第一章
落ちる落ちる落ちる
水の中に重石を付けられて沈められたらきっとこんな感じ
ここは、どこ?なんか暗い。
死の世界っていうのがあるんだとしたら、ここがそうなの?
わたしは何を思っていたんだろう。死んだって思ったらやけに悲しくて、美幸さんの泣き顔が出てきて、そして…とても安堵した。
わたしは、死にたかったの?
暗かった視界が端から少しずつ明るくなっていく。まだ死んだわけじゃないらしい。きっと少し気を失っただけだったんだろう。
手で目をこすろうとした。一瞬の抵抗を感じる。抵抗っていうものじゃないかもしれない。手が反応しなかったっていうのが正しいんだと思う。わたしは自分の手を見た。少しぼやけて見えたけど、目をこらしたら次第にはっきりと見えてきた。うん、大丈夫。わたしの手だ。
わたしはほっとした。
強い芳香が花をくすぐった。薔薇よりも薫り高いそれはいったい何?
わたしは目をこらす。だんだんと明るい部分が増えていく。
息が、止まった。
鮮やかな薄布が張り巡らされた室内。あちらこちらに大粒の宝石がちりばめられた煌びやかな部屋。あらゆる布には細かい刺繍がなされていて、まぶしい。電気は…電気じゃなくて燭台だった。
間違えても、病院じゃない。
下には大きなベッド…ちょっといやかなり大きすぎるようなベッドが見える。
下?下?
自分の顔から血が引いていくのが分かった。
だって、わたし…浮いてるよね?足元に何もないよ。
混乱した。目が回った。けど、落ちない。しばらくしてそれに気がついたら慌てるのを止めた。きっとこれは夢なんだろう。こんな部屋が病院に…それどころか日本にあるとは思えないし。
きっとさっき読んでたアラビアンナイトのせいだ。現実世界の意識が夢に反映されるっていうし、そのせいだ。
人間不思議なことに状況把握ができればそれなりに落ち着いてくるものだ。わたしはぼぅ、としながら下を眺めていた。夢だから落ちても痛くないだろうけど、下手に動いて落ちたらいやだし、それに、この部屋には観賞価値の高いものばかり置いてあったから。
美術館も博物館もわたしには遠いもので。だから、芸術の塊みたいなこの部屋はとても目新しい。夢は現実意識が反映するというけれど、わたしは間違えてもこんな光景を見たことはない。それどころかわたしの知っているアラビア風の家具を二重も三重も煌びやかにした家具ばかり。
少しだけ疑問が頭を掠めた。わたしはこんなものを見たことがない。そしてわたしの想像力はそこまで高くない。じゃあこの光景は?夢は自分の意識内に存在するものしか登場しない。じゃあ…
「なんだ、お前は!!」
激昂した声が響いた。その声を出した人物は部屋にはいない。底から響いてくるような低くて太い声。決して野太い声ではなくて、穏やかに話していたら聞き惚れそうな声。その声が大声で怒鳴っている。
「出てけ!!俺の前からうせろ!」
ひどく口が悪いらしい。誰かと喧嘩でもしているのだろうか。そうだとしてもわたしには関係がないのだろう。これは夢なんだし。たとえ火の粉がかかっても目覚めればいいだけ。
そう、わたしは完全に傍観していた。ただ上から室内をぼんやりと見つめていた。
その瞬間までは。
「きゃあ!止めてください、王!!」
甲高い女の人の叫び声が聞こえた。続いて駆け抜ける足音。何度か躓いたらしく、途切れがちである。
婦女暴行?わたしの脳内は意外と危険なものなのかもしれない。夢がこんなに穏やかじゃないなんて。
部屋の入り口にかかっていた豪奢な織物が薄絹とともに払いのけられる。のぞくのは若くてすべらかで華奢な女の人の腕。金銀の腕輪が燭台の光にきらめく。そこに走るのは真っ赤な糸。
わたしは息を飲んだ。鼓動がいっきに早くなるのが自分でも分かった。
あれは、糸なんかじゃない。あれは…血だ。
後ろを向いたまま部屋に入ってきたその女の人は肩を大きく切り裂かれていた。生々しい切り傷から行く筋もの赤い液体が流れ落ちる。それは生命の輝き。
どうかこれが夢なら
女の人は肩に手をあててあとずさる。顔は見えないけれど、ひどく怯えていることは分かる。
わたしの夢なら
すらりとした剣が入り口にかかった布をゆっくりと引き裂く。一瞬前まで美術品であったそれが布切れに変わる。わたしの能天気な部分がもったいないとしきりに叫ぶ。女の人の背中がこわばり、大輪の花が飾られた壷に躓いて倒れる。ひらりひらりと花が散る。
どうか、はやく醒めて
男が入ってきた。顔は…ぼんやりとしてよく見えないけど、とても体つきがよいのは分かった。鍛えられた体。携えるのは血のついた剣。恐ろしくも美しい剣が振り上げられる。
はやく醒めて
目がそらせない。剣についた血が珠となってはじけ飛ぶ。
「止めてください。シャハリアール王!!…止めて」
女の人の悲痛な叫びが響く。シャハリアール、これは…アラビアンナイト?分厚い本がわたしの頭に浮かぶ。
これがアラビアンナイトの世界なら
女の人が逃れようとする。震えすぎていて進めない。
この女の人がシャハラザードじゃないなら
王の剣が女の人のベールを切り裂く。
この女の人は殺される
女の人はもう動けない。恐怖に顔をこわばらせて…
「な…んで」
これは夢。これはゆめ。コレハユメ
肩から力が抜ける。何もこんなところで夢の特性が出てくる必要なんて、ないのに。
見ちゃ駄目。認識しちゃ駄目。これは夢だ夢だ夢だ。だから…
「美幸さんっ!!!」
たとえ夢だとしても。この人が死ぬのは、嫌だ。あの優しい笑顔が消えるならば…
一瞬息が苦しくなる。水の中にいるように突然体が重くなった。
まとわりつく水。世界に拒まれているかのような感覚。
それでも
「美幸さん…届いてっ」
血で汚れたその綺麗な顔へ手を伸ばす。指先の感覚がなくなっていく。体の芯がしびれ、押しつぶされそうになる。
瞬間、全てが開放された。新たに生まれてきたかのような開放感。まとわりついてきたものは全て消え去り、それと同時に襲ったのは浮遊感。
そして、落ちた。