境界線
来客を告げるインターホンの音にソファーから重い身体を起こし、よろける足取りで何とか玄関を開ける。
やっほーと笑顔を浮かべた加奈子が買い物袋を片手に家の中に入ってくる。
「志信ちん、あと必要なものある?」
「……ごめんな、こんなテスト前の忙しい時期に」
志信は仮病で早退したつもりが帰宅した直後から体調を崩していた。
ここ数年間は風邪すら引いたこともなかったのに、珍しく高熱を出してしまい、玄関の前で一度崩れ落ち、二階の自分の部屋まで上がる気力もなくリビングで寝込んでいた。
少し落ち着いて冷蔵庫を開けると、食べ物の匂いを嗅ぐだけで何度も強烈な吐き気に襲われ、今現在は長い時間立つこともできないほど弱っている。――多分、ただの寝不足と食欲が無かったのが原因だろう。
自分の体調不良よりも、問題なのは心配そうにすり寄ってくる猫のにゃん吉だ。
匂いだけで具合悪くなるため、猫にご飯をあげられないことを危惧して家を知っている幼馴染の加奈子にメールをした。
そして学校が終わった帰りに彼女は必要そうなものを購入し、志信の家までわざわざ届けてくれたのだ。
「呆れた。部屋まで動けないんでしょ、志信ちん本当大丈夫なの?」
「身体動かせるくらいにはなったから、後でシャワーでも入ったら二階に上がるよ」
加奈子はため息をつきながら買って来た荷物をキッチンの横にあるテーブルに置き、警戒しているにゃん吉を手招きすると猫の餌をあげてくれた。
人見知りの激しい猫だったが、加奈子の優しいオーラに大丈夫と感じたのか既に顎を差し出して懐いている。
「ポカリとお茶は冷蔵庫に入れたから。後食べれそうな軽いものなんか適当に買っておいたけど……近所なんだからもうちょい頼ってくれてもいいのに。夕飯作ろうか?」
「ごめん……まだ匂いだけで……戻しそうだからいい……ありがとう」
「……本当に大丈夫?」
心配してくれる加奈子には申し訳なかったが、母親の一件から女性に対しての距離感が分からなくなってしまい、体調が悪い時に誰かがこうして側にいる方が辛かった。
今でも一人で過ごす方が気楽だと思っているし、一緒に居ても気を使わないのは3年間ずっと関係を続けて来たマサだけだ。
何とか気丈に笑顔を作り、帰るねと言った加奈子を玄関まで見送る。
「本当にありがとな」
「うん……どうしてもヤバかったら連絡してね。うちの親だって志信ちんのこと心配してるんだよ」
玄関で靴を履きながら加奈子は自分のバックを持ち直すと、餌を綺麗に平らげ玄関まで見送りに来たにゃん吉の頭をよしよしと撫でた。
「悪ぃ……ご両親に、よろしく伝えといて……」
「じゃ、またね。志信ちん、無理して学校に来るんじゃないよ?」
最後まで心配そうにして去る加奈子を、壁にもたれかかったまま見送る。パタンとドアが閉まった瞬間力が抜けてずるずると床に崩れ落ちた。
睡眠不足、体調管理の悪さ。――こんなこと今まで一度も無かったのに。
加奈子を見送ったにゃん吉が心配そうに足元にすり寄ってくる。おいで、と腕を差し出したが意識が朦朧としてその手はにゃん吉まで届かなかった。
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「おい……杉崎!」
「……ぁ」
……いつの間にか玄関前で眠っていたらしい。変な姿勢でいたせいか首が痛い。
時計が近くにないので今が何時かわからなかったが、暗闇の中で声のする方を見るとそこにスーツ姿の如月が膝をついて志信の肩を揺すっていた。
あーそうだ、会議って言ってたっけ……だからマサはスーツを。
「先生……どうして……」
「お前、俺の携帯にワン切りしてただろ……それから何度電話かけても繋がらないし、まさかぶっ倒れてるんじゃないかと思って来たら……」
やれやれと深いため息をつきながら如月は携帯の出した。そこには間違いなく俺からの発信履歴が残されている。
朧げな記憶を辿ると、無意識にマサに電話をして、会議なのに何やってんだって我に返って一度リビングで倒れた後、加奈子ににゃん吉のことで相談したような気がする。
テスト前で、しかも今日長谷川にあんな話を聞かされた後で如月に頼るわけにはいかなかった。
それなのに、身の危険を冒してまでわざわざここに来てくれるなんて……
何とか身体を起こしてもう大丈夫だと元気なところを見せたかったが、手足に力が全く入らない。
「……身体、痛くなるからそんなところで寝るな。部屋はどこ?運ぶよ」
「い、いい……自分で、ほんと…動けるから」
「やせ我慢したって何になる……ここで寝てたってことは相当調子悪いんだろ」
嘘をついてもすぐにばれてしまう。教師に嘘なんてついたって意味がない。
パチンと玄関の電気を点けて革靴を脱ぎ、お邪魔しますと言いながら如月は壁にもたれかかっている志信を両手で軽々と抱きあげた。
「ちょ、…大丈夫だからっ……」
「……暴れるな。子供抱き上げてるわけじゃないんだから、落ちるだろ」
無駄に抵抗する体力も残っていない志信は大人しく如月の肩口にぎゅっとしがみついた。
「部屋はどこ?」
「……二階。入ってすぐ左」
暗い階段の電気を志信がそっと手を伸ばしてつける。横抱きにされるのは気恥ずかしかったので、さらに如月の淡いブルーのボーダーシャツにしがみつく。
シャツに鼻が触れるとかなり濃い煙草の匂いがして軽く咳き込む。
「あー……俺会議室こもってたから煙草臭いかも、吐きそう?」
「……ううん……」
煙草は嫌いだ。――煙草は、大嫌いな母親が遊んでいた男の匂いだから……
部屋の入口にある電気をパチリとつけると、電球の灯りに思わず目が眩む。
ベッドの上にふわりと優しく下ろされるとやっと現実に戻ってきたのがわかる。
隣に如月が座り、ベッドのスプリングがぎしりと音を立てる。思わず後ろに倒れそうになるのを優しい手が背中を支えてくれている。
「杉崎……何も食べれてないんだろ、飲めるか?」
「マサ……水…飲ませて…」
――無意識だったのか、どうしてそんな言葉が出たかわからない。
別に手足が動かないわけじゃないし、ペットボトルくらい自分で飲めないことも無かったが、熱でぼぅっとしていることを理由に、ここまで世話を焼いてくれる如月に縋りつきたかったのか。
「杉崎……」
「シノブだよ、俺は……マサがずっと知ってるシノ……」
困惑した顔の如月は無言でベッドサイドに置いてあったペットボトルを手を伸ばして取り、キャップを外した。
口移しでもしてくれるのかと思いきや、それをぐっと志信の口にそれを当てた。上手く飲めなくて口端からつぅっと水が伝い落ちる。
「お前は今、熱があるからそういう事言ってるの分かるか?俺が敷いてる境界線をお前はあっさり踏み越えてくる……」
「じゃあ……どうして愛してるなんて言うんだよ……何で愛してるなんて簡単に言うんだよっ……!」
3年もの間ずっと一途に愛してると囁かれ続け、自分は愛されている、必要とされていると思ってここまで頑張ってこれた。
何故ここで境界線を敷くんだろう。愛してるって言うんだったら、それ以上先に進んでしまえばいいのに。
「抱けばいいだろ……!もう、俺は――ッ」
熱に浮かされて自暴自棄になりかけている志信を、如月の両腕がきつく抱きしめる。
無言のまま力強い腕に抱きしめられ、自分とは違う心臓のリズムを聞いて少しだけ冷静さを取り戻した。
「……軽い気持ちで言ったつもりはない。俺の気持ちは3年前から何も変わっていないんだ。――ずっとお前だけを見守ってきた……」
「だったら……!」
ワイシャツに顔を埋めたまま、袖をぎっと握りしめる。志信の手から滑り落ちたペットボトルがフローリングを転がり水の染みを作っていく。
小さくため息をついた如月が背中を抱いていた手を頭の方に動かしてこつんと肩口に頭を乗せさせた。
「……シノ。俺は自分のエゴでお前を縛りたくない。お前が過ちに気付いて引き返せるように道を残したいんだ」
「要らない……そんなの…俺には、もう……」
引き返す道なんて、最初からない。どのみち如月が日本から居なくなったらまた独りぼっちだ。
道を踏み外したつもりはないが、長谷川が言うように教師と生徒という関係はやはり世間体から見てもおかしいのだろう。
駄々をこねて聞き分けのない子供と思われるのも嫌だったので、静かに如月のシャツからそっと手を離す。
そんな志信の気持ちを察したのか、優しい手がふわりと頭を撫でた。
「ほら、具合悪いんだからまずはゆっくり寝ろ。……俺もそろそろマンション戻らないとお腹を空かせた猫ちゃんが待ってるから」
「うん……先生、ありがとう……」
見送れないけど、と言い志信は頭まで布団をかぶる。
おやすみ、と言いゆっくりと階段を下りていく如月の足音が遠くなるにつれ、涙が頬を伝い落ちた。
……どうして涙が流れたのか、わからない……




