Episode 04 風と月
暫くの間――二分ほどであろうか――窓を見つめながら、頭の中で物事を整理した。
どうするべきだろうか。
そこまですべき価値があるだろうか。
自分の心の中でその疑問を解いていく。
(さっきだって、結局何もなかったじゃないか)
自分の心に強く言い聞かせる。
(ほんの五分。勇気を出せば……)
“あれ”は決して遠くにあるわけではない。
どこに置いたかも、はっきりと覚えていた。
しかし、“あそこ”にはもう戻りたくない。
強い葛藤が心の中で沸き起こっていた。
ふと、空を見上げた。
白い影がちらほらとうろつき始めていたが、柔らかい光を発し続けている。
「よし!」
大きく深呼吸し、鞄を体育館のベランダへと投げ捨てた。
体を百八十度反転させると、ゆっくりとあの窓へと足を進めていく。
俺は戻ることを決意した。
決意を固め、満を持してゆっくりと窓へと歩いていく。
――その時だ。
軽い圧力とともに、風のこすれる高い音が聞こえた。
突如、校庭の木々がざわざわと音を立てて騒ぎ始める。
髪の毛は乱れ、少し大きなワイシャツが肌に張り付いた。
校庭はさっきまでの静けさを失い、違う姿を見せようとしていた。
いきなりの豹変ぶりに一瞬、躊躇いの気持ちが過る。
窓に手を掛けるとゆっくりとスライドさせた。
ここまで来た以上、引き返すことはできなかった。
開け終わるなり、逆の工程をたどる。
縁に手を掛け、上半身から校舎に押し込んでいった。
まだ先ほどの疲れが残っているのか、上手く力が入らない。
やっとのことで校舎に転がり込むと、徐々に顔を上げていく。
薄暗い闇の道。
ついさっき、必死になって駆け抜けた廊下を見つめる。
先ほどは分からなかった細かな情報が目から入ってきた。
月の反射光の所為か完全な闇というわけではなく、薄暗い空間が長々と続いていた。
(急ごう)
徐に立ち上がると、闇に向かって足を踏み出した。
一歩また一歩と足を足を進めていく。
やはり、この不気味悪さの所為なのだろうか。
ゆっくりと動かしていた足のピッチがどんどんと上がっていた。
この空気に慣れることは決してないだろう。
闇の中、黙々と足を動かす。
荒れる息。再び木霊する靴の音。
所々には、先ほどは気づかなかった警報機の赤い光が、薄暗く周囲を照らしていた。
なんとも嫌な光だ……。
百メートルほどあっただろうか、なりふり構わず全力疾走した。
月の光が差し込む角を曲がると、渡り廊下を駆け抜ける。
辺りの景色が段々と明るくなっていくのを感じた俺は、足のスピードを緩めていった。
大きく肩を上下させながら光が差し込む廊下を歩いていく。
「はぁ……はぁ…………はぁ」
先ほどは靴音だけで騒がしかった空間に、静けさが戻り呼吸音だけがただただ響いていた。
そこの角を曲がれば教室までは目と鼻の先のようなものだ。
安堵するのはまだ早かったが、あの廊下を越えられたことで、緊張の糸はほとんど切れ掛かっていた。
ここからでも見える大きな窓からはあの光が廊下を包み込むように照らしていたからだ。
決して明るいわけではなかったが、瞳孔が開ききっている目には、十分な明るさだった。
角を曲がると、先ほどと変わらない夜の光の世界が広がっていた。
二つ目の教室。それが俺の教室だ。
確りとクラスのプレートを確認すると後方の扉へと向かっていく。
相変わらず大きな息遣いで一歩一歩足を進めていった。
最後の角を曲がろうとした時だ、さすがに緊張の糸が切れてしまったのだろう。
視点が定まらなくなり、体がふらつくのを感じた。
目の前がいきなり震えだし、地震が起こったようだった。
思わず扉の縁に手が向かう。
右手が縁に向かうと、左手は自然と膝に凭れかかっていた。
前かがみになりながら再び大きな深呼吸をする。
(流石に、全力はキツイわ……)
運動から長く遠ざかっていた俺にとって、百メートル二セットというメニューは肉体に予想以上のダメージを与えていた。
ワイシャツの第二ボタンを外し、下あごを軽く拭う。
目線を少し上げると、地面に薄い影がパントマイムをしていた。
そんな光景に微笑しながらゆっくりと起き上がっていく。
俺の不安は完全に取り除かれていた。
「……。」
そんな安堵も、この状況では長くは続かないものなのだろうか。
突如、何か違和感を感じた。
急いで振り返り、辺りを見渡す。
(気のせいか……)
先ほどの光景となんら変わりはなかった。
強いて上げるならば、唯一木霊していた荒い呼吸音が消えていることだろうか。
そこはすっかりと静寂な空間へと逆戻りしていた。
ほっと胸を撫で下ろし、振り向いていた体を元に戻そうとする。
(……!?)
一瞬の出来事に自分でも何が起こったのかがわからない。
気づいたら自分は闇の世界の中にいた。
(月の光は――)
大きな窓越しに空らしきものを見上げる。
先ほどまで希望の光を発していたはずの月が消えていた。
(嘘だろ……)
もっと早く気づくべきだった。
大きな雲が空全体を厚く覆っていた。
雲の薄みから覗く微光は闇を消し去るにはあまりにも少なすぎた。
辺りは完全に夜の世界に包まれた。
さっきまで見えていた場所が見えなくなり、見えなかったものが見え始める。
廊下の奥で赤い光が微かな光を放っていた。
警報機の放つ光だというのは頭でも分かっている。
第二校舎でも見た。
しかし、ここでそれが見えているという事実は俺を地獄へと突き落とした。
忘れかけていた『恐怖』という言葉と感覚が、心の中で浮かび上がってくる。
ほのかに見える、無意識に開けっ放しの扉を潜り抜けると、一目散に教室の端へと向かっていた。