1 始動の日
大変、お待たせ致しました。
旧プロットを少々訂正・加筆してお贈りします、主人公以外も活躍する方の『エルサリオン』。
旧三部作を手直ししつつ、まったりと更新して参ります。
旧作が好きだった方にも、初めて読む方にも、等しく楽しんで頂ければ幸福です。
どうぞ、よろしくお願い致します。
「ひぃぃぃ!?」
暗がりに落ちた街道を、悲鳴を上げて走る男。
薄明かりに照らされた道を、躓かぬよう、転ばぬよう、ただただ必死で逃げ惑う。
逃げる男の後方には、巨大な闇色の姿があった。
――魔物だ。
人のように二足で立つ、大きな狼に似た姿。ギラリと輝く赤き炯眼。踏み出すごとに地を削る足。邪神と呼ばれる災厄の神が生み出した、全ての生命の害悪なる天敵。
背に迫るその脅威に対し、男はただ生きたい一心で、届くはずも無い助けを叫んだ。
「だ、誰かっ、誰か助けてくれぇぇ!!」
男に被さる魔物の影。
振り上げられた腕を見上げ、男はそれでも足を止められず。
――瞬間、魔物の足下に、水色の魔法陣が弾けた。
「グルァ!?」
「ひぃ!?」
驚いたような魔物の声と、凶刃を何とかかいくぐることに成功する男。
転げるように数歩前へと進み、思わず振り返った男は、魔物の足が冷気を帯びる氷により、完全に固定されているのを見た。
そこで、ふと、穏やかな声音が響く。
「はい。お待たせしました。――今、助けますね?」
殺伐としたこの場には、相応しく無いほどのやわらかな声。しかしそれは、圧倒的な力をも、内包していた。
刹那の次に、新たな魔法陣が展開される。場所は、巨狼の魔物の後方。穏やかな声の持ち主の、眼前。
純白に輝く精緻な魔法陣は、次の瞬間、圧倒的な光を放った。
「っ!」
思わず両腕で目をかばった男の耳に、風の唸りに似た音が響く。
それはわずか一拍ほどのことで、音が消えた後には魔物の姿は無く、目をかばった両腕をほどいた男は、呆然として魔物が居たはずの地面を見つめた。
魔法の残り香である、白い燐光のわずかな光だけが残る地面。その先で鳴った軽い足音に、ハッとして顔を上げた男の瞳が、ようやくその内に救世主の姿を映した。
「大丈夫ですか?」
男にそう尋ねたのは、夜目にも美しい――エルフ族の青年であった。
ささやかな風に揺れる、月光に照らされた金と見まがうほど明るい緑の長髪。穏やかな微笑みを浮かべる、中性的な美貌。男へと向けられた瞳は、遥かな英知を思わせる、深緑。
白と濃淡二色の緑が映える旅装束をまとったその青年は、エルフ族特有の長い耳を小さく揺らし、にこりと美しく笑んだ――。
夕焼けの、鮮やかな橙が窓から差し込む。そこは、よく整理された本が互いの肩を支えあう、棚の一角であった。一定の間隔で置かれた小さめのテーブルとイスは、ゆったりとした読書を楽しんでもらうためのものなのだろう。当然として、そこには静かに本をめくる音が響いていた。
ただ、上質のイスに腰掛けてページをめくる者は、数時間前までは次々と忙しなくその座を奪い合っていたが、今は青年が一人居るのみである。
――美しい。青年は、その様な印象が第一に浮かぶ、整った容姿の持ち主であった。
一見しただけでは金色と見誤ってしまうその髪は、芽吹いたばかりの若葉のような、明るい緑色の長髪。さらさらとした触り心地よさそうなそれは、背中の中ほどでゆるく束ねられている。白い肌に、中性的でありながらも、美姫と並んでさえ引けをとらないであろう美貌。柔らかな微笑みを浮かべるそれにそろう瞳は、髪とは真逆の、まるで古い樹が茂らせる葉のような、英知を宿す深い緑瞳であった。
しかし、何よりも目を引くものは、豊かな髪でさえ隠し切ることのできない、その長い耳。それは、この世界で最も有名な長命種たる者の証。細身の身体を、白と濃淡二色の緑を用いた、ゆったりとした旅装束で包んだ彼は、植物と精霊の隣人にして、数多の魔法を操る才を生まれながらにして持つ、エルフ族の者であった。
と、そんな彼に声をかける者が、これまた一人。
「あの……エルフの御方」
「はい」
ほとんど無意識に答えを紡いだ彼がついと顔を上げると、眼前には困ったように笑う老年の司書。
「もうすぐ閉館のお時間ですが……」
その言葉には、いつまでいるつもりなのか、と言うような苛立ちなどではなく、雰囲気にすら宿っている多大なる申し訳なさと、確かな嬉しさがにじんでいた。
一度のまばたきの後、一泊の間を置いて、エルフの青年はその深い緑の瞳と中性的な美貌に、驚きを浮かばせた。明るい緑の髪を揺らして横を見れば、直後に、沈みかけて色合いを濃くした陽光とご対面し、そこでようやく彼はずいぶんと長くここに居座ってしまったことを理解するにいたった。
「あぁ、すみません。久しぶりの読書で、つい夢中になってしまいました」
わずかに気恥ずかしげな雰囲気を漂わせた微苦笑で謝罪する彼に、老いた司書は、いえいえ、と首を横にふった。
「お気に召して頂けたのならば、幸いです。最近の利用者の方々は、目当ての本を探し出して確認するなり帰っていってしまわれますから、こちらとしてもうれしい限りですよ」
是非ともまた、当館をご利用ください、と付け足す声には、僅かに願いが含まれていた。
「――」
ふと、浮かべる微笑みをそのままに、ほんの少し、優しげに瞳を細めた彼は、ここに長く勤める古き司書の思いを正確にくみ取り、そして自らにならばその願いを叶えられることを理解したうえで、静かに言葉を返した。
「はい。必ずまた来ますね」
そうして、やはり穏やかに、にこり、と笑う彼のその笑顔につられるかのように、年老いた司書もまた、嬉しそうに笑うのだった。