第四章
瞼を通してかすかな日の光を感じる。
五感がゆっくりと体に宿り始めるのが分かった。小さな鼻歌が聞こえる。アップテンポなその曲は美幸さんが最近好んで歌っている歌手のもの。美幸さんいわく、歌詞がすごく共感できるのらしい。体に触れるのは、清潔な香りのする少し硬い布。硬い…?そういうわけじゃあないか。普通に柔らかい。でもわたしはもっとふわふわの……
急激に目が醒めた。
染み一つない真っ白な天井。真っ白な壁紙。明るい光。すずめか何かのさえずりが聞こえる。また、お爺さんやお婆さんから食パンとかのおこぼれを貰いにきたのかもしれない。
わたしはやっぱり白いシーツと布団に包まるようにして横になっていて、枕の隣に少々、いやかなり分厚い本。過剰な装飾が白に慣れた目には眩しい。
「あっ、飛鳥ちゃん起きたの?今日はいつもより遅かったねぇ。」
にっこりとわたしに微笑むのは着た美幸さんで、ちょうど例の葉っぱの水を換えていたらしい状態でわたしを振り向いていた。
当然、ひらひらとしたベールや、キラキラと輝く宝石は身に着けていない看護士姿。どこにも包帯はのぞいていないし、かなり羨ましい健康的な肌がいつもどおり見えている。天井にだって白い蛍光灯がついていて、火気厳禁のこの部屋に燭台なんてものもない。ベッドも普通のサイズだし、天蓋なんて時代錯誤な代物もかかってはないし、たくさんの豪華なクッションも乗っかっていない。
何よりあの美しすぎる野性的な色気を振りまいていた王様もいない。
いつもどおり。
やっぱりあの奇妙な経験はアラビアンナイトなんてものを読んでいたせいで見た夢で、ここがわたしの生きる現実。美幸さんは元気で、変わらずにわたしに笑顔を向けてくれている。
なんて幸せなんだろう。
少しだけ、目の前に映る自分の骨が浮き出た指がぼやけて見える。
「…飛鳥ちゃん?どしたの?」
「ううん、なんでもないです。ちょっと寝ぼけてました。」
目を瞬かせてこみ上げてきた水を平らになるように延ばす。不思議な顔をしてこっちを見ている美幸さんの目をしっかりと見て挨拶をする。
「おはようございます。…美幸さん。」
その名前を噛み締めるようにして唱える。とても、幸せ。何もない毎日。約束された幸せ。
「?飛鳥ちゃん、今日はやけに嬉しそうね。にっこり笑っちゃって!かぁわいい!!なんかいい夢でも見た?」
美幸さんは飛んできてわたしを抱きしめる。いつものわたしなら苦しいくらいは言うけれど、今日は何も言わずにそれを受け入れる。
この腕の大切さをわたしは知ったから。
「な、なんか今日は飛鳥ちゃんがおかしい!?黙ってる!いい夢じゃなくて、変な夢だったの!?人格も変わっちゃうくらい!?」
おかしい上に人格が変わってしまったらしい。さすがに言い過ぎじゃないのか?それに、さっきから抱きしめる力が強くてちょっと…
「み、美幸さん。内臓がでます。」
かなり切実に、比喩ではなく内臓全体が絡まれた部分で上下に分かれている気がする。
「うをっ!!ごめんごめん。」
いつもの飛鳥ちゃんだ、と呟きながら美幸さんは解放してくれた。その様が本当に心配してくれていたこのがありありと分かるものだから、思わず苦笑。
ひとしきり、検温をしてカードを記入して。全くいつもどおりの数値に少しだけ驚いた。
一晩で2回も発作を起こしたとは思えない普通の数値。
体温も血圧も、高すぎず低すぎず。
2回目のは夢だったのかもしれないけれど、1回目は絶対に現実なのに。ナースコールに伸びた自分の手の震えまでもしっかりと覚えているのに。
死ぬかと思った。
その、覚悟さえした。
なのに自分は生きていて、集中治療室でもなんでもない自分の部屋で目を覚まして、呼吸器でもない自分の力で呼吸していて。
そう考えるとなぜだか生きていることが不思議になった。
でもまさか美幸さんに「昨日わたしは発作起こしたりしましたか?」、なんて聞けないから、何もなくて良かった、ということにしておく。
「んふふふ。じゃーんっ」
わたしが考え込んでいると唐突に美幸さんが大声を出して、手元にあった買い物袋をごそごそとかき回している。
嫌な予感がする。ううん、予感じゃない。絶対に良くないことが起こる。
こういう時の美幸さんは絶対におかしなことをする。これはもう経験則で、なんというか絶対にまずいということは確か。
思い出すのもおぞましい経験が頭をよぎった。あるときはどぎつい色をした流行というぬいぐるみを買ってきてくれた。それはいい。その行為自体はとても嬉しいことなのだけど、そのぬいぐるみがピカソの画風にあこがれる気鋭のデザイナーがその才能の全てをつぎ込んだというもので、奇怪且つ抽象的で蛍光色であったのだ。それを5つ枕元に並べられた。かなりシビアだったのを良く覚えている。あるときは沖縄にあるという実家から持ってきたというタイマイだった。ようは亀の剥製。床に置くのは何だか申し訳なくて、パイプ椅子においていたのだがことあるごとに何故か目が合うような気がして落ち着かない。夢にまで出てきた。これもやっぱりかなり苦しかった。わたしの微妙な顔を見て美幸さんが引き取ってくれたから、今はもうどれもないけど。
「見てみて!!今日のゼリーっ!これ新商品なんだって!新商品っていい響きだと思わない!?見るとついつい買っちゃいたくなるのよねぇ。」
その『ゼリー』の蓋に書いてある文字を読む。なんというか…
「美幸さん。それ…食べれると思いますか?」
その一言に美幸さんはきょとんとした表情になる。何故怒られたのか分からない子供みたいな顔。
「コンビニに売ってたんだけど…面白そうでしょ?」
確かに面白そうではあるんだけど…「おいしそう」ではないのが問題だと思う。その新商品3日もすれば幻の商品になってると思います、美幸さん。
とりあえずゼリーは腐りにくいし、しばらく厄除けにでも飾っておこうと思っていると、急に美幸さんが騒ぎ出した。
「あっちゃぁ…もうこんな時間だっ。婦長さんに呼び出されてたんだった!じゃあ飛鳥ちゃん、また遊びに来る!!」
きっと「遊び」に来るのが問題なんです、美幸さん。小さく手を振り返す間に美幸さんは走り出て行く。病院内は走ってはいけないと婦長さんに怒られるかもしれない。
嵐の後みたいに急に静かになった部屋の中でわたしはひとり。
お見舞いに来たのかはしゃぐ小さな子供とパジャマ姿のお婆さんが窓から見える。
幸せってこういうことだったのかもしれない。
備え付けのそっけない時計を見ればもうお昼前で。おかしな夢を見たせいか少しだけ疲れている。わたしは本当に具合が悪いと眠ることさえできなくなるから、わたしが眠っているときに誰かが起こすようなことはない。眠る、ということにすら体力を使うみたいで、眠れればまだまだ大丈夫、ということらしい。
わたしは美幸さんが置いていった袋に手を伸ばす。美幸さんは軽々と片手で持っていたけれど、当然そんなことはできない。身を乗り出すようにして両手で掴んで、引きずるようにして自分の前に持ってくる。少し息が切れたけど、大丈夫。いつもよりちょっと多めの袋の中身をひとつひとつ取り出す。
我ながら小動物じみた動きで袋をまさぐる。
はじめに出てきたのは…例のゼリー、らしきもの。コンビ二のシールが張り付いている。精神衛生上あまり見ないようにしながらチェスとの二番目の引き出しに入れる。飾る勇気は…ちょっとない。次に出てきたのは普通の桃のゼリー。美幸さんの優しさが見えてちょっと微笑む。きっとさっきのゼリーはわたしを元気付けるために買ってきたもの。だって、わたしがこの大きさのゼリーを二つも食べられるはずがないのは美幸さんが一番良く知っているから。それにあのゼリーだけわざわざコンビニで買ったのでしょう?わたしが面白がるものを探して歩き回る美幸さんの姿が思い浮かぶ。
そう考えたら、さっきしまったゼリーも宝物になる気がした。チェストからゼリーを取り出して、枕元のテディベアに抱かせてみる。ちょっと可愛い。人間心の持ちようで世界は変わるのだ。
とりあえず桃のゼリーも端に寄せておいて再び袋へ。出てくるのは新しい寝巻きに櫛。かなり目の大きなもの。それから、絵本。
わたしの入院しているこの病院はかなり大きな病院で、いろいろな科が入っている。美幸さんは小児科の担当だからきっと読み聞かせでもするつもりで買ったのだろう。慌てて一緒においていくなんて美幸さんらしすぎる。ちなみにわたしはもう小児科扱いではないけれど、昔の好で美幸さんはわたしの病室に現れる。つまり美幸さんの担当は小児科と、わたし。わたしの何を気に入ったのか分からないけれど、小児科から近いとはいえないわたしの病室まで来てくれる。やさしい人。きっとわたしが寂しそうにしていたから。
絵本は五冊。すごくメジャーなものばかり。絵に溢れた本はしばらく見ていなかったから物珍しくてついつい手が伸びる。ルネサンス絵画のような綺麗な挿絵が目を引く人魚姫。あまり、好きじゃない。泡になるとき人魚姫はなにを考えていたのか、はじめて読んでから10年以上たっているけどいまだによく分からない。分かる日はきっと、来ない。
そして…白雪姫。絵本の表紙をなぞる。思い出されるのは…夢でであった王様。結局一つも満足させられないまま目が覚めてしまった。妙にリアルな夢だった。今でも…判断がうまくつかないほどに。ひねった足に走った痛みも、王様の冴え渡ったまなざしも、ふわふわの寝台の 感触も…女の人の流す血の臭いすらも。夢だとは信じられないほどの重みがあった。
絵本をどける。空っぽになった袋を丁寧にたたんでチェストの上においておく。
夢のことを考え続けるのはちょっと無駄な気がする。きっともう二度と同じ夢は見ないのだし、わたしが夢を見なければそれ以上夢が進行することもない。だからあの女の人も死んだりしない。
でも、白雪姫の話、最後までできればよかったなぁ。
あの怒りっぽい王様の笑顔はなかなかに貴重だった。
そんなことを考えながら、枕元においてあるアラビアンナイトに手を伸ばす。桃のゼリーはちょっと今は食べられそうにない。
それは世にも面白いお話。でも、夢に出てくる王様は全部知っているお話。
このお話は本来短編というつもりで書いていたのですが、どうにもおさまりを見せずもはや短編にはなりえないような長さになりそうです。
いろいろ思うところはある作品ですが、どうかお付き合いください。感想などがございましたらどうぞお寄せください。




