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第二章

 わたしの十数年間の人生。長寿国という名を冠した日本の中では長くはないけれど、わたしにとっては十分に長いその間、幸いにも高い場所から落ちたということはなかった。

 

 かなりの違和感と、気持ちの悪さを一瞬感じて床に叩きつけられた。いくら柔らかな絨毯に覆われてるとはいえ、人一人の体重が高さのあるところから落ちればそれなりの衝撃となるわけで。膝は絶え間なく痛みを訴える。足も捻ったらしくだんだんと熱を帯びていくのがまざまざと感じられる。飛び出る悲鳴を必死にかみ殺し、歯を噛み締めて顔を上げた。夢のはずなのにこんなにも痛い。

 入院生活では体験しようのない痛みにうめきそうになりながらも、持ちうる精神力の全てを集結させて瞳を凝らし、そしてきつく瞑った。


 必死に美幸さんそっくりな女の人の元へ行こうとあがいた。落ちていく瞬間、確かに美幸さんとシャハリアール王の間に滑り込むのを見た。

 それはつまり、女の人めがけてシャハリアール王が振り下ろした剣がわたしを貫くということ。剣はすぐ目の前まで来ていた。赤い記憶がよみがえる。後ろにかばっている女の人が流しているはずの赤。わたしが倒れれば王様は剣をおさめてくれるだろうか。それともわたしの血がついた剣で女の人の命をもぎ取るのだろうか。

 日本刀は人を一人切るとその血と油で使い物にならなくなるという話を聞いたことがある。もし、わたしを切れば日本刀の形状から程遠いその豪奢な三日月刀もにぶくなるのだろうか。

 絶え間ない痛みと畏怖の中に浮かんだ自分のあまりにも能天気な思考に笑いをもらしそうになった。


 どちらにしろ目の前で美幸さんに似た女の人が死ぬことにはならないから、いいか。


 いとも簡単に自分の命を、あきらめた。自分の命の使い方くらいは自分で決めたい。お医者様や看護婦さん達には申し訳ないけれど、これくらいの我侭は許して欲しい。

 もう、これが夢だという思いはどこかにやってしまった。胡蝶の夢のように、夢と現実の区別はなくなっていた。

 ただ、痛くないといいな。ということだけ考えながら。


 いつまでたっても自分の首が飛ぶ気配も頭を割られる痛みもやってこない。

 階段から落ちる夢を見たときのように、衝撃で夢から醒めることができたのかもしれない。

 安堵し、ならば王様が女の人を切りつけたときに目がさめればよかったのに、と軽い憤慨を覚えながら瞳を開いた。

 眼に映ったのは、病室の白い天井。ではなく、自分の顔が赤の糸の合間に映った剣。磨き上げられたそれは呆けたように大きな眼を見開いていた貧相な少女を映していた。一瞬でも血と油でこの剣が鈍ることを考えた自分はなんて馬鹿だったんだろうと呆けた口の間から嘆息が漏れた。その剣はまるで血を吸えば吸うほど輝くような、そんな類の剣であった。

 そして、その妖刀ともいうべき剣が自分の目前に突きつけられていることを認識した。

 シャハリアール王はよほどの剣の達人らしい。見ただけでも金属部が多く、金をもあしらっていて重いことが分かるその剣を、あの速さから寸止めにした。少しでも動けば、赤い一筋が浮かび上がってきそうな距離に保たれた剣。


 「お前は何だ、子供。」

 呆けているわたしに重々しい声がかかる。隠し切れない苛立ちを滲ませて、言葉は重ねられる。

 「どこから、でてきた?」

 困った。どこから出てきた、と聞かれたところでまさか天井あたりの空間を示して終われるわけがない。自分なら絶対に信じない。

 早々に思考を放棄して、自分が庇った華奢な女の人に視線をめぐらせる。落ちてきたわたしにつぶされることもなく、女の人は血を流しながら気を失っていた。大方、剣が振り下ろされた際に精神が耐えられずに意識をシャットダウンさせてしまったということだろう。傷のほうはひどいが、致命傷ではないようで。胸をなでおろした。

 とりあえずは、彼女を守れた。そのことが温かな光となって降り積もる。これは夢かもしれない。わたしの脳の産物に過ぎないのかもしれない。それでも、彼女が生きていることに安堵した。わたしは大切な人のために何かができたのかもしれないと思うと、たまらなく嬉しくなった。この人は美幸さんじゃない。でも、美幸さんに何かあったら、自分は確実に何かができるという保証がされたようで。

 「聞いているのか。」

 その温かさをかき消すかのように、王様はいっそうの苛立ちを発しながら再度訊ねる。

一向に言葉を紡ぐことも、顔を挙げることもしない目の前の貧弱な物体に業を煮やしたのか、 王は剣を軽く振った。それだけの動作で剣を彩る赤ははじけ飛んだ。飛んだ赤が同じ赤色の絨毯に吸い込まれ、違う赤を残すのが眼の端に入った。王が本来の姿となったその剣を腰に巻かれた布にさしたことがかすかな音から分かる。わたしを覆っていた影が消え、代わりにしゃがみこむわたしの前に片膝を付いた。荒々しい動作で顎を掴まれ、無理やりに瞳をあわさせられる。

 「何だと聞いている。」

 低く、殺気すら放って王は囁く。

 しかし、その殺気にすら気が付かなかった。ただ呆然として王の顔を見つめた。

 生まれてはじめて、美しいと思う男の人に出会った。

 輝く黒髪に、黒曜石を埋め込んだかのような瞳。肌はまさにアラビアのイメージのまま浅黒く、しかしイメージ以上に艶があり、すべらか。あれほど重たそうな剣を振り回しているにもかかわらずボディービルダーのような荒々しい筋肉はついておらず、代わりに実用性に富んだ、しかし美しい曲線を描く筋肉が黒豹の持つそれのように一切の無駄が省かれた状態でついた体。

 それは、繁華街を歩いていたとしたら10人が10人とも振り返るような美貌で。殺気を出していなくても、声をかけるのが憚られてしまうほどの威光。

 普段から自分の容貌には嫌気が指していた。外来で病院に診察に来る女の子達を見るたびに、肉が薄く、骨が浮き出た自分の手を眺めた。

 そんなこともしたくならない絶対の美貌があった。比べるのすらおこがましい。

 そんなこんなで王の顔を不躾なまでに眺めていると、王は僅かに困ったような顔となった、気がした。その視線が物言わぬわたしから剥がされ、わたしの後ろへ向いたのが分かった。


 若い女を見ると妻のことを思い出して殺してしまうシャハリアール王。

 その視線は後ろの女の人・・・とても綺麗な、美幸さんに似た若い女の人。わたしも一応若い、女のはずなのだけれど豊満なアラビアの女性ばかりを見てきた王様には、童顔で有名な東洋人でしかも平均体重を何回りも軽くしたわたしは子供にしか見えてないらしい。女の人と女の子は別なのか、喜ぶべきか悲しむべきか憤慨するべきかはよく分からないけれど、今気にすべきはそこじゃない。

 女の人は、今は息をしているけど、あの重い剣をもう一度受けたら絶対に助からない。それどころか王様のたくましい腕で殴られるだけでもまずそうな状態だ。伊達に病院で過ごしてきたわけではない。それくらい、分かる。

 

 人間、必死になったら何をしでかすか分からないもので。


 さっきまで作っていた沈黙を大声でぶち壊し、形のいい自分よりも何回りも太い腕にしがみつく。唖然とした王様に、陳腐なドラマで眼にした訪問販売のセールスマンのように、間の抜けたゆるい笑みを浮かべて、何年ぶりかに出す大きな声で叫んだ。


 「世にも面白くて、不思議なお話はいかがでしょう!」


 アラビアンナイトに影響されたのか、情緒も脈絡も何もないことをまくし立てた。

 これはないだろうと思ったが、もはや遅い。急激に分泌しすぎたアドレナリンに頭がふらつく。

 王様は完全にこちらに視線を向けている。


 馬鹿、決定・・・ですか?


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