抹消された記憶と存在
ここはよくわからないがイセカイってとこらしい。さっきまで俺は日本にいたと思ったんだけど、さっき何もない空間で会った優しそうなおばあさんの言葉を借りると、どうやら俺は精神が死んでしまい、見兼ねたイセカイの神様が日本からムルに来させたらしい。その境遇から、俺の日本での存在は抹消されなかったことになっているようだ。その神様は俺の記憶も消した。俺が覚えているのは日本という世界からムルというイセカイに来た、という事と、タツヤという名前だけだ。
普通なら帰りたい、と思うのだろうが、俺には帰りたいなんて気持ちは全くと言っていいほど無かった。これが不思議なところで、何故か聞いてみると、これだけは答えてくれた。
「あなたの日本での境遇はね、酷いものだったのよ。そして15歳の誕生日、遂にあなたの精神は死んだ。あまりの惨さに私は、あなたの記憶と存在を抹消してこの異世界、ムルで第2の人生を歩んで欲しいと思いここに呼びました。」
どうやら俺の日本での境遇は酷いものだったようだ。俺は全く覚えていないが、精神が『壊れた』ではなく『死んだ』という言葉に妙に納得したのを覚えている。
その後、俺は異世界ムルの常識を教わり、おばあさんの提案で、この世界で生きやすいように普通の人間より少し強くして貰った。実感はないが。
「あなたともっと話していたかったけれど、私にできるのはここまで。勝手に記憶を消してしまって申し訳ありませんでした。全ては私の責任です。ですが、私はあなたを放って置けないと思いました。…あなたがもし日本に帰りたいと言っても、消してしまった記憶、抹消してしまった存在は元に戻りません。それでも帰りたいと思ったのなら、私を訪ねてみてください。」
「ありがとうございます。…よく考えてみるよ。俺の記憶は元に戻らない。それがおばあさんの老婆心からだったとしても、俺は感謝してる。なんでかは分からないんだけど…心が感謝しろって言ってるんだ。」
おばあさんは嬉しそうに笑ってこう言った。
「…ありがとう。あの扉をくぐると異世界ムルです。あなたの第2の人生に、祝福あれ」
俺は異世界の扉に向かって歩き出す。
ふと、振り返りたくなって後ろを向く。おばあさんは静かにこちらを見ていた。
「えっと…」
何か言いたかった訳ではない。ただ、なんとなくもう一度おばあさんの顔を見たいと思っただけだ。言葉に詰まるが、何故かこの言葉は口から滑り落ちるように出てくる。
「あ…俺、おばあさんに出会えて良かったよ」
おばあさんは驚いた顔をしたが、すぐに破顔した。よく見えなかったが、あれは泣いていたんじゃないかと思う。
かくして俺は、ムルへの扉をくぐる。
日本で起きた凄惨な事件を紹介しよう。
20××年、8月9日。
永岡死刑囚とその妻が捕まった日だ。彼等は、お金持ちの子どもを狙い、監禁、そして身代金を被害者家族からむしり取ったのち、子どもを殺害。これを4度行った。奪った額は、およそ2億円相当。
彼等は巧みに居場所を変え、警察に捕まらず、最初の犯行からおよそ10年逃げ続けた。
彼等には息子がいた。最初の犯行から1年後、永岡死刑囚が妻に産ませた子どもだ。
その子どもの名は永岡竜也。あるいは大地、あるいは…
永岡死刑囚は子どもに偽名を幾つか与えていた。自身ももちろん偽名を使っていた。
彼の子どもは虐待を当たり前のごとく受け入れ育った。浴槽に頭を沈める。それを行うために自身からはお風呂に入るとは言わず、竜也君がお風呂に入ると言い出すのを待って一緒に入浴していたようだ。彼は苦しむ自身の子どもを見て笑っていた。
酷いもので通電。竜也君曰く物凄く痛いらしい…それをたっぷり10秒間、顔や手、腹に当てていた。
竜也君に戸籍は無い、もちろん教育を受けたこともない。辛うじて平仮名片仮名くらいは教わったと、のちに竜也君は語った。
テレビで学校の存在を知っていた竜也君に、永岡死刑囚は、「他所は他所、ウチはウチ」と語っていたそうだ。竜也君もそれを疑問に思ったことはなかった。
父親の言うことは絶対で、言うなりになっていた母親にも死刑が言い渡された。
母親曰く、永岡死刑囚の言いなりになり、息子に包丁を突き立てた事もあると言う。
…事態は竜也君が9歳の時に急変を迎える。永岡死刑囚が捕まったのだ。
もちろん永岡死刑囚には死刑が言い渡され、竜也君は警察に保護され、施設に入れられた。
竜也君はこう語っている。
「父と母以外の人間にあったのは初めてだ。痛くて怖い事は無くなったが、周りの大人が妙に優しくてそれが逆に怖かった。家族がいなくて寂しいのが半分。ホッとしたのが半分」
それからの彼は、苦しみながら学校に通い、いじめを受けたり、トラウマから逃げられずに何度も自殺未遂を行なったり…
苦しみ抜き…そして彼が15歳の誕生日。竜也君は永岡死刑囚に会いに行った。
永岡死刑囚は
「俺をここから出すために署名を集めてくれ」
と言ったそうだ。
竜也君は、せめて自分に謝罪の言葉を、と言ったが、それに対する永岡死刑囚の言葉は「帰れ」だったそうだ。
孤独に生きた竜也君は、それから施設を飛び出し行方不明となり、今も捜索が続けられている…