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天地の詩(仮)  作者: AF
4/14

3 名






 肩にかかる長い黒髪。まなじりのきれあがった、大きく黒い眼。

 はるかをみつめる(さと)い瞳と、星のまたたく音までききわけそうな耳。不釣合いな小さな双手(もろて)は、なににもすがらず、細い腕はなにかを抱えられるほど、たくましくない。


 《世にかけがえのない、ただひとりのおかたであらせられる》


 ――あの子。


 ずんぐりした巨体を毛皮に(うず)めた守り手、ノヤと、自らを《神の語り部》と名のる摩訶不思議なおじいさん、ヨク。


 あの二人に、あそこまで全力で疾走させるなんて。あの逃げかた――音のない走りかた、息のころしかた――念には念をいれたというか、堂にいりすぎていた。


 追われているとみえたのは、あの子自身か、それとも他の二人なのか。


(何をやらかしたんだろう)


 土日はピアノの練習にあけくれる合い間に、ふと思うのは、そのことばかりである。


 はじめにあの子として目がさめたのは、洞窟の中だった。

 洞奥に僅かな炎が焚かれ、外は夜。寒風吹き抜ける荒れ野の、満天の星空のもとだった。

 つぎが、もうあれだ。朝、いや、あれは昼だったのだろうか? 薄日のような薄曇りのような、低い、ひんやりした白い空だった。

 みたこともないような……というのも、おかしいか。あんなに星の多い、くっきりした夜空も、愛乃はかつてみたことがない。どちらも、ひどく空が近かった。山の上にいると老人がいっていたのは、その通りだったと思われる。


 そしてあらわれた動物を、しとめた狩人。

 狩人は彼らをみつけたが、あのあと、追ってきたのだろうか。


 土曜の朝は、いつもよりゆっくり起きて、着替えも朝食もまだだったし、愛乃の眠っているあいだに何者かが愛乃の生活をジャックしたあとはなかった。

 ピアノのレッスンまでの時間を、愛乃はおもに練習についやし、レッスンからかえってからも気のすむまでピアノを弾いた。合唱部の伴奏曲も何度か弾いてみた。


 きょう、日曜は練習をほどほどにきりあげ、先週の授業の復習と、今週の分の予習を一応、多めにやっておいた。まだ、なにごとかがおこらないともかぎらないし、それに、やっておいて損ということはないはずだから。


 水曜には部活だ。すぐ月がかわって、翌々週には定期テストのテスト前期間がやってくる。部活動は全面停止となる……先週いけなかったのは、案外、痛手だったのだ。


 週、一度しか、会えないのだ。


 先々週は祝日だった、今月は、二度しかない――机の上のラップトップで音楽をかけ、ベッドに寝ころんで、携帯端末のカレンダーをながめる。そのうち、画面に流れていくユミやクラスメイトたちの他愛ないやりとりにまじりこんでいく。


「再来週みんな休みっしょ。一日くらいいいよね~」

「化学……死んだ」

「化学室の亡霊がおるww」

「何じゃ、このひかる板のおもちゃは。あの居間の覗き見とはちがうのか。よくこうもひかる板ばかりもてあそぶものじゃのう」

「誰か数学おしえて☆★☆★ Help me!」


 愛乃は端末画面をしばしみつめた。


 ……。

 なんかいま、画面にない発言がまぎれた。


 高速でログをスクロールして文字がないのをたしかめる。


「ダウト――!」


 思わずさけんだ。


「このあほわがまま小娘! よくもいまさら出てきやがってのこのこと!」


 我にかえって脳内にさけびをとどめると、いっていることが若干、めちゃくちゃになった。


「それはよい。何じゃ、これは。しるしか?」

「よくないわっ! あのねえ、ゆるさないわよ、あんな点数わたしの代わりにとって……っ!」

「なにごとじゃ。それより、其方(そち)、ぴあのは弾かんのか。あの鳴物(なりもの)は悪うない。いまもなにやらきこえておるが」


 愛乃は机上の四角い画面をちらとみた。


「――どうも金臭(かなくさ)いの。好かぬ」


 ふぅうぅぅ……。


 愛乃はことさら、大きな溜め息をついた。


 ひょいと身をおこし、ベッドからおりてラップトップの音楽をとめる。

 ついでに椅子に腰をおろす。幼女がやたら食いつく携帯端末は、とりあえず枕もとにおいてきた。

 ニュースのヘッドラインをチェックしていると、頭の半分くらいが鬱陶しいほど怪訝(けげん)な気配を発し始めている。


 なに、これ。


 堪えかねて、愛乃はじきラップトップの電源を落とした。

 PCが静かになると、ようやく少し、胡乱(うろん)なオーラが霧散していく。


「なんなの、もう……パソコン、きらいなの?」


 頭の中に話しかけると、幼女は憤然といいはなった。


「好かぬ」

「わかった、わかった。消したよ、これでいいんでしょ?」

彼方(あっち)の小さいおもちゃはなんとかならぬのか」

「ええ? 無茶いうな!」


 うるさくてかなわぬ、と、ぶつぶつ幼女はいっていたが、愛乃にこれ以上、譲る気はなかった。

 携帯をきれなんて、このなんでもない状況で、傍若無人にもほどがある。


「サイレントにしてるし、静かなものじゃない」

「ひりひりとやかましい……いつ何処(いずこ)でもこの音がする。おかしくなりそうだ」


 もともと正気ではなかろう、と、愛乃は思ったが、口には出さなかった。


「きこえておるぞ」

「……」


 迷惑な小娘である。


 そうそう、しかし、(こと)ここに至っては、多少、打ち()けてもかまわないという気もしていたのだった……つとめて思いだそうとしなければ忘れそうなほど、あらためてこの声をきいてみると、何だ、ほんと、鬱陶しい。

 声など妙に迫力があるし、とても四歳の幼子(おさなご)とは思えない。あの見た目さえみていなければ。


 瞑想して気持ちを落ち着けるのに、数秒かかった。


「ちょっと色々、ききたいことがあったのよ……あ――」


 あんた、というのも、なんだか雑すぎるか。


「みこ」

「何じゃ」


 また一々文句をいわれるかと思いきや、幼女はすんなり、その呼び名にこたえた。


 好きに呼べ、といっていたのは、ことばの綾でも虚勢でもなかったらしい。

 とまどいながら、愛乃は、抱えこんだ疑問を選別しようとこころみる。


「古文のテストは、まあいいわ、とりあえず……それより、みこ、わたしが夢にみてることは、あれは、あんたの生きてる場所のことなの?」

「ノヤとヨクにまかせておってよいぞ。其方が下手(へた)を打っても、大事(おおごと)にはならん」

「ほお……」


 まともなやりとりふたことめにして、もはや、こめかみに青筋が浮きそうなんだが、どうしてくれよう。

 ひくりと片頬を引きつらせながら、愛乃は一応、平静をたもつ。


「あんたマジで四歳なの?」

「そうじゃ。其方、いくつじゃ」

「十六」

「じゅうろく、とは、いくつじゃ」

「四歳の四倍よ。え? 数の数えかた?」

(とお)は超すか」

「え、だから四が四つ、だから十と六つ――」

「十と六つか。子はいくたりおる」


 椅子の背もたれについていた肘がすべり、愛乃は脇をしたたか打った。


 地味に痛い。


「何じゃ」

「子――子!? いないよ、みればわかるでしょ!」

「おらぬとは、恵まれなんだのか。はや、よそへ出したものかと思うておったのに」

「いやいやいやいや」


 ――いやいやいやいや!

 どういう世界で生きてるんだ、この子は!


 いや、ああいう世界ですよね、わかってないけどわかりますとも! 何なの!

 どこの未開の地なの!?


母御(おもと)は穏やかでなかろう。その歳で子がおらぬとは」

「いやないないないホントに。マジで。ないから。大丈夫」


 心の底から余計なお世話だ。

 幼女は何もいわなかったが、なんとなく不思議そうな気配をしているのが、頭のなかばに察せられた。


(あーもう、何なの、ほんとに……)


 ギャップがありすぎる。なにか、いろいろなものの。


 価値観とか、哲学とか、それ以前の何か。

 根本的に、ちがう気がする。

 もう、どこから何をきけばいいのかもわからない。


 こまった挙げ句、愛乃は手近なわかりやすい疑問を蒸しかえした。


「ところで、みこ、あの古文のテストはどういうことなの」

「てすととは」

「古文の小テストよ。あんたが名前も書かないで零点とった燦然たるあれよ!」

「はて。何のことじゃ」

「とぼけっ――てるのか本気かしらないけど、わたしがいない間にわたしの体であんた学校行ったでしょ! 朝の小テスト、水曜日の!」

「さてはあの一葉(ひとは)のきれか」

「~~? 多分それ!」

「あかい大きな丸がついてきた」

「それ! それだっ――~~」


 その認識か。


 だめだ、こりゃ。

 ダメ出しする方が間違っていた。


 頭の中で興奮しすぎて、愛乃はいたく疲労して机につっぷした。


 だめだ、この子。テストを単なる紙切れとしか思っていない。


 不断の努力も、こうなるとひとかけらの意味もなさない……。


 なさけない気分になって、愛乃は両腕の中で鼻をすすりあげた。


「泣くほどのことか。名をかけば善いのか」

「う――ううん、やだ、絶対名前なんて書かないで。死んでも書かないで。頼むから」


 放っといてくれ。それがせめてもの手向(たむ)けである。

 よかろう、と、みこが神妙に頷くのが、なんだか、一周まわって可愛らしく思えてしまった。


 ……あれ。


 新種の病気かもしれない。


 この子を可愛いと思うなんて、精神疲労のピークだ。ノイローゼだ。

 あ、そうか、ノイローゼの産物だ、きっと。


「みこ、ノイとローゼ、どっちがいい?」

「何の話だ。それより、其方、()もときにがっこうとやらへいきたいのう。あしたはゆくのか」


 ん。


 愛乃は腕の上で横をむき、ぱちりとまばたいた。


 いま不適切な発言があったな。


「何の話かな? あしたもあさっても、わたしはわたしの生活を送るのよ」

「たまには()かろう。名をかかなければ善いのであろ」

「よくないわ。バカ」

「さからっても此は宿るのみじゃ。苦しゅうないぞ、其方は此の体へしばし(かけ)るがよい。ノヤは善き守りであろう」

「ちょ、やだやだやだ、ふざけんな、バカ小娘、わがまま娘! テスト前なのよ!」

「あのきれやひらなら、何もせんで善いのであろう」

「善いわけあるか! ないわ! やめてっ、頼むから――お願いだから!」

「慌てずとも、此がすべて善きにはからっておく。其方もみたであろう」

「あ――」


 脳裏に、あのはちゃめちゃな一日がフラッシュバックした。


「あれが問題なのよ! なんなのあんたのその善きにはからうアレは!」


 相手もところもかまわず、なにもかもがみこのいいなりに組み替わってしまう。


 愛乃の生活史上、あれよりおぞましい光景もみたことがない。


「皆、(したご)うてくれたのじゃ」

「やめろ! 従えるな! 友だちだったり先生だったりするのよおかしいじゃない」

「従えてはおらぬ」


 歳のわりにやけに落ち着いている声が、急に、一段高くなった、ように思われた。


「みつけぬことゆえ眺めておったら、彼方が手を伸べてよこしたのじゃ。ふり払うも情けなきことじゃろ。付き()うてなにが悪い」


 あれ。


 ()ねているらしい。

 声も、気配も。


 咄嗟に機嫌をとろうとしてしまうのは、(したのこ)持ちの(さが)なのかどうか。


「え、と、なに。じゃ、みこがみんなを(あやつ)ってるんじゃないの? 勝手にああなるの?」


 そうじゃ、と、鼻を鳴らすようにかぼそくこたえて、頭の半分がつんと押し黙る。

 えーと、と、頭の中でつぶやき、時間をかせぎながら、愛乃はききかじった情報を整理した。


(えー……、つまり、みこが望んでああなっているわけじゃなくて、みこが不便に思ってると周りがオートでたすけてくれるわけで。それでみこは学校に行きたいと……)


 それで学校にいったとすると。


 ∴ わたしの学校生活、はちゃめちゃ。


 証明完了。


「わかった」


 押し黙っていたところが、(にわか)に華やごうとした。


「学校はわたしがいくから。みこは自分の体にいなさい」

「――此の宿りでもあるのじゃぞ! おぼえておれ!」


 捨てぜりふを(つね)になくさけばれ、愛乃は反射的に両耳をおさえた。頭の中にひびく声相手では、意味などなかったけれど。


 あれ? と、即座に反省する。


 もしかして、甘いことをいって、なだめすかしてごまかすのが、正解だったのかもしれない。


「みこ? みこー?」


 みこちゃん、みこやーい、と、脳裏で呼ばわってみる。


 もとは自分一人のはずの体と部屋で、これほど奇っ怪なこともなかった。


 自分以外の誰かの気配は、頭の中のどこからも失せている。


 ……やってしまった。

 まだほかにも、ききたいことが山ほどあった気がするのに。


(こういうところは、コドモっぽいというか、歳相応というか)


 わざとはっきり、ことばとして意識に浮かべてみる。

 それでも、ひとたび消えた他人の意識が、もどってくることはなかった。


 そこまでは、こどもでないということか。それとも、ただきこえていなかったのか。


 愛乃にはしるよしもない。

 短く溜め息をついて、愛乃はベッドへ引きかえした。



       ◇



(しまった……)


 乾いた大きな空気の塊がゆっくり絶え間なく吹き抜けていく。


 手足の先に風がふれている。またきてしまった、と、思わざるをえない。


 周りのほとんどは闇に覆われていたが、目の前の、ぽっかりあいた僅かのところだけがあかるい。昼間か、少なくとも夜ではない。

 視界のせまさはなにごとかと思えば、やはりずんずんあるいているノヤの背におぶわれて、今度は上着の上からまるごと黒い毛皮の中におさまっているようだった。


 長い毛皮ごしでない肩に、初めてつかまっている。

 なるほど、硬くて分厚く、毛皮のうちがわなのも相俟(あいま)って、むっとするような熱と湿り気があった。


 いやではない。外の乾きにくらべたら、よほどほっとするようである。

 いつも、いかにうるおっているかということだな、と、愛乃は生まれそだった島国につかの間、思いを()せた。


 もぞりと顔をあげると、左目の端で、隣をすすむヨクがぴくりとこちらに反応したのがみえた。

 どうやら早くも、幼女が――否、愛乃がめざめたのに気がついたらしい。


 超能力みたいな勘のよさである。


「さて、しごとになりますな」


 かたちばかりといった響きの、丁寧なことばづかいで、ノヤではなく、愛乃にとどくようにもらすのだった。


 愛乃は前をみはるかす。黒い土がこりかたまって苔だけがちらほら生える平野の、遠く、かなり遠く。

 小さいが、こんもりしげった青っぽい森と、その木々をすかして(いおり)が、テントのようなものがみえる。


 人の――すみか。


 あの狩人を思い出し、愛乃は息をのんだ。


「さきぶれは済んでおる。仮の宿りを()うといたしましょう」


 ひらたい、落ち着いた声音でいって、ヨクは足取りをみださずノヤとともにそこへむかっていく。


 いま向かっているところの人は、敵というか、追いかけてきているらしい人の仲間ではないのだろうか。とりあえず逃げるべき相手ではないらしい。どうにかこうにか、それだけ察して、愛乃はただ、たくましい肩にしがみついた。


 まかせていいと、みこはいっていた。どのくらい信じていいかわからないが、いまはあれをあてにするしかない。


 ほとんど起伏のない平地で、視力のよさも手伝って、実際()()()()離れていたのかわからない。しかし、愛乃の体感としてはそれほど間もなく、二人と愛乃は森の入り口に差しかかった。

 庵は全部で八つほどある。そのほかに、奥に、背丈の同じ木の(こずえ)をむすびあわせて、(むしろ)のようなもので覆った大きな天幕があった。

 入り口はあけはなたれている。中から一人、裾の短い衣をまとった若者が出てきて、腕をふって内へとうながした。


 ……歓迎ムード、なのだろうか?


 ヨクのいう、さきぶれとやらのせいなのかどうか。その若者や、庵と天幕とを行き来する四、五人ほどの男女に、こちらを警戒したり、邪険そうにする様子はない。


 ヨクはにぎっていた杖を手近な幹に立てかけ、上掛けをはたいて埃を払う。

 ノヤも、頭から肩、膝の辺りまで、同じことをしたようだが、愛乃はその背におぶさったままだった。


 おりなくていいのだろうか。


 身じろぐと、途端に、ノヤの腕にやさしく背負い直される。

 別に、つかれてもいないし、これから挨拶するのならなおさら、自分の足で立つべきかと思ったが――ちがった、自分じゃなくて、みこの足なんだった、と、思いかえした。


 ここは、ひとまず、ノヤにまかせてみよう。

 あの生意気な小娘は、愛乃が下手を打っても云々(うんぬん)いっていたけれど。なにもわざわざ、自ら下手を打つ必要はないだろう。


 ノヤに背負われたまま、入り口をくぐって天幕へ入る。中は薄暗く、すぐ目が慣れると、思ったよりひろびろしていることがわかった。周りのすき間から細く光がさしこんできているほか、入り口のほぼ正面に窓のような穴がうがたれている。


 片隅に敷かれた莚の上に、あぶなげなくおろされた。ひんやりした空気と、ゆるぎない地面。おぼえず、ふっと息がもれる。

 入り口をみかえすと、ヨクが逆光の中に立って、この集落の人らしい女性からなにかの袋を二つ三つ渡されていた。


 ノヤは莚に腰もおろさず、愛乃の目の前にかがんで、むきだしの土の上になげだされた小さな足の、サンダルの紐をゆるめ始める。

 うわ、と、愛乃は(まど)う――いつか、六連(すばる)が昇降口で靴をはきかえさせてくれるのを、黙って受けとめたことを思いだす。あのときは、ことわろうにも、ことわれなかったのだけれど。

 みこはこれが当たり前だったわけだ。


 おもはゆいというか、くすぐったいというか。

 たまらなく、気恥ずかしい。


 ノヤはすぐ立ちあがり、やおらに黒い重たい毛皮を脱いだ。


「……」


 愛乃はあっけにとられて、その一瞬をみつめた。

 ――大きな毛皮がこちらの背中にまわされ、細い首を埋めるように肩にかけられる。

 目をみはったまま、愛乃は間近の人をみている。


 意外に淡い茶色の髪と、強い、やや濃い色のひげ。袖と丈の短い衣を腰の帯でとめ、腕と脚は革で覆って紐を巻きつけている。

 ひげも髪ものび放題で、やっぱり、目もとも口もともみえないけれど……引き締まった、バランスのいい体。肩幅はひろく、がっしりしているが、足腰は思いのほか、ふとくない。余分な肉のない、ただ、しっかりしているという印象の。


 はじめは熊とみまごうたものを。


(どれだけ恐慌(パニク)ってたの)


 (おのれ)をかえりみる。思った以上に、きっと、かなり若い。この、ノヤという人は。


「ノヤ」


 ヨクに呼ばれて、入り口へいくと、ノヤは無言で手になにかを受けた。ヨクはその場にとどまったが、ノヤの方は引きかえしてきて、また愛乃の目の前にかがんだ。


 小さな、ノヤの手にあるとひときわ小さな薄手の皿に、水がはられている。考える前に唇に添えられ、こくりとのみくだす。

 つづいて木の実のようなものを一つずつあてがわれ、一も二もなく(くわ)えて噛みしめた。


 ……勢いだったのだ。

 あまりに自然で、さからえなかった。


 思いかえせば、顔から火が出るほど、恥ずかしい。

 顔をかくすように、うつむいて咀嚼(そしゃく)し、嚥下(えんか)した。


 ふと、声がふえたと思ったら、入り口にもう一人、女性がやってきて、こちらをのぞきこんでいる。こちらに、というか、どうやらノヤに興味があるようなのだが、ヨクがやんわりおしとどめているらしい。

 さっきから、ことばも交わしているようだが、うまくきこえない。


(あれ?)


 ――いや、きこえないのではない。

 ききとれないのだ、と愛乃は気づいた。


 この幼女の体は、目だけでなく、耳も、ひょっとすると鼻も、愛乃自身よりかなり敏感だ。この近距離で、きこえないということはない。

 だって、二人めの女性が外から近づいてくる足音すら、いま思えば、ひろっていた気がするもの。

 それなのにうまくきこえず、ときどき単語だけわかるのは、つかうことばがちがうせいだ。

 ヨクからきいているものとは別の、独特の節まわしがある。語彙がまるっきり(こと)なるというわけではなさそうだけど。


 なまりのようなものだろうか。ヨクの声は、よくきけば、それほど普段の話しかたとかけ離れているわけでもない。

 慣れるには、すこし時間がかかりそうだ……そんなことを思っていると、変わらず目の前にいるノヤが、皮袋から水を皿にとり、また愛乃の唇にあてがった。

 思わず、自分の手でとり直し、愛乃はかるく頭をふってノヤから身を引いた。

 何をいうでもなく、ノヤは手をはなし、前髪と眉の奥からじっと、こちらをうかがっている。


(ほんと、(しゃべ)んないな、この人)


 気まずい。


 とにかく皿の水をのみほす。ノヤは満足したのか、からの皿を引きとって帯の辺りに仕舞い、愛乃にかけた黒い毛皮に手をのばした。小さな体に丁寧に巻きつけ、毛皮の一部を枕のようにして、横にならせる。

 まごつきながらされるがままになり、愛乃は幼女の身を横たえた。


 休憩、なのだろうか。


 ヨクは何といっていたっけ。仮の宿りが、どうとか。ヨクの話すことも、そういえば、正直、半分くらいしかわかっていないかもしれない。いや、半分ならまだいい方かもしれない。全然わかってないかもしれない。


 どうも、うまくいかない。

 第一、みことだって、まともな意思疎通なんてできていないのだ。


(そもそも、なんで)


 なんでわたしなんだろう。


 みこがここにいて、なにかのきっかけで愛乃の身にうつって。

 それで、なんで。


(わたしがこんなちっさい体でみこの暮らしかたしてるの)


 ………………謎すぎる。


 ノヤの大きな左手が、毛皮の上から二の腕にふれている。

 幼女の小さな肩ごしに、()(ぐる)みみたいな腕の上に、ことさら大きくみえる。


 長い、硬い毛にはばまれ、それほど伝わるわけはないと思うのに。


(温かい)


 なにがなにやら、ちっともわからない。ほとんど夢だと思うのが、たしからしいと思える。


 それなのに。

 この、すべての出来事が、夢というには生々しいのである。






 あたたかさとともに、あかるさがゆらめく。ぱちぱちと(こま)かにはぜる音。人が(つど)い、(にぎ)やかで、熱と水のもとがこの場に満ちている。楽しげに、絶えない話し声。手足のふれ合う音。


 ぼんやりと、さまざまの音をききながら、愛乃は(うわ)まぶたをあげた。


 広間の真ん中に小さな火が焚かれ、人々があつまっている。主に、年配の男性と、としごろの女性のようだ。六、七人ほどのその中に、みおぼえのある姿……ヨクがまじっている。女性や、男性と(さかづき)を交わしながら、ほがらかに笑い合っている。


「――ッ!」


 驚愕して、愛乃は跳ね起きた。


 もどっていない!


(なんで!? いままでは――)


 愛乃は天幕の窓をみる。外は夜。まっくらになっている。


 何時かはっきりはわからないが、今回、ここにきたときは昼だった。外のあかるい時間だった。


 いまが夜。――それまでに、愛乃が、一度でも、愛乃の世界にもどったおぼえはない。


(…………嘘)


 ぞっとする。


 そんなこと。

 これまでは、なかった……すぐ、もどれていたのだ。いままで、みこの体にいたのは、精々、長くて一、二時間。それも、何がおこっているのか、目の前のことを理解するより早く、いつの間にやら愛乃の世界にもどっていた。大抵は、みこの体で、眠ったり、何をするでもないあいだに。


 すでにひと眠りした。そのあいだにもどれるものと、何の根拠もなく信じていた。


(嘘――)


 脳裏にみこの気配をさがすが、毛ほども感じない。

 嘘、冗談でしょ、みこ、と、頭の中で繰りかえすが、返事はどこにもない。


 《此の宿りでもあるのじゃぞ》


 あの捨てぜりふ。


 《おぼえておれ!》


(《おぼえておれ》じゃないわよバカ小娘!)


 衝動的に泣きそうになって、愛乃は起きたばかりの枕につっぷした。


 周囲では、天幕の中でうちとけた食事の会がひらかれているようだが、とてもそちらに気をまわす余裕などない。


 ――怖い。


 本当に涙が出そうだ。


 このままもどれなかったら、どうしよう。


 みこにいままでのすべてを持ち去られて、自分はこのまま、たよりない体と手足で、何もわからない、途方もない、ひろい世界にとりのこされ、生きていかねばならないとしたら。


 不安におしつぶされそうだ。


「――」


 不意に、頭の間近に、誰かがひっそりと身をよせてきた。


 誰か……いや。

 疑うまでもない。

 しっている。


 愛乃は顔をあげ、涙で霞む目の前にノヤの面輪(おもわ)をみとめた。

 みこの声が、また、どこからか()きあがってくる。


 《まかせておってよいぞ》


 わがままめ――その手にのるものか。


 己の指先で涙をぬぐい、愛乃は目をしばたたいた。


 いくら、なにもしらない世界で、心細い思いをしても。

 いくらノヤがたよれる相手でも。


 みこが、みこの身を彼にまかせるように。


(わたしがわたしをまかせちゃいけないだろう)


 そういうわけには、いかないだろう。


 愛乃がしていいのは、みこの身を、この人にゆだねることだけだ。

 それくらいだ。


 愛乃がひたすら涙をぬぐっていると、ノヤはしばらく気遣わしげにこちらをみつめたあと、手もとで何かを裂いてこちらへ差しだした。

 受けとると、身ぶりで、口もとへとうながす。

 あかい、細い切り身のような――干した肉のようだ。食べろということらしい。

 愛乃が泣いているのを、まさか、おなかがすいているせいとでも考えたのだろうか。


(そんなこどもみたいな)


 失礼な、と思いつつ、空腹なのもたしかだったので、愛乃は素直にそれを口に運んだ。


 おいしい。


 硬くて、最初はほとんど味がないかと思ったけれど、噛みつづけると徐々に塩気とうまみが出てくる。

 黙々と噛んでいると、ノヤが手もとの塊を裂き、二切れ、三切れと渡してくれた。

 ……釈然としないが、食べつづけるうちに、泣きたい気分もすぅっと引いていった。


 これじゃまるで、ほんとに、おなかがすいていたから泣いたみたいである。

 いけない、()(なず)けられているのかもしれない、その手は食うものか……。


 ひくりと、ときどき鼻でしゃくりあげつつ、食事に専念する。じき、気もまぎれて辺りに目をやると、愛乃の発作みたいな涙などどこ吹く風、ヨクを囲んだ大人たちの(うたげ)はあくまで楽しげである。


「かたって、語り部さん」


 ヨクの隣にすわる女性が、耳慣れない抑揚(よくよう)のことばで、それでもそういったのが愛乃にもわかった。

 周りの大人も口々に同じことを請う。ヨクは食べるのをやめ、杯に少しの飲みものをもらって、なめるように僅かにのむ。

 ちらりと、まばたくあいだほど、愛乃を尻目にした。


「ひとつ、やろうね」


 その場の皆とほぼ同じイントネーションでこたえ、杯を(かたわ)らにおく。わっと、周りがささやかに沸いた。


 ヨクは丁度、一座のこちらがわにすわって、愛乃とノヤに背をむけている。胡坐(あぐら)をかいているようだが、右膝しかみえないのは、左膝を立てて肘置きにしているらしい。


 (かし)いだ肩と背筋の線が、おもむろにまっすぐになる。

 左膝と、両肘がゆったりとおろされた。綺麗な線対称から、右手だけがかるく右の膝上に添えられる。


 タン、タンと。

 節ばった細長い手が、やにわに強い力をこめて、膝を打ち鳴らした。


 拍子のつづくにつれ、遠くにいる者、こちらの様子に気がついていなかった者も、ヨクに視線を注ぐ。

 天幕内のすべての目――そして、幼女の耳がひろった、おそらく天幕の外にいる者たちの意識までひきつけて。

 ヨクは(あご)を引き、低く、それから朗々と(うた)い始めた。





 それは創世の(うた)だった。



 (あめ)のなり (つち)なり

 ()と水のなり

 ひるとよるのなり

 山と(わた)のなり


 風のふき

 波と(かみなり)なり

 炎なり


 くさぐさ

 しげる夏めざめ

 しみる冬ねむり


 ときどき

 すゑにあれ

 とことばに

 八つ代なれ



 多分、神さまの詩で、そして人の詩だった。


 ヨクが謡いあげると、余韻をききもらすまいとするように、辺りが――天幕の内も外も、しんと息をこらした。


 それから、耐えかねたように、どっと皆、どよめいた。

 手を打つ者、褒める者、食べものや飲みものをヨクへ与えようとする者。肩を抱き、膝を叩き、高らかに声をあげて(たた)える。


 ヨクを讃え、それでいて、それよりもっと。

 神さまを讃えるのだ。


 真ん中の炎に照らされた、あかあかとした広間の人々を、愛乃はぼんやりながめた。

 ――《神の語り部》。

 ヨクが、そう名のるわけが、はっきりわかった。


 これは、たしかに、しごとだ……ひとつの芸である。声の出しかたも、(ふし)のとりかたも、素人(しろうと)のわざではなかった。

 こんな……ばかにするつもりはないけれど、録音機器も、楽譜も、音階のある楽器の有無さえあやしい文明前の荒野で。

 ヨクの(うたい)は、おどろきだ。奇跡のような、ひらめきのようなものだ。


 誉めそやされ、称えられ、ヨクは皆々と笑いながら皿と杯を交わす。ことばを交わし、ふたたび詩をいき交わして、ここの大人たちのくちすさぶ(うた)まできき、のみこんでいく。


 その輪に、静かにまじる一方、みごとに一線を画したところで。

 愛乃はほとんど息をひそめてすわり、そばにいるノヤから、ときおり木の実や干し肉、飲みものを差しだされては受け、口に運ぶ。


 《神の語り部と、申しておりますな》

 《世にかけがえのない、ただひとりの》……。


 短い、白い、ふっくらした、小さな指をふとみつめる。


 みこ。

 ――この幼女は。


 顔をあげ、(かたえ)(うずくま)るノヤと、こちらに笑んだ横顔をのぞかせるヨクを目にうつす。


 追われていて、たった三人(みたり)で、岩だらけの山を駆けぬけ、こうしてしらぬ人々の輪に親しげにむかえられている。


 この人たちは、何者だろう。






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