過去
「また、今日もいない……」
志信はうんざりしたようなため息をつきながら、鍵のかけられた玄関を開ける。これはもう中学1年生になってからほぼ日課となっていた。
わざと友達と適当に遊んで時間を潰し、補導ぎりぎりの遅い時間に帰宅しても、家は真っ暗で母が帰って来た形跡は全くない。
元々水商売をやっていた母と、大手プログラマーとして働いていた堅物の父は、従業員と客という関係から一目惚れから大恋愛に発展した。
その関係も志信が小学校に上がる頃は、子供のことよりもまだ互いのことが気になるくらい本当に仲が良かったと思う。
しかし、美人であちこちからモテる浮気性の母が、子育てよりも水商売の仕事を優先し始めるようになったと同時に、父も家庭ではなく元の堅物仕事人間に戻り、家に帰ってくることが無くなった。
別に父の場合は浮気ではなく、単純にプログラマーとしての仕事が忙しくなったからなのだが、どちらも帰ってこなくなったことはまだ小さい志信の心に寂しさの穴をひとつずつ増やしていた。
――父が帰ってこないことが増えたことで、、母はまだ小さい志信を連れて水商売仲間の夜の飲食店へ連れていくことが増えた。
裏口からそのお店に入ると、若い女性スタッフに化粧をされたり、煌びやかなドレスを着せられたり、本当にお人形のように扱われた記憶がある。
志信が中学2年に上がった時、父はロスにある大手会社にそのスキルを買われ大抜擢され、そちらに家族を連れて行き是非ロスで働いてほしいと打診があった。
子供がまだ小さいのでそれは出来ないと何度も断っていたようだが、志信抜きの夫婦の会話で、母の方から「滅多にない仕事だし、貴方のやりたいようにやってみたら?」と背中を後押しした。
それを切欠に、父は年末以外日本に戻らなくなった。
毎月必ずかかってくる国際電話で何度も父からロスの学校に通うか?と訊かれたが、知らない土地に知らない人間。勿論英語も満足に喋れないのだから、言葉も通じない。それが怖くて無理だとすぐに断ったのを覚えている。
「日本には私が居るから大丈夫よ」と母は言っていたが、父が日本から居なくなったことで、彼女は元の華やかな自分を取り戻し、友人の紹介で再び「女」として以前の水商売の仕事へ完全に戻った。
時々面談として学校から呼び出しを受けることもうんざりした顔をされた。
何度も教師に急かされ、ついにはロスのお父様に連絡しなくてはなりませんと半ば脅迫気味に言われて仕方がなく学校に行くことはあったが、それ以外志信と会話をすることもなかった。
一緒に住んでいてもまるで他人のように志信に興味を示さない。彼女は「女」で、「母親」では無かったのだ。
月日が経つにつれ、広い家には志信以外誰もいない時間が増え、思春期に親に対する反抗期を経験することもなく、言いようのない孤独感から父が残していったパソコンを触るようになった。
幸い、志信は神経質だが、人の感情の変化には昔から敏感だったこともあり、クラスメイトとそつない会話はしていたので、特定の友人と呼べる人物は無かったものの、虐めにあうことは無かった。
「ねぇねぇ、志信君のお母さん、本当にきれいよねー?」
「うん。綺麗でしょう?僕の、自慢の母親なんだ」
三者面談で母が学校に来る時は珍しくスーツを着込んでおり、「女」ではなく「母親」としてきっちり分けてくる。それはロスに行った夫に余計なことを吹聴されるのが怖いからだ。
志信、と名前を空々しく呼ぶ母の声に、俺もにこりと笑いながら答える。
――中学に入ってからは、みんなが羨むような仮面家族を演じていた……
中学二年になり、某ゲーム雑誌を立ち読みしていた時に、海外産の新しいネットゲームがDL開始になったと情報が入る。
日本人が少ないならば…と最初は軽い気持ちでゲームをこっそりインストールした。
英語が全く分からない中で適当に冒険していると、そこで偶然に日本人であるというマサと出会う。
広い家にいつも一人ぼっちで、寂しさのあまり穴が空きまくっていた志信の心をマサがひとつひとつ丁寧に修復してくれた。
彼が何者なのか全く分からなかったので、志信は色々な質問をマサに投げかけた。
全てはぐらかすこともなく、真剣に対応してくれる彼の態度が嬉しかった。
ネットゲームで……しかもゲームだけの付き合いだと言うのに、ここまで腹を割って話せるたった一人の人間……
マサはロスに居て実は待ち合わせが大変なんだと言われた時、スカイプの導入を勧められた。
喋ることは出来ない、とチャットしたがマサから喋らなくても大丈夫だ。こっちが一方的に喋るかもよ?とチャットがあり、すぐさま導入を決めた。
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「志信、何か欲しいものはないか?」
「……猫がいい……」
中学二年の夏休みに差し掛かる頃、父が珍しくお盆前に長期休暇を取り日本に帰ってきていた。
欲しいものが無いかと聞かれてすぐ浮かんだのがペットの存在だった。
従順な犬よりも、何にも縛られない…でも必ず帰ってきてくれる自由奔放な猫の方がいい――
息子の寂しさをどことなく悟っていた父はペットを飼うことに対して反対することもなく、そのまますぐに志信をペットショップへ連れて行った。
生まれたての子猫達がおもちゃで遊んでいたり、こちらをクリクリした可愛い瞳で見つめてくる。
「あ……この子がいい」
一目惚れしたのは、ゲージの中で遊んでいるアメリカンショートヘアの子猫だった。
父は志信の願い通りすぐにその猫を買い、腕の中にその子猫を抱かせてくれた。
その猫は、志信の手の中で幸せそうに丸まってクリクリした瞳でこちらを見つめていた。
「飼育に必要なものを買ってから帰ろう。あとは…猫に名前をつけてやらなきゃな」
「男の子だし、にゃんこの大吉でにゃん吉」
「……お前は、本当にセンスがないなあ……」
堅物であまり表情の乏しい父を笑わせたかったのに、志信の無茶苦茶に考えたネーミングセンスの無さを笑うこともなく、相変わらずの仏頂面をしていた。
その反応も少しだけ寂しかったが、何よりも新しい家族が増えたことをマサに報告したくて、志信はにゃん吉を抱きかかえたまま夕食の後すぐ二階に上がり、いつものようにスカイプを立ち上げた。
猫を飼うことになった、アメリカンショートヘアの雄。名前はにゃん吉。
そうタイピングすると画面の向こうでマサが爆笑していた。
『あははっ!!いや、あの、名前はいいんだけどっ。その由来が。何、そのねこの大吉って?』
爆笑してくれるマサのような反応を期待して父に言ったのに、父は微塵も笑ってくれなかったと入力すると、ライターがカチッと鳴り、画面の向こうで煙草を吸っている音が聞こえた。
『あー、シノのお父上は相当堅いようだ。でも良かったな家族が増えたし……これで少しは寂しくないか?』
爆笑から一転した穏やかで優しい声が、志信の新しい家族を祝ってくれた。
肌で感じるような空気のように、何でも志信の言わんとしていることを察してくれるマサの存在があったから、微妙な思春期を広い家で一人で居ても何とか寂しさを紛らわせることが出来ていた。
マサが与えてくれる精神的な加護があっても、スカイプを切っていざ現実に戻ると一人でいる時間が長いということに気付く。
その時に押し寄せてくる孤独の波に毎度押しつぶされそうになっていた。
……でも、今度からは一人じゃない。
志信の孤独を癒してくれる新しい家族のにゃん吉を、パソコン画面の前でぎゅっと抱きしめる。
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――猫を飼いはじめてから三ヶ月。
母とは何日も顔を合わせないことが増え、メモを介しての連絡が増えた。
猫に必要な食事や日用品、志信のご飯はきちんと作ってもらえており、冷蔵庫やテーブルの上に置いてあるが、それ以外で作りたいものや食べたいものがない。
前回父が帰国してきた時に、自由に使って構わないと手渡してくれたクレジットカードを手に持ち、買い物に出かけることが増えた。
いつか一人暮らしになった時に必要になるだろうと思い、少しずつ自分で料理を始めるようになった。
不器用であまりまともなものは作れなかったが、足元で応援してくれるにゃん吉と一緒に料理をしていると、ネットゲームの住人であるみんなが揃う夜までの長い時間が、ほんの少しだけ短く感じる。
『志信、そっちはどうだい?母さんは?』
「あー……父さんも少しはあの女を見張った方がいいんじゃない?あいつは父さんが日本に居ない間遊んでるから」
風呂場から出てきた「母親」ではなく「女」の姿をした人物を睨み付ける。
リビングで志信が会話している人物をすぐ察したのか、奪い取るように受話器を取り甘えた声で話を始める。
先ほど父に告げた余計な一言の所為で、電話はかなりの修羅場だった。滅多に大声を出さない母がかなりの動揺を見せている。
いい気味だ。子供を放置して、自分は男漁り。
そんな母を無視してリビングから出ようとした瞬間、名前を呼ばれて強い力で肩を掴まれた。
バシっと心地よい音と共に、ぶたれた頬がじんじん痛む。
何でこの女にぶたれないといけないんだという腹から湧き出る黒い怒りが志信をぶち切れさせた。
拳でリビングの壁を強く叩くとありったけの声を張り上げる。
「お前なんて……男漁りしてるだけの雌豚のくせにっ……俺のやることにいちいち口出してるんじゃねえよ!」
家から飛び出した時、後ろから母の悲鳴のような声が聞こえた気がした。
もう知らない、もう何も要らない……もう、こんな家は嫌だ。
そのまま家を飛び出したはいいが、何処にも行先がないことに気付き途方に暮れた。
近くの公園にあるブランコにぽつんと座り、ぶたれて熱くなっている頬と気持ちを落ち着かせる。
ズボンのポケットから携帯を取り出し、マサにスカイプコールを送る。
『――シノ?』
僅か3コールで出たマサは妙に心配そうな声だった。
……確かに、ゲームよりも先にスカイプを起動するなんて珍しいことだ。元々スカイプを導入したのは、マサがチャットをしながら冒険をするのが大変だからどうだろう?という提案でもあったのだから。
『どうした?シノ。誰かに虐められたのか?』
聞こえてくる優しい声に涙が溢れてくる。携帯だったのでマイク機能がONになっていることも忘れて鼻ですすり泣いてしまった。
慌ててマイクをOFFにして、マサに会いたい…とメッセージを入力送信しようとしては消す。
……彼は海外に居るのだから会えるわけがない。どうしてマサは日本に居ないのだろう……
そもそも、会ってどうすると言うのだ。自分はネカマのプリースト。会うこともない。マサとはただのネトゲ相棒なだけ。
それ以上マサから何も言葉がなかった。志信が何を言おうとしているのか黙って待ってくれている。それが何となく解ったからこそ、震える指先でトントンとメッセージを入力する。
淋しい。
――たった一言それだけ送信する。さらに数秒間の沈黙の後、マサがぽつりとつぶやく。
『……シノ、こっちに来るか?』
確かにマサは兄のような存在ではあるが、もしその言葉が本心で言われたとしても、家族から逃げ出してネトゲ関係の他人に、そこまで迷惑なんてかけられない。
自分のことだけ考えてしまい、思い切り家を飛び出してしまったが、今あの家には新しい家族のにゃん吉がいる。
……もし自分が此処で出て行ってしまったら猫がどうなるかわからない。
大丈夫、落ち着いたから家に帰るとメッセージを送ったが、それでもマサは心配そうだったので家に帰ったらまたパソコンからスカイプ送ると告げて携帯スカイプの通話を落とした。
重い足取りで家に戻ったが、母は元々志信に関心を持っていない為、静かに帰ってきても特に何も聞いてこなかった。
何事も無かったかのように、再び「女」としての身支度を整えている姿がリビングの鏡越しに見える。
――それでいい……俺にはマサと、にゃん吉がいるのだから…
突然飼い主が不在になり心配そうな顔をしていた子猫は、志信の足元にすり寄ってにゃぁと小さく啼いていた。
――この子を一人にするわけにはいかない。頬を再び涙が伝い落ちた。ごめんな、と言い胸に子猫を抱きしめる。
約束通り志信は自分の部屋に戻るとすぐにパソコンを立ち上げた。
再びスカイプでコールするとすぐにマサが反応して、大丈夫か?とマサが声をかけてくれた。
その優しい声だけでまた涙が溢れてくる。ただ、誰かに必要とされたい――……
『シノ――俺は、お前を愛してる。頑張らなくていい。お前は、お前だ』
まるで心の中を読まれたのかと思った。愛してる?
……たった数ヶ月。しかも、ネトゲ女キャラに対して何を言ってるんだこいつは?と最初思ったが、マサはそれから毎日寝る前に必ず愛してると囁き続けた。まるで何かの呪文のように――
こいつは本当にバカだなあと思い聞いていたが、その一言で志信の中にある消化されないもやもやした気持ちが少しずつ晴れていった。
例えその愛の囁きが自分に対してではなく、自分が使っているネトゲのキャラに向けてだったとしても……
それから更に1ヶ月が変わらない日常として過ぎ、母と顔を合わす機会は殆どなくなった。
相変わらずメモとお金だけがテーブルに置いてある。
――単調な毎日がつまらない。
唯一の楽しみは、マサとスカイプを繋いで、ネトゲで一緒に冒険をすることだ。早く夕飯を作って、今日はどこに行こうかな。
ふとそんなことを考えながら夕飯の買い物をして帰る途中、高校生の3人組にぶつかった。
ごめんなさいと詫びても彼らは何も聞いていないようで、ニヤニヤ下卑た笑いを浮かべている。
「おい、クソガキ。俺らにぶつかっておいてただで帰れるとは思っていないよなぁ~?」
「夕飯の買い出しでちゅかー?ぎゃははっ」
「金持ってんだろ、よく見たらこいつブランドのジャンバー着てるじゃん」
身長30センチ以上も違う大男達に見下ろされて恐怖のあまり足がガクガクと震えていた。
震える志信の手首を掴み、人通りの少ない路地裏まで連れていく。手首を離されてずしゃっと地面に身体を投げられる。
「むしゃくしゃしてんだよ……こいつでもいっか?」
「でもコレ、男っすよ」
なんでもいいとリーダー格の男が厭らしい笑みを浮かべながらそう言うと、志信の前髪をぐいっと掴み、無理やり顔を上げさせる。
同時にカチャカチャとベルトを外そうとする音にぞっと恐怖した瞬間、ざぁっと血の気が引いた。
「やめ……!」
「What is being done!<何をしている>」
男がジッパーを下げるとほぼ同時に、路地裏に一人の男が走り寄って来た。
志信の視界には鮮やかな金髪と整った端麗な顔が映る。どこかの漫画のヒーローのような美しいその青年は、志信の目の前に居た男を殴りつけ、その襟首を掴みあげるとフェンスに男の背をきつく押し付けた。
「ぐはっ……んだよ、この野郎……」
青年は綺麗な表情の中に縄張りを荒らされた獣のような獰猛な眸で男を睨み付けている。
さらに強く襟首を掴み、流石のリーダー格の男も苦しい、とギブアップ宣言をした。
「この野郎!!」
もう一人の取り巻きが横を転がっていた鉄パイプを手に青年に振りかぶってきたが、それを無言のまま右手で掴み、パイプの遠心力でかかってきた男ごとまとめて吹き飛ばした。
折れそうなくらい細い腕だと言うのに、彼は怒っているせいか力の加減が出来ないらしい。
重い鉄パイプがガランガランと音を立てて志信の横を転がっていく。
青年は再びむくりと起き上がったリーダー格の男の鳩尾を蹴って気絶させると、もう一人の取り巻きの男に静かに近づいた。
「ひ……ひぃっ……」
気絶したリーダーともう一人の仲間を見捨てて逃げようとする男の肩口を掴み、青年は口元だけに笑みを浮かべ、低い声で囁く。
「Go away right now.―― I kill next……<今すぐ立ち去れ…次はお前だ>」
「た、助けてっ……」
叫びながら逃げて行った男を冷たい瞳で見下し、金髪の青年は地面に座り込んだまま動けなくなっている志信にゆっくり近づいて来た。
金髪の青年がふわりと優しい笑みを浮かべてすっと右手を出してくる。
「え、えと……英語……無理です」
助けてもらったお礼を言おうと頭の中で英文を考えるが、元々英語が苦手だった為こういう時何とお礼を言えばいいのか全くわからない。
サンキューって言葉が英語であったこともすっかり忘れるくらい動転していたのだろう。その志信の様子が面白かったのか、青年は突然腹を抱えて笑いだした。
「ぶっ……ははっ。大丈夫?こんなひどい目にあって可哀想に。一人でお家に帰れるかい?」
買い物していた紙袋から転げ落ちた林檎を拾いあげてはい、と志信の手に乗せてくれる。先ほど男達に見せていた獰猛な眸ではなく、優しい目をしていた。よく見ると彼は金髪だが、瞳の色は間違いなく日本人だ。
「あ、りがとう……あのお礼……」
「また会えるよ、シノ」
優しくて大きな手が志信の頭をくしゃりと撫でた。
どうして俺の名前を知っているのか、それを問う間もなく青年は片手を上げると小さな黒いショルダーバックを背負い直して表通りに消えていった。
……あれは多分、三年前のマサだ。
あんな遅い時間に夕飯の買い物をしている中学生なんて珍しいだろうし、英語が無理だと言った俺の顔を見て、マサはすぐにあれが志信であると悟ったのだろう。
ネトゲではいつものように女性キャラで通していたため、あのお礼を直接伝えることは無かったが……
あの時も、今も……マサは何度も何度も俺を助けてくれて、さり気なく側にいてくれる。
――3年前から全く変わらない愛を囁いて。
「……テストが終わったら……」
一人で帰路を辿りながら志信はひとつの小さな決意を胸に抱いていた。
今回の期末テストが終わったら、この迷っている気持ちに向き合ってきちんとケリをつけよう。
後半部分をムーンライトと変えておりますm(__)m




