序章 夢の前
この小説には血が流れるような残虐な場面がございます。また、主人公の設定上人間の生死に関わる部もございます。作者としては生と死に対して十分に思慮いたしましたが不十分な部分も多々あると思います。そのようなもの、或は作者の考えに嫌悪を示される方はお戻りいただきますようお願いいたします。
この世に神様はいますか
わたしは見たことがないから分からない
でも もしいるのだとしたら
その神様はとても不公平で意地悪な神様なのだろう
目が覚めた。真っ白な天井が目に入った。とても清潔な白い箱の中でわたしは今日も目を覚ませた。何の面白みもない四角い窓の外は暑さのせいか揺らいで見える。確かテレビで今日は30度を越すと言っていたような気がする。パジャマを着た人々が何人か散歩をしている。
わたしも、この箱から抜け出して、あそこへ行きたい。ここはとても快適だけど何かが麻痺していくから。
それは叶わないことなのだろうけど。
壁にかかったカレンダーを見つめる。わたしの好きな画家の絵が描かれている。
わたしは、あと何日生きられるのかな。
一日で何回もそれを考えている。他にするべきことがないから。
この頃は自分が生きたいのかすら分からなくなった。
はじめは、確かに生きていたいと思っていたはずなのに。その心はいつのまにか手から零れ落ちていってしまったみたい。
ここは病院。それも特に重い病を患っている人ばかりが入る病棟。死のにおいを消そうとするかのように、消毒液のにおいで満たされている。
わたしが何の病気にかかっているのかなんてどうでもいい。
わたしは、あと半年もしないうちにこの世界から消えてしまう。これだけが変えようのない真実。
小さくノックの音が聞こえた。
わたしも小さい声で返事をした。
「おっはよ〜!元気!?」
とてもじゃないけど、病院で出す声じゃない。しかもこの人は看護婦さんだ。本人に言わせると病院を明るくしているんだ、ということらしいけど、それにしてもこれは五月蝿すぎじゃないか。
「美幸さん、五月蝿いです。」
わたしは少し睨みつけるようにして彼女を見上げた。
「うーん。大丈夫!」
その自身はどこから来るの?わたしはもう毎日恒例とも言えるため息をついた。
「今日も飛鳥ちゃんは可愛いわねぇ!!」
そう叫びながらわたしを抱きしめて、髪の毛をかき混ぜる。
わたしはそれほど可愛くはない。見るに耐えないほど醜いわけじゃないけど、可愛いとは間違っても言えない。この頃は食事もうまく摂れないから点滴ばかり打っているせいで顔は青白いし、肉が落ちてきて目ばっかりが大きく見える。某犬種の犬を思い出すような目だとよく言われる。かろうじて髪の毛がふわふわしているから、その貧相さが目立たないだけ。
その髪の毛は入院してからろくに切ってもらってないせいで量も長さも相当のものになってしまった。だから正直美幸さんにかき混ぜられると、困る。わたしは自分の髪を梳くだけの体力も十分にはないのだから。
「そんなに心配そうな顔をしないでもちゃんと梳いて上げるわよ。まかせといて!!」
美幸さんはあまり解決にならないことを言う。でも美幸さんは嫌いじゃない。いわゆる天涯孤独の身というものに該当するわたしに、飽きもせずに付き合ってくれる彼女は言葉にはしないが大好きだ。わたしの買い物とかもしてくれる。お見舞いに来る人がいないわたしにはとてもありがたい。この部屋にあるものはほぼ全部美幸さんが買ってきたものだ。可愛い小物も、服もわたしじゃ買いにいけないから。それに
わたしが死んだら彼女はきっと泣いてくれるから。
美幸さんはベッドのサイドテーブルの引き出しから櫛を取り出してわたしの髪をすき始める。
アップテンポの流行の歌をこれまたかなりの音量で口ずさみながら。
「美幸さん、あれなぁに?」
わたしは美幸さんが抱えてきた大きな植物を指差した。病院に香りの強い花は持っていっちゃいけないというけれど、わたしの病気には関係ないから、美幸さんはいつも派手で香りの良い花を飾ってくれる。華やかなほうが飛鳥ちゃんには似合う!!と言って。でも今日の花は葉ばかりが目立って、花も開いていない。
「うふふふふ。今日のお花はすっごい花なのよぅ。まさか日本で切花になって売っているなんて思ってもなかったから速攻で買っちゃったわ。」
確かに珍しい花なんだろう。病院生活が長いわたしでも見たことがない。葉っぱのようなそれ。
「何の花なんですか?」
「んふふふふ。ひ・み・つ。」
美幸さんはわたしよりも一回りも年上だけど、いたずらっ子のように笑うその顔はとてもかわいらしく、若々しい。綺麗な人だ。
「そのうち咲くから、注意して見ててね。そうしたら教えてあげる。」
注意して見る、とはどういうことなのだろう。美幸さんはよくわたしに謎だけを残して答えをくれないことがある。まるでわたしをこの世界に引き留めるように。何かに執着を持つように。
やはり彼女は好きだ。
だから、いつもこんな瞬間にわたしは生きていたいと思うんだ。
丁寧にわたしの髪を梳って、検温をして、健康管理をするカードに書き込んで、買い込んできた荷物をわたしに渡して、美幸さんは仕事に戻っていった。わたしは少しだけ美幸さんのおかげで元気になった。
ごそごそと美幸さんが買ってきた荷物を開ける。何冊かの本と、桃のゼリー。両親の遺してくれた遺産は相当な額だったらしいから、わたしは美幸さんに頼んで本を買ってきてもらうことにしていた。特に好きなジャンルはない。好きな作家もいない。ただの退屈しのぎ。
ゼリーはわたしがこの頃食べられる唯一のもの。他は頑張っても戻してしまうことが多い。当然病院は栄養管理された食事を出すから毎日ゼリーが入っているわけではないし、入っていたとしても味気ないものばかり。美幸さんはそれに気がついたのか毎日買ってきてくれる。桃が好きだといった覚えもないのに、一週間が過ぎてからは毎日桃になった。美幸さんはきっと感受性が高いんだと思う。何も言わなくても考えていることを分かってくれる人。
ちょっと苦戦しながらゼリーのパッケージを開ける。ふたについたゼリーの汁をどうしようかと悩みながら見ていたら、ゼリーの汁が手にこぼれた。慌てて舐めとってから、ごみ箱にパッケージを捨てた。むぐむぐとゼリーを食べる。食べる。
桃の果肉が半分入っていることを売りにしているそのゼリーは、思いのほか大きく食べるのに時間がかかった。美味しかったが少し疲れた。体力がないとはこんなにも歯がゆい。
ぼんやりと太陽が高く昇った空を眺めながら休んでから、今度は本を手に取った。
本を読むことくらいしかやることがないせいで、わたしが読む分量はとても多い。比較対象がいないからよく分からないけど、美幸さんが驚いていたからきっとそうなんだと思う。だから最近では分厚い本ばかりが届けられる。
今日も分厚い本が3冊。有名な賞を受賞した作家さんが書いた本と、なぜか株取引の本。…美幸さんは株を始めようとしているのかな。でも彼女の性格からしてうまくいくとは思えないんだけど。今度来たら聞いてみようと思いながら、わたしは一番下に入っていた本を取り出した。重い。
「千夜…一夜物語…アラビアンナイト?」
一時期美幸さんが童話ばかりを買ってきた時期があって、そのなかにアラビアンナイトも入っていた。でも今回のそれは前みたいな子供向けの薄いやつじゃなくて重厚感のある分厚いやつ。そう、物語が1000個入っていそうなくらいの。きっといきなりアラジンとか、シンドバットとかから始まるんじゃない本。わたしはそれを読み始めた。
物語は妻に裏切られたシャハリアール王が娶った妻を次々と殺していくところから始まった。美しく、頭のよいシャハラザードがあらわれて、なんだかんだあった後に王に物語を語り始める。それは世にも面白いお話。
点滴を打たれたり、お医者様が様子を見に来たりしたけど、それ以外の時間はずっとそれを読んでいた。子供向けのお話…だと思うんだけど、主人公の名前が似ていて分かりにくい上にやけに血なまぐさい。日本の子供向けに出版されているお話ではこういうところはカットされていることが多いけれど、その本にはちゃんと入っていた。きっとそういう部分が物語をより美しいものにしているんだろうなぁ。
一息つこうと本から目を離した。そろそろ消灯の時間だ。
美幸さんが買ってきた例の花、もとい葉っぱを見た。今まであった花瓶にはちょっと、いやかなり大きいそれに花は咲いていない。かたく蕾を閉ざしている。
視線をさらに上げる。空に三日月がかかっていた。
なぜだかだんだんとそれが歪んでくる。その部分だけが。
わたしの目がおかしくなったのかぁ。本の読みすぎかもしれない。もう、寝よう。
視界が一気に歪んで、崩れた。
息が、できない。
発…作、だ。
ナースコールに必死に手を伸ばす。これは、まずい。今までで一番、よくない。
届…かない。
わたしは意識が途絶えるのを感じた。
美幸さんの笑顔が見えた。
ごめんなさい。美幸さん。今回は、駄目かもしれない。
いかがでしたか。ご感想などがございましたら、寄せていただければ幸いです。