告白
志信は相変わらず如月のマンションで勉強をしていた。
期末テストまであと一週間に差し迫り、テスト範囲の勉強はとうに終わっている為、これ以上新しく教えてもらう分野はないが、一人であの広い家に居ても全くはかどらない。
今まで一人で勉強することが辛いなんて一度も思った事がない。大体、親が海外で仕事をしているからうるさく言う人が居なくて楽だとずっと感じていたのに。
如月とこうして一緒に勉強をするようになってから、一人と一匹の環境を寂しいと感じるようになっていた。
勿論、忙しい如月にいつまでも父のお願いに従って勉強を教えてもらい続けるなんて迷惑だろうと思い、マンションへ行くことを躊躇うこともあったが、そういう日に限って今日は来ないのか?と如月の方から誘いの電話が来る。
――まるで、自分は押しかけ女房だ。
英語の教科書の隙間から、キッチンで楽しそうに猫のご飯を準備している如月の背中をちらりと見つめる。愛猫のシノブは今日も如月の肩の上に大人しく乗っていた。
スカイプや電話をしている時は煙草を吸っているのに、こうやって志信が押しかけても煙草の痕跡は相変わらず一切みられない。
「先生、無理しないで煙草……吸ってもいいよ?」
「ん?俺はそこまでヘビースモーカーじゃないぞ」
「……でも…車に乗ると吸ってんじゃん……」
端的な指摘に、如月はそれな。と言いキッチンでお湯を沸かしながらくくっと笑った。
このマンションを訪れるようになってから、如月が部屋の中で煙草を吸っている姿を一度も見たことがない。
綺麗に洗われてはいるが、間違いなく長年使っている形跡のあるクリスタルの灰皿と、銀色の十字架があしらわれているブランドもののジッポと、愛用しているマルボロの箱は3つ並んでサイドボードの上に置いてある。
「本当は、シノの為に煙草止めたいんだけど、なかなか……」
苦笑しながら暖かいコーヒーの入ったマグカップを二つ手に持ちリビングに戻ってくる。
白いカップをガラステーブルに置くと、ご飯を食べ終わって如月の足元にすり寄って来た愛猫の顎を優しく撫でながらその額にちゅっとキスをする。
…猫の為に部屋では煙草を極力吸わないようにしているのか。動物の体調を心配するその心がけは立派だと思う。
……もしかして、この白基調の壁や家具も、煙草を部屋で吸わないようにするためにわざと色のついてしまうものにしているのだろうか?
「シノ、可愛い。ほんっと……大好き」
如月の見た目は目鼻立ちが整い過ぎているせいで、家で猫とこうして甘い時間を共有するようなタイプには全く見えなかった。
失礼な言い方かも知れないが、その外見の所為でどちらかと言えば外で遊んでいるイメージの方が強い。
まさかのこの風貌でネトゲで志信とずっと同じ時を過ごしてきたなんて誰が思うだろうか……
「ねぇ、先生。その猫のシノブって名前さ、何か由来あるの?」
「うーん……それを訊くかねぇ……」
如月は少しだけ困惑した様子で眉をひそめながらソファーに座る志信の隣に腰を下ろし、淹れたてのコーヒーを一口啜る。
「あぁ、そうそう。こないだの英語の小テスト、クラスで3位だったぞ。きっちり成果出たじゃないか」
「だって……先生がわざわざ教えてくれるのに、これで点数悪いと示しつかないじゃん……」
話を逸らされたのは気がかりだったが、偉い偉いと頭を撫でてくれる如月の手は大きくて暖かかった。
父に頼まれているとは言え特別扱いされていることもあり、学校では如月と授業以外殆ど会話を交わすことはない。
でも、この二人きりの時だけは、如月自身の素である優しい顔を向けてくれる。自分だけに向けられるこの優しい笑顔と甘い声。
……あまりにも幸せなこの時間が永遠に続けばいいのに、なんて馬鹿なことを考えてしまう。
志信は照れ隠しに、わざとらしくノートを開いてペンを走らせた。
「……日本人が英語の出来ない悪い癖だ。単語と、英文法ばかりに捕らわれるから、肝心の会話が成立しない」
如月は授業で見せる真面目な顔をしながら志信の書いた間違い文法を奪い取ったペンで修正していく。
この部屋で、密着しながら英語の個別授業を受けると何故かどきどきしてしまう。
色気のある声に、本場さながらの流暢な英語は耳に心地よかった。
「――杉崎、寝るなよ」
「ちゃんと聞いてるよ……俺の成績が上がらないと父さんに何か言われるんでしょ……」
ぴたりと如月の手が止まる。余計な一言を言ってしまったと思い慌てて如月の顔を見ると、彼は酷く傷ついた顔をしていた。
しまった、と思っても言った言葉はもう訂正できない。
「ごめん……先生、俺が勝手に押しかけて……先生も仕事で疲れて…その、家での大事な時間なのに」
「違う……そうじゃない」
如月は緩く頭を振るとソファーから静かに腰を上げ、サイドボードの引き出しを開けて車のキーを取った。
寂しそうな表情には、何か思いつめた気持ちを隠しているような憂いも眸に覗かせている。
「今日はここまでにしよう……送るよ」
「はい……」
気まずい空気の中で、沈黙を打ち消す有線のラジオだけが軽快に流れていた。お互いに一言も発することない為、車のエンジン音と風を切る外の音だけが異常な程耳に響く。
いつも他愛ない話をしていた30分のドライブは、重く苦しいまま家に到着した。
「着いたよ、杉崎」
「……」
謝らないと。元々成績が悪いのは全部自分のせい。
最初からきちんと勉強をしていれば、海外にいる両親に心配させることもなかったし、如月に個別授業をしてもらうこともなかったし、こんなに傷ついた顔をさせることもなかった。
大切な如月の時間を奪って、さらに心を傷つけてしまうなんて。そんなつもりがなかったとしても、あの表情をさせたのは間違いなく自分のせい。
唇が震えてしまい、たった一言ごめんなさいという言葉が出てこない。
俯いている志信の頭をいつものように優しい手がぽんぽんと撫でてくれた。
「杉崎、おやすみ」
「……おやすみなさい……」
去っていく車を見送りながら志信は自分の発した心無い一言を後悔していた。
父さんの名前を出さなければ、もう少し如月と楽しいひと時が過ごせたかもしれないのに。
力ない足取りで何とか2階の自分の部屋に戻り、ベッドに突っ伏してため息をついていると携帯のメール音が鳴った。
「……スカイプ……?」
発信者はマサからだった。――電話ではなく、どうしてわざわざメールでスカイプを立ち上げるよう言ってきたのだろう?
その短いメッセージを受信した瞬間、考えても仕方ないと思い志信はパソコンを起動した。
いつものグループに見つからないようにオフラインモードに設定してマサにコールをかける。
『シノ……運転中だから、いつもみたいにチャットは見れない。一方的かもしれないけど、黙って聞いてほしい』
いつもより低いマサの声。
先ほど流れていた有線のラジオは切られており、車のエンジン音がダイレクトに聞こえる。
ここを出たばかりだから、まだマンションに着いていない。今は携帯にイヤホンをつけて話しているのだろう。
小さな沈黙の後、再び如月が口を開いた。
『次の期末テストが終わったら、個別授業は終わりだ……』
個別授業――!?
如月は最初から志信が”シノブ”だということに気付いていたのか。
今まで散々悩んで隠し通してきたつもりだったが、その努力は一体何だったのだろう…
外の音がうるさい……ノイズが多くてよく聞こえないが、少し苦しそうな如月の声が聞こえてくる。
『……うちの猫にお前の名前をつけたんだ。俺はお前とゲームを初めてから3年……シノブと過ごしている』
甘えん坊で、寂しがりやで、あいつはお前にそっくりと笑われてもどう言葉を返していいかわからない……
志信はいつも学校から帰宅してネトゲにログインしても、マサはロスに居た為、二人の時差はなかなか交わることがなく、一緒に遊べるまでの時間を異常に長く感じていた。
母は水商売に出ていたので、家で会うことも殆どなく、ネットを繋いでいない時間はただ一人の寂しさを持て余していた。
そんなとき――父が日本に帰国した際に何がほしいか訊かれて、猫が欲しいとひとつだけ我儘を言った。
猫は気まぐれな性格だが、きちんと家に帰ってくる。いつも纏わりついて従順な犬よりも自由に過ごす猫が好きだった。
……心に空いた寂しさを埋める為に、じゃあ飼おうと快く返事をくれた父に連れて行ってもらったペットショップで、アメリカンショートヘアの生まれて間も無い子猫を買ってもらった。
クリクリした瞳に、愛情に飢えている甘い顔。新しい家族が増えたことが嬉しくて嬉しくて……あの時、いち早くマサにスカイプで報告した気がする。
『お父上から志信の勉強を見てくれないかって頼まれた時は本当に悪魔の囁きかと思ったくらいだよ――俺の理性を試してるってね……』
信号待ちの音、ウィンカーの音――風を切る音……
そんな中でも如月の吸っている煙草の音だけが異様に耳に残る。長い煙を一つ吐いて言葉は続けられた。
『……俺は、シノにとっていい先生ではない……学校でお前が友達と笑っていても、一人になった時に寂しそうにしているお前を見る度、いつも抱きしめたくなる……教師失格だ』
これで最後。と自嘲的に笑う如月が煙草を潰してハンドルを切った瞬間、俺はパソコンの内臓マイクの機能をオンにして初めて声を出した。
「――ったら……」
『……え?』
「どうしてさっき言ってくれなかったんだっ……!」
こんな一方的に気持ちを告白されて、こっちの気持ちはまだ聞いていない。
全て自己完結して、これで終わりにしようと思ったのだろうか。――冗談じゃない。
マサと一緒に過ごした3年間……こんな終わり方は絶対に嫌だ。
「俺だって、マサと一緒にいたいんだよっ……!」
『シノ……』
驚いたマサの声が何か言いかけて、息を飲んだ音が聞こえた。
これ以上、喋らせるもんかという気持ちが昂り、俺は捲し立てるように拳を握りながらパソコンに向けて怒鳴った。
「ふざけんな……勝手に言いたいことだけ言って一人でスッキリしやがって……期末テスト終わったら覚えておけよ!」
『シノ――!』
一方的にスカイプを落としてパソコンを切った。
……最初から俺が、シノブだって気付いていたなら、どうしてもっと早く言ってくれなかったんだろう。
こんなに気持ちをぐちゃぐちゃにかき乱されたのは初めてだ。
マサの優しい声、与えてくれる言葉、包み込んでくれる態度――
今となってはそのすべてが気になって仕方ない。
シノ、愛してる――
毎度スカイプを落とす前に囁かれた愛の言葉は自分に向けてだった。ゲームの女性キャラのプリースト・シノブではなく。
「ち……くしょう……」
よくわからない涙が溢れて頬を伝う。生まれて初めて感じる経験に、胸が締め付けられて息が苦しい。
人を、好きになるってこういう気持ちなのだろうか?
志信は布団を頭までかぶり、その日は眠れない夜を過ごした。