戸惑い
昨日はマサに家まで送ってもらった後も、結局色々考えて一睡もできなかった。
それなのに……今日は水曜日で、7限目まである過酷な日だ。
普通、週の真ん中は大体軽い授業とかにしてほしいものだが、何故か水曜日と木曜日に中だるみしないようにきっちり7限目まで授業が組み込まれている。
志信はうつらうつらしながらも、何とか3限までは気力で耐えていたが、不眠の身体は流石に眠い。
時々後ろの席にいる加奈子が鉛筆でつついて来て一瞬眠気を覚ましをしてくれるが、それもそろそろ効かなくなってきた。
ネトゲに夢中になっていた頃は、注意する親がいなかったので散々夜更かしをしてきたが、自分から望んで楽しんだ夜更かしと、考え事をして全く寝付けなかったのとでは理由が違う。
中休みが終わり、始業の鐘と共に如月が教室に入って来た。よりによってこの眠い時に一番眠くなる英語とは……
「Good morning, everyone」
眠気を誘うこのトーン。英語を聞いていると理解しようといつもより頭を使うので眠くなる。
――そう、如月の英語の授業はテキストの説明も、始めから終わりまですべて英語なのだ……
最初は本場のように全て英語で授業を行うという環境に戸惑いどよめいていた教室も、英語文と日本語を交互に言いながら、生徒が英語に慣れるのを待つという如月独特のスタイルのおかげで、殆どの生徒が以前より抵抗なく聞けるようになっていた。
生徒の実力も、如月が教えるようになってから全国テストでも成績を上げており結果に表れている。
気力で耐えていた志信には、この如月の流暢な英語は心地よすぎて眠くなる。
後ろで加奈子が何度も鉛筆でつついてくれているが全く効かない。
あー…だめだ。限界…どんどん睡魔が襲ってくる……
「And open your textbook to page ninety-four――」
「……」
「――シノブ」
名前を呼ばれて顔を支えていた肘がずるりと外れた。
やばい…思い切り寝てた。如月の静かに怒っている顔がまともに見れずに、閉じかけていた教科書を慌てて捲る。
「……Read the passage on page, please」
冷たい声が真正面から刺さる。……この声は絶対怒ってる。
如月がどんな顔をしてこちらを見ているのか怖くて見ることができない。
寝てましたとも言えず、たじろいでいると後ろから天使が囁いた。
(94ページの12節からだよ)
こそりと耳打ちしてくれる後ろの席の加奈子に小さく感謝しつつその場を凌ぐ。
会話例文を2回読み上げてようやくその張りつめた空気から開放された。
続いてのヒアリングの授業でも如月は教室の中をテキストを持って歩いて回り、集中していない子にわざと名前を呼んで突然問題を投げかけたりしていた。
俺もまた当てられるのではないかとハラハラして、その後はうたた寝することなく授業を受けたと思う。
終業の鐘と共に、如月は次の期末テストで出すであろうテスト範囲について珍しく日本語で説明を始めた。
「以上、32ページから、今日のトコまでが範囲」
面倒な例文が幾つも書いてある山場だ。範囲が広すぎる、もっと具体的にとクラスからブーイングが起こる。
それを分かっている如月は切れ長の眸を細め、ふふっと悪魔のような笑みを浮かべながら、黒板に絶対でるポイントを3つだけ記載した。
「まあ、この3ポイントだけやっときゃ赤点は免れるぞ。何たって、テストまであと6日だからな?英語を捨てて他の教科に走ってもいいけど……もし、赤点とった奴は俺の補修講義に夏休みを潰してもらうから覚悟しておけよ」
「うわ、綺麗な顔して鬼教師だよ鬼!」
「……絶対こないだの小テストばりに鬼畜な問題作ってくるんだ」
生徒達のブーイングを楽しそうに聞き流し、如月は手についたチョークの粉を払い、広げていた分厚いテキストを閉じる。
彼の作る問題は確かに難しいが、実際の英会話において必要なポイントを網羅しているからかなり実用的である。
「赤点とった奴は俺と楽しい夏休みになるぞ?まあ、内定はやらんけどな。面倒な再試を作る俺の気持ちも汲んでくれ」
授業が終わり、如月が教室から出て行こうとした途端、クラスの女子達が「赤点でもいい!」「個別レッスンして欲しい」といつものように如月の周囲に群がり始める。
きゃあきゃあと黄色い声に包まれた如月は少しだけうんざりした顔をしていた。
「こら……わざと赤点取るような奴は全部長谷川先生に頼むからな」
「ハセコーなんてやだぁ。雅臣先生がいい~!」
丁度昼休みに入る為、テスト範囲についてぶつぶつ文句を言っていた男子達は購買部へ駆けるように教室を出ていった。
志信も教科書を机にしまい、購買で買い物をする為席を立ち上がり、その通りすがり際ちらりと如月を見やる。
(……マサは女子にモテモテなのに、一体俺のどこが良かったんだろう……)
如月の横を無言で通過しかけた時、ふと呼び止められる。
「あ、杉崎。急がないから後で職員室な」
「……ハイ」
(寝てたの完全にバレてるだろうし、こりゃあ説教だろうな……あー気が重い。急がないって言ってたし……最後でいいか)
――よりによって……この不眠で疲れた身体に、本日ラストの授業が体育とは過酷すぎる。
とは言え、勝手に一人で悩んで一睡もできなかった自分が100%悪いのだが。
身体を動かすこと自体は嫌いではないが、今日のサッカーはこの肌を焼き尽くすような熱い日差しもプラスして、少し動く度にいつもより汗も出て気分が悪い。
しかもこの汗だくになった後に、職員室で如月の説教が待っていると思うと、またずんと気が重くなる。
ボールを追いかけて走り回っているとグラウンドの遠くが蜃気楼のように揺らめいて見える。
これはいよいよヤバイかなと思った瞬間、一瞬立ち止まって額の汗を拭っていると、仲間の大きな声が遠くで聞こえた。
「志信!危ない!!」
え?と思った瞬間、クラスメイトの蹴ったサッカーボールが、志信の右側頭部を直撃する。
ぼぅっとしていたせいで飛んでくるボールを反射的に避けることもできなかったらしい。
その衝撃で身体が大きく吹き飛び、どさりとグラウンドに打ち付けられる。
「おい!志信大丈夫かよ!!」
(あ……血が……出てる……)
目だけ横を向くと地面に赤い血が流れていた。額も軽く切ったようで自分の頬を熱い血が伝っていく。
駆け寄って来たクラスメイト達の顔が白く歪んで何も見えない。
頬や身体が触れている地面の熱すらも冷たいと錯覚してしまう変な感覚に陥った。
「杉崎……!」
体育教師の鳥塚だろうか。大きな先生が駆け寄ってきた姿を最後に、意識はそこから暗い闇へと消えていった。
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頭がずきずきして目を開けるのが怖い。ボールがぶつかった所に暖かい手が添えられている。
寝ていなかったせいか、このふわふわした感覚が気持ちよくて、ずっとこのままでいたいと思ってしまう。
「……気が付いたか?」
頭上で聞こえた如月の声に驚いてはっと目を開く。ずっと温かい手を感じていたいと思っていたのは如月の手だった。
「せ、先生……」
志信の意識が戻ったことにほっと息をつきベッドから腰を上げ、その横においていた簡易パイプ椅子を開いて座った。
長い脚を組みながら頬杖をついてどうして病院に来ることになったのか経緯を説明してくれる。
「7限の体育で、お前の頭にサッカーボール直撃したんだよ。CTの結果とりあえず出血はしてないってさ。骨も折れてなかったみたい」
「あ……」
それを聞いてようやく状況を理解する。
強いボールの衝撃で意識をなくした後、体育教師の鳥塚と偶然その場に居合わせた如月が救急車で志信を病院に連れてきてくれたのだという。
「うぉおい!杉崎っ!!お前無事だったかーっ!!」
「ちょっ…暑苦しい……別に先生が悪いわけじゃないし……俺がぼーっとしてたから」
授業中に生徒が怪我をすると色々と面倒なことになることくらい俺だって知っている。
まして、頭の怪我なんてもし今後の記憶や将来のことに何かあれば、その慰謝料や精神的フォローが大きくなる。
鳥塚は俺が意識を戻していつもと変わらずピンピンしている姿を見て、安堵の余りその暑苦しい体格で抱き着いてきた。
「いやな、ご両親に何度も電話したんだが繋がらなくて……事後報告になってしまって本当に申し訳ない!!」
「いいです。うちの親は忙しいので」
何度も鳥塚が申し訳ない、教師の不注意だったと頭を下げて来たので、俺は苦笑しながら嘘をついた。
電話しても繋がらないのは、昔から変わらない。そんなのいつものことだ。
父は仕事人間、母は何をしてるのかわからない。どうせ、二人共俺のことなんて関心ないのだから。
電話に出ることもないし、鳥塚が入れた留守録に気付くのは、仕事が終わって帰宅してからか、それとも翌日か――
両親のことを思い出すと家が気になった。脳裏にはお腹を空かせているであろうにゃん吉の顔が浮かぶ。
「今……何時です?俺って入院ですか?家に猫が居るんで帰りたいんですけど…」
「一応検査で1泊入院になってる。明日のCTスキャンの結果で午後には帰れるから。杉崎の猫、俺のトコで良ければ預かろうか?」
「え……いいんですか?」
にゃん吉は寂しがりやで他人になかなか懐かない猫だが、同じ種類の猫がいるマサの家ならまず安心だ。今は猫のことで頼める人は他に思いつかない。
これ以上マサに迷惑をかけるのは本当に申し訳ない気持ちだったが、1泊くらいならにゃん吉も許してくれるだろう。
「……すいません、先生お願いします」
「分かった。悪いけどお前ん家の鍵借りるよ。あと、お父上にもう一度電話とメールしておく。とにかく今日はしっかり休んでおけよ?頭痛かったら明日は帰れないんだからな」
志信は自宅の鍵をバックから取り出し、如月の手のひらにそっと乗せた。
「先生……にゃん吉をお願いします」
「おぅ、任せとけ。うちにも可愛いにゃんこがいるから仲良くできるだろ」
去り際にもう一度いつもの優しい手で頭をくしゃりと撫でてくれる。
――昨日の今日で……またマサに迷惑をかけてる……俺はどうしようもない奴だ……
鳥塚が入院に必要なものを一通りそろえてくれたお陰で特に困ることもなく、また明日と言い病室を去る二人の教員の背中を見送りながら志信は張りつめていた気持ちがふっと和らぎ、睡魔も重なってその重い瞳を閉じた。