第十九章
ぺたぺたぺた
厨房から離れて、後宮の一室だと思われる部屋にて。
王様の部屋よりはずっと簡素だけれど、心地よく整えられたベッドの上で背中に何かべとべとするものを問答無用で塗られている。
ひんやりしていて気持ちいいけど……何しろこの匂いがいけない。
ツンとして、でもやたらと鼻に残って不快になる嫌な匂い。ちら、っとその薬(シーラさんが言うには)の入った壺の中を見て、とても後悔した。
「打ち身だけで済んで本当によろしかったですわ。侍医によると、後も残らないそうです。」
シーラさんが続けて塗りたくりながら、心底安心したように言う。このすごい匂いの中、表情を変えないのはさすがです。
「サイードは力だけは無駄にございますから……」
シーラさんは、大きく溜息をつく。良く分からないけど、サイードさんとシーラさんは親しい中らしい。言葉に遠慮がない。上品なシーラさんと筋骨隆々のサイードさんが並ぶと…まぁ、かなりの違和感があるから、なんだか不思議な感じ。
起こされて、今度は包帯を巻かれる。ただの打撲にしてはずいぶん過度な手当てだって感じたけど、あの壺の中身を思いだせば…うん、厳重なくらい包帯を巻かないと周りに被害が出そう。
裸の上に、普通に包帯を巻かれても恥ずかしいとか思わなくなったのは日本人としてどうだろう。もともと病院では検査のために服を脱いだりすることに慣れていたけど、こっちに来てからは……お風呂とかでそれに輪がかかった気がする。
シーラさんは丁寧に巻いていき、あっという間にぐるぐる巻きの私が出来上がった。
「これで完了ですわ。動かしにくいといったことはありませんか?」
言われて、腕とか、胴とかを軽く揺らしてみる。うん、異常なし。
胸が圧倒的にないから、圧迫感すら感じないのはどうかと思うけど。
「大丈夫です。」
「何か不便がございましたら申しつけてくださいませ。服はこちらを。」
シーラさんがふわり、としたシルエットの面積の広いトップスを広げる。刺繍とかは相変わらずにしても、いつもより落ち着きそうな服。
「少々打ち身の部分が広かったので、いつものお召しものでは包帯の部分が苦しく感じるかと思い、趣向を変えてみたのですが…ええ、良くお似合いになられますね。」
淡い色のそれは包帯をうまく隠してくれて、ついでに貧相な体も隠してくれたから、見た目にはいつもよりいいくらいに感じる。
「みゅう」
薬の匂いに驚いて、家具の死角まで逃げて行ったリシュルたちが顔を出して近づいてくる。
くんくん、と匂いを嗅いで、やっぱり臭かったのか鼻をベッドに擦りつける。
そういえば、シーラさんにこの子たちのことを伝えなきゃ。
「あら、リシュルではないですか。」
「知ってるんですか?」
2匹がシーラさんを噛まないように、抱き上げて、膝の上にのせる。
「ええ、人には慣れないのであまり目にすることはありませんが……さすがジンニー様ですわ。」
やっぱりリシュルが人に懐かないのは共通認識らしい。…ジンニーって便利だ。わたしは人間だけど。
「ええっと、森で会って、ついてきたそうだったから連れてきてしまったんですけど………」
そもそも後宮に動物を連れてくるってどうだろう?この子たちの歯は鋭いし…
「そう、森で、ですか。」
シーラさんがふっ、と遠くを見つめるようにして、膝の上で丸まっている2匹をみる。
何かを、悼むように。思い出すように。
とても、悲しい、顔。
「ジンニー様は動物にも好かれるのですね。」
振り切るように、押し込めるように、いつもの顔に戻ってにっこり笑みを向けてくれるシーラさんに、わたしは見なかったふりをする。
きっと、聞かれたらシーラさんは困るだろうから。
「それで、えっと……この子たちなんですけど。」
うう、言いにくい。
捨て犬を拾ってきて、親に飼ってもいいか聞く時の気持ちってきっとこんな感じだ。
「勿論、お連れしてよろしいですわ。場所でしたらいくらでもございますし。……ただ、王のお目にかけるのはやめておきましょう。」
あっ、また悲しい顔。
王様はリシュルが嫌いなのかな。それとも動物が嫌いとか?
「えっと、大丈夫ですか?」
「ええ、アスカ様はご心配なさらずに。リシュル達がすごしやすいよう、部屋を整えるように申しつけますわ。」
それだけじゃ、ないんだけど。
踏み込めばシーラさんが悲しみそうだから、わたしはまた目を逸らす。
「ありがとうございます。よろしくお願いします。……これから、一緒だよ?」
リシュル達を撫でれば、気持ち良さそうにのどを鳴らした。可愛い。
「お名前は、どうなさいますの?」
「名前……」
名前、か。
止まった手にリシュル達が不満そうに見上げてきて、その青い瞳と目が合う。
青い、吸い込まれそうな瞳は、良く見ると2匹で少しだけ色味が違う。
名前を付けるって、きっと大切なこと。
それはわたしからこの子たちへの贈り物で……わたしに縛り付けるもの。
2対の瞳はまっすぐに私を見上げていて。
わたしは、わたしの行動に責任を負わなきゃならない。
「これから、よろしくね?瑠璃、玻璃。」
瞳の青が濃い方には、瑠璃を。
瞳の青が透き通っている方には、玻璃を。
わたしが日本から来たことを表すような、そんな意味合いの名前を。
「で、それほど臭いわけだ。」
夜。政務から戻ってきた王様の鋭い視線にさらされる。
いつも以上に機嫌が悪そうで、直視できない。
どうしようもなくて、シーラさんに取り分けてもらった料理のお皿に視線を落とす。あんなことがあったせいか、このごろは落ち着いていた料理の種類と量が、前みたいな状態に戻っていて。……絶対食べきれない。
「あら、陛下。妙齢のお嬢様にそのようなことを申されてはなりませんわ。」
うん、シーラさんありがとう。
自分でもどうかと思うくらい臭いけど、他人にそう言われると傷つきます。
「はっ」
鼻で笑う王様。
やっぱり機嫌が悪いらしい。理由は分からないけれど。
「あの小さな森の中で迷えるとは器用な奴だ。」
王様はそう吐き捨てるように言い切って、お酒の入ったゴブレットを傾けて、一気にあおった。
……怖いです。
「……すみません。」
本当に情けないです。森は、迷えるのが不思議なくらい小さかったけど、実際迷って、コーランがいなかったら今でも迷っていたかもしれない。
「で、挙句にはだれだ?」
「……コーラン」
もう、尋問みたいになってるやり取りのなかで、コーランの名前を出した瞬間に王様の眉が一瞬だけど強くひそめられて、手に力が入ったのが分かる。王様がこんなに表情に出すなんて珍しい。……手にしたゴブレットが金属で良かった。ガラスとかだったら割れていたかもしれない。
でも、ここで怒る意味が分からない。
シーラさんを見たら、微笑ましそうににこにこ笑って王様のゴブレットにお酒を足していた。
……すみません、わたしは怖いです。
「コーラン、ね。」
「はい、そうなんです。お仕事中なのに、迷って困っているわたしに話しかけてくれて、案内してくれて。そのおかげで森を出れたんです。その後もいっぱい気遣ってくれて…」
王様のコーランに対する印象が悪そうだったから、どんなに親切ないい人かを伝えたつもりなのに……悪化した。王様の眉間のしわが深くなって、今度は一瞬じゃ消えなかった。
シーラさんの笑顔はより深まって、1つの部屋の中なのに寒暖の差が激しくて、困る。
「あら、陛下。もうお食事はよろしいのですか?」
俯いている上に、シーラさんの声が降ってくる。顔を上げれば、王様が眉間にしわを刻んだまま無造作に立ち上がっていて。
「食べる気が失せた。湯あみをして、寝る。」
いつもはもっと食べているのに、たぶん好物らしい何かのお肉の蒸し焼きにもほとんど食べないまま、背中を向けた。
「あ、あの!王様。」
扉を出て行こうとした王様が僅かに振り返る。
「今日は別の部屋で眠ってもいいですか?正直、わたしでもどうかと思うくらい臭いですし、王様も良く眠れませんよね?わたし、今日手当てしてもらった部屋とか、どこか別の場所で寝ま」
「お前は俺に物語りを聞かせると言った。それを放棄することはジンニーでも許さない。」
……本当に、何がいけなかったんだろう。
王様は、早く来い、と言い残して出て行った。
「……シーラさん、何がいけなかったんでしょう?」
シーラさんは一瞬驚いて、それからくすくすと面白くて仕方がない、というように笑った。
「アスカ様はお気づきになられないのですね。そうですわね。まずは……」
言葉を切ってわたしをみて、それからにっこり。
「やはり私から伝えるのは駄目ですわ。ここは陛下に御預けいたします。」
…今日のシーラさんは少し意地悪だ。
とにかく、王様をあまり待たせちゃいけない。
もしかしたら政務で疲れて機嫌が悪かったのかもしれない。うん、きっとそう。
まずは、目の前のご飯をやっつけて、それから。
今日も物語りで一日を終えよう。