揺れ動く心
期末テストまであと3日――
如月にもう迷惑はかけられないと思い、志信は大人しく残りの3日間は家で勉強をすることにしていた。
テストも近いし、家に行くのは良くないよね?と電話すると流石の如月もそうだなと納得してくれた。
……これで大丈夫。
しかし、そんな志信の思いとは裏腹に事態は動く。
テスト前だと言うのに珍しく担任の長谷川から呼び出しをくらった。
「ん?志信お前なんかしたの?」
「さぁ……まさか、今更期末ずらすとか言うんじゃないよなあ…俺追試とかやなんだけど」
「ははっ言えてる~。頭なんともないっす!ってアピってこいよ」
横宮と篠崎が笑いながら俺を送り出す。別に何か悪いことなんてした覚えはないのでどうして呼び出しをされるのか、その理由はさっぱり分からない。
職員室の片隅にある生徒指導室。ここはこれから進路を決める時期になったら毎度通うところになるので、出来ればあまり入りたくない場所だった。
ため息をつきながらノックをして、中から長谷川がどうぞと言うので恐る恐る中に入る。
黒いレザーソファーに座っていた長谷川は半ば困惑した顔でため息をつき、俺に座るように促した。
長谷川の向かいに座ると、現在の成績が記載されている通信簿を見せてくれた。
「まあ、あれだ……杉崎の成績が上がったのは事実なんだが……」
どうも長谷川の歯切れが悪い。もしかしたら、学校側にバレたのだろうか?
心臓が早鐘を打つ。手にはじっとりと汗が滲んでいた。
「お前は物分かりの良い生徒だからわかるよな?教師と生徒が、一緒にプライベートで勉強をするのがダメってことくらい」
「……はい」
それが例えば身内だったら話は変わってくるのだが、如月と志信はただの教師と生徒であり、プライベートでの授業はそんな一部の生徒へのひいきとなってしまう。
一体どうしてバレたんだろう……
さっきまで教室で笑っていた篠崎が、昨日の件も含めて長谷川に告げ口したとしか思えない。
手の平にはさらに尋常じゃないくらい冷たい汗が滲んでいた。
……もしマサが何か学校で処分とかされたら間違いなく自分の所為だ。彼が例え期間限定の臨時教師として来ているとしても、処分だけは何としても止めなければいけない。
「まぁ、如月先生は元々期間限定で着任してくれていたんだけど、今回の期末テストが終わったら両親の居るロスに戻るらしいんだ」
「え……?」
そんなこと、一言も聞いていない。まだ内緒の情報だったのか、志信が如月とプライベートで付き合いがそことなくあるから多分知っている情報だと思って長谷川がそう口走ったのかはわからない。
何よりも、本人からその情報が一度も聞けなかったことがショックだった。
ここ数日テスト勉強で会うことはなくても、電話は毎日していたのに……
「――とりあえずお前と如月が勉強会してることは俺の胸にしまっておく。教師の家になんて行ったらテスト問題盗み見してるとか、色々変なこと疑われるだろう?」
お互い嫌な気分になるだろうし、世話になっている如月を貶めたくはないと長谷川ははっきり言った。
まだ31歳で、ちょっとぼんやりしているところはあるけれど、こういう時の長谷川は頼りになる。
……長谷川がどこまで知っているかは分からないが、手は出してないにしろ、学校を離れてプライベートで家を往復している関係がばれてしまったら、教育面の問題だけでなく教師生命に関わる可能性だって考えられる。特に口の軽いPTAのおばさん連中の耳に入ると何かと面倒くさい。
例えそれが事実と異なっているとしても、証拠が何もないとしても……
「……ハセコー、俺……今は家で勉強してるよ」
「それは分かってる。でもな……お前と如月の関係は生徒と教師の枠を超えているだろう?」
「……ハイ……」
長谷川は誰からこの話を聞いたとは決して言わなかった。
教師と生徒、まして男同士。
――別に、抱き合ったわけでも、キスをしたわけでもない。
如月雅臣という男は、兄のような優しさがあり、実の親よりも深い愛情で包み込んでくれ、ネットの中では無二の親友、相棒――……この、何とも言えない間柄。
それを他人にどう伝えて良いのかも分からないし、きっと分かってもらえない。
思春期から一人の時間が長かった志信の寂しさをゆっくり埋めてくれた何よりも大切な存在――
項垂れたままの志信に長谷川は小さくため息をつくと、頭をぽんぽんと撫でた。如月と同じ大きく優しい担任の手だ。
「……もう戻っていいぞ。テスト前だってのに、こんな嫌な話でごめんな」
「失礼します……」
生徒指導室の引き戸が、いつも以上に重く感じた。
家に帰り、いつものように夕飯と入浴を済ませて机の上に教科書とノートを広げる。
先日志信が苦手な英語文法を幾つか如月が達筆な筆記体で書いてファイルにしてくれた。その文字を見ていると如月の流暢な英語と優しい笑顔が浮かんでくる。
いけない、勉強に集中しないと…そう思うがこういう時こそ雑念に駆られてしまう。
ちらりとパソコンを見るが、ここ数日の間起動すらしていない。
ネトゲにログインしていない為、固定メンバーからスカイプの誘いはなかった。
マサを追いかけてきたプリーストの女子達がいるから、もう自分がわざわざログインして皆の所で無理をする必要はなくなったのだ。
志信は誰かに必要とされることに喜びを感じていたので、プリーストという職業は大変ではあったが、自分に一番合っていると思い3年間続けてきた。
それが、ゲームの中で必要とされなくなったことが、少しだけショックだった。
よく考えてみたら、他のメンバーだって事情があってスカイプで喋れないプリーストを相手にするよりも、新しく入ってきた若くて会話も弾む女子高生と遊んだ方が楽しいに決まってる。
「家って、こんなに静かだったっけ……」
広い一軒家に猫と二人。
音楽をあまりかける習慣が無かったので、志信の部屋には目新しいCDはない。にゃん吉も最近は遅い時間になると志信の布団に潜り込んで先に眠ってしまうことが多くなっている。
「マサ……寂しいよ……」
如月が書いてくれた筆記体の並ぶノートを指でゆっくりと辿りながら、そのノートの上で突っ伏す。
期末テストまでのあと3日間が、絶望的に長い。
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「ちょっと、おい…志信!」
「……何?」
音楽教室への移動前に廊下で篠崎に声をかけられる。殆ど眠れてなかった為、気分は最悪だった。
――昨日長谷川に呼びつけられてから俺の態度は一変した。
今日は朝から篠崎をガン無視して、横宮にだけ話しかける。何が起こったのか状況が理解できていない篠崎は、俺態度が変わったことで少し慌てていた。
「何怒ってんだよ!俺、何かしたっけ」
「別に」
触るなと篠崎の手を振り払う。拒絶されることもショックだったのか、篠崎はうつむいてそれ以上何も言ってこなかった。
「ごめん…ハセコーからの呼び出しって、如月のことだろ」
あーやっぱりな…というのが正直な感想だった。
長谷川が色々知っていたのは事情を知っている篠崎が告げ口したからだろう。
でも、そんなことはどうでもいい……いつかそういうものはバレるということを志信は知っている。
現に、自分の母が客と浮気をしていることを父にいち早く告げ口したのが自分なのだから。
「……お前にそんな顔させるつもりは無かったんだよ……」
「どうでもいいよ……」
本当に何もかもがどうでもよくなっていた。――如月はもうすぐ学校から居なくなる。
今朝のHRは長谷川が朝一の会議で不在だったため、如月が行っていたが自分がロスに戻るなんて話は一切なかった。
夏休みに入る前の終業式で言うつもりなのだろうか?それとも担任の長谷川に一任して何も言わずに此処から去るつもりなのか。
「俺、次の音楽サボる」
「えっ?ちょ……志信!」
あーもう、本当に涙出そう……俺は鼻をおさえると早足で階段を駆け上がり、屋上へと足を向けた。
重い鉄の扉を開けて屋上で寝転がっている怖い先輩がいないか確認する。
テスト前のこの時期だからなのか、授業をさぼっている上級生の姿はなかった。
過去のトラウマもあり、上級生が怖いのは今も変わらない。
誰もいないことにほっとして一番高いところに上り、コンクリートの壁に背をつけた。
炎天下のコンクリートが熱い。日陰に身体を移動させてもまだじりじりと肌を焼く太陽がこちらを向いていた。
1人でぼんやりとマサが去るのをどう見送るのか考えていると、後ろにある非常階段のドアが静かに開いた。
そこから出てきたのはペットボトルと日焼け防止用のタオルを持った横宮だった。まさかの先客が志信であることに驚いた顔をしている。
「横宮、お前何その完全にサボリますってスタイル……」
「あははっバレちった。いいんだよ、うちは主要五教科だけ頑張れば」
横宮は将来的に大学の医学部を目指しているのでかなり頭が良い。こないだファーストフード店で簡単に教えてくれた数学Ⅱの授業も要点と分からないポイントだけを教えてくれたので、実際の教師よりも頼りになると思う。
主要五教科の内申が結構大事なのだが、横宮はそれ以外の授業を多少サボっても学力テストでカバーできるので全体的な内申はさほど悪くない。
「音楽で笛が吹けても飯は食えない」
「言えてる」
ははっと笑いながら横宮は自分で持って来たペットボトルの水を飲みながらちらりとこちらを見てきた。
「もしかして、昨日帰る時篠崎に何かされた?あいつ、思いつめるとダメなんだよ」
頭の良い人は何となく鋭い。一瞬強張った俺の姿を見て何か悟ったようにやっぱりなあと呟いている。
「篠崎って独占欲の塊なんだ。1年時から志信と話しをしたかったみたいなんだけど、お前学校では加奈子ちゃんとしか喋らないじゃん?それなのに後からきた如月先生はお前のこと大事にしてるし」
「ちょ…ちょっとまって?如月先生ってそんなに俺のこと見てるの?」
そういえば篠崎にもあいつがすげー見てるみたいなこと言われた気がする。自分では如月と学校で喋ることがないから全く問題ないと思っていたのに。
俺の態度に、知らないのはお前だけと笑われる。
「見てるよ。多分、俺とか篠崎は分かるんじゃないかな。お前に好意持ってる連中だったらあの態度の違いくらい、眼見てて分かるし…それにすげー敵対心むき出しにしちゃって」
小さい頃から篠崎の性格を知っている横宮は敵意むき出しで如月に向かっていくその姿を子供みたいだろ?と言い笑っていた。
なんだか変な気分だった……交わす言葉が無くても、ずっと学校での生活をただ黙って見守ってくれていたことが嬉しい。
「だから、昨日お前の肩を抱いて帰った篠崎見てたらなんか怖くて。余計なお世話だったかもしれないけど、如月先生に連絡したんだ」
「そっか……ありがとな」
横宮があの時如月に連絡をしてくれなかったら、今の自分がどうなっていたかわからない。金網に身体を押し付けられて、そのまま殴られていただろうか?それとも――……
「……音楽の次って、何だっけ?」
「英語。そっちはきちんと出るよ。内申響くと嫌だし」
――今日の英語はどっちが担当だろう……朝のHRで長谷川は居なかったし、午後は如月が担当するのだろうか?
……正直、この少しもやもやした気持ちのままで如月を見るのは辛い。
二人仲良くサボっていた音楽の授業が終わるまで20分ちょっと残っていた為、少し寝ると言いごろんと横になった横宮をそのままにして立ち上がる。
「志信?」
「……俺、ハセコーに早退届け出して帰るわ。ちょっと頭痛いし」
「そっか。お前病み上がりなんだから気をつけろよ。あ、俺がさぼってることは内緒な!」
「言わないよ、そんなこと。じゃあまた明日」
マジで言わないで、と両手を合わせて拝んでくる横宮に手を振り階段を下りる。
早退届けを出す為に職員室に入るが、担任もこの中途半端な時間だと講義の為に出払っており中は無人だった。
「杉崎……サボりか?」
「うわっ」
頭の上に分厚い英和辞書を乗せられ、慌てて後ろを向くと珍しくスーツ姿に身を包んだ如月の姿があった。
「……先生、どっか行くの?」
「これから会議だから移動。次の英語は長谷川先生だぞ?出ないのか」
「……うん、ハセコー、別のクラスで授業してるみたいだから、早退届け出せなくて……」
爽やかな香水の香りがする如月の側にいると何だか変な気分になりそうだった。
顔を背けて手に持っている早退届けをひょいっと上から取られる。
「分かった。これは先生に届けておくから」
ありがとうと言おうと顔を上げると目尻と右頬に如月の指先が当てられた。
その温かい指先が触れた部分が異常に熱を持つ。
ボールがぶつかって内出血となっていたそこは既にほとんど綺麗になっていた。
「まだ打ったトコ痛むか?熱……はないんだよな……」
「……マサ……」
「――その呼び方はダメだ……今日は送ってやれないけど、気をつけて帰れよ」
思わず呟いてしまった言葉に、如月は真剣な面持ちになり志信の唇にシッと口に指を立てた。
それ以上は何も言わずに、志信の頭をいつものようにぐしゃりと撫で、会議で使うのであろう書類が大量に詰まった黒い革バックを持ち職員室を出ていく。
「……ロスに……行くなよ……」
絞り出された小さな声は、見えなくなった広い背中には届かなかった。




