたたいた。

 義継は、校長先生の指示どおり自習をしなかった。どうにもやる気が起こらなかったからだ。代わりに、暇つぶしを兼ねてと思いついたのが、お弁当だった。最初は半分で済ませて、残りの半分を昼休みに食べるつもりだったが、食べ始めたら途中で止まれなかった。傘波羅たちには、ここまで詳しく説明するつもりはない。

「美濃部も来るんなら、パンにせずに、二人で食堂で何か食べるか?」

「えー、だったら、僕も行くよ」

 口をとがらせながら、末伴がお弁当と水筒をまとめて持って立ち上がった。


 食堂は人であふれていた。

「えー、これじゃあ、正規の利用者じゃない僕は気が引けるなぁ」

 義継たちには厳しい言葉を投げかけてくるわりに、末伴が意外にマナーにこだわった発言をする。

「気にすんなって。ほら、あそこじゃ、四人集まって弁当食ってるじゃん」

 傘波羅が指差した先には、女子が四人固まって座っていた。

「あれは三年生でしょ? 僕みたいな新入生がそんな態度でかいふりなんかできないよ」

 今度は、意外に気の小さい発言。

「でも、三年生にもなってみんなの迷惑を考えないのもどうかと思うよね」

 声を小さくすることなく、堂々と非難する姿は末伴らしい。義継は微笑んだ。

「おい、聞こえたらどうするんだよ」

 食券を買う列に並びながら、傘波羅が肩をすくめた。

「大丈夫、聞こえないよ」

 確かに、義継たち同様に仲間内で話している生徒がいる食堂は騒がしくて、離れたところの会話は聞こえない。

「でも、俺たちの周りにあの人たちの知り合いがいるかもしれないだろ!」

「あっ、そっか」今、気付いたようだったが、末伴の態度に焦りはなかった。「でも、なんかあったら、僕らには、学内最強の人間兵器の美濃部が居るからね」

「そういや、そうか」

「おいおい、勝手に人のこと、バケモノみたいに扱うのは止めろよ」

「いいじゃんか、本当のことだからさ」

 傘波羅が義継の肩をたたく。

「女子供にも手加減しないから適役だね」

 末伴が勝手にレッテルを貼り付けてくる。抗議する間もなく、傘波羅が笑い出し、末伴も続いた。もちろん、それらが冗談とわかっている義継も笑った。

 そうこうして、話しながら列が進むのを待っていると、末伴が最初に気付いた。

「いやぁ、いずれそうなるとわかってたけど、予想より早かったね。やっぱりうわさが広まるのって早いんだね」

 これまでと関係のない話に、義継は呆気あっけにとられた。傘波羅は義継よりポカンとしてなかったが、わからない点では同じらしく、首を傾げる。

「ん、何の話だ?」

「美濃部の事。周りからひそひそとその話題が聞こえてくるね。ちらちら見られているし」

 言われてみれば、視線を感じる。義継がそちらを見ると、目が合った男子が慌てて視線を逸らした。

 残念ながら、義継はこの感覚に慣れていた。そう言えば、職員室に呼ばれるような事件を起こした後は、毎度こういう風に扱われていたと思い出す。改めて振り返ると、ちらちら見られているのも、わかっていた。わかっていたが、気にならなかったのだ。それだけ、こんな扱いに慣れていた自分に驚かされるというか、がっかりさせられる。

「おぉ、一躍、時の人か」

 他人事だと表情に出して、傘波羅がヒヒヒと笑う。

「ったく、冗談じゃないぜ」

 ボヤいたのは、この扱いをされたからではない。うわさが大きくなって、母親の耳に入る事が怖かったからだ。中学時代なら、生徒の親を通じて、確実に母親に知られていた。今のところ、身近に同じ三徳高校の生徒はいないが、世の中どこで人が繋がっているかわからない。

「ふーん、これが高校デビューってやつか」

「一般的な高校デビューとはちと違うが、言葉の意味だけ捉えると間違いじゃあないな」

 末伴と傘波羅がテキトーな事を言った。義継は肩をすくめると、周りの目を無視することに決めた。今後、恐れられる存在になってしまうのは避けられないが、過敏に扱われるのは今だけだ。少なくともこれまでは、そうだった。

 が、ほどなく、これまでと違う事態が起きる。

「お前か、桑実先生を投げ飛ばしたという一年生は」

 食券を買う列に並んでいる義継に向かって、人ごみをかき分けてきた、ずんぐりとした男子に声を掛けられた。鼻が低く広がっているその男子の襟章は白だった。義継たち一年生は赤なので、二年生か三年生になる。白がどちらに相当するのかは何度か聞いていたが、義継は覚えていなかったのでわからない。変わりに、左耳が潰れかけているのが目に入り、理解する。おそらく、柔道の有段者だ。

「何すか?」

 傘波羅たちが驚いている間に、義継が答えた。

「お前が本当に桑実先生を投げ飛ばしたのか?」

 同じ問いをしながら詰め寄るその男子からは明らかに敵意が発せられていた。よくわからない表情をしながらも、傘波羅が不穏な空気を感じたらしく、さりげなく間に入ってこようとするが、義継は片手でそれを抑えた。本気を出されたら、傘波羅では止められないだろう。

「もし、そうだったら、何かあるんすか?」

 義継は敵意などなかった。だけど、へりくだるつもりもない。

「もしそうなら、俺たち柔道部の顧問だからな。それなりのお礼はしないといけない」

「ありゃりゃ、これはまずいやつじゃない?」

 言葉の割に、末伴の声に慌てた様子はない。

「先輩、落ち着いてくださいよー。この場で暴力は~」

 傘波羅が薄ら笑いをしてなだめに入ったが、にらまれた。

「暴力? だったら、試合ならいいだろう!」

 発言の途中で、にらむ相手は義継に変わった。

「空いたから詰めてくよー」

 またも緊張感のない声で末伴が言い、義継の袖を引っ張った。それに促されて、義継も歩くと、柔道部の先輩も並行して歩いてくる。

 この様子に気づいたのか、別の二人の男子が近づいてきた。柔道部の先輩と目配せして、挨拶した様子から、おそらく柔道部の後輩だろう。ということは、目の前の方が三年生で、近づいてきている二人は二年生。その二人が近づいてくる前に、それより近くにいた別の背の高い男子が、加わってくる。

「おお、小山こやま、そいつがウワサの新入生か?」

 小山と呼ばれた柔道部の先輩は、短く「ああ」と返事した時だけ、そちらへ視線を向け、すぐに義継へ視線を戻す。

「へぇ、君がねぇ。……柔道部じゃなくて、ラグビー部に入らないか?」

 義継は、言われた事がすぐわからなかった。改めて頭の中で、言われた言葉を繰り返して、クラブ勧誘されたと理解する。

佐伯さえき、今そういう話じゃないんだよ」

「何だよ、別にいいだろ。有能な新人を逃すわけには行かねえんだから」

 義継の周りの他の人たちは、距離を空け始めていた。義継は、券売機までの距離をちらりと確認してから、ため息をつく。あと三分あれば買えただろうに、と。いや、買えたところで、食べる余裕はなさそうだ。

「なんか、掛かりそうだから、構わず行ってくれ」

 列から一歩はみ出すと、手振りを添えて、傘波羅たちを促す。

「あ、僕は付き添っていただけだから関係ないよ」

 末伴が、同じく列から外れて義継の隣へ並んだ。

「だったら、俺も――」

 傘波羅も続こうとしたが、末伴が手を左右に振る。

「いや、傘波羅は並んでおいてよ。ついでに美濃部の分も買ってあげてよ」

「それもそうだな。美濃部、何が欲しい?」

 何を食べるか考えていなかった義継は黙る。何でもいいが、それ以前に昼飯のことを気にできる事態じゃない気もする。

「美濃部だから何でも食うよ」

 数秒黙っただけだったが、その間に末伴が勝手に進めてしまった。まあ、間違いではない。

 先輩たちは、クラブ勧誘についてめていた。いつの間にか、柔道部の先輩は義継を部に勧誘すると方針が変わっていた。

「おい、待てよ。サッカー部も新人獲得に参入するぞ」

 近くの長テーブルで食事をしていた男子が手を挙げて立ち上がった。遅れて周りの男子生徒もバラバラと立ち上がる。どうやらクラブ員で集まって食事していたらしい。

「あぁ、落札制度にしてくれたら、すごく楽しそうなのに」

 末伴がぼそりとつぶやいた。

「で、お前はどこに入りたいんだよ?」

 突然ラグビー部の先輩に振られ、義継は答えに困る。

 中学時代は帰宅部だった。さっさと帰って、父親に稽古をつけてもらいたかったからだ。だが、今はそれもできない。父親が仕事でいない時のように自主練ができないわけではないが、あれはやはり父親が居ない時のつなぎぎでしかなかった。今後自主練を続けたところで、どれだけ伸びるかと考えれば、ほとんど延びない気がする。だからといって、高校の部活動が、自主練を上回る気もしなかった。

 答えられないでいると、柔道部の先輩が別の質問をする。

「一年生、名前は?」

 これなら答えられる。が、言い間違わないように、義継は一度頭の中で確かめてから答える。

「美濃部です」

「美濃部、柔道部にしておけ。まぐれとは言え、桑実先生を投げたなら、お前には才能がある。それを磨くんだ」

「待てって。アスリートなら、サッカー部だって必要だよ。えーと、美濃部くんだっけ? サッカー部も楽しいぞ」

 テーブルに食べている途中の食事を残したまま、ついにサッカー部の代表者まで、近くにやって来た。

「あ、あれは別のクラブも増援を呼びに行ったのかな? モテモテだねぇ」

 末伴が見た先には、慌てて食堂を出て行く二名の女子がいた。義継の近くにいた先輩たちもそちらを振り返る。

 その時、義継は今こそが行動の時だとピンと来た。父親に、稽古をつけてもらうようになって、始めに教わった事だ。

 義継は先輩たちを見回してから、意味ありげにうなずく。その後、ふらっと人ごみの中へ入り、かき分けて進む。見えてなくても、背後で先輩たちが呆気あっけにとられて行動停止しているのが、感じ取れた。

「あ、逃げた」

 末伴の冷静な声で我に返ったのか、突然先輩たちの声が爆発する。

「待て、美濃部っ!」

「話はまだ終わってないぞ」

「せめてどこにするかくらい言え!」

 義継はそれらの呼び掛けに答えることなく、食堂を出ると、スリッパを脱いで手に持ち、ダッシュを開始した。


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