02 校長室(義継)
職員室の場所は知らなかった。義継は、一旦正門の方へ出てから目の前の建物の来客用入口に入り、壁に描かれた見取り図を確認する。
職員室はこの棟の二階にあった。上がろうとしたところで靴について考えさせられる。本学の生徒なのに変だが、来客用スリッパを使うのが無難だろう。自分の上履きに履き替えるには更衣室へ行かなくてはいけない。「今すぐ」と呼ばれた以上、時間をかけるのは良くない。
職員室に着くと、白衣の若い女の先生が対応してくれた。が、義継を頭の先から足のつま先までじろりと見た後、「着替えてから校長室へ行きなさい」と冷たく言い、すぐに奥へ引っ込んで行った。
少し呆然とさせられながら、職員室を出た後で、義継は事態が良くない方へ動いていると感じ始めた。
これまで職員室に呼び出された事は数え切れないほどあった。でも校長室はほとんどない。小学校と中学校でそれぞれ一回きりだったんじゃないだろうか。その時、親も呼ばれた。
義継は思わず身震いした。職員室に呼び出された後で、親にも連絡が行くに違いないと覚悟はしていたが、もしかしたら今、母親も呼び出されている最中かもしれないと思ったからだ。それなら身なりを整えるように言われるのもわかる。
職員室の隣に校長室があったが、先に着替えろと言われたら仕方ない。義継は運動靴に履き替え、更衣室へ向かう。
母親が来るという事態は義継にとって深刻だった。
しかし母親が来るには早くても一時間は掛かるだろう。その間、じっと待たなくてはならない。かなりきつい時間だ。
でも、親が呼ばれるほどの事をしたのだろうか。自問して、そうかもしれないと気づかされる。
表面上、教師に暴力を働いたのだ。あの状況で、桑実先生がSOSを出せるわけがないから、教師の誰かが気づいて放送をかけたのだろう。だから、本当は、売られた喧嘩を買っただけ、とわかってないはずだ。
言い訳の糸口を見つけた気がしたが、義継はすぐに自分で首を左右に振る。考えてみれば、これまで職員室に呼ばれた理由のほとんどが、売られた喧嘩を買った、と言えるものだった。教師という人種には、これが正当な理由として認められていないのは知っている。
むしろ、この理由は親の方が理解してくれた。呼び出された親は関係者に頭を下げてくれたが、帰ってから改めて叱られる事はほとんどなかった。
だったら、今回も親には怒られないかな、と考えたが、あまり期待はできなかった。父親なら問題ないだろうが、母親であれば相手が教員という点を問題と捉えるかもしれない。
せめて会う前に、母親と話をさせてくれたら弁解、というか説明ができる。そうしたら、怒りは最小限に抑えられるだろう。
だが、このままの流れでは、校長室で母親が来るまで待つことになりそうだ。それは良くない。
とはいえ、対策は思い浮かばない。義継は、腕っぷしにはいくらか自信があったが、口を使った攻防には、自分が下手であるという否定的な自信しかない。
しかし、口とはいえ、戦うからには勝ちを目指してやり合うつもりだった。少なくとも、こちらには正当な理由がある。それが理由として認めてくれないのが問題なのだが。
着替えを済ませた義継は胸を張って、校長室のドアをノックした。
「どうぞ」と中から声がし、義継は「失礼します」と言ってから扉を開く。
校長室は、普通の印象だった。広さは教室の半分くらいだろうか。個人の部屋として考えれば広いが、驚くほど広いわけではない。ぱっと見て頭に浮かんだのは、応接室という印象だった。
義継の前に三人掛けのソファーが向かい合わせに伸びており、間には低いテーブルが置かれていた。テーブルの短い方の辺には、一人掛けのソファーが向かい合っている。うちの一つは、義継に背を向ける形になっていた。
「美濃部義継です」
ノックする前に何度か頭の中で繰り返していたので、間違えることはなかった。
部屋の奥、横に大きく広がっている机に座っていた背広姿の男の人が頷く。他に人がいないので、この人が校長先生だろう。髪全体を後ろに撫でつけ、大きな四角いレンズのメガネをかけている。年齢はわからない。これは校長先生が年齢不詳の容姿をしているからではなく、単に義継の能力の問題だ。
入学式などで何度も見たはずなのに、義継には見覚えがあまりなかった。もちろん興味がなかったからだ。改めて見ると、どことなくカバに似ているなと思った。
「どうぞ、掛けなさい」
少しモゴモゴした発音で言うと、校長先生は片手で義継にソファーを示した。警戒している義継は、敢えて流れに逆らう。
「いえ、結構です。立ったままで大丈夫です」
校長先生の動きが止まった。表情は逆光でよく見えない。
校長先生の背後の窓は半分ほど厚いカーテンが締められていたが、残りの半分からは外の明かりが入ってくる。部屋には明かりが点いていないので、校長先生の顔のように、部屋全体は明るい割に逆に薄暗いところが際だっていた。
「まあ、それでよいなら構いません。疲れたらいつでも座ってくれてもいいですし。ただ、老人は座ったままで許してください」
校長先生が、身をよじり、椅子がギシギシ鳴った。
その様子を見て、義継は、校長先生が結構年を食っているかもしれないと思った。髪は白くないが染めているかもしれない。
今の校長先生の頭の高さは、座っているので当然義継より低い。義継は、自分が勧められたらソファーを見て、改めて座らなくて良かったと思った。座っていたら、椅子とソファーの高さの違いから、義継が見下ろされる関係になっていた。それだと話す前から押さえ込まれている気分にさせられていただろう。
「しかし、美濃部君、君は強いんだねぇ」
校長先生がのんびりとした口調で語りかけてきた。
「ここから、授業の様子を見させてもらっていたんだが――」言いながら、校長先生は、手で示す。書類だらけの机の上に、双眼鏡が置かれていた。「まさか、あの桑実先生に勝ってしまうとはねぇ」
そこで校長先生はガハハと笑った。
説教が始まりそうな雰囲気ではなかったが、いやだからこそ余計に、義継は気を引き締める。油断させてこちらのゲンチを取ったところで、押さえ込みに掛かってくるかもしれない。
「俺が強いんじゃないです。先生が、弱いんです」
「ほぅ」
校長先生がのけぞって、椅子がギシリと音を立てた。
「確かにそういう見方もできるね。試験じゃないから、点数評価ができない。そうなると、比較評価になるから、勝った側と負けた側で表現は変わってくる」
校長先生が自分の発言に連続して頷いている間に、義継は攻めを開始する。口論が下手だと自覚しているからこそ、一応攻め手を考えていた。
「桑実先生は、教官に向いていないと思います」
「ほぅ」
校長先生の口から出た言葉は先ほどと同じだったが、態度は違った。両手を机の上で組み合わせると、身を乗り出してくる。
「それは何故かね?」
「弱いからです」
義継は断言した。教師に暴力を振るうとは何事か、と叱られる前に、別の議論に持ち込む。これが義継の策だった。桑実先生を押さえ込んだという結果を出したからこそ、この説には説得力があるはずだ。
しかし、校長先生は穏やかな笑みを浮かべた。
「なるほど。ですが、私は、そうは思いませんね」
そうだろうとも、義継は心の中で頷く。ここで義継の主張が通ればたちまち勝ちだ。そうすんなり行くとは思っていない。
「はたして、指導者に実力は必要かな? 美濃部君は、指導員が指導される者より強くないといけないと、そう思っているのだね」
今度は、心の中でだけでなく、義継ははっきり頷く。脳裏に浮かぶのは父の姿だ。
「なるほど、なるほど。私は、美濃部君に比べれば、格闘技の『か』の文字も知らないくらいの素人だが、おそらく、この内容において正しいのは私だ」
校長先生が机の向こう側から義継を見つめる。目が慣れてきた義継は、校長先生の目に自信の光があるのがわかった。受けて立とうと、義継が小さく頷く。
「では、問おう。ボクシングチャンピオンのトレーナーは、チャンピオンより強いかな?」
ハッとさせられた。義継は、あっさりと自分が負けたのを認めざるを得なかった。しかし、ショックから答えられないでいると、続けて問われる。
「逆に、ボクシングのチャンピオンはみんな優れたトレーナーになっているのかね?」
「……いいえ」
二番目の問いについては、正確には知らない。元チャンプが新しいチャンピオンを育てているという話はなくはない。が、それが注目を集めることがあるという現状から、現場でそんな例が当たり前といえるほど多くないと予想できる。
「教える、というのはまた別の才能だ。むしろ、元からできる天才にはできない者の気持ちが分からない。そういう意味では、逆に教育者としてハンデがあるとさえ言える」
校長先生の話に義継は頷く。
「美濃部君は、他に、桑実先生が不適格だ、という根拠があるかな?」
今度は首を左右に振る。
「いいえ」
校長先生はハハハと笑う。
「そうだろうな。判断できるほど触れ合ってないからな」
校長先生はウンウンと頷くと、付け加える。
「なら、美濃部君はこれからも桑実先生の授業を受けてくれるかな?」
「……はい」
「そうか、良かった良かった。では、もういいよ」そこで、校長先生は壁に掛かっている丸時計を見上げた。「うーん、時間が中途半端だな。今から着替えても大した時間は残らないし…。もう授業の方はいいから、先に教室へ戻って自習しておきなさい」
さらっと指示されたが、内容は義継の頭にするっと入ってこない。必然と答えが曖昧になる。
「は、はぁ」
「はい、お疲れ様」
校長先生は、眼鏡を外すと、別の眼鏡に掛け替える。縁の色が少し異なるだけで、レンズデザインは大きく四角いままだ。
ようやく義継は、自分が無罪放免となったと理解した。が、信じられない。
「あ、あの…」
ペンを取って書類に目を向けていた校長先生が、顔を上げる。
「ん?」
「あ、これで終わりですか?厳重注意とか、ないんですか?」
校長先生はペンを置くと微笑んだ。
「あった方が良かったかね?」
「あ、そういうわけじゃ…。なんつーか、拍子抜けというか……」
「だが、注意すべき事項はないからなぁ。ご期待に添えなくて申し訳ない」
フフフと笑うと校長先生はまたペンを持った。これ以上ここにいては仕事の邪魔になると理解した義継は、ぎこちなく礼をして、扉へと向き直る。
だったら何で呼ばれたのだろう? 義継は、自問した。聞かれたのは、強いねえ、という事だけだった。その理由を知りたかったのかもしれないが、義継が反抗的な態度をとったせいで、そういう流れにもならなかった。
ドアノブに手を伸ばしたところで、ようやく義継の頭にも、一つの理由が思い浮かんだ。
「もしかして――」振り返りながら出した声は、大きくなってしまった。「校長先生は、俺を助けてくれる為に、校内放送を掛けたのですか?」
校長先生がまた顔を上げた。今度はペンを置いただけでなく、眼鏡を先ほどの物へと変える。
「そうだね、そのつもりだった。桑実先生が、最初の授業で軍隊流を見せつけるのは昨年も同じだったからね。私は彼に任せているが、万が一があってはいけないと見させてもらっていた」
校長先生は、また、机の上に置いてある双眼鏡へ手で示した。
「確認して難なく終わったようだと思った矢先、もう一人始まってしまった。驚いたねぇ」
義継は申し訳なくなって視線を下げた。思い返してみれば、あれは義継が暴走したからだ。
「しかも、今度は桑実先生が一方的にすぐ勝ってしまう状況ではなかった。本当の闘いが始まってしまったわけだ。だから、私は慌てて水を差そうと動いた」
次に示したのは、机の端に置いてある電話機だ。
「いやはや、君が三文字の名字で良かったよ。双眼鏡を使っても体操服の名前ははっきり見えないからね。文字数が何とかわかった後は、名簿で確認してようやくわかった」
「すごいですね!」
義継は素直に感心した。自分であれば、そこまで頭が回る自信はない。
「その言葉はそのままお返ししよう。呼び出しは間に合わなかったからね。勝負がついた後だった。しかも結果もまた私の想像を超えていた」
「いえ、助かりました。あの放送がなかったら、もう先生の腕を折るしかないかなと思っていたところなんで」
これには校長先生が顔をしかめた。嫌われたくない義継は慌てて言い訳する。
「あ、もちろん俺はしたくなかったんですが、桑実先生が降参してくれないんで」
校長先生は両手の指を組み合わせるようにして少し考えた。
「……そうか、桑実くんは実力で失敗したから根性を生徒たちに示すつもりだったのか」
つぶやきのようだったが、義継にはしっかりと聞こえ、納得させられた。
「あ、そういうことだったのか! 確かに、腕が折れるまで我慢した人の発言は重いもんな。リスペクトは得られますね」
校長先生は小さく首を左右に振る。
「私には良くない方法に思えるがな。まあ、それは私と桑実先生とで話し合おう」
「あ、はい。ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げ、部屋を出ようと考えたところで、まだはっきりしていないことがあるのに気づいた。義継にとって、校長室への呼び出しに関して最も重要な問題だ。
「最後に一つ良いですか?」
「なんだね?」
「今回の事は親に連絡が行くんですか?」
校長先生が驚いた顔をした。
「いや、そのつもりはなかったが、報告した方が親御さんは喜ぶかね?」
義継は慌てて両手を左右に振る。
「いや、全然、結構です!!」
校長先生が豪快にガハハと笑った。すぐに自分の口を押さえて、笑いをこらえながら言う。
「どうやら、私は美濃部君の弱点を見つけたようだな」
義継が鼻の頭をかくと、校長先生はまた笑い出す。釣られて、義継も笑った。
二人で数秒間笑っていると、義継は校長先生との間に奇妙な絆を感じるようになった。これまでの経験で、一番似ていると思いつく感情は、友情だ。
今まで、義継にとって、教師はどちらかというと敵対する関係だった。好きな先生もいたが、それは向こうにとって迷惑だと思われていた。だから、今の校長先生との関係はこれまで経験しなかった妙な感覚だった。先生という点を除いても、これほど年の離れた相手と楽しく話し合う事はなかった。
ふと、義継は校長先生の年齢が気になった。が、すぐに考えを横に押しやる。たぶん、友情には年の差など関係ないのだ。
「本当にありがとうございました」
笑いが収まった後、義継の口が出た言葉は本心からくるものだった。
「いや、礼を言う必要はないよ。結局、助けたのはむしろ桑実先生の方だったからね」
ハッハッハと笑っていた校長先生の顔が急に、少し深刻なものになる。
「大丈夫だと思うが、今後桑実先生の授業でやりにくいと感じたなら、遠慮なく私に相談してくれ」
言われて初めて思い当たる。確かにこれまで、いざこざが起きた先生との関係がぎこちなくなる経験は度々あった。中には露骨に義継を無視したり、嫌がらせをしてきたりする教師もいた。
だが、なんとなく桑実先生とはそうなりそうにない気がした。喧嘩ではなく試合のようなものだったからだ。マンガみたいに「拳を交えた友情」が簡単に生まれないのは知っている。むしろ、負けたら相手に怒りを覚えるものだ。だけど同時に強い相手だからこそ湧く敬意もある。だから、少なくとも無視や嫌がらせという陰湿なことはされないと思う。まあ、されても、気にしない性質だ。
「ありがとうございます。でも大丈夫です。俺、そういうの、鈍感だから」
校長先生がまたハッハッハと笑って、義継も笑った。
出て行こうと義継が会釈をした後で、言っておいた方が良い事があるのに気づいた。
「あの、さっきの話、一つ訂正があります」
「ん、何だね?」
「引き分けなんです。放送があって、『勝負はおあずけ』とか言って離れたんで」
校長先生が考える表情をしたので、義継は自分の話がいきなり変わりすぎたと自覚した。が、どうやって補足したらいいのか考えているうちに校長先生の理解が追いついた。驚いたように大きく息を吸い、そこで一旦止まる。
「それは……。お礼を言わなくてはいけないのはこちらの方だったな。ありがとう」
机に座ったまま、頭を下げられて義継は慌てた。そういうつもりで言ったのではない。
「あ、いえ。じゃあ、こっちもお互い様っていうか、引き分けって事で」
頭を上げた校長先生がフフフと笑う。
「うん、そうしよう」
そのまま数秒間見合って笑顔を浮かべた後、今度こそ義継は校長室を出る。
「じゃ、失礼します。ありがとうございました!」
ドアを閉めた義継の心に広がるのは、やっぱりこの学校を選んで良かった、という気持ちだった。