第十八章
色々な料理が混ざり合ったいい匂いがする。
肩に乗ったリシュルたちがしきりに鼻をひくひくさせている。可愛い。
相当な種類の料理の匂いが混ざると、とんでもない匂いになりそうなものだけど、そんなことがないって知ったのはこっちの世界に来てからだった。病院では匂いの強い食べ物が何品も出たりしなかったし、そもそも自分の前に20種類を超える料理が並んだ経験なんてなかった。
きゅるるるる
……食事の光景とこの匂いで切ない音がお腹から洩れる。
ちらり、とコーランの方を見れば気がついた様子はなくて、ほっとする。
考えてみれば、あっちの世界ではもう何年間もお腹が空く、なんて経験はなかったから当然『お腹がなって恥ずかしい』思いもしなかった。病院の中なんて運動量は制限されるし、それ以上に体が受け付けなかった。初めて、こっちの世界で料理を見た時は全然食欲なんてわかなくて、むしろ戻す感覚を思い出して気持ち悪くなっていたのに、物凄い差だ。……健康な人も大変なんだな。
これ以上鳴らないように祈りながら、それとなくお腹をさする。
……あまり効果はなさそう。
「よーし、この中が厨房だよ。」
コーランが広めにとられた扉の前で立ち止まった。隙間から洩れる芳しい香りが鼻を刺激して、お腹が切ない音を立てそう。
「って言っても、厨房って要は裏方なんだよね。貴族の姫さんなんて入れるわけにはいかないからここで待っててくれる?」
こくり、とわたしがうなずく。コーランがにっこりと笑って重そうな扉に手をかける。
「ここの扉、少し開けておくから何かあったら呼んで。……あっ、あまり驚かないでね。」
何に、って聞くまでもなく、すぐに分かった。
……コーラン、もうちょっと早く言ってくれないと意味がないと思う。
少し開いた隙間から、聞こえたのは耳を劈く大音量。
右肩のリシュルが扉に向かって威嚇、左肩のリシュルは例によって肩から滑り落ちそうになって、わたしの咽喉からは嗚咽みたいな声が漏れた。
コーランはすごく普通の顔をして中に入って行って、完全に閉まらないくらいの隙間を開けて扉が閉まった。
だいぶましになった……怒号が飛び交う厨房をのぞいてみると、中はある意味戦場だった。
手前で、下働きっぽい人たちがひらすら、そうひらすら籠の中に入っている野菜…らしきものを剥いている。人の数も相当だけど、それ以上にその周りに広がった籠やらボールやらの数がすごい。里芋…に似た何かや、南瓜に見えるけどずっと柔らかそうな野菜が次々に剥かれて行って、積み重なっている。
ここももちろん鬼気迫る様子だけど、音自体はそんなに出てない。大音量の原因はその奥。
頭1つ抜けて、大きな人。布地が多めに使われた服の上からでも分かる筋肉。王様も勿論筋肉がついているけど、しなやかな、とか無駄のない、っていう説明が似合いそうなものなのに対して、なんというか……無駄なほど、とか、ありあまる、って感じの筋肉。目つきは遠目に見ても鋭いし、何よりも気迫にあふれている。
怒号の中心はあの人だ。
「あの人……コックさん、だよね?」
ちらりと見ても、じっと見ても、剣とか盾とか鎧とかが似合いそうだけど、物凄い早さでフライパンを振り、包丁で刻み、何かを練っている。それに、雄叫びみたいな鋭い声で次々に指示を飛ばしているから、コック長、っていった感じ。その声が狭くないはずの厨房に反響していてこんな音量になっている。
何よりもすごいのは、そんな怒鳴り声に似た支持を受けている同じお仕着せを着たコックさんたちが、少しも気にした様子はなく、普通に仕事をしていることだと思う。悲鳴なんて聞こえないし、肩をびくつかせている人もいない。
うん、人間って慣れる生き物だよね。
……なんかちょっと悲しい。この怒号に慣れ始めている自分がいることに気がついて、もっと悲しくなった。
すごい音量の中をくすんだ金髪の頭が、いろんな障害物をうまく避けてコック長さんに近づいて行くのが見える。籠をしょってるのに何かにぶつかったりしないのはさすがだと思う。…もしかしたら、わたしがいたらあそこまで辿り着けないからここで待ってるように言ったのかも。
コーランがコック長さんに話しかけて、コック長さんが振り返って。
「遅い!!もたもた何してたんだ!」
してたんだ…てたんだ…だぁぁぁ……
エコーが聞こえてきそうなここ一番の怒鳴り声に肩がびくついた。良く見ればまわりのコックさんたちも渦中の2人を見て……コック長さんにどなられている。
どうしよう、コーランが怒られているのってわたしのせいだよね?
わたしに森で会って、話しこんじゃったから帰ってくるのが遅くなったんだ。
どうしよう、入って……でも、入ってこないように言われたし…かといって、ここから呼んでも絶対に聞こえない。
悩んでる間にもコック長さんの怒鳴り声がコーランの上に落ちている。
どうしよう、どうしよう。
「アスカ様!!?」
「貴族の姫だぁ!!?」
廊下の向こうから聞きなれた、でもどこか焦ったような声音の叫びと、厨房の中から一際大きな怒鳴り声が同時に……中からの方がかなり大きな声だったけど、聞こえた。
うん。ナイスタイミング…?
「アスカ様!!どちらに行かれておりましたの?お怪我は…ないようですが…」
シーラさんは慌てて駆け寄ってきて上から下へと撫ぜるようにして視線をめぐらしてほっと安堵の息をついた。そういえば、お昼もすっぽかして…すっぽかさざるを得なくて、今は夕方だから……心配するのも最もだと思う。
「コーラン!!例の貴族の姫ってやつはど、こ………に?」
鬼のような形相のコック長さんの言葉は途切れて、頭がくらりとゆれた。
「っアスカ様!!……何てことでしょう!お怪我は…」
背中の痛みと、倒れこんだ先の石の廊下の冷たさを感じながら、シーラさんのより一層慌てた声が聞こえる。
つまるところ。
観音開きの重そうな厨房の扉がコック長さんの巨体によって押し開かれて、その前に突っ立っていたわたしに激突…した、っていうことらしい。運よく、扉の中心から離れていたから直撃って感じではなかったけど、あの筋肉から生み出される力はわたしをふっ飛ばすくらいの力はあった。……痛い。
リシュルたちは、うまく床に着地したらしく、わたしの前でコック長さんを威嚇してる。噛みつかないように、2匹をなでてなだめる。
「あぁ、アスカ様!頭はお打ちになられませんでしたか?……侍医をお呼びして!」
シーラさんが指示をだす。頭は打っていないみたいだから、シーラさんの手を借りて起き上がる。
「サイード!!これはいったいどういうことです!?」
わたしが頭を打っていないことに安堵して顔をゆるめたシーラさんは、再び顔を引き締めてわたしを吹き飛ばした犯人であるコック長さんに詰め寄った。
「いや、これはだな、シーラ…」
コック長さんをちらりと見上げて、想像以上の圧倒的な体格と大きさに驚いた。……しどろもどろにシーラさんに弁明している様子は幸か不幸か、怖くはなかった。
「ほんっとうに、申し訳ありません!!」
声が衝撃波になるなら重症、入院1カ月になりそうな大音量でコック長さんはその巨体を半分に折り曲げるようにして謝罪した。…土下座で。
……されたわたしはと言えば、反射的にシーラさんの後ろに隠れてしまって、コック長さんはまたシーラさんに怒られた。
「厨房を預かっておりますサイード・ジャリラーと申します。此度の不用意、処分はいかようにも。」
今この場で、包丁で切腹します、という感じのサイード…さん。
「い、いえ、こんなところに立っていたわたしが悪いので……すみません。顔をあげてください。」
「いえ、そのようでは私の気が済みません。周りにも示しがつかないでしょう。」
顔を上げないまま、物凄い肺活量で言葉を紡いでいるサイードさん。……この巨体で敬語を使っているのがなんだか不自然。敬語自体は変じゃないけど、何ていうか全体的に。それに、その対象が自分、っていうのも居心地が悪い。
ひらめいた。
「では……今日、コーランの仕事が遅れてしまったのは、わたしのせいです。コーランは道に迷ったわたしを案内してくれただけなので、彼に対して罰則を与えるのはやめていただけませんか?サイードさんの部下を煩わせて、結果として仕事を滞らせてしまって申し訳ありませんでした。」
頭を下げているサイードさんと同じくらい、頭を下げる。……この角度、しんどい。
「アスカ様がお謝りになる必要はございませんわ。姫が困っておりましたら、それを助けるのは王宮に勤める者としての義務です。褒められこそしても、叱責されることなどございません。全て、そこにおります至らない料理長の責任に他なりませんわ。」
シーラさんにしてはとげとげとした容赦ない言葉がサイードさんに降りかかる。……うぅ、どうしろと。
サイードさんは変わらず土下座したままだ。
「で、では、わたしに対して敬語を使わない、ということでどうでしょうか?そちらの方がわたしの気も楽ですし……」
「とんでもございません!我らが王の寵姫たるアスカ様にそのような無礼許されません。」
……なんか全力で否定された。
「それはサイードさんに、」
「サイードとお呼びください。」
…………
「サイードさんにとって苦痛ですか?」
とりあえず無視した。
「はい」
言い切った。
「では、『罰』に値しますよね?」
美幸さんは良くこうやって、いうことを聞かない患者さんに対処してたらしい。押しと引きの絶妙のバランスが大事、って言ってた。それに。
「これからも、おいしいお食事をお願いしますね。」
最後はおだてて、駄目押し。
美幸さん。効果は絶大の様です。
……自分が悪徳商法の人になった気がしますけど。
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活動報告にて与太話などを書いています。ネタばれも含んでおりますが、よろしければのぞいてみてください。