同一人物
長谷川のジャパニーズ・イングリッシュの授業が終わり、移動教室に向けて歩いていると、廊下で先ほど副担任となった如月に声をかけられた。
「杉崎、志信君」
「……はい?」
彼は手にもった書類と、俺の顔を見比べて一瞬だけ驚いた顔を見せたような気がした。
ほぼ初対面だっつーのに、一体何だこいつと心の裡で呟く。
「……あの、何か……?」
「いや、珍しい名前だね、早くみんなの顔を覚えるようにするのでよろしく」
「あ、ハイ。こちらこそ……」
志信という名前が珍しいのか?いや、男でもシノブという名前は幾らでもいる。
こいつが副担任?――しかも、皮肉なことにネトゲの相棒である雅臣と同じ名前。
教師というものは大体こうなのかも知れないが、特に彼の浮かべるポーカーフェイスからは、一体何を考えているのかさっぱり読み取れない。
なんか、やりずらい……
「すいません、先生……俺、移動なんで」
「そうだったね、引き留めて悪かった。また明日な?」
俺の頭をぽんと撫でて、口元にふわりと浮かべる笑みだけは、何だかものすごく優しそうで全く悪意は感じられなかった。
「……はぁ~なんか疲れたなぁ……」
この時間は誰もいない居間をすり抜け、二階にある自分の部屋についた途端、肩にかけていたショルダーバックをどさりと床に置く。
ベッドの上で丸まっていた愛猫が音に驚いてびくりとしていたので、ごめんなと小さく謝る。
おいで、と手招きしてトコトコ近づいて来たにゃん吉を両腕でぎゅっと抱きしめる。
「――雅臣……か。マサと同一人物だったらどうしよう。しかも教師だしなあ……もし見つかったらやっぱり、ネットゲームやりすぎだとか勉強しろとか口うるさく言われちゃうかな」
――志信の家庭環境はかなり複雑である。
両親は駆け落ち同然で結婚。若い母は志信を身ごもったはいいが、育児ということに興味が無く自分のことだけで精一杯だったこともあり、かなり放任主義だった。
おまけに、志信が中学入学頃から仕事に戻りたいと言い、以前の水商売に再度熱を入れてしまった為、志信が学校から帰ってくる時に家にいることが殆どなかった。
一方の父はプログラマーとしての実績が高く、高いスキルは海外で評価されており、あちこち引っ張りだこになっている。昔から日本とロスを往復していることが多く、志信が父と過ごした記憶など、殆ど無きに等しい。
母も水商売の件で父と大喧嘩になってから、父を追ってロスに行ってしまった為、現在日本に両親が居ない状態だ。
中学・高校と、一番大事な思春期を送っていた志信の人生相談相手は、親ではなく、このネトゲ相棒のマサしかいなかった。
ネットゲームという媒体を使い互いに交流を深めてきたが、この3年間、一緒に共有してきた時間は何よりも長い。
些細なことでも志信の話を親身になって聞いてくれ、時に叱り、助言も沢山してくれた。
友人、親友……兄貴分でも親でもないが、関係性を上手く言葉にできないくらいの信頼がある。
パソコンを開かずに猫を抱いたままベッドの上でうとうとしていると、放置していた携帯のバイブが鳴った。
いつもの固定メンバーのスカイプグループがコールを押している。
「携帯だと声漏れるじゃん……」
苦笑しながら携帯のスカイプに今から入ると短いメッセージを送る。そのままベッドから上体を起こし、腕に抱いていた猫をそっと床に降ろす。
パソコンの電源を入れて、黒い折り畳み椅子に座りながらぼんやりとソフトの起動を待つ。
起動と同時に、スカイプが立ち上がると再び呼び出しコールがかかった。
「全く……待てないのかよあいつら……」
マイクはつけていないのでこちらの声は一切聞こえないようになっている。
手慣れた早いタイピングでお待たせと入力しながら、ふとオンラインメンバーを確認すると、珍しいことに、いつもであればそこに居るはずのマサの名前がなかった。
『シノちゃん、待ってたよん』
『あ、そうそう。マサはまだ仕事だってさ。多分後から合流するんじゃない?』
『ぶっちゃけあいつソロでも強いからほっといてもいいよ。シノちゃんがこっちに居てくれる方が助かる』
この固定メンバーは志信とマサが長年付き合ってる相棒であることを知ってくれているから気楽だ。
いちいち面倒なチャットを送らなくても色々と近況を察してくれるのはありがたい。
……そういえば、今日着任したての如月先生も多分残業している。
志信の通っている高校はマンモス校と呼ばれており、生徒数がかなり多い。
2年生はAからH組まで約320人。――着任早々とは言え、あの人数をこれから覚えるのはなかなか大変だろう。
まして、副担任になったからには、とにかく早く生徒の顔と名前を覚えなくてはいけない。
「……ま、別にあいつと仲良くする必要なんてねーし。どうでもいいか……」
あいつが、マサと同一人物でなければ問題ない。願うのはただそれだけだ。
志信は慣れた手つきで自分の半身キャラであるプリーストを操作しながら、ちらりと手元の時計を見つめた。
……いつもだったら21時を過ぎたら必ず来るのに。――やはり如月先生とマサは同一人物なのだろうか。
『お、マサきたよ』
仲間の一人がゲームにログインしてきたマサの姿を確認していらっしゃいと言う。
スカイプにインする前に、マサはなぜかゲームの方に直接来た。
志信はマイクを繋いでいないので、おかえりとかそういう挨拶をするにも、暴れて魔物と戦う仲間の回復が忙しくて暇がない。
『マサ来たし、一旦ここで戻ろうぜ?』
一通り魔物狩りが終わったところで、一度街へ戻る。
ゲームのダイレクトメッセージの画面を開いていると、マサの方からメッセージを送ってきた。
いつもはスカイプでのやり取りが多いので一体何かと思いその内容を見るとはぁ?と声が漏れた。
「……シノのいる学校に就任したよ……って、バレてんのかよ!」
副担任となった如月雅臣は、ネットゲーム相棒のマサと同一人物だった。
……そういえば、今度日本で臨時教師として働くことになったと言ってたような気がする。
いつから?というのを聞き流していたから、まさか今日からとは思ってもいなかったが。
……何て返事をするのが自然なんだろうか。
今までこの3年間、色々人生相談してきたから自分の歳も現在高校2年生ってのも完全にバレてる。
幸いなことに、今志信のいる学校は生徒数が多く、女子も6割いるので”シノブ”が誰かということに気付くにはまだ時間がかかるだろう。
ネトゲを本名でやってるやつなんて少ないのだから、シノブという名前と俺の名前が一致すると考えるのは端的だ。
こうなったら仕方がない。学校ではゲームなんてやってないふりでもして誤魔化そう……
――でも今更、ゲームのやりすぎ。なんて言うだろうか?
3年間ずっと志信を見守ってくれたマサと如月が同一人物で、偶然同じ学校に来たからって、むしゃくしゃした家庭環境のストレスをぶつけてきた「逃げ場」であり、「安らぎ」であるゲームをもうやるな。なんてことは言わないような気がする。
あれこれ一人で考えながら、如月に「あとで」と短い返信をした。
時計が0時を回ると志信はマサと二人きりのチャットタイムに突入する。
今日の他愛ない出来事をマサにチャットしている間は、無意識に感じている心の寂しさが紛れていた。
いつの間にか定着してしまったネカマのせいでこちらはチャットを打つことしか出来ないが、マサはヘッドセットを繋いでいるので、きちんと言葉で返してくれる。
志信の話を親身になって聞いて笑い、時々煙草を吸っている音も聞こえる。ふぅ、と息を吐き出す音や背後で小さい音ではあるが背後ではクラシックが流れている音が生活感を漂わせている。
『もうこんな時間か……おやすみ、シノ――愛してる』
三本目の煙草を潰す音が聞こえたのを合図に、如月は優しくそう囁いた。
――今までは海外に居たから好きとか愛してるとか…そういう言葉は挨拶みたいなものなのだろうが、今度は日本に赴任したのだから、挨拶としては捉え方が違ってくる。
日本だし、そういう言葉はあまり乱用しない方がいいよ。と送信すると、如月はパソコンの画面越しでもわかるような声でクスクス笑いながら甘い声で了解、と言った。