プロローグ
「でっかい世界だなぁ…」
ダイアウルフの鳴き声が山を越えた先の先まで響きわたるような静かな夜。
城壁の外に広がる草原の真ん中あたり、見晴らしのいいゆるやかな丘に立つ少女のつぶやきが、夜の闇に吸い込まれていった。
たった一人、丘の上で孤独に立つ彼女は、細くしなやかな手足をしゃんとのばして目の前に広がる景色を眺めていた。幾千幾億の星がまたたく夜空、暗い草原と森、そして遠くにうっすらと輪郭だけが見える山々の形。振り返ると、都市を囲む高い石壁とその入り口から漏れてくる暖かな光が見える。
世界を見渡す少女に対し、だしぬけに低い声が夜の静寂に響いた。
「あん?今、なんか言ったか?」
ひとりぼっちの少女の近くで、にわかに響く低い声。どこからともなく響いたその声は、年季の入ったガラの悪い男のような声をしていた。
少女は声に驚いた様子もなく、落ち着き払った仕草でショートパンツのポケットに手を突っ込んだ。小さな包み紙をとりだして中に入ったあめ玉を口の中に放り込み、ガリッ、と音をたてて、あめ玉をかみしめる。
「ただの独り言だよ」
甘いいちごミルクの味がする飴は、“占いキャンディ”という名のアイテムだった。真面目に魔物を狩り、こつこつと何かを積み上げ、節制することが得意な彼女が、どうしてもクセになってやめられないものだった。一日に必ず1つは食べてしまう。
このアイテムになにか特殊な効果はない。ただ、包み紙の裏には毎回名言のような言葉が書かれている。少女は一瞬目を細めて包み紙を見つめてから、片手で握りつぶしてポケットにつっこんだ。
「今日はなんて書いてあったんだ?」
また唐突に言葉が響く。「ひみつ」とすました顔で少女はこたえた。
あめ玉を飲み込んだふっくらとしたくちびる、夜風に揺れるさらさらの短い黒髪、きりりとした黒い眉、鋭い刃物を連想させる少女の瞳はすべて、本物の人間のように生気に満ちあふれている。しかし、ここは、『Bugles World Online』という電子上に作られたゲーム世界。すなわち、彼女は血の通った人間ではなく、仮想空間上に作られたアバターなのであった。
この誇り高い野良猫に似た少女プレイヤーの名前は、『リベネ』。 プレイヤーレベルは15、白い服の上から薄い革のベストをかぶり、足には赤銅色の短パン、黒いニーハイ、えんじ色のブーツを身につけている。片手には白銀の刀身を露わにしたロングソードを握りしめていた。
激しい運動を伴ったり長時間の接続を促すゲームでは、アバターは現実の体格や身長、体重の数値をほとんど同じものにしなければならないと規定で決まっている。
現実の彼女が持つほっそりとした手足に、控えめな胸、そして艶のある短い黒髪があいまって、遠目に見ればリベネは少年にも見間違えられそうな見た目をしていた。しかし、彼女自身は気づいていないことだが、リベネの表情やまなざし、全身の動き方には、他人の目を惹きつけるような不思議な魅力があった。
「はっはーん、分かった。お前、暗くて読めなかったんだろ。しょうがねぇなあ、リベネのために俺が読んでやろう。どうだ、さっきの紙を見せてみろよ」
男の声が、もう退屈すぎて黙っていられません、という感じで言う。少女は慣れた様子ではっきりと言い返した。
「後でね。今はいつ『アポクリファ』がでてくるか分かんないから駄目」
「んだよ、連絡が入るまで来ねえんだろ。来たら俺を使ってテキトーに燃やすか、逃げればいいだけだし」
夜の時間帯になると人を襲う魔物、通称『アポクリファ』が出現しやすくなることは、このゲームにおける常識だ。おまけにこのでっかい世界に潜む危険は、新月となる今日限定で大きく膨れ上がる。アポクリファの大量発生イベント――剣を育てるチャンスでもあり、命を落とす危機でもある――もう少しでそれが始まるのだ。時間になれば、隊長から連絡が入るはずだった。
「というか、なんで俺達がこんなところで大人しくアポクリファを狩らなきゃいけないんだ?あのおっさんからの命令だってのは知っているが、それでもはっきりと断った方がよかったと俺は思うな。うん。今からでも遅くない、もっとリベネの強さに見合ったところで狩りに行くのはどうだ?」
「ううん、ここからは動かない」
「なんだよ。丁重なお断りの連絡をすれば大丈夫だろ。俺がリベネのかわりに何を言うべきか考えてやるし――」
リベネの言葉に対し、不満たらたらな文句の声が響く。まるでお気に入りのお菓子を買ってもらえず、だだをこねる小さな子供のようだ。
拗ねて好き勝手言う声をリベネはしばらく黙って聞いていたが、突然きっぱりとした口調で、低い声をさえぎった。
「シャロン」
彼女の視線の先にあるのは、右手に握った一振りの剣。少女の腕ほどの剣身を持つ立派なロングソードだった。
「正直なことを言えば、私は多分怖いんだと思う」
少女の話に耳を傾けるように、ぴたりと文句を言う声が止まる。
昨日からさ、とリベネは少しだけしおらしげな様子で続ける。
「ずっと考えてたんだ。もしかしたら、アポクリファに囲まれて死ぬんじゃないかって。そしてまた、あんたのことも、隊長のことも、今まで出会った人たちのことも全部忘れて、神殿で蘇ることになるんじゃないかって」
剣身の内側赤い光が鈍く震えた。空気が凍り付くような、一瞬の間があった。
「おい、アホご主人」
先ほどとはうってかわって静かな声で剣が言う。
「俺を見ろ」
リベネが剣身に目を向けると、散らばっていた赤い光が剣の腹の一点に収束し、光を放つ一点の表面がぐにゃりとゆがんだ。
次の瞬間、にゅっと剣から突き出てきたのは、曲がった角を持つ小さなヤギの頭に、筋骨隆々な人間に似た上半身だった。
まるで魔物のような見た目をしたそれは、小さな両手を剣の表面につき、「よっこらせ」と言いながら刀身から足をひっぱりだした。鉄の中から引きずり出された下半身は、茶色い羽毛につつまれ先端にかぎ爪がついた鳥の足の形をしていた。
ヤギの頭に人型の上半身、鳥足の下半身。
ちぐはぐな見た目をしたこの手のひらサイズの怪物の名前は『シャロン』。リベネが持つランク3の剣,
つまり最強クラスの剣に宿る存在だった。いや、剣に宿るというより、剣そのものいった方がいいのかもしれない。彼は、このゲーム世界でも他に類をみない、魂を持った剣という特異な存在だった。
つまり、彼はゲーム世界上に作られた仮想存在なのである。現実の世界には存在しない、人工知能によって動かされている電子の怪物、それがシャロンだった。
剣から自分の「本体」だという怪物の姿を出して、シャロンは刀身の表面を二足歩行で歩いた。柄の上で器用にあぐらをかいてリベネの顔をじっと見つめる。
「俺の目を見ろ。いいか、馬鹿言ってんじゃねえぞ。おめえ約束を忘れたのか」
シャロンの命令通り、じいっと彼の悪魔じみた赤い瞳を見つめてやる。一秒。二秒。三秒。
やがて、今までの暗い表情が嘘のように、リベネの顔に笑顔が広がった。急な変化に戸惑いを隠せないシャロンに対し、えくぼをうかべてリベネはささやいた。
「覚えてるよ。むしろ、忘れてるのはシャロンの方じゃない?」
くすくすとリベネは笑った。してやったり、という感じで笑う彼女をシャロンは混乱したまなざしで見つめる。
「はぁ?なんだ、俺の記憶力を疑ってるっていうのか?」
「そうだよ。シャロンは私を守るんだよね。最適なやり方と最適な力を使って。そう、約束したね。もし本当にそのことを覚えてるなら、文句を言わず大人しく命令を守ってよ。この場所で待機して戦うのは、最適なやり方で、最適な力の使い方だって隊長から言われたもの」
すべて言いのけてから、ふふんとリベネは笑う。
シャロンはしばらく言葉を失って、リベネを見つめた。何と言い返すか悩んでいるようだった。だが、言いたいことが上手くまとまらなかったらしい。結局は大げさな身振りで肩をすくめ、ため息まじりに言った。
「やれやれ。俺のご主人様はそうやって俺に退屈な時間を強制させる。困ったもんだ」
納得はしてないが、ひとまずは従っておこう、という彼の思いが伝わってくる。うん、いい傾向だ。その小さな怪物を見ていると、自然に笑みが浮かんだ。
これはひとまず褒めてあげなければとリベネはシャロンのヤギ頭に手をのばす。犬のペットにするように、顎の下の部分をさわさわと撫でてあげた。
「なっ…なにすんだ!」
うらがえった声をあげて、シャロンがひっくり返りそうになった。明らかに狼狽した様子で顎に手を当て、剣の上であとずさり、どぶん、と身体を剣の中に沈めた。
あ、潜っちゃった、と宙にのばした手を仕方なしに下げると、ゆっくりと用心深い様子でシャロンが顔をだした。少女の顔をまっすぐに睨み付けながら、抗議の声をあげる。
「さっきみたいな事をいきなりすんのはやめろ!」
怒鳴り声を気にした様子もなく、リベネは悪びれた様子もなく、ただ嬉しそうににっこり答える。
「いい子だから、褒めてあげようと思って」
「いい子って、なんだその扱いは――」
シャロンがまた騒ぎたてようとした時、脳内通信がオンになり、ザーザーと耳元でノイズが聞こえた。モロク隊長からの通信だ。思わず背筋がぴんとのびる。なにか言いたげなシャロンを手で制してから、空いた左手でクリスタルを握る。
『こちらモロク。時間がきた』
脳内とクリスタルから同時に響く、穏やかだがきっぱりとした男の声。
『リベネ、指示された西側城門前にいるな?シャロンにそそのかされて、別の場所には移動してないか?』
「はぁい」「おっす」と、二人は返事をする。シャロンは苦々しく顔を歪め、リベネはきりりとした表情になりながら。
『東部の森でアポクリファが大量発生した。前回と同様、時間差でアポクリファ達がそちらに出るだろう。東部の森を殲滅させてから、半数の剣士達をお前達の方に寄越す。それまでなんとしても持ちこたえろ。一匹も城壁内に侵入させるな』
「なあ、モロクのおっさん」
横からいきなりシャロンが呼びかけた。冷ややかでとげのこもった声だった。
「あんたは気軽に俺達にそういうことを頼むがな。ひよっこのリベネだけで、アポクリファの群れを相手にできると本気で思ってんのか?」
『その声はシャロンか。たしかにリベネはベテランとは言いがたいが、お前がそばにいる。それに、なにも敵を全員倒してやる必要などないからな。まともに相手をするな。まどわせて時間をかせげ』
生意気な魔物の物言いに少しも動じない懐の深い隊長。その声から焼けつくような戦意だけが伝わってくる。
『お前達が立っている草原を、視界の限り燃やし尽くしてもかまわん。どうせこの世界では、夜が明ける頃にはまた生え変わる。なんとしてもその場にふんばって、守り抜け。頼んだぞ』
「はぁい」「しゃーねーな」
ぶちっと通信が切れると同時に、雑談の時間は申し合わせるまでもなく終わる。
リベネは感覚を研ぎすまし、仮想世界で見事に再現された草の揺れる音、遠くで聞こえる鳥の声に耳をすませた。まるで現実世界そのもののような、ごく自然な夜の世界。それでも、この世界は現実とは違うことをリベネは知っていたし、それが彼女の戦う理由にもなっていた。
「敵はどこから来ると思う?」
敵の足音やうなり声はいまだ聞こえず、眼前に広がる暗闇が敵の姿を見事に隠してしまっている。
「さあ、この暗闇じゃあどうにもわからん」
シャロンがそう言ってからヤギの口でにやりと笑った。彼の赤い瞳が不思議な静穏さを宿しながら輝いた。
「だが、全て照らしてやる。俺が」
どうやって、と聞こうとして口を開く前に愚問だと悟った。シャロンと視線を交わした一瞬で、不思議と彼の考えていることがすぐに理解できた。
いつもワガママばかりの怪物の姿が、不意にばしゅっと勢いよく姿を消す。一瞬感じた心細さを飲み込んで、剣のみの姿になった相棒から目をそらす。そして、やがて来る敵のことを思いながらグリップをぎゅっと握った。
金属の塊と完全に一体化するシャロン。戦闘態勢になると彼はもう喋ることができない。しかし、彼の魂があるべき場所、剣へと戻ることで、黒く冷え込んでいた剣の刀身が赤い光と確かな温度を帯び始めた。
グリップを握る手のひらから彼の魂を熱く感じとったリベネは、目をつむり、その温もりをたぐり寄せるイメージを頭に思い描く。手のひらから腕、そして心臓へと熱が行き届くのを待った。電子の身体を形作るデータひとつひとつがシャロンと一体化するような不思議な感触――行くべき道を照らしてやる、と耳元で言葉が響いたような錯覚――を身震いするほど強く感じて、リベネは目を開いた。
唇から自然とこぼれる、戦意に満ちたささやき声。
「炎熱を我に」
刹那、わずか百メートルの距離に迫っていた異形の魔物達は、夜の闇の中で爆発的な光を目撃する。
光の発生源は、草原がわずかに隆起した丘の上。突如として発生した巨大な炎を、彼らは声もなく見つめた。
炎の剣を持つ少女は、光によって照らされた魔物を見下ろしながら、前髪を悠然とかきあげる。明らかに挑発的な動作だった。魔物達の赤い瞳がその姿を認識した瞬間、システムに打ち込まれた彼らの本能が、行け、プレイヤーを殺せ、噛みちぎれ、と足を駆り立てた。
炎の威嚇におそれをなす様子はない魔物をリベネはじっと見つめた。数匹の魔物を相手にした戦いは幾度か経験したことがあるが、こうして背後にある都市を守るための戦闘は初めてだった。守るべきものがある――それだけで、戦意が胸の内側で爆発的に膨れ上がるのを感じる。
さあ、来い。あんた達の意志、あんた達の戦略、あんた達の肉体をこのシャロンの炎で焼き付くしてやる。
あんた達アポクリファは、どんな思いでここにむかおうとしているのかはわからない。だけど、私は――。
リベネは下唇を噛みしめて、炎の元にさらされたこのゲーム世界を見下ろす。
他の誰が言おうと、私はこの世界をぬけだす道を作り出す。
その道をふせごうとするものなら誰であれ。
沈黙する無機物となったランク3の炎の剣をぎゅっと握りしめると、手の平にやけどしそうなほどの熱が伝わってくる。こんな偽物の感覚に負けると思ったら大間違いだ。リベネは唇の端をあげ、にやっと不敵な笑みを浮かべた。
「行こう、シャロン」
いささかもひるむことなく、迫りくるアポクリファ達を見つめた。
「私たちの炎で洗礼しよう」