プロローグ
「ただいま……」
いつものように学校から家に帰っても返ってくる返事は飼い猫のにゃん吉からだけだ。
足元にすがりついてくるアメリカンショートヘアの愛猫を抱きかかえ、杉崎 志信は部屋の電気をつけた。
両親は海外で仕事をしているため、年末以外家に帰ってこない。
寂しかったのはほんの最初だけで、今となっては自分が食べたい時に好きな料理を作ったり、他の友人達が言う親からの口うるさい小言が無いため、誰にも縛られないし気楽だ。
毎日の楽しみは夕飯を適当に済ませて、風呂に入って――それからパソコンを起動した時から始まる。
『なぁなぁ、シノちゃん。今日狩り手伝ってくれる?ヒーラーほしいんよ~』
『新しいダンジョン出たんだってさ。1時間ちょいかかると思うけど、時間大丈夫?』
スカイプから聞こえてくる野郎6人パーティの声。
ここで知り合った仲間達は皆、年齢も職業も全く異なるが誰もがフランクに接してくれる。
現実の色々な鬱々とした気持ちを吹き飛ばしてくれる楽しいゲームの時間。
志信はゆっくりと「今日もよろしく」とお決まり文句を入力する。
チャットが面倒で顔文字を一切使わないのが奥ゆかしくて可愛く見えるのか、なぜか志信のキャラはモテモテだった……
そう、俺の使うキャラはガチガチの聖職者【プリースト】
プリーストってのは、回復専門のキャラクターで他の仲間達が敵から攻撃されて受けたダメージや傷を癒して回っている謂わば”戦場のナイチンゲール”だ。
しかもこの固定パーティメンバーに貢がれた装備で、何故か聖職者とは思えないような…誰かの妄想の塊みたいに可愛い女の子が完成している。
この仲間達は好き勝手に『シノブちゃん』を可愛くドレスアップしてくれた。
勿論、使っているキャラが女だから結果としてこうなったのだろうが、「今更ネカマでした☆」なんて言えるわけもなくこう……スカイプで盗聴しているような気分でこの場に参加して早3年…。
――ことの始まりはネットサーフィンで見つけた海外発のMMORPGだった。
3等身くらいのデフォルメキャラは意外と可愛く、落ち着かない家庭環境にむしゃくしゃした気持ちを落ち着かせたくて、半ば現実逃避で遊び始めてみた。
勿論母体である海外ユーザーの方が多く英語が主言語となっている為、当時は日本のユーザーなんて殆どいなかった。
しかし後に日本語版のゲームとしてリメイクされたものが登場し、それが爆発的なヒットとなり一気に日本のユーザーが増えた。
アカウントを繰り越し出来る制度のお陰で、志信のキャラは相当レベルも高く、日本でブレイクした時点では誰もが羨みかなり重宝されるようになっていた。
プリーストってのは可愛い外見とは裏腹に、力が無いので一人では魔物も倒せない、魔法使いのような派手なアクションもない、結局一人で冒険すると敵を倒してレベルを上げるという単純作業に時間がかかってつまらない。
強い魔物と戦うにも力が足りず、おまけに杖だのローブだの…そういうレア装備を集めたりというのが非常に面倒くさい。
定番ではあるが、強くて守ってくれるナイト様に金魚の糞のようにくっついて行動するのが一番ベターだ。
「日本のユーザーはあんまり使ってねーんだよなぁ、これ。まぁ……確かに友達居ないとやる気も出ないか」
学校から帰ってきてパソコンをつけ、スカイプを立ち上げると大体仲間から「魔物狩り」のお誘いが来る。
レベルが高い分あちこち引っ張りだこになっているが、シノブというキャラを『女』しかも名前も『女』でありえる名前のせいか、自分では全く望んでいないのに立派なネカマが完成していた。
口調がネカマでも通用するのはちょっとした訳がある。それは幼いころから水商売上がりの母が働く居酒屋の二階に連れていかれることが多かったせいだ。
周りにいる化粧が濃い年上の女性達に顔や服を散々いじられて成長し、そのせいか無意識に放つネット上での言葉遣いがしおらしい女っぽくなっている。
――自分としては普通に喋ってるつもりなのだが、実際の男としての自分と、ネット上での自分の口調はだいぶ違うようだった。
パソコンの前で頬杖をつきながら、いつものようにキャラを動かして仮想街の中をぐるぐる歩いていると画面にピコンという音と共にメールマークが表示された。
「おっマサいるじゃん……便乗すっか」
個別チャットを雅臣に送る。『一緒に行かない?』と。
直ぐに返事が来た。当然だ、こいつはずっと俺の相棒なのだから――
雅臣こと、マサとのネット上での付き合いは3年前に遡る。
このMMORPGが始まった当初は全て英語で表示されるゲームだったので、当時まだ中学二年生の志信にとっては苦難の連続であった。
街を歩いてキャラクターに突然話しかけられても、英語の文章が羅列されており、一体何を言われているのかさっぱりわからない。
らちがあかないと思い、チャット文に『Japanese Only』と入力した時、それに気づいてくれたマサとローマ字で会話したことがこの偶然の出会いの切欠だった。
日本人に出会うことがまずなかったので、当時の志信は救世主が来てくれたと本気で思った。
今でこそ、日本語版のゲームになったので何も困ることはないのだが。
今日も男6人パーティで新しくできたダンジョンに向かう。
3年間何も変わらないこの関係が、永遠に続いてくれればいいのに……そう思う。
「こら~、志信ちん。おっきい欠伸して怒られるよ?」
大あくびをしていたら、後ろの席に座っている幼馴染の加奈子に教科書で頭をばしっと叩かれた。
もう一度欠伸をしてう~んと背筋を伸ばす。
実は今日の朝までずっとマサと雑談していたせいか、かなり睡眠不足だ。
「次、何だっけ?英語――ばっくれっかなぁ……」
英語だったら、いざとなったらマサに教えてもらえる。確かあいつ教師だったような……
ぼんやりとそんなことを考えていたら後ろの席で加奈子がヒートアップしながら自分の机をばしばし叩いている。
「今日新しい副担来るんだよ。さっき、ハセコーのトコに用事あって行ってきたんだけど、すっごい美人だったよ」
「え、女?マジで?」
美人、という言葉に思い切り反応してくるりと後ろを向いた瞬間、加奈子は男って……と首を振りながら重い溜息をついた。
「違う違う。チョー美形!しかも英語の担当なんだってさ。副担任でしょ~。うちらC組の専属で教えてくれるといいなぁ~」
加奈子がうっとりした顔で熱く語ってる間に始業ベルが鳴ってしまい、志信は教室から逃げることが出来なかった。
志信のクラス担任の長谷川の後から続けて教室へ入ってきたのは、ゲームから出てきたような美形の男だった。
少し茶色がかった髪はツーブロックレイヤーでびしっと決まっており、その切れ長の眸に見つめられるとどきっとしてしまう。
スラリと伸びた長身には嫌味がなく、何かスポーツでもしていたようなしっかりした体躯。
目鼻整った端麗な顔立ちに、薄いボーダーの入ったオーダーメイドのスーツがよく似合っている。
隣に立つ長谷川よりも相当年下のはずなのだが、既に完璧な大人の男として出来上がっているスタイルに見惚れていると、長谷川が「先生、挨拶をお願いします」と促した声で志信ははっと我に返った。
「はじめまして。如月 雅臣です。ここ十年くらいロサンゼルスにずっと居たので、久しぶりの日本でまだ慣れないことも多いと思いますが、よろしくお願いします」
ふわりと笑みを浮かべるその姿は、まるで英国紳士のように様になっていた。
勿論、その笑みに悩殺された女子達からは黄色い悲鳴が上がる。
長谷川はそれを、はいはい静かに。と咎めながら如月先生の経歴を紹介を始めていた。
雅臣――ね。偶然。
ネトゲのマサと同一人物なわけないか。第一、雅臣って名前はそう珍しくもない。
それに、あいつは俺と今日朝までチャットしてたし。移動時間を考えてもロスから日本まで短時間で来れるわけがない。
長谷川の説明を適当に聞き流しながら、志信は新しく自分のクラス副担任となった男をぼんやりと見つめていた。