喪失感
スカイプとネトゲに賑やかな女子が入ってから、志信はテスト勉強を言い訳にゲームにインすることがめっきりなくなった。
こういう時に限って愛猫のにゃん吉も気持ちよさそうに寝ていることが多く、広い家の中はしんと静まりかえっている。
「次のテストまでに数学だけでもどうにかしないと……」
あと二ヶ月後には期末テストが控えている。このテスト結果次第で地獄の夏休みになるかもしれないし、もしかしたら父にロスへ戻って来いと強制送還される可能性もある。
――しかし、勉強の妨げとなっていたネトゲを自粛したところで、いざ勉強する気になると全く手につかないものだった。
「はぁ……どうすっかなあ」
椅子をぎしぎし動かしながら何度目か分からない溜息をつく。教科書とノートを無造作に広げ、横に置いてある携帯を見る。そういえば……と思い以前如月からもらったメモをがさがさと取りだす。その走り書きの文字を見ていると、あの目を細めて笑う優しい笑顔が浮かんだ……
「ここ……だよな。この住所」
メモに記載されていた住所を辿り、志信は気が付いたら彼の家の前まで来ていた。
高級住宅街が立ち並ぶところにある1LDKの一人暮らし用マンション。
住所は教えてもらったが、詳しい道を聞いていなかったせいか電車を間違えたり、乗り換えトラブルがあったせいか、如月の家に着いた時は既に21時を回っていた。
あまり遅い時間にふらふらしていると警察の補導に捕まる為、志信は帽子を深くかぶる。
バックに詰め込んだ勉強道具を持っているので、万が一補導された時は塾の帰りです。とアピールをして歩けばいい。
「すっげえ……高そうなトコに住んでるなぁ……」
意を決しておしゃれなマンションのエントランスに入る。厳重なセキュリティの二重扉は固く閉じられており、横に監視カメラのついた部屋番号を入力するパネルがある。
如月に何のアポもとっていないのに一体どうやって入ろうか……それ以前に家に居るかどうかも確認していないのに……
もう一度携帯を開いてまず如月に電話をしようかと思い、入口前でうろうろしていると突然背後から頭を軽く小突かれた。
買い物から帰って来たマンションの住人が志信のことを不審者だと思って小突いたのかと思い、慌てて横に避ける。
「すいませんっ。邪魔しました!!」
「杉崎?お前こんなトコで何してるの……」
「へ……?あ、先生……」
慌ててその場から立ち去ろうとしたところで如月に肩口を掴まれる。
ちらりと覗いた勉強道具の入ったバックを持っている志信の姿を見てあぁ、と言い部屋番号を入力しセキュリティ解除する。
「メモのことすっかり忘れてると思っていたよ。来てくれてうれしいよ」
「す、すいません先生……俺、勢いで来ちゃって」
怒られると思っていたのに、如月はくくっと笑いながらわかんないトコいくらでも教えてやるからと優しく肩を押してくれる。誘導されるまま、志信は如月と共にエレベーターへ乗り込んだ。
マンションの15階にある如月の部屋は、全体がオフホワイトの壁に同調する白い家具で統一されたシンプルな部屋だった。
必要最低限のものしか置いていないようで、サイドボードの上に小さな観葉植物が置かれており、リビングの中央にはガラスのテーブルと白い二人がけのレザーソファー、端にはノートパソコンの置いた組み立て台と大量の本が入った本棚とひじ掛けのついてある回転式椅子がある。
寝室の方まではドアで仕切られている為見えなかったが、男の一人暮らしの割に相当綺麗な部屋だ。
「お、お邪魔します……」
リビングの中央までゆっくり入ると、志信の身体から同じ猫の匂いを感じたのか、如月の飼い猫が嬉しそうに足元にすり寄って来た。思わずその可愛さに両手で抱き上げる。
「あれ?先生も猫飼ってるんだ!うちにも居るんだよ、この子と同じアメリカンショートヘアの猫」
「ん?あぁ…人気高いよな、このクリクリした目に人懐っこい性格と……何よりこいつは賢い」
うちのにゃん吉は寝てばっかりいてあんまり賢そうに見えないけどと心の裡で呟きながら、志信は猫を抱き上げたままきょろきょろ室内を見渡す。
ネットでのマサは極度のヘビースモーカーだ。それなのに、この白い部屋には煙草の痕跡が全くない。
あれだけゲーム中何度か退席して、トイレではなく煙草タイムをとっていたり、スカイプ中も何度か煙草を灰皿に押し潰している音を耳にしている。
「……先生、煙草吸わないの?」
「あー……吸わないわけじゃないけど、生徒の前で吸う程、俺はマナー悪くはないよ」
苦笑しながら如月はキッチンに足を向け、お湯を沸かしはじめる。
さらにローボードの中からマグカップとコーヒーの粉を取り出していた。
「杉崎、眠気覚ましにコーヒーでいいか?あまり人を呼ばないから他にないんだよなぁ……」
「すいません、お構いなく。俺が勝手に来ただけなので」
猫を両手で抱きかかえたまま、如月の仕事スペースとも言えるデスクに目をやった。そこには18型のノートパソコンと分厚い辞書、横の棚にはこれから片付けるのであろう書類の山がある。
(あのパソコンでゲームしてたのかなあ……)
ぼんやりとそんなことを考えていると、頬にコーヒーを持った如月の暖かい手が触れた。
「ほら突っ立ってないで、そこのソファ座りな」
「あ…りがとうございます……」
はい、と暖かいコーヒーを手渡され、促されるままソファに座る。
膝の上には我が物顔をしている如月の飼い猫が幸せそうな顔で丸まって座っていた。如月はテーブルをはさんで真向いにあぐらをかいて座りながら淹れてきたブラックコーヒーを啜っている。
「シノ」
名前を呼ばれて思わず肩がびくりと動く。志信の反応にごめん、と如月が笑った。
「そいつ、シノブって名前なんだ。俺の可愛い子」
「……は、はぁ……」
何て紛らわしい……シノって言われるとマサに呼ばれてるみたいで無駄にドキドキしてしまうじゃないか。
そんな志信の動揺を知るはずもない如月はおいでと猫を手招きし、ゆっくり自分の膝下へ戻って来たシノブを愛おしそうに抱きながら、もう一口コーヒーを啜り右手を差し出した。
「どこ教えてほしいの?数学から片付ける?」
「……いいの?俺だけ個別に教えてくれるって……」
何となく足が此処に向いただけだが、きちんと勉強道具を持ってきてよかった。
次の期末でまた数学赤点を取ったら、あの脂ぎった鳩山に今度こそ何をされるかわからない。
如月の専門は英語であるが、不得意教科というものは殆どないらしい。
専門教師よりも丁寧で、一つずつ根拠づけて教えてくれる。分からない相手の立場に立って物事を教えてくれるからすんなりと身に入ってくる。教えてくれる公式も自分が昔覚えたやり方で、と笑いながら色々なパターンを教えてくれた。
楽しい二人だけの授業は思っていたよりも短く、人間集中できる時間なんて短いと言われているが、如月の授業だったら幾らでも聞いていられるような気がした。
それはこの穏やかな声と、丁寧な指導のお陰なのかも知れないが――……
「……そろそろ0時になるな。杉崎、家まで送るから教科書まとめて」
「すいません先生。こんな遅くまで」
「いつでもおいで。勉強の為に来るなら、いつでも歓迎するよ」
一緒に下まで降り、ちょっと待ってろと言われて入口で待っていると、如月は愛車のシルバーのレガシィに乗って戻って来た。その助手席に乗り込むと車内からは、やはり隠し切れないマルボロの匂いがした。
けほっと咳き込むと匂いに気付いた如月があちゃあと顔を押さえている。
「あーごめん、芳香剤切れてたか。窓開ける」
「ううん、大丈夫……」
志信が部屋にいた間は煙草を吸うのを相当我慢していたのだろう。
煙を感じる車内に入った瞬間、如月は無意識かもしれないがダッシュボードからマルボロの箱を取り出し、1本出して火をつけていた。
この一連の行動はきっと無意識だろうから、煙草を吸うななんて言えない。志信は心の裡でひっそりと笑った。
家まで送ってもらう間、好きな曲や趣味、最近したいことなど他愛ない話をしながら短いドライブを楽しんだ。
しかし、その弾んだ会話の中であれだけ毎日ログインしていたゲームの話は一切しなかった。
電車だと30分かかる距離も、車だとすごく短く感じる。車が家の前まで到着すると、如月は優しく志信の頭を撫でた。
「また明日な、杉崎。おやすみ」
「ありがとうございます。先生……」
車を降りたところで、すぐ家に入らず如月の車が見えなくなるまで見送る。
――志信って言わなくなった……今も、杉崎って――
ゲームでは毎日愛を囁かれていたのに、現実とは違う態度を見た瞬間、志信は自分の心にぽっかり穴が開いたような感覚に陥っていた。