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天地の詩(仮)  作者: AF
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4 声まねぶ音(ね)




 気がつくと脱衣所にいて、着替えの用意もなく、制服姿のまま、煌々とあかりのついた浴室のドアの前に立ちつくしていた。


 …………。


 居間に直行し、弟と父がみているテレビドラマの内容に嫌な予感ばかりが増していく。

 日時の表示をたしかめると、午後十時ちょっと前。月曜日。

 月曜日!


「なにしてんの、愛乃」

「――――!」


 弟の疑問にこたえるゆとりもない。愛乃は声にならないさけびをあげた。


 あとから思えば、我ながら、よく声に出さなかったものだと思う。音にしていたら喉をつぶしていただろう。《喉を潰す》と、いつかのみこの助言にあったことを考えれば、(しゃく)としかいいようがないけれど。


(みこ――――――――!!)


 あの小娘。

 愛乃の週始めを、まる一日、かっさらいやがったのだ。






 翌朝、教室に入ると、愛乃は真っ先にユミの座席へむかった。朝練を終えたばかりのユミは、席についてのんびりと生クリームメロンパンをつまんでいる。


「おはよう」

「おはよ。ユミ、きのうのノート貸して」


 自分でいっておきながら、一瞬、ユミに(ひざまず)かれた記憶が脳裏をよぎって、めまいがしそうになった。


 いかんいかん、こんなことでは、またすぐあのわがままにのっとられてしまう。

 この体、簡単に渡してなるものか。


「いいよ~。どれ?」

「全部」

「全部? どうしたの。寝てた? 起きてなかったっけ」

「起き――いや」


 起きてただろうけど頭の中は寝てました、というか別の世界にいました――なんて申し開きをしたら、いよいよやばいと思われる。


「死んでた」

「マジで。大丈夫なの。はい」


 ノート一式を()じこんだ分厚いバインダーをくれると、ユミはストローで紙パックから果汁一〇〇%ピンクグレープフルーツジュースを(すす)った。

 ありがとうといって、愛乃はふらりと自分の席につく。よかった、とりあえず、ユミの態度が豹変しなかっただけでも、ものすごくラッキーだと思えるくらいにありがたい。


 鞄から自分のノートを出し、ユミのノートと照らし合わせていく。やっぱり、月曜日の授業の分は、まるまる抜けている。

 一番手間のかかる英語の予習は、多めにやっておいたのが幸いして、ぎりぎり、授業に追い越されていない。


(英語が五限、古文が三限)


 きょうは現代文はないから、そっちのノート作りはあとまわしにしよう、と算段をつける。

 時間割を思い浮かべながら、ユミの全科目まるごとバインダーをめくっていると、その持ち主が、まだ主人の登校していない愛乃の隣の座席にやってきて、すとんと腰かけた。


「数学は最後、プリントだったよ」


 そちらをみやると、片手にあるあざやかなピンクのパックのロゴが目に入る――。

 瞬間、くらっとした。

 ノートをみるふりをして、うつむいて目をつむる。


 あの世界……。

 みこのすむ世界との、ギャップが大きすぎる。


 こっそり深呼吸し、気分をととのえる。ユミはジュースをのみきり、ストロー、ストロー袋、パックを分別して、几帳面にパックを畳んでつぶした。


「みせて」

「いや、回収して、きょう返ってくるんじゃない。ほんとに覚えてないんだ。出してもないの? アレ?」


 おっとりした口調があっという間に早口になり、そう思う間にもう顔が笑い始めている。


「またアレ、名前書かないで出したの? 無記名無回答採点済みゼロ点、奇跡……っ」

「ちょ、それ、ほんと、ほんと笑えないんだよ笑えないから。笑い事じゃないよ」

「笑うよ、笑わんでどうするの」


 おなかをおさえてくるしそうにしながら、ユミはモデルみたいな全身を折り曲げ、小刻みにふるわせている。眼鏡をかばうように片手を額にあてて、机を支えにまでして。もはやここまで受けをとれるとは、全力で笑ってくれてありがとうである。


「授業中何してたの? 内職? あ、楽譜? 飛んでた?」

「……飛んでた」

「飛んでたんだ。病気じゃないの。全科目? どこに、近所? ヨーロッパ?」

「の、ノイローゼの世界」

「えええ。大丈夫なの?」


 大丈夫じゃないかもしれない。

 ほんとに病気なのかもしれない。まったく笑えなかった。


 愛乃が憮然としていると、ユミは笑いを引っこめ、指先でレンズの向こうの目尻をぬぐった。泣くほど笑わなくてもいいのに。

 不思議そうにこちらをみる。ユミに、愛乃はノートに視線をもどしながら、問うてみた。


「わたしきのう、何してた?」

「え、普通だったよ、何々? 記憶喪失?」

「そうかもしれない。普通って、どんな感じ?」

「別にいつも通りじゃない? あ、夜、何も反応ないなーとは思ったけど。ピアノか予習でしょ? 気にしなかったな」

「ユミは? きのう」

「わたし? 何で? 普段通りだよ」

「そう」

「気づいてほしかった? いじめられた? 泣いてたの?」


 最後はもはや冗談の声音なのだが、思いかえせば向こうの世界で泣いたようなおぼえがあるので、あながち(まと)外れでもない。愛乃はついつい渋面をつくった。


「何、洒落(しゃれ)にならない顔してるなあ」

「そうだね……いや」


 普段通りだったと、ユミがいっているのが本当なら、まだ傷は浅いのかもしれないけれど。


 よくわからないが、信用ならなかった。ユミを疑うわけではないが、みこのオート服従機能が強力すぎる気がするのだ。

 みこが愛乃の体で何をやっていても、一旦みこから離れてしまえば、周りの記憶は違和感のないよう補正されているのじゃないか。

 六連(すばる)の記憶が飛んでいたことをかんがみても、ユミの記憶が自覚なしに改変されている恐れはある。六連がひざまずいたことを忘れていたように、ユミだって、(かしず)いた記憶はないに違いない。


 しかもみこ本人、意識的にやっているわけではないという……。


 隣の席の主が登校してきて、ユミは立ちあがった。教室後方のゴミ箱にゴミを捨て、愛乃のそばにもどってくる。


「ま、ノートくらいならいつでも貸すけどね。たまに息抜きでもしたほうがいいんじゃないの」

「そうかな」

「好きなことでもしてさ。ピアノは好きでやってるの?」

「うん。好きでやってる。ピアノしかない」

「穏やかじゃないなあ」


 はにかむような苦笑をして、ユミはかるく手をふり、自分の席へかえっていく。

 そうして笑うと、もともとの下がり眉と目尻が、一緒に同じ方向へうごいて、とても魅力的なのだった。


 ユミの笑顔と、教室の中の大勢の人間が、整然と各自の座席にすわっている状況。


 あの、ひらけた、どこまでもつづく荒れ野、森と、そこにまばらに生をいとなむ人々。


 いま目にうつるすべてが、平和の象徴のような気がして、愛乃は目をとじた。

 酔いそうだった。






 翌日も、愛乃は愛乃のままだった――おかしな話だけれども。けさ、めざめて、それが自分のセットしたアラームの鳴る時刻だったのを、これほどうれしく思ったこともない。


 水曜日なのである。

 きょうだけは、なんとしても死守しなければならない。


 月曜の夜にもどってからこっち、みこは静かなものだった。こそりとも音をたてない。

 当然、みこの世界に愛乃を放りだし、自分は愛乃の体で好き勝手やっているわけでもない。


(少しは悪いと思ってるのかしら)


 特別教室棟の廊下をあるきながら、愛乃は両手を片手ずつ、にぎったりひらいたりしてみた。

 ゆうべはそれこそ()かれたように、何時間もピアノにむかっていたけれど。一日だけでも、練習のブランクは露骨に感じられた。

 こうして、指が何の差し障りもなくうごかせるだけ、幸運なのかもしれないが。――あの交通事故で、もしちょっと打ちどころが悪かったら。もしかるい接触程度ですまなかったら。そう思うと、ぞっとする。


 本当によかった。

 謎の幼女現象はさておき。


(忘れる忘れる。忘れたら消えてくれないかな)


 他力本願な乙女心を胸に秘め、愛乃は四階まで階段をのぼった。

 廊下の奥の第二音楽室では、吹奏楽部が廊下まで(あふ)れでて、パート練習の真っ最中である。階段より東側は非常に騒々しいが、西側は美術室と書道室がならんで、それぞれ部活をやっているはずだが、閑静なものだ。

 愛乃は東側手前の第一音楽室の戸の前でとまって、そっとひと呼吸した。


 なにもなかったように。いつも通りに。


 取っ手に手をかけ、力をこめる。


「あれ。おつかれ」


 階段の方から声をかけられ、愛乃はぱっとそちらをふりむいた。

 そこに、期待していた人が、立っている――こっちにむかってあるいてきている。

 あけかけた戸の取っ手から、愛乃は思わず手をはなした。


「先輩。こんにちは」

「矢木沢さん、事故ったって。大丈夫?」


 顔があからむような、青ざめるような、感喜と含羞(がんしゅう)が同時にやってきたような、せわしない心地がする。

 しかも、なにより、緊張する。


 二年生の木村涼時(すずとき)は、その名の通り、いつでもすずしそうな(おも)()ちに、いつも通りの無表情で、それなのに思い()りのあるようなことをさらりと口にのぼせるのだった。


 少なめの黒髪はすんなりとまっすぐで、目にもうなじにもかからない程度にきられている。愛乃の背丈でも、そんなに首が痛むのを心配しなくていいくらいの上背(うわぜい)。学ランはいま脱いでしまって、ワイシャツ姿である。


 仮入部中の合唱部の活動に愛乃が参加したいと望むのは、この人が助っ人として、やはり参加しているからなのだ。


 軽音楽部のベース担当で、合唱部の臨時要員。この春、たまたま合唱部の顧問にピアノ担当として呼ばれた先で、出会ってしまった。

 軽音部からの助っ人はもう一人いたけれど、その人と、合唱部の二年男子もまじえて、仲良くしゃべっているのに表情がまず変わらないのが、印象的だった。

 機嫌が悪いわけではなさそうなのに、どうもとっつきが悪い。最初はそう思った。

 ところが、初回の伴奏を終えたあと、この人は誰よりも素直に褒めてくれたのである。


 《うまいね。大したもんだ》


 顔は無表情だが、決して心のこもっていない声ではなかった。

 少年というか、年少のこどものような、無邪気に感じいったような声だった。


 それには、愛乃も、悪い気はしないわけで。そのうち、何度か参加する中で、涼時がとんでもなく気配り上手だということがしれてきた。目立ってなにかお膳立てするというのではなく、とにかく、人に気をつかわせないようにするのがうまい。居心地のいい空間をつくるのだ。涼時が同じ場所にいるだけで、多少の喧嘩も沈静化するようだった。

 多分、すごく頭のいい人なのだ。


(ほめられて有頂天になるなんて、わたしもほんと、単純)


 一回目の部活のことを、思いだすだに恥ずかしい。


 愛乃が内心、相当あわあわしているあいだに、涼時が戸をあけている。愛乃はとにかく、質問にこたえた。


「はい、もう大丈夫です。かるい怪我だったので」

「そう。どこ? ぶつけたの?」

「あ、はい、頭の。ここなんですけど」

「そっか」


 戸口をくぐると、中にいた部員たちから挨拶の声がかかった。返事をしながら、涼時につづいて愛乃も入室する。愛乃ちゃん、大丈夫、と、似たようなことをきかれてこたえる間に、背後で涼時が戸をしめてくれている。こういうところなのである。


「よかった、無事で。心配したよー」

「すみません。お騒がせしました」


 合唱部の先輩たちに頭をさげる。吹奏楽部の練習の音にも負けない声量の持ち主たちが、かしましくよろこんでいる。


 ふと、先輩たちも事故のことをしっているのだなと気づいた。


 涼時に気にかけられて、喜びにかまけてスルーしそうになっていたけれど。


 先週休んだのは事故が理由だと思われているのだろうか。その日にはぴんぴんしていて、病院にいくわけでもなかったはずなのに、さぼったなんて思われてないらしい。

 皆、純粋に心配し、安心してくれている。


 部活は基本的に毎週、水曜日にしかない。先日の女子部員も愛乃が事故に遭ったことをしっていたが、彼女の姿はまだみえない。

 彼女はただ、同学年だからしっているのだと思っていた。


 下校途中の交通事故だ、学校に連絡はいっただろうが、全校に一生徒の名がとどろくほどではあるまい。第一、みこは愛乃の代わりに(勝手に)翌日には登校していた。そのくらい軽症だった。


 火曜のうちに彼女がしって、部の先輩たちにしらせたのだろうか。

 それでここまで皆が皆、信じきって気にかけてくれるだろうか。


 ……一体、みこはどうやって部活をさぼったのだろう?


 みこのオート服従機能で事故のことがひろまるものだろうか?

 同級生や、登下校が一緒の子たちはそうなるかもしれない。みこが無言でみつめれば、ああ事故だったんですね、ご無事でなによりくらいの感じで納得してくれるのかもしれない。

 しかし、よそのクラス、普段接点のない他の学年にまで、そんな影響が出るだろうか。


 事故後、最初の木曜日、家族や地元の子や同級生は、事故がどうこうなんていわなかった。でも、愛乃が愛乃としてめざめたその日、まさかの交通安全教室のあいだ、ユミが必死で笑いをこらえていた。あれは愛乃の事故をしっていなければ出てこない笑いだろう。不謹慎きわまりないが。


 だから、火曜、水曜のうちにその話題はほぼ収束したのだと思っていた。

 愛乃ではなく、みこが登校し、週一の部活をさぼったその間に。


 来週はこれるかとあの女子部員にきかれた。それなら、先週はいかなかったのだと思った。けど、たとえば彼女がきょうのように遅れていて、たまたま愛乃の体に出くわさなかっただけで。


 みこに部活のことを教えた誰かがいて、音楽室まで案内していたとしたら……。


(みこが部活にきた?)


 その可能性が、皆無ではない。


 己の想像に貧血をおこしそうになる。


 まさかとは思うが。きっと、あの女子部員が先週水曜、もしくは部活のないところで先輩方にしらせたのだと思いたいが。


 もしかしたら、とりあえずみこがここに連れてこられて、先輩方に心配させるだけさせて帰ったのかもしれない。

 オート服従機能で謎の威圧感だけふりまいて。


 最悪だ。


 想像のあまりの不吉さに、部員たちにむけて覇気のない愛想笑いを浮かべる愛乃の横をすり抜けながら、すずしげな声が愛乃一人にきこえるくらいの声でいう。


「見えないとこで良かったね」


 わざとらしくささやくでも、きこえよがしに声をはりあげるでもない。

 あくまで自然に、独り言でもなく、愛乃に対して発されたことば。


 この(にぎ)やかな環境では、他の部員たちにはきこえていないだろう。


(――。きてよかった)


 生きててよかった。


 比喩(ひゆ)でも誇張でもなく、そう思う。


 ピアノをやっていて。いまも弾けていて。本当によかった。


 さっきまでの恐ろしい想像が急におぼろげになる。なんたる清涼感。現実逃避もはなはだしいが。


 わたしがわたしでいてよかった――こんなことを、ことさら、しみじみ感じるのには、やむにやまれぬ事情があるのだけれども。



       ◇



 鼻歌など歌いながら、上機嫌で眠りについたことはおぼえている。勿論、ピアノの練習は満足いくまでして、英語の予習もある程度、数学の復習もそこそこしておいて。


 みこはこの日も静かだったので、このまま何事もなければ、幼女の声は一時的なノイローゼの産物として、その間の自分の奇行はささやかな黒歴史として、かたづけられそうな気配であった。

 楽観的だったようであった。


 ぱちん、ぱちんと火の鳴る音がする。

 もう大分、ききなれてきた音だけれど、今回はどうも、あかりが弱かった。


 あたたかさと音は両方、(おもて)にあたるから、目をひらけばそこにあるはずなのだが。


 あやしみながら目をひらく。

 思ったところに小さな熾火(おきび)


 辺りはまっくらで、車座になって六人で土の上にすわっていて、周りには丈の低い木々。まばらな葉影のすき間から、星がちらちらとまたたいている。


 (はじ)くような、吹くような、耳馴染(なじ)みのない音色がきこえている。

 一同、その音にききいっているのである。右隣のヨクすら、目をとじてこころよさそうだ。

 みなもとは愛乃のすぐそば――愛乃は左隣へふりむいた。


 毛皮から頭だけ出した、ノヤが、唇に楽器をあてがい、(かな)でていた。

 とても小さい楽器のようだった。楽器、みこにならっていうと、鳴物(なりもの)か。板の(はじ)かれてもどるような音と、筒の端を吹く風の響きがいりまじっている。そのものは、ノヤの大きな手と長いひげにうもれて、はっきりとみわけられない。


 低く、かすかな、単調で、夜闇に溶けこみうすれていく音。


 なにをしているところなんだろう……と、つい、探究心が首をもたげたが、それよりもこの調べにききいるのが、いま、なすべきことらしい。

 愛乃は目をとじた。今回は、自分の意思で。

 しかしノヤの奏でる(たえ)なる音色は、愛乃が目をつむってからいくらも経たずに、鳥が夜をむかえて眠りにつくように、ひそやかに休まったのだった。


「…………」


 音の名残に身をひたすように、皆、しばらくしんとしている。

 それから目をあけると、三人の若者たちは口々にノヤを褒め、皿と皮袋をいきかわし、ノヤに杯をささげた。


 みなれない、誰ともわからない人たちかと思ったが、よくみると、そのうち一人は、あの森の集落で愛乃たちを天幕へ招きいれた若者だった。

 あとの二人も、その若者と似たり寄ったりの装いである。しかも――正直引く、愛乃がみこの体の五感のするどさに慣れていないせいだろうが――声というか、ほとんど息遣い、それに二人の体の匂いにおぼえがあるのだ。二人だけでなく、三人とも、かぎわけられる。


 あの宴のとき、幕の外で、おそらく見張りのためだろう、周りをいきつもどりつしていた若者たちである。


 みまわすと(星明かりに目が慣れ、そのころにはもう少し、辺りがみえるようになっていた)ここはあの集落ではないようだ。木々の外には平原がひろがるようだが、あのときみた背の高い木も、こんもりしたむれも、そして人のいとなむ住まいもない。


(移動中、か……?)


 ものすごくぼんやりした当たりしかつけられない。

 そうなると、腹が立つのは、あの小娘の(たび)重なる仕打ちである。

 なんの説明もなく、予告もなく、ただ愛乃を自分の体に放りだすのだから。


 前、あの集落に入ったとき、仮の宿りとヨクはいっていた。それを実行したのだとすれば、みこ側の三人は、すでにあの集落を出たのだ。

 そうすると、ここにいる若者たちは、さては、見送りを引き受けてくれたといったところか。


 周囲をうかがいながら考えをめぐらせる。ふと、視線を感じて、愛乃は一座に目をもどした。


 若者たちがノヤとヨクにむかって、なにかいい合っている。早口で、くぐもっているため、一度はきけたと思った彼らのことばは、うまくききとれない。

 しかし、きれぎれに、なにをいわんとしているかは、すぐさとりえた――。


 この女童(めのわらわ)は、なにをするのか。

 ――そういっている。


 ぴりりと、背筋が強張(こわば)るのをおぼえた。


 これはまだみならいで、お目にかけるほどのものじゃない、と、いうようなことを、ヨクも負けじと早口でかえす。前々から薄々感じていたことだが、愛乃はヨクのことばを全部、ききとって理解しているわけではない。八割がた、ニュアンスで()みとっているだけだ。

 いわんや、若者たちのことばをや……思わず漢文訓読調に意識を飛ばしたくなるが、現実は容赦なく、目の前に差しせまっていた。


 このこどもは、なにをするのか。


(しらないぃぃぃ! こっちがききたい!!)


 若者たちは、ヨクのうわべはやんわりとした(かわ)しかたにもこたえず、みこに、すなわち愛乃になにかさせようと食いさがる。

 その言い分はきっと、なにもできないということはあるまい、とか、なにもしない子をつれあるくわけはあるまい、とか、みならいで構わないから、ひとつきかせてくれないかとか。


 勝手なことをいっている。

 ――いや、もしかして、そう感じるのは愛乃の都合なのかもしれない。

 身勝手はこっちの方で、歌なり、踊りなり披露するのが本当なのかもしれない。


 愛乃たち……というか、みこたちは、みずしらずの人々に宿をもとめて、食べもの、飲みもの、寝床と屋根を手にいれた。見返りとしてヨクは(うたい)を、ノヤは音色を差しだしたのだ。

 あまつさえ、見送りまでしてもらっているとすれば。


 みやると、ヨクが少しばかり哀れむような顔をして、こっちに目をくれるのにぶつかった。

 その目は、もう何度かみたからしっている、きらきらと、おかしげにきらめいている。

 多分、実際ちっとも哀れんでいないにちがいない。


(――~~! 詰んだ)


 このおじいさん、たすけるつもりより、おもしろがる気持ちの方が強いのだ。

 とっくに、みこの中身が、愛乃になっていることには気がついている。


 かたや、ノヤの方は、左隣から気遣わしげにこちらをのぞきこんでいる。みこと愛乃の区別がついているかどうかはしらないが、その心遣いが滅法、ありがたい。


 若者三人は、からかいとも期待とも、責めるともつかない目を、こちらに注いでいる。


 ……いかんともしがたい。


 愛乃は腹をくくった。


 深く息を吸うと、ゆっくりと場をみわたす。愛乃にできることといえば、ピアノくらい――だがおそらく、ここに、音階のある楽器はのぞめない。


 あるのは、身ひとつ。

 やれることは、かぎられている。


 おもむろに立ちあがる。裸足にサンダルの、両足で土を踏みしめた。

 大きく息を吸う。

 天を仰ぎ、(こずえ)のはるか星の光をみて、目をとじた。


 ――ままよ。


 アルトの声。ソプラノにとどかない高さは、みこも同じだ、たしか……脳裏で交わした会話と、この体でしゃべったときの僅かな記憶しか、手がかりがないけれど。


 声楽もどうせそのうち、かじることになる。ピアノをつづけていくなら。

 十八番(おはこ)などないから、このごろ音楽の授業でならった曲にきめた。


 木の葉陰をいとしむ歌。


 伴奏はない。夜の風の空を抜ける音と、葉のすれ合う音と、地をゆく小さな虫の足音、羽音ばかり。


 最初の発声で、全身がふるえた。いつもの勢いでいくと、みこの小さな体が声量を支えきれないのだ。

 足を踏ん張り、おなかと気道をさぐりあて、声の高さをととのえながら、つづける。

 若者たち、ノヤ、それにヨクが、珍しげにこちらをみている。


 みならい程度、と、よくいってくれたものだ。

 ハードルをさげてくれて、たすかった……それだけはヨクに感謝するところだ。

 きかせるほどのものではない。それでも、いま、愛乃が彼らにかえせるものは、ほかにない。


 音量も音程も、なんともものたりなかったが、ややうろおぼえの歌詞をどうにか歌い終える。

 こわごわ、皆に目を合わす。

 若者たちは頷き、笑んで、(たた)えることばをつむぎながら杯を愛乃へまわした。


「まあまあですな」


 ぽそりとつぶやいて、ヨクが杯を渡してくれる。石や木ではなく、骨のかけらでできたもののようだ。

 む、と、思わないでもなかったが、愛乃は素直に杯を受けた。


 ここは最大級の褒めことばとしてもらっておこう。

 この、えもいわれぬおじいさんに、ささやかでもみとめられるなんて、この先、そうそうあることとも思えないから。


 左隣からノヤが、干した木の実を差しだしてくれる。……ともすればみはなしがちなヨクにくらべて、ノヤのこのやさしさは、どうしたことだろう。


 愛乃はその場に膝を折り、木の実を口に運んだ。厚い皮の下のやわらかな肉から、染み出したすっぱさが、(にわか)につかれた喉にきいた。


 なにはともあれ、ひとまず、きりぬけたらしい。

 ノヤの腕にもたれ、すわりこみながら、愛乃は腹の底から息をもらした。




独唱は「オンブラ・マイ・フ」です。

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