01 校庭(義継)
「どうした?腕に覚えがある者はいないのか?」
薄紫色のジャージを着た高校生たちの前で、頭の薄い大柄な男が吠えた。
入学して初めての実習の授業。体育の授業に似ているが、二クラス分の男女合同となっているのが違いだ。ただし女子の数は男子の半分以下。義継からすれば、むしろそれだけいるのが驚きだった。
前に立って吠えているのが担当教師。というか、むしろ教官だ。この桑実という名の教官は、長袖ジャージの生徒たちと違って、白い半袖シャツを着ていた。おかげで、太い腕がはっきり見える。腕を組んでいる袖はパンパンだ。いわゆる筋肉質ではないが、脂肪の下にしっかりと筋肉が隠されている形だ。相撲取りがただのデブとは違う体つきをしているのと同じだ。下はジャージではなく、茶色のカーゴパンツ。迷彩柄の方がしっくりくると思っているのは、義継だけじゃないはずだ。
「どうした、腰抜け揃いか? 根性がない奴は妖魔に立ち向かえんぞ」
桑実先生の言葉が、義継の尻を叩く。挑発されたから、というより、妖魔を相手として挙げられれば、やらなければならない、という気にさせられる。
思わず手を挙げそうになった義継だったが、行動に移す前に止まれた。母親に「目立つな」と釘を差されていたからだ。義継にとって、桑実先生に怒鳴りつけられるより、母親に怒られる方がずっと恐ろしい。
それからも桑実先生は、怒鳴りつけ、挑発し続けるが、みんなは首をすくめて嵐が過ぎるのを待っていた。
義継は、結果的に自分もその一人だと認識していたので、他の生徒を非難する気はなかった。だが、物足りなさを感じていた。何のために、特別介護科に入ったのだと思う。その直後、桑実先生がまさに同じ指摘をした。
「ここで前に出てこない奴は、妖魔相手などできるわけがないな。とっとと辞めて帰れ!」
どこかで女子がすすり泣く声がした。義継は反射的にかわいそうだと思ったが、徐々にその気持ちが薄らぐ。
確かに、入学して三日目にして、このように暴力的な発言をされるのはショックだろう。だけど、このシゴキの存在は入学するまでに何度も確認されていた。普通の高校なら、桑実先生みたいな教師は排除されるに違いない。でも、この三徳高校の特別介護科では、暴言を投げ掛けられるだけでなく、怪我をする可能性すら覚悟しておかなくてはならなかった。泣いている女子は、この覚悟が足りなかったのだ。
しかし、覚悟が足りないのはその女子だけでない。義継自身を含む、みんなの覚悟が足りていなかった。その指摘を、今、桑実先生がしているのだ。
「押忍!」
後ろから野太い声があがった。
義継が振り返ると、同じように声の方を向く他の生徒たちの頭が見えた。その先に、覚悟を決めた男子がいる。
「よし、一人は根性ある奴がいたようだな。前に出てこい」
桑実先生の呼び掛けに、のしのしと巨体を揺らして歩いていくのは、隣のクラスの男だ。名前はわからないが、確かに強そうだ。丸坊主の頭に小さな傷跡が見えた。喧嘩でできた傷かもしれない。
「鳥居か」
桑実先生は、おそらくジャージの胸元に刺繍されている名前を読んだのだろう。前に出て行った生徒が、「はい」と半ば唸るように答える。
「ルール無用と言いたいところだが、あいにく訓練だからな。急所攻撃は禁止といこう。勝敗は、どちらが負けを認めるか、意識を失うまで。いいな?」
桑実先生が手に持っていた、黒いファイル綴じを朝礼台に置く。
義継は改めて、高い意識の真剣勝負に戦慄さえ覚えた。一般的な総合格闘技で禁止されている噛みつきや髪をつかむことは許されているということだ。
鳥居の返事はなかった。頷いたかもしれないが、義継からはよく見えなかった。列が邪魔で、そこから離れないと見えないのだ。しかし、そうすると目立つ。他に同じように考えている者がいないかと辺りを見回したが、誰もが馬鹿正直に整列していて、はみ出している者はいない。
不満を鼻息に込めて吹いてから、正面を見る。それから一分も経たない間に、勝負はあっけなく着いた。
鳥居の攻撃は大振りだった。あれは格闘技の訓練を積んでないな、と思った直後、桑実先生からの足払いをくらいよろめいた。追撃があり、鳥居が尻餅をつくと、上半身を倒され、膝で喉元を押さえつけられた。
不満なのは、やはりはっきり見えなかったことだ。前の男子の肩越しに右に左に頭を動かして覗いたが、前の誰かが同じような事をしているせいもあり、ぼんやりしか把握できなかった。義継としては、技の切れを確認したかったのだが、秒殺するくらいだから凄いのだろうという判断を下すのがせいぜいだ。
「諦めろ。このまま気絶するまで首を絞められたいか?」
左右に体が揺らいだ後、桑実先生が言った。鳥居が押さえ込んでいる桑実先生をのけようとしたのだろうが、あの態勢では無理だ。むしろ、あの体勢の桑実先生を揺れさせたあたり、見かけどおり力はかなりあるらしい。だが、その腕力も技術が伴わなければこういう結果しか生まない。
鳥居が降参する声は聞こえなかったが、桑実先生が立ち上がったことで、鳥居が負けを認めたのがわかった。
周りは未だ興奮が残っていたが、義継は冷めていた。この感覚はスポーツニュースを見てしまったものに似ている。過程が知りたいのに、結果だけ先に言われた感覚だ。
鳥居が立ち上がると、自分のいた場所へと早足で戻ってくる。それに同じクラスの誰かが声をかけるか触るかをしたのだろう。一度鳥居はうなり声と共に身体を揺すった。
気持ちはわからないでもない。みんなの前で惨めな姿を晒したなら、そっとしておいてほしい。声をかけられた方が余計に惨めな気になる。
だが、義継なら同じように感じなかっただろう。義継は自分が強くない事を知っている。負ければもちろん悔しいが、惨めと思うほどはいかない。単に負け慣れているからだ。
「貴様等はAMS、アーマードマッスルスーツのについて学ぶために本学に来たんだろ。だが、鬼に対して有力な武器となるAMSも、使う者が無能では役に立たん。基礎的な訓練を修了しない者にAMSを装着する資格はない。ゆえに、貴様等はこの一年、AMSに触れる資格ができるように、基礎的な訓練を積んでもらう」
義継は頷く。この実習で怪我をする可能性があると説明された時もそうだったが、桑実先生の言動は「本気だ」と感じる。高校に入学して一週間も経ってないが、入って良かったと思った。
「中には、基礎訓練を嫌って、すぐにでもAMSに触りたいという奴もいるだろう。だが、土台がしっかりしていないと、伸びた時に倒れやすい。これは身体的な技術だけでなく、勉強にも通ずる真理だ」
これには顔をしかめさせられた。義継も、先生の言う真理とやらはわかっているつもりが、なぜだか勉強は基礎が大事だと言われてもやる気にはなれない。
「確かに、金さえあれば、AMSを自前で揃えられる時代になっている。現に、世の中にはフリーランスと称する、AMSを着ただけの大したことのない連中が溢れつつある」
この発言を聞いた瞬間、義継の中で積み上がっていた桑実先生の評価が崩れ去った。
「貴様はそんなハンパな連中に成りたいか?成りたくないだろう。そうならないよう、俺が――」
桑実先生の話が途切れる。生徒がざわめき、一定の方向を向きだしているのに気付いたからだ。そして桑実先生の視線も、生徒たちと同じ、手を挙げている義継へ向けられる。
「どうした?」
「自分も手合わせお願いします」
「………名前は?」
「し――」間違えかけて、義継は自分の胸元の刺繍を確かめる。「美濃部です」
「美濃部?」
桑実先生が、再び手にしていた薄いファイル綴じを開く。中にあるのは名簿だろう。大きく息を吐いてから、それを閉じた。
「まあ、いい。前に出ろ」
義継は頷くと、列を外れて歩き出す。
目立つなと言われていたのに、守れなかった。だから、義継は自分が冷静でないのは自覚していた。はっきり言えば、怒っていた。でも、怒りで周りが全く見えなくなっている訳ではない。
同じクラスの男子は、ある者は心配そうな目をしていた。ある者は、義継の身体にさっと目を走らせ、期待した眼差しを向けてきた。おそらく、筋肉質な体格から判断したのだろうが、あいにく体つきだけでは勝敗は決まらない。
義継の席の近くに座っていて、すでに仲良く話すようになっていた二人は、手振りを交えて応援してくれた。
傘波羅は険しい顔で肩を叩いてきた。まるで自分まで戦うつもりになっているかのような表情に、義継は思わずニヤリとさせられる。末伴は片手でガッツポーズを作って頷いてくれた。
「おい、まさか、さっきのを見て、自分ならできると思ったんじゃないだろうな?」
桑実先生からの呼び掛けに、義継は顔を引き締める。むしろ逆だ。簡単に終わったということは、それだけ実力差があったという意味だ。鳥居との勝負ははっきり見えなかったが、相手の実力は自分より上だろう。ただし、格上の相手だとしても、やるからには勝つつもりで行く。
「他に挑戦者は居ないな? こんな事でずっと時間を潰すわけにもいかないからな。これが最後だぞ」
今度は明らかに生徒全体に話しかけていた。とすると、今の表情を読み取られて、余裕があると判断されたわけでもなさそうだ。余裕があると思われるよりも、過小評価してもらった方が助かる。……いや、むしろ、先生が言ったように、自分ならできると勘違いしている素人と思わせた方が良かったかもしれない。
それ以上は考える時間がなかった。義継は、生徒たちの列の前まで来ていた。桑実先生は三歩離れた距離で生徒たちを見ていたが、また名簿を朝礼台へ置いてから、こちらへと振り向く。
桑実先生の左耳が潰れていた。柔道やレスリングなど、床を使う格闘技を長く続けている者が成る印だ。
「体つきはできているようだな。何かやっていたのか?」
何か、とはスポーツで鍛えたか、という事だろう。より具体的に、格闘技について聞いているのかもしれない。
義継は少し考えてから答える。
「我流です」
「我流!」
桑実先生が手のひらを見せるようにして少し両手を広げる。明らかに、馬鹿にしている感じだ。義継にとっては、良い傾向だ。
あまり話を続けては桑実先生が冷静さを取り戻しかねない。義継は、先に構える。足を前後に開き腰を落とすと、右手を引き腰の高さで握り、左手を顔の前の高さで卵を持つかのようにゆったりと握る。
「珍しい構えだな。なるほど、我流ね」
多くの者が知っているとおり、戦いは拳を交える前から始まっている。義継は、早速第一撃を繰り出す。
「これって、鬼との模擬戦と考えていいんですよね?」
臆せず見つめ返す義継に、桑実先生がにやけていた顔を警戒状態に移行させた。
「鬼なら余計な事は話しませんよ。それとも俺が鬼の役をしましょうか?」
桑実先生の頬が引きつった。
通常、鬼と殴り合うことなどない。自殺行為だからだ。それくらい鬼は危険だ。その鬼の役をする、という提案は、自分がずっと格上だと言っていることに等しい。
「バカにしやがって」
桑実先生が唸ると、さっと両拳を上げて構えた。右打ちのボクシングスタイルと義継が判断したのも束の間、桑実先生の左手が伸びてきた。素早いジャブだ。
義継はそれを左後方に身を反らせてかわす。すかさず次の一撃が迫り、さらにステップバックする。次の右ストレートは踏み込みが深く、義継のこめかみをかすめた。
その最中、義継の頭の中では、いつかの父親の教えが聞こえていた。
「ボクシングもまた、恐るべき格闘技だ。他の格闘技から見れば、攻防一体と言って良いほど攻守の切り替えに隙がない。その隙を突くのに適しているのは、恐らく同じボクシングだろう」
父親はここでニッと笑うと義継の鼻の頭を人差し指で弾いた。
「だがな、義継。それは同じリングに立てばの話だ。ルールに縛られないなら、ボクシングの隙のなさは、逆に弱点にもなりうる。それは、打たれた拳が――」
続く言葉を義継は頭の中で呟きながら手を伸ばす。
「戻る場所は同じ!」
捕まえられないくらい素早い拳もどこへ動くか予測できれば対応できる。
桑実先生は、義継の踏み込みをダッキングインからのアッパーと警戒したのか、上半身を反らした。この腰の位置が高くなったことも、義継にとっては好都合だった。
桑実先生の右ストレートを、義継は両手で絡み取るように受け止めると、すぐさま体を反転させる。
桑実先生の体が宙に浮かび、地面に転がされる。柔道の技でいう、体落としに近い投げだ。
見守っている男子からどよめきが上がった。女子たちからの声は悲鳴に近い。
桑実先生はそのまま転がり、距離を取る。
桑実先生が素早く立ち上がり始めてから、義継は一発入れておくチャンスを失ったのを悟った。隙はあったが活かせなかった。
転がった相手に追撃しないという上品な戦い方は習っていなかった。むしろ、そこまでが一連の動きとして訓練していたはずだった。それなのに対応できなかったのは、桑実先生が義継の予測を超えて動いてきたからだ。
他の者には、義継が一方的に攻撃したように見えているだろう。だが、当事者である義継は、一本背負いにいくつもりだったのに背に乗らなかったのが、一つ目の誤算だった。続く誤算は、投げ飛ばした直後に、桑実先生に手を振り払われた事だった。
不意をついた攻撃だったはずなのにこの対応力。もし、投げを踏みとどまられていたら、危なかったのは義継の方だったかもしれない。
しかし、義継は不利だと感じている内面を表に出すつもりはない。むしろ、相手の心をかき乱す。
「なんか、フツーの人間ですね。鬼っぽさはない」
「貴様!」
桑実先生の顔が怒りに赤くなる。冷静さを失っている間に、義継が仕掛ける。七八歩に開いた距離を駆け出し、すぐに足下を狙って滑り込む。
義継に合わせるように駆けてきていた桑実先生は、一瞬驚いた顔を見せたが、ジャンプして義継のスライディングをかわした。
そこで義継はぐっと踏みとどまる。結果、残っていた勢いが倒れ気味になっていた体を立たせる。完全に立つ前に、義継は支えとなっている足で、大地を蹴る。
この急速反転で、桑実先生の背後を襲う。
桑実先生は、意図せぬジャンプをさせられたせいで、地面に手を着いて下りていた。が、迫る足音を聞いたのか、立ち上がりながら右の裏拳を放ってきた。
義継は、頭に浮かんでいた桑実先生の背中に前蹴りをお見舞いする攻撃を放棄するしかなかった。右腕を高く上げながら、前へ突っ込む。直後、桑実先生の攻撃が右脇に当たったが、大したダメージはなかった。踏み込めたおかげで、拳ではなく腕が命中したからだ。
逆に、上げていた右腕を素早く下げ、相手の腕を抱え込む。桑実先生の回転行動は止まっていなかった。桑実先生の左の拳がこちらに届くよりも早く、義継は掴んだ腕をぶん回す。
体勢を崩した桑実先生の背中に、左の回し蹴りをぶつける。とっさの蹴りなので威力はない。相手の姿勢を崩し続ける目的だ。
その時、桑実先生の左腕が視界に入った。義継は勝手に体が動いて、それを掴んだ。
すぐに、させまいと振り払われそうになる。義継は力強く握りながら、相手の力を殺ぐためにねじり上げる。
ぐっと呻いて、桑実先生が膝を着いた。
そこで初めて、義継は自分が勝ったのを悟った。
桑実先生がまた体を揺すった。力は強い。義継はそのままではホールドできないので、先生の腕を頭の方へと上げる。痛みを和らげるために先生の体が前のめりになり、緩んだ両腕を自由にさせないために、義継がさらに腕を上げる。この動きは、先生の顔が地面に達することで止まった。
少し間があってから、戦いを見守っていた男子たちの歓声が上がった。特に義継のクラスメイトの興奮が大きかった。
桑実先生がそちらを見ようと首を動かしたが、押さえこまれているのでできなかった。
この行動に気付いた何人かが、すぐに沈静化するように手振りで示す。これにより興奮した雰囲気こそ変わらなかったが、みんなは一応おとなしくなった。
「勝負あった」の声は掛からなかった。元より審判などいなかったのだ。
確か……義継は条件を思い出す。どちらが意識を失うか、負けを認めるまで。
締め技ではなく関節技なので、意識を失わせるのは無理だ。むしろ今の姿勢は、意識を失った者が痛みで目を覚ますくらいに、目的からほど遠い。痛みも過ぎると気絶させられるのかもしれないが、それは両腕をへし折った上でさらにねじり上げるくらいじゃないと無理だろう。もちろん義継にそこまでするつもりはない。
だったら、降参してもらうしかないのだが、これまでの様子からそれもすんなりいかないだろうと思う。義継も先生の立場なら、参ったと言いづらい。腕を折られるくらいしないと、踏ん切れないのかもしれない。とは言え、そうするのは、後味が悪く、今後の学生生活にも悪影響があるに違いない。
一旦解放して仕切り直すという選択肢もあるにはある。が、義継はそうしたくなかった。
今回勝てたのは、桑実先生の油断を突いたからだ。仕切り直せば、その優位性は失われる。まして、次は締め技で落とす攻めをするしかない。こんな状況じゃ、負ける可能性は極めて高い。負けるのが実力相応の結果と頭でわかるが、戦う以上、義継に負けるつもりはなく、勝ち目が薄いからこそ、この詰みの状況を手放したくはなかった。
とはいえ、このままでずっと過ごすこともできない。
「降参しないと腕を折るぞ」と脅しをかけるのは、おそらく逆効果だ。今からでも誰かが審判役として介入してくれるのも助かるが、さっき、桑実先生に睨まれるのを恐れて静まり返ったのを見るかぎり、あえて憎まれ役をかってでる者は居なさそうだ。
桑実先生が体を揺すった。その力の強さに、義継は腕を手放しそうになった。慌てて力を入れ直し捻る。
桑実先生は、痛みに唸ると、荒い息こそそのままで、また静かになった。
少なくとも桑実先生には、目標があった。義継の力が緩んでから脱出するという手だ。それは可能だろう。たぶん、義継はあと三分もホールドするのは難しい。
生徒たちも、手詰まりの状況を把握しだしたようでざわつき始まる。
やっぱ、折るしかないか。
義継は覚悟を決める。桑実先生には悪いが、降参しないのだから、仕方ない。
入学して早々に教員の腕を折るという事件は、隠し通す事はできず、母親に知られてしまうだろう。これはすごく気が重い事態だったが、他に手がないなら仕方がない。
短い吐息と共に義継が腕に力を込めたその時、ピンポンパンポーンとチャイムが鳴った。校内放送の開始を告げる合図だ。
「一年B組の美濃部君、今すぐ職員室に来てください」
女の人の声でそれが二回繰り返された後、終了のチャイムと共に放送が途切れた。
義継は呆気に取られた。クラスメイトの傘波羅は、列からひょっこりと頭を出すように上半身を傾けてこちらを見ていた。その顔は「どういう事だ」と語りかけていたが、義継にもわからない。
だが、ふいにこれこそが状況を打開できる助け綱だと悟る。
義継はさっと手を離した。自由になった桑実先生の両手が地面に着く。
荒く息を吐く桑実先生が話し出す前に義継が言い放つ。
「あ、俺、呼ばれたから行ってきます」
許可を待たずに義継は駆け出した。
「ま、待て!」
制止の声を義継は無視した。
「勝負は引き分けってことでー」
この捨てぜりふが功を奏したのか、後ろから、それ以上、桑実先生の声は投げかけられなかった。