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彼女と檸檬



 あれは確か、付き合い始めて一年くらいした秋のことだった。


「あなたが一個の檸檬(れもん)なら、私は鏡の中の檸檬」


 そんな風に突然、彼女が詩を口にしたことがあった。大学の庭を、肩を並べて歩いていた僕ら。意味を探るように目を向けると、彼女は小さな口で続ける。


「そうやって、あなたと静かに向き合っていきたい。そんな詩を、昨日読んだの」


 彼女は実直で真面目で、簡潔な人だ。


 冗談や軽口を言わない。だからこそ、普通なら言えないような言葉だって、平気な顔で言うのだ。大学ではいつも一人で歩いていた。僕はそんな彼女が気になって声を掛け、ゆっくりと時間をかけて恋人になった。


 詩の話の翌日、僕は駅の近くのスーパーで檸檬を買った。


「はい、檸檬」


 お昼休みの、学食から少し離れた人気(ひとけ)のないベンチ。そこで手渡そうとすると、彼女は驚いていた。


「どうして檸檬なの?」

「昨日、檸檬の話をしていたから」


 とんちんかんな返答をして、檸檬を手に持つ僕の姿。思えば随分間抜けだっただろう。それでも彼女は驚いたような呆れたような間を空けると、鼻から空気を抜いて、微かに笑った。


「今日は檸檬記念日ね」

「サラダ万智」


「俵万智よ」


 それから彼女は手にした檸檬をしばらく見ていたが、何を思ったのか齧りついた。


「酸っぱい」

「齧りついた」


「こんな風に渡されたら、齧りついてみたくなるじゃない。どう?」


 向こう側に彼女の歯跡が入ったレモンを前に、僕は唾を飲む。


 檸檬を見ていたからというのもあるけど、僕たちは大学生なのに中学生みたいな交際をしていた。まだ、キスだってしていない。それを彼女が許さないのだ。だから檸檬を手に取ると、少し回して、思い切って彼女の歯跡に自分のものを重ねた。


「あっ、ちょっと」

「す、酸っぱ」


 彼女は僕の行動に抗議しようとしていた、でも、僕はそれどころじゃなかった。


 本当に、物凄く酸っぱかった。思えば檸檬に齧りついたことなんてない。そもそも酸味に弱い家系だ。ペッペと唾液と共に酸っぱさを吐き出したかったけど、彼女の前でそんなことは出来ない。


 結果、次々に変な顔になって酸っぱい酸っぱいを連呼する羽目になる。


「うわ、本当、酸っぱい、酸っぱ」

「くっ」


 酸っぱさに振り回されていた僕が顔を上げると、彼女が笑いを(こら)えていた。「ちょっとごめん」と彼女は言うと、顔を背け、口を片手で軽く覆う。ふふ、ふふ、という震えた声を出し、耳は赤くなっていた。


 そんな彼女を見て、僕は一時的に酸っぱさを忘れた。彼女も僕が仕出かしたことを忘れた。やがて、落ち着いた彼女が目じりに涙を浮かべた顔を見せると、今度は、秋なのに晴れ晴れと、噴き出すように笑った。


 それは僕にとって、初めての体験だった。彼女は軽くや緩く笑うことはあるけれど、大笑いするようなことはないのだ。


 それ以降、僕は檸檬を持ち歩くようになった。何の前触れもなく彼女に手渡す。彼女が「もう」と、僕の破廉恥を叱るような、それでも何かを期待するような顔で檸檬に齧りつくと、その跡に僕は自分の歯を入れる。


「酸っぱ」


 僕は当初の目的を忘れて、本当に酸っぱくなる。酸味に翻弄される僕の顔を見て、彼女が堪えきれずに笑う。周りから見たら、おかしな連中だとしか思われないことを繰り返した。


 檸檬を渡された彼女は「今日こそは笑わない」と意気込み、僕も今日こそは酸っぱさに負けないと意気込むのだけど、結局お互い、檸檬に負ける。


 思えばよく分からない、そんな二人だった。


 二人の間には、それからもそれなりに色んなことがあった。彼女との交際は続き、就職が決まり、大学を卒業する。でも、どんな仲違いも、誤解も、すれ違いも、涙も、檸檬の奇跡でどうにかなる、そんな二人でもあった。


 そして、容姿としての釣り合いこそ取れていないが、自分で言うのもなんだけど、僕たちは中々にお似合いの二人だった。


 ひょっとすると、僕たちとすれ違ったことがある人もいるかもしれない。日常の風景に溶けて、忘れ去られてしまう。違和感のない、自然な二人。



 その彼女が、亡くなった。



 会社で働き始めて、三年目。そろそろ結婚しようかと、お互いに何となくソワソワしていた頃のことで、一週間分の新聞を開けば、多分どこかに似た記事が見つけられる。そんな、世界にしたら何でもない、有り触れた事故だ。


 当時の僕は、それなりに大変だった。心の中には、孤独と沈黙の大きな湖が広がっていた。悲しみを上手く、解きほぐすことが出来なかったのだ。


 だけど時間は色んなことを解決するもので、四年もすれば、どうにか立ち直れた。檸檬のことは忘れた。思えば無意識に遠ざけていた面もあった。

 

 それが今日、檸檬と再会してしまった。


 正確に言えば、彼女が話していた檸檬が登場する詩との再会になる。客先に後輩を連れて挨拶に行ったその日、先方の記事が掲載されているという、品の良い旅行雑誌を渡された。


 お愛想を言いながら他のページをペラリとめくると、檸檬の写真と共に、彼女が話していた詩が、コラムの中で紹介されていた。動きを止めた僕に、後輩が窺うような視線を投げかける。


 いや、本当にすごいじゃないですかぁ。僕は雑誌を閉じて、お追従を述べた。それから貰った雑誌と共に、檸檬を買って、かなり早く家に帰った。携帯を見れば、恋人からの何でもない連絡があった。


 一年前に、新しい恋人が出来ていた。そんなに美人というわけではないけれど、明るくて人懐っこい、年下の女の子だ。声を上げて、よく笑ってくれる。


 それでも僕の心には、彼女がいた。引き出しの奥には捨てられずにいる、二人で映った写真を収めた、写真立てがある。久しぶりに取り出し、机の上に置いた。


 外では、世界そのものが燃え上がっているような、赤い、赤い空が渦巻いていた。彼女の歯跡がついていない檸檬を齧る。情念のきしみのような音が聞こえ、酸っぱさで、涙が溢れて来た。


 忘れることは、失うことだと、そう思っていた。

 失うことは、忘れることだと、そう思っていた。


 でも、失うことなど、ないのだ。本当の意味で忘れることもない。檸檬の酸味を忘れることがなかったように、一度経験されたものは、永遠に、どこかで残り続ける。



【 あなたがしゅろうのかねであるなら

  わたくしはそのひびきでありたい


  あなたがうたのひとふしであるなら

  わたくしはそのついくでありたい


  あなたがいっこのれもんであるなら

  わたくしはかがみのなかのれもん


  そのようにあなたと

  しずかにむかいあいたい


  たましいのせかいでは

  わたくしもあなたもえいえんのわらべで

  

  そうしたおままごとも

  ゆるされてあるでしょう ※】




 四年ぶりに負けた、檸檬の酸味に顔を上げる。鏡ではないけれど、硝子の中で静かに向き合った彼女が、いつかの日のままに笑っていた。


 その笑顔が、水に(にじ)むように淡くなる。静止した檸檬が、ぼとりと落ちた。さようならと、ありがとう。

 


 彼女と、檸檬。






※ 出典:新川和江「睡り椅子」(1953年 プレイアド発行所)より、「ふゆのさくら」

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― 新着の感想 ―
[一言] 主人公が歯形のないレモンを齧ったシーンがとても胸に沁みました。 檸檬の酸っぱさと紐付けられた彼女との記憶は大切にして生きてほしいなと思いました。
[一言] 日常のシーンが際立てば際立つほど不在の形を感じる。 その形は現実の大切さと同時に私の胸にあるもの。 私になっているもの。 そんな感じがしました。ありがとうございました。
[良い点] はじめまして、こんばんは。 一個のレモンがなにか特別なもののように、安心のもとになるような感覚が好きです。周りから見ると意味のないことでも、その人なりの儀式だったりルーティンだったり、な…
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