秘密
――翌日から如月の態度が変貌した。昨日は気さくに話しかけてきたくせに、授業以外では志信と話をすることが無くなったのだ。
他の生徒には普通に話しかけており、まさか差別?虐めか?と内心思ってしまう。
如月が容姿端麗なせいでその周りには常に女生徒達が集まっている為、こちらから話を切り出す切欠なんてない。
……別にネカマがバレる心配しなくていいからいいや。今までと変わらないし……そう自分の心に言い聞かせるが、何故か胸がチクチクするのを感じた。
如月と授業以外での会話がなくなっても、毎日のスカイプとネトゲの対応はいつもと変わりなかった。
グループメンバーで魔物を狩りに行き、終了した後は恒例となっているマサとの雑談タイム。
――そして、寝る前に必ず囁かれる愛の言葉。
『おやすみ、シノ。愛してる』
「……バカじゃねーのこいつ……」
……クラスの副担任で、毎日授業でも顔合わせてるってのに、シノブと志信が一緒であることに全く気付いていない。
勿論、気付かれない方が楽でいい。――でもどうして自分だけ声をかけられないのだろう。
最初会った時は驚きながらも嬉しそうに声をかけてくれたように見えたのに。
「おやすみなさい、っと」
ネトゲ相棒になって3年間。同じ言葉でマサから愛を囁かれても、志信は今まで一度も彼に答えを返したことがない。
そんなのは当たり前だ。キャラは女性だけど自分は男だし、如月に対して愛とか、そういう気持ちは全くないのだから。
いつものように、お決まりの素っ気ない返事を返し、志信はパソコンを閉じた。
4限目の数学終了と同時に教科担当の鳩山に呼び出される。こないだのテストの赤点の話だろうか。
数学だけじゃない。中間テストは散々だった。
あの日は確か、誕生日イベントがあって殆ど勉強しなかった気がする。
勿論そんなことはただの言い訳だけど、将来進むべき道が決められなくて最近はますます勉強が手につかなくなっていた。
「ハトちんの話って何だろうね。呼ばれたの志信ちんだけ?」
「わっかんねぇ。俺んトコ親いないから説教か?……まぁ行ってくるよあのオヤジ待たせると怖えし」
いってらーとニコニコ手を振る加奈子を後目に、志信は死地に赴く心境で大きなため息をついて数学準備室へと足を向けた。
日当たりの悪い数学準備室は湿気も多く、ここを使っている鳩山もあまり好きなタイプの教師じゃなかったので、さっさと話しを終わらせて昼休み少しでも寝たい。そう思う……
2回ノックをして中から返答があったので、ガラガラと重い木のドアを開ける。
「失礼します……」
何が悲しくて自由時間を使って説教されなきゃいけないのか、と思う。書類とテストの結果を見ている鳩山が椅子をくるりとこちらに向けて小さなため息をついた。
そこに座りなさいと目で促されて準備室の手前にある小さな椅子に腰かける。
「杉崎君、こないだの中間テストのことなんだがね……海外にいらっしゃるご両親から君をお願いされている我々としては、このままではいけないと思ってるんだ」
「はぁ……」
それは分かっている。両親は俺をこの学校に居れる為に教師達に何かしら要望を出したと聞いている。
もしかしたら、金で校長や一部の教師を買収してんじゃないかってくらい。
別に親のコネで入ったわけではなく、学力で正面から入った後に親が後から勝手に色々と手を回したのだからそれは自分のせいじゃない。
高校生になり、義務教育の領域ではないので大体は自由だったが、成績が明らかに下がった時は今みたいに各教科の先生から小言を言われることも1年生の時も度々あった。
小言を言われることは多いものの、代わりに三者面談というものが志信にはない。
――どうやら国際電話で定期的に担任の長谷川が近況報告も兼ねてやってくれているらしい。
「時々授業中にも寝ていることが増えたと思うし。――まさかとは思うけど、夜にバイトとかしていないだろうね?」
このオヤジは人間観察が趣味なせいか、生徒の行動をよく見ている。こっそり授業中に携帯いじってた半田もこないだ呼び出しくらってたっけ。
高校生のバイトは一切禁止となっている。見つかったら退学か停学。
けれども、実際にやってないから鳩山相手にびくびくする必要もない。
「バイトはしてません。ちょっと寝付けなくて時々夜更かし気味ではありますけど」
嘘ではない。
勝手に変な誤解をされて親に関係のないことまで言われたら、この自由生活が奪われてしまう。
父に余計なことを知られてしまったら、今直ぐにでもロスの学校へ今すぐ来いと言うだろう。
実際、今も父は志信だけを日本に残すこの生活を快く思っていないのだから……
鳩山は真剣な志信の目を見て嘘ではないと理解してくれたのか、書類を一度引き下げた。それにほっと胸をなでおろす。
「数学、英語……せめてこの2教科の赤点をどうにかしないとね……」
手に持っていた書類を机に置くと大きな革椅子から立ち上がり、鳩山は脂ぎった顔をにやつかせながらパイプ椅子に座っている志信を見下ろしてきた。
でかい図体で近くまで迫られると気持ち悪さに吐き気がする。
「あの、センセー。俺、昼休みなんですけどもういいですか?ちゃんと次のテストまでには勉強――」
「……特別に家庭教師として行っても構わないよ。杉崎君だったら別に」
「結構です。俺、腹減ったから……あ」
椅子から立ち上がり鳩山を避けた瞬間、パイプ椅子の脚に引っかかり転んでしまう。間髪入れずその上に重い巨体が圧し掛かってきた。
「くそ重い……退けろよハト野郎!!」
「取引としては、悪くないと思うよ。この点数だと内定にも響くし、次のテストまで放課後に特別授業とか」
「余計なお世話だっ……!」
鼻息荒いオヤジを退けようと力を込めるが自分より20キロくらい違うこの巨体はびくりともしない。
数学準備室は旧校舎側の離れにある為、この時間に人が通ることは殆どない。助けを呼んだところで誰にも聞こえないだろう。
あーまずい……このままこのオヤジに好き勝手されるんだろうか。
女の子ともやったことないのに何が悲しくてこんなオヤジと。
貞操の危機を冷静に分析している間にそれを了承ととられたのか、鳩山は下卑た笑みを浮かべながら志信のシャツのボタンを乱暴に外した。
「――鳩山先生」
静かな声と共に準備室のドアがバシッと勢いよく開けられる。
その音に驚いて二人同時にその人物を見やると、そこに長い脚を組んだ如月が立っていた。
二人が置かれている状況をあぁ、と冷めた瞳で一瞥すると、ふっと冷たい笑みを浮かべ、
「ヤるんでしたら、鍵をかけるべきでしたね。お楽しみ中失礼……」
「ちょ……助けろよ!」
去ろうとする如月の背中に慌てて声をかける。鳩山も何事もなかったかのように取り澄ました顔をし、ごほんと咳払いをしながら志信の上に乗せていた身体を退けた。
きっと睨み付けると、柔道の受け身の練習だと思ってくれよとか意味の分からないことを言っている。
「鳩山先生、お話しはお済みでしょうか?私も彼に用事があるのでお借りしますよ」
「あ、あぁ……杉崎君、そういうわけで、しっかり勉強したまえよ?」
ははっと笑う鳩山に背中を押され、俺は如月に肩を抱かれながら準備室を後にした。
とりあえず助かった安堵感に重い息をつく。その間に如月は乱れた志信のシャツのボタンをひとつひとつ丁寧に留めはじめた。
「……君は、男の人が好きなの?」
「んなわけねーだろっ。勝手に人をホモ扱いすんな!」
ボタンを全て留め終えた如月は小さく微笑み、志信の頭を大きな手で優しく撫でた。
……なんだろう、温かい……
「さっきの、怖かったでしょう。君は他の生徒より魅力的だから」
「それは顔だけが取り柄の母に似たからじゃないのか……女顔なのは自覚あるよ」
水商売をしていた母に連れていかれた居酒屋では、女性仲間達にメイクやドレスアップをされた。
そのせいで、時々酔っ払いのオヤジにあちこち触られそうになることもあったので、正直鳩山のあの程度のお触り程度では動じることもない。
「助けてくれて、ありがとうございます。あの……赤点の話はまた次回じゃダメですか?」
「実は……志信君のお父上からメールがあってね」
如月の両親はロスの語学学校で教師をしているが、志信の父とは日本の大学で先輩、後輩の関係で一緒のサークル仲間だったという。
互いに違う道を選んだ今でも親同士の交流は続いている。
元々日本の大学を卒業していた如月は、家庭の事情で一度ロスへ飛んだものの、将来的には日本で教師をしたい希望もあったので、日本で教師をするなら息子を助けて欲しいと頼まれたのだという。
家に帰って来ないくせに、平気で他人に自分の面倒を押し付ける…
そんな自分の父の話を如月から聞かされ、志信は少しだけ機嫌を損ねた。
知らないところで勝手に親があちこち介入することが一番イライラする。もう義務教育の歳じゃない。17歳にもなればある程度自分で道くらい決められる。
別に中間テストの時は楽しいイベントがあったから、多少羽目を外して遅くまでネトゲをやってただけなのだ。
次のテスト週間の時はおとなしく勉強に集中すりゃ成績だってそう下がらないはず。
「まあ、これも何かの縁だと思って、僕で良ければ志信君の苦手な英語と数学教えてあげようか?」
「はぁ?」
「あー、大丈夫だよ。僕はあの人と違って生徒に手を出したりなんかしないから安心して」
「そこの心配じゃねーよ!何で俺だけ特別扱いされないといけないんだよ」
特別扱いについて此処で反発しても、もし如月から父に告げ口されたり、他の面倒な教師に付け入られたら面倒になる。そう思い志信は冷静に言葉を直した。
「……特別扱いは必要ありません。父が先生の赴任先を勝手に決めたのでしたらお詫びします」
「そんなことないよ。日本で働きたいし。後は僕が勝手にここに来ただけなのだから。でも、まぁ……」
淡いブルーが爽やかなカッターシャツの胸ポケットに入っている手帳のメモを一枚破き、如月はそれにペンを走らせた。
はい、と渡されたそれには電話番号とメールアドレス、マンションの住所が記載されている。
「困ったことがあったら、いつでもいいから相談して。僕は家での仕事が多いから捕まると思うよ」
「あ、りがとう……ございます」
――知ってる。
メールも、電話も……
そんなことは言えない。当たり前だけど……
メモを大切にズボンのポケットに入れると、如月に一礼してその場を後にした。
シノブという存在を隠していることが、優しさを見せてくれる如月に嘘をついているような気持ちになり、ずしりと胸が重くなるのを感じた。