討伐するはずだった白銀の竜に命乞いされたので助けたら、婚約者に嫌われても俺のそばを離れなくなった
リセリスが新しい手で初めて花を摘もうとしたとき、その花は潰れてしまった。
そんなつもりはなかった。
洞窟の入口に咲いていた、小さな白い花だった。雪解け水が岩の隙間を伝い、ようやく春の気配が山に戻り始めた朝、リセリスはそれを見つけた。
寝床のそばに飾れば、少しは気分が明るくなるかもしれない。そう思ったのだ。
けれど、二本の大きな爪で茎をつまもうとした瞬間、柔らかな花弁はあっけなく潰れてしまった。
リセリスはしばらく動けなかった。
そっと爪を開くと、白い花の残骸が石の上に落ちた。
「あ……」
洞窟に、小さな声が響く。
「ごめんなさい」
花に謝ったところで、元に戻るはずもない。それでもリセリスは鼻先を近づけ、もう一度謝った。
「ただ、お部屋に飾りたかっただけなのに」
入口から吹き込んだ風が、銀色の翼を揺らした。
顔を上げれば、エルドリア山脈の峰々が青空の下に連なっている。斜面には針葉樹の森が広がり、その向こうには小さな村々の屋根も見えた。
リセリスは長いこと、その景色を眺めていた。
最後に自分の人間の手を見たのは、いつだっただろう。
最初の頃は、元の姿に戻る方法を必死に探した。
魔法を試し、古い書物を読み漁り、廃墟となった神殿に三日三晩こもって祈ったこともある。
けれど、何も変わらなかった。
やがて彼女は、答えを探すことをやめた。
爪で物を持つことを覚えた。硬い岩の上でも眠れるようになった。空を飛ぶことも、寒さに耐えることも。
ただ、ひとりで生きることだけは、いつまでたっても上手になれなかった。
洞窟の奥へ戻ると、リセリスは大切にしている品々の前に座った。
古びた本が三冊。擦り切れた毛布。小さな木箱。
そして、一枚の鏡。
金色の枠には葉の模様が彫られ、青い小石が埋め込まれている。鏡面にはひびが入っていたが、姿を映すには十分だった。
リセリスは爪を立てないよう慎重に鏡を持ち上げた。
そこに映っていたのは、白銀の鱗を持つ巨大な竜だった。
後ろへ優雅に伸びた二本の角。長い首。鋭い牙。そして、金色の瞳。
口を開けば、恐ろしい牙が覗く。
リセリスは鏡の中の自分を見つめ、わざと明るい声を出した。
「おはようございます、リセリスお嬢様」
少し間を置いて、首を反対側へ傾ける。
「おはよう。昨夜はよく眠れまして?」
また少し間を置く。
「ええ、とても。お気遣いありがとう」
自分で自分に返事をして、くすりと笑った。
「ふふ。今日も楽しいおしゃべりでしたね」
けれど、その笑みは長く続かなかった。
鏡を岩の上に戻し、リセリスは小さく息を吐いた。
「……誰か、本当に返事をしてくれたらいいのに」
洞窟は静まり返っていた。
目を閉じると、遠い昔の光景が浮かぶ。
燭台に照らされた部屋。白いドレス。薔薇の香り。
そして、大理石の玉座から自分を見下ろす、黒髪の女。
『私のそばにいれば、何不自由なく暮らせたものを』
『私の人生は、私が決めます』
『ならば思い知るがいい。誰の庇護も受けられぬ生が、どれほど惨めなものか』
リセリスははっと目を開けた。
呼吸が乱れていた。
「……いや」
首を振り、記憶を追い払う。
あの夜のことは、まだ思い出したくなかった。
壁際の籠に目を向けると、林檎が二つ残っていた。
赤いものと、黄色いもの。
リセリスは少し迷ってから、赤い林檎を手に取った。
「今日は特別な日にしましょう」
前脚を揃え、ひとりで行儀よく座る。
「それでは、リセリスお嬢様の健康を祝して」
しゃくり、と林檎をかじった。
甘い果汁が口に広がる。
思わず笑みがこぼれた。
誰かと朝食を囲んでいるつもりになる。
友達でもいい。
家族でもいい。
自分を見た途端、悲鳴を上げて逃げ出したりしない人なら、それだけでよかった。
リセリスはゆっくり林檎を食べた。
残った一つは、また籠に戻す。
冬はまだ終わりきっていない。
食べ物を無駄にはできなかった。
最初の地震が起きたのは、前年の秋だった。
初めのうちは、村人たちが気づかないほど小さな揺れだった。それが次第に大きくなり、山道が崩れ、橋が落ち、家々の壁に亀裂が走るようになった。
そして、噂が広まった。
白い竜が目覚めたのだ、と。
山に棲む怪物が怒っているのだ、と。
リセリスは、その噂を山の上から聞いていた。
どれも違う。
けれど、誰も自分の言葉など信じてくれないだろう。
本当の原因は、山の地下深くにあった。
地中には古くから魔力の流れが幾筋も走っている。目には見えない川のようなもので、長い年月のあいだ、一定の均衡を保ってきた。
ところが、その流れが乱れ始めていた。
魔力が一か所に溜まり、行き場を失って地盤を押し上げる。やがて耐えきれなくなった岩盤が裂け、地震や崩落を引き起こす。
リセリスには、その兆しが感じ取れた。
そして、魔力の流れを一時的に押さえ込むこともできた。
ただし、代償は小さくなかった。
その日の午後も、山腹を飛んでいたリセリスは、地の底から突き上げるような圧力を感じた。
「また……!」
急いで森の近くへ降りる。
地面に大きな亀裂が走り、隙間から青白い光が漏れていた。
リセリスは前脚を突き出した。
爪の周囲に金色の魔法陣が浮かび上がる。
「お願い……少しだけ、おとなしくして……!」
地中の魔力が激しく逆流した。
腕を焼かれるような痛みが走る。
押し寄せる濁流を、両手だけでせき止めようとしているようだった。
「もう少し……あと、少し……!」
斜面から岩が転がり落ちた。
一本の木が根元から傾く。
リセリスは翼を広げ、森へ向かう衝撃を防いだ。
次の瞬間、魔力が体内を貫いた。
「っ、あああっ!」
視界が白く弾ける。
それでも、爪を下ろさなかった。
やがて圧力が弱まり、青い光が岩の隙間へ消えていく。
地面の揺れが収まった。
リセリスはその場に膝をついた。
荒い息を繰り返しながら、谷を見下ろす。
家々は無事だった。
煙突からはいつものように煙が上がっている。
「……よかった」
かすかに笑った。
立ち上がろうとすると、脚が震えた。
脇腹の鱗が一枚割れ、血が滲んでいる。
しばらく休まなければ、飛ぶこともできそうになかった。
リセリスは村を見つめた。
「教えてあげられたら、いいのに……」
だが、以前村へ近づいたときのことを思い出す。
言葉を三つも発しないうちに、兵士たちは矢を放った。
それ以来、リセリスは人目につかないところで村を守るようになった。
感謝されなくても構わなかった。
ただ、誰かが死ぬのを見るのは嫌だった。
三日後、狩人たちが洞窟にやって来た。
リセリスが傷を休めていると、入口のほうから人間の声が聞こえた。
五人。
革鎧を身につけ、槍や弩を持っている。
一人は松明を掲げていた。
「本当にここなのか?」
「川の近くに足跡があった。間違いない」
「一吠えで村を吹き飛ばすって話だぞ」
「だったら起こさないことだな」
リセリスは身を縮めた。
動かなければ、帰ってくれるかもしれない。
けれど、松明の光が銀色の鱗を照らした。
「いたぞ!」
男たちが一斉に後ずさる。
リセリスはゆっくり顔を上げた。
「お願いです。怖がらないでください」
最も若い狩人が悲鳴を上げた。
「しゃ、喋った!」
「はい。ですから、少しお話を――」
矢が飛んできた。
リセリスは反射的に首をひねる。
矢尻が鱗に当たり、乾いた音を立てて落ちた。
「待ってください!」
「化け物だ! 殺せ!」
二つの弩が同時に放たれた。
リセリスは翼を広げて身を守る。
一本は弾いたが、もう一本が翼膜に突き刺さった。
「っ……!」
激痛に声が漏れる。
思わず立ち上がると、巨大な体が洞窟の床を震わせた。
「待ってと言っているでしょう!」
自分でも驚くほど大きな声だった。
男たちは顔を青くした。
一人は武器を落とし、別の一人は逃げようとして転んだ。
リセリスは翼から流れる血を見た。
そして、狩人たちを見つめる。
本気になれば、彼らを殺すのは難しくない。
尾を振るうだけでいい。
炎を吐いてもいい。
爪を一度振り下ろせば、それで終わる。
けれど、最も若い狩人の顔を見た瞬間、そんな考えは消えた。
まだ十七歳にもなっていないだろう。
弩を握る手が、ひどく震えている。
リセリスは、自分が初めて竜の姿で目覚めた日のことを思い出した。
大きな爪を見て悲鳴を上げたこと。
自分の顔に触れようとして、牙で傷つけてしまったこと。
あの恐怖を、誰かに味わわせたくはなかった。
「……帰ってください」
低く、静かな声で告げる。
男たちは動かなかった。
「追いかけません。何もしませんから……どうか、帰って」
最初に走り出したのは若い狩人だった。
ほかの男たちも、我先にと逃げていった。
足音が遠ざかるのを聞き届けると、リセリスは力なく床に伏せた。
翼には矢が刺さったままだった。
爪を伸ばしてみる。
届かない。
角度を変えて、もう一度。
ようやく矢をつかんだものの、少し動かしただけで鋭い痛みが走った。
「……大丈夫。できるわ」
自分に言い聞かせる。
深く息を吸い、思い切って引き抜いた。
「うあっ……!」
矢が石の上に落ちる。
リセリスはそのまま動けなくなった。
しばらくして顔を上げると、白銀の鱗が血に汚れていた。
「どうして……」
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。
「私、何かしたの……?」
答えは返ってこない。
リセリスは前脚に顔を埋めた。
寒さには慣れた。
空腹にも、傷の痛みにも。
けれど、一度も傷つけたことのない人たちから憎まれることだけは、どうしても慣れなかった。
その夜、彼女は一睡もできなかった。
一方、アルサリオン王国の王都では、重苦しい会議が開かれていた。
王宮の大広間には青と金の旗が掲げられ、長い卓を囲んで重臣たちが顔を揃えている。
ヴァルセリス・フォン・アスターフェルトは、ほかの騎士たちとともに壁際に立っていた。
二十六歳。
短く整えた黒髪に、澄んだ青い瞳。胸に王冠を戴く獅子の紋章が刻まれた銀の鎧をまとい、濃紺の外套を肩にかけている。
国王アルデマールは、手元の報告書を机に置いた。
「三度の討伐隊が失敗した。北方の街道は封鎖され、村々からは救援の嘆願が届いている」
一人の大臣が机を叩く。
「軍を派遣すべきです!」
「山中で竜と戦うつもりか? 飛ばれたら手も足も出んぞ」
議論が紛糾するなか、王太子ケイドリックが口を開いた。
「父上。その前に、事実を確かめるべきではありませんか」
国王が眉をひそめる。
「報告は十分に受けている」
「報告にあるのは、地震の際に竜の咆哮が聞こえたという話です。竜が地震を起こしたところを見た者はいません」
大臣たちの間にざわめきが広がった。
「討伐隊の証言にも食い違いがあります。竜が追撃してこなかったと話す兵士もいるのです」
「魔物を信じろとおっしゃるのですか!」
「いいえ。疑いを事実として扱うべきではない、と申し上げています」
国王が手を上げた。
広間が静まり返る。
「ヴァルセリス・フォン・アスターフェルト」
「はっ」
ヴァルセリスは一歩進み出た。
「お前はこれまで幾度も魔物の討伐に携わってきた。今回の任務も任せたい」
「承知いたしました」
「エルドリア山脈へ向かい、白竜を討て」
ヴァルセリスは深く頭を下げた。
「御意」
会議が終わると、ケイドリックが廊下で彼を呼び止めた。
「ヴァルセリス」
「殿下」
「二人のときくらい、昔みたいに呼んでくれないか」
「王宮内では不適切です」
「相変わらず堅物だな、お前は」
「殿下こそ、昔から責任を避けるのがお上手で」
「だからこそ、責任感のある友人が必要なんだ」
二人は並んで歩き、庭園を見渡せる回廊へ出た。
ケイドリックは欄干に腕を置く。
「今回の任務、どうも引っかかる」
「私もです」
「だったら、どうしてあんなにあっさり引き受けた?」
「騎士の務めですから」
ケイドリックはため息をついた。
「その答えが心配なんだよ」
ヴァルセリスは友人を見る。
「どういう意味ですか」
「いつか、お前に間違った命令が下されるかもしれない」
「騎士は王を信じるものです」
「信じることと、考えることをやめるのは違う」
ケイドリックは真顔になった。
「父上は残酷な人ではない。ただ、今は焦っている。商人たちは損害の補償を求め、貴族たちは責任者を欲しがり、村人たちは怯えている」
「理解しています」
「なら、一つ約束してくれ」
「何でしょう」
「竜に罪がないとわかったら、命令されたからという理由だけで殺さないでほしい」
ヴァルセリスは黙った。
幼い頃、剣を教えてくれた師の言葉が脳裏をよぎる。
『剣そのものに誇りはない。いつ抜くかを決める者にこそ、誇りが宿るのだ』
「……まずは事実を確かめます」
ケイドリックはようやく笑った。
「それでいい」
その日の夕方、ヴァルセリスは婚約者の屋敷を訪れた。
ローゼンヴェイル家の屋敷は王都でも有数の高級住宅街にあり、白い石壁には蔦が這い、庭には手入れの行き届いた薔薇が咲いていた。
オデリアーヌはテラスで彼を待っていた。
二十四歳。長い金髪と緑の瞳を持つ、美しい令嬢だった。
淡い象牙色のドレスには青い花の刺繍が施され、首元には小粒の真珠の首飾りが輝いている。
ヴァルセリスを見ると、彼女は読んでいた本を閉じた。
「遅いわ」
「会議が長引いてしまって」
「あなたはいつもそう言うのね」
「怒っている?」
オデリアーヌは考えるふりをした。
「そうね。場合によるかしら」
「何によって?」
「埋め合わせを持ってきたかどうか」
ヴァルセリスは外套の内側から小さな箱を取り出した。
「これで許してもらえるだろうか」
「まあ、何かしら?」
箱の中には、蝶をかたどった銀のブローチが入っていた。
羽には小さな青い宝石が散りばめられている。
オデリアーヌはしばらく見つめた。
「……覚えていてくれたの?」
「君は昔から蝶が好きだっただろう」
「子供の頃、私のために捕まえようとしてくれたわね」
「池に落ちたことまで覚えているのか」
「もちろん。あんなに面白いこと、忘れられるものですか」
「私は少しも面白くなかった」
二人は笑い合った。
ヴァルセリスがブローチをドレスにつけてやると、オデリアーヌは嬉しそうに胸元を見下ろした。
「ありがとう。本当に素敵」
そう言って、彼女は彼に抱きついた。
ヴァルセリスもそっと抱き返す。
しばらく、二人は何も言わなかった。
やがてオデリアーヌが顔を上げた。
「……何かあったの?」
「なぜ?」
「いつもより口数が少ないもの」
ヴァルセリスは少し迷ってから答えた。
「北へ行くことになった」
彼女の表情が曇る。
「また任務?」
「ああ」
「どれくらい?」
「まだわからない」
「……危険なのね」
ヴァルセリスが答えないでいると、オデリアーヌは小さく息を呑んだ。
「今度は何と戦うの?」
「竜だ」
「……嫌」
彼女は一歩下がった。
「冗談でしょう?」
「王命なんだ」
「それで、引き受けたの?」
「騎士としての務めだから」
オデリアーヌは唇を噛んだ。
「私、その言葉が嫌いになりそう」
「オデリアーヌ……」
「結婚式の準備だって、何度も延期になっているのよ。日取りを決めようとするたびに任務が入って、将来の話をしようとすると、誰かがあなたを呼びに来る」
「わかっている」
「本当に?」
彼女の目に涙が浮かんだ。
「私以外の誰もが、あなたの時間をもらえるみたい」
ヴァルセリスは胸が痛んだ。
「そんなことはない」
「だったら、いつ結婚できるの?」
彼は答えようとした。
けれど、具体的な日付が出てこなかった。
オデリアーヌは寂しそうに笑う。
「……ほらね」
ヴァルセリスは彼女の手を取った。
「戻ったら、必ず両家と話し合おう。今度こそ日取りを決める」
「約束?」
「ああ」
オデリアーヌはしばらく彼を見つめてから、胸に額を寄せた。
「失いたくないの」
ヴァルセリスは彼女を抱きしめた。
「必ず帰る」
その夜、二人は一緒に夕食を取った。
将来住みたい家のこと。庭に植えたい花のこと。いつか海を見に行こうと交わした、幼い日の約束。
子供が生まれたらどうしようかという話になったとき、ヴァルセリスが真剣な顔で「抱き方を間違えて落としたらどうする」と言い出したので、オデリアーヌは声を上げて笑った。
「もう、あなたったら!」
「大事な問題だと思うが」
「そのときは私が教えてあげるわ」
笑いながら、彼女は彼の腕を軽く叩いた。
けれど、ヴァルセリスが帰ったあとも、オデリアーヌは長いこと窓辺に立っていた。
彼の姿が夜の向こうへ消えるまで見送ってから、胸元の蝶のブローチに触れる。
「……帰ってきてね」
誰にも聞こえない声で、そう呟いた。
ヴァルセリスが洞窟にたどり着いたのは、それから四日後のことだった。
リセリスは奥で横になっていた。
翼の傷はまだ痛み、熱もあった。昨夜は寒気がひどく、ほとんど眠れていない。
石を踏む音が聞こえた瞬間、彼女は身を強張らせた。
また人間だ。
もう戦いたくない。
矢も受けたくない。
けれど、傷ついた翼では逃げることも難しかった。
「誰かいるのか?」
男の声がした。
松明の明かりが壁を照らす。
やがて、銀の鎧をまとった騎士が姿を現した。
黒髪に青い瞳。
腰には剣。
リセリスの胸がぎゅっと縮む。
お願い。もう、やめて。
男は彼女を見ると足を止めた。
数秒の沈黙。
そして、剣を抜いた。
リセリスは目を閉じた。
「私はアルサリオン王国騎士団長、ヴァルセリス・フォン・アスターフェルト。山で起きている事件について調査に来た」
リセリスはゆっくり目を開いた。
「……調査?」
「そうだ」
「私を、殺しに来たのではなくて?」
ヴァルセリスは答えなかった。
リセリスは彼の剣を見た。
「……そうですか」
「お前がこの山に棲む白竜か」
「ほかに見えるでしょうか」
ヴァルセリスは表情を変えない。
「街道の破壊、地震、村人への襲撃。その責任を問われている」
リセリスは悲しげに目を伏せた。
「誰も襲っていません」
「報告では違う」
「その報告を書いた人たちは、ここにいたのですか?」
ヴァルセリスは眉をひそめた。
リセリスはゆっくり体を起こそうとした。
その途端、翼に痛みが走る。
「っ……!」
「怪我をしているのか」
「大したことはありません」
「そうは見えない」
「もっとひどい怪我もしたことがありますから」
ヴァルセリスは壁際に落ちている折れた矢に気づいた。
「誰にやられた」
リセリスは黙った。
「村の狩人か?」
彼女は目を伏せる。
「……あの人たちを、罰しないでください」
「襲われたのに、庇うのか?」
「怖かったのでしょう。私の姿を見れば、仕方ありません」
ヴァルセリスは言葉に詰まった。
「怖いからといって、傷つけていい理由にはならない」
リセリスが顔を上げる。
金色の瞳に、驚きが浮かんでいた。
「……本当に、そう思いますか?」
「ああ」
「私が竜でも?」
「竜だからといって、話を聞かない理由にはならない」
リセリスはしばらく彼を見つめていた。
やがて、ぽつりぽつりと話し始めた。
地下を流れる魔力のこと。
地震の原因。
崩落を防ぐために力を使ってきたこと。
初めは慎重だった。
一つ説明するたびに、怒鳴られるのではないか、嘘つきと罵られるのではないかと身構えた。
けれど、ヴァルセリスは遮らなかった。
必要なところでは質問し、持参した地図を広げ、彼女の説明と地形を照らし合わせた。
話が進むほど、目の前の竜が災害を引き起こしたとは考えにくくなっていく。
「つまり、お前は村を守っていたと言うのか」
「……守ろうとはしました」
「なぜ?」
リセリスは首を傾げた。
「なぜ、ですか?」
「村人たちはお前を追い払おうとしている」
「はい」
「それでも命を懸けるのか」
リセリスは洞窟の入口へ目を向けた。
「……あそこには、人が暮らしています」
ヴァルセリスは黙って聞いた。
「子供も、お年寄りも、家族も。山が崩れたら、逃げられない人だっているでしょう」
「だが、お前は憎まれている」
リセリスは寂しそうに笑った。
「知っています」
「それでも?」
少しの沈黙のあと、彼女は答えた。
「私を怖がっているというだけで、誰かが死んでもいいとは思えません」
ヴァルセリスは息を呑んだ。
かつて師から教えられた言葉が、胸の奥で蘇る。
彼は一歩近づいた。
リセリスがびくりと身を引いた。
小さな動きだったが、見逃さなかった。
ヴァルセリスは自分の剣を見下ろす。
そして、鞘に収めた。
リセリスが目を丸くした。
「……何を?」
「お前が襲ってこないなら、抜いておく必要はない」
「……本当に?」
「ああ」
リセリスは何も言えなかった。
ヴァルセリスは傷ついた翼へ視線を向ける。
「傷を見せてくれないか」
「……触るのですか?」
「できれば」
彼女は緊張した。
「私は、飼い犬ではありません」
「そんなことは言っていない」
「……ごめんなさい」
「謝らなくていい」
リセリスは目を伏せた。
「癖なんです」
その言葉が、ヴァルセリスの胸に引っかかった。
彼は手を伸ばしかけたが、彼女が身を強張らせたのを見て止めた。
「痛いことはしない」
「……前に来た人たちも、そう言いました」
ヴァルセリスは手を下ろした。
「なら、信じてもらえるまで待つ」
リセリスは驚いたように彼を見た。
誰かが自分の恐怖を尊重してくれたのは、いつ以来だろう。
「……見るだけなら」
「ありがとう」
ヴァルセリスは傷を確かめた。
「手当てが必要だ。化膿している」
「そのうち治ります」
「いつからだ?」
「……四日前です」
「四日も?」
「熱は少し下がりましたから」
彼は唇を引き結んだ。
「こんな状態で、ひとりでいてはいけない」
リセリスは小さく笑った。
「……ほかに、どうすればいいのでしょう」
ヴァルセリスは答えられなかった。
そのとき初めて、彼女がどれほど長く、誰にも看病されずに生きてきたのかを考えた。
地震が起きたのは、ヴァルセリスが床の亀裂を調べようとしたときだった。
地の底から鈍い音が響く。
足元が揺れた。
リセリスが顔を上げる。
「壁から離れて!」
ヴァルセリスが見上げると、天井の巨大な岩柱が崩れかけていた。
横へ跳ぼうとする。
だが、濡れた石に足を滑らせた。
膝をつく。
頭上に影が落ちた。
間に合わない。
次の瞬間、咆哮が響いた。
白銀の翼が彼を覆う。
凄まじい轟音とともに、岩が落ちた。
洞窟全体が震える。
砕けた石が四方へ飛び散った。
ヴァルセリスは頭を抱え、身を伏せた。
やがて音が止む。
恐る恐る顔を上げると、リセリスが自分を庇うように覆いかぶさっていた。
傷ついた翼で、落石を受け止めたのだ。
翼膜は大きく裂け、血が鱗の間を伝っている。
リセリスは苦しそうに息をしていた。
「……大丈夫、ですか?」
ヴァルセリスは呆然とした。
「……何?」
「石に……当たりませんでしたか?」
「お前、血が……!」
リセリスは無理に笑おうとした。
「それは……私も、気づいています」
脚が震える。
ヴァルセリスは駆け寄った。
「動くな!」
「……動けそうに、ありません」
翼を畳もうとした途端、激痛が走った。
「うっ……!」
ヴァルセリスの心臓が早鐘を打つ。
「なぜ、こんなことをした!」
リセリスは目を開いた。
「……何を、ですか?」
「私を庇ったことだ!」
彼は思わず叫んだ。
「私は、お前を殺しに来たんだぞ!」
言った瞬間、後悔した。
リセリスは静かに目を伏せた。
「……知っています」
その声は、驚くほど穏やかだった。
「鎧を見たときから、わかっていました」
ヴァルセリスは拳を握った。
「だったら、どうして……!」
リセリスは少しだけ首を傾げた。
「……死んでほしくなかったから」
それだけだった。
あまりにも当たり前のことのように言われて、ヴァルセリスは何も返せなかった。
リセリスは立ち上がろうとした。
けれど脚が崩れ、その場に倒れ込んだ。
「リセリス!」
彼が駆け寄る。
彼女は荒い息を繰り返しながら、金色の瞳を上げた。
「騎士様……」
「喋るな。今は休め」
「……お願いが、あります」
ヴァルセリスは動きを止めた。
リセリスは口を開いた。
けれど、言葉が出てこない。
何度も躊躇った末に、彼女は額を石の床につけた。
「……殺さないでください」
ヴァルセリスの胸が締めつけられた。
リセリスは続けた。
「私が大きいのは、わかっています。爪も牙もあります。怖い姿をしていることも……わかっています」
一筋の涙が鱗の間を伝った。
「でも……死にたくないんです」
ヴァルセリスは動けなかった。
「いい子でいようと、したんです。本当に……頑張ったんです」
声が震え始める。
「村の人たちが困っていたら、遠くから助けました。道が崩れそうになったら、止めようとしました。誰も傷つけたくなかった……」
苦しそうに息を吸う。
「なのに、また兵士が来て……狩人が来て……私を殺そうとするんです」
ヴァルセリスは目を伏せた。
「家族もいません。帰る家もありません。誰かが私の名前を、憎しみ以外の気持ちで呼んでくれたのがいつだったかも……もう、思い出せません」
涙が石の床に落ちた。
「疲れたんです、騎士様」
ヴァルセリスは喉の奥が詰まるのを感じた。
「……本当に、疲れたんです」
リセリスは弱々しく顔を上げた。
「いっそ殺されてしまえば、楽になるのかもしれないって……何度も思いました」
金色の瞳が揺れる。
「でも、いざそのときになると……怖くて……」
彼女は声を詰まらせた。
「言うことを聞きます。どこへでもついていきます。鎖につながれても、我慢します」
「リセリス……」
「人間に近づくなと言うなら、近づきません。迷惑もかけません。だから……」
必死に彼を見つめる。
「もう少しだけ、生きていてもいいですか……?」
ヴァルセリスは剣の柄に手を置いた。
王命が脳裏をよぎる。
白竜を討て。
ケイドリックの言葉も。
命令されたからという理由だけで殺さないでほしい。
そして、師の教え。
いつ抜くかを決める者にこそ、誇りが宿る。
ヴァルセリスは彼女の前に膝をついた。
リセリスがびくりと震える。
剣が抜かれると思ったのだろう。
ぎゅっと目を閉じた。
けれど、刃は振り下ろされなかった。
代わりに、温かな手が鼻先に触れた。
リセリスは恐る恐る目を開けた。
ヴァルセリスが、まっすぐ彼女を見つめていた。
「殺さない」
「……え?」
「お前を殺すつもりはない」
リセリスは瞬きをした。
「……本当、ですか?」
「ああ」
「王様に、命令されたのに……?」
ヴァルセリスは深く息を吸った。
「この決断の責任は、私が取る」
リセリスは信じられないという顔をした。
「……どうして?」
彼は銀色の鱗をそっと撫でた。
「お前は、私の命を救ってくれた」
リセリスの目から涙が落ちた。
「それに、お前が災害を起こしたという証拠は、まだ何も見つかっていない」
彼女は震え始めた。
「じゃあ……私、生きていても……?」
その問いに、ヴァルセリスは胸をえぐられるような思いがした。
「生きていていいんだ、リセリス」
彼女は目を閉じた。
「……ありがとう」
次の瞬間、堪えていたものが溢れ出した。
リセリスは泣いた。
声を殺すこともできず、ただ泣き続けた。
何年もの孤独。
傷の痛み。
誰かの足音が聞こえるたびに怯えた夜。
そして、ようやく聞けた言葉。
生きていていい。
ヴァルセリスは何も言わなかった。
泣きやむように促すこともしなかった。
ただ鼻先に手を添え、彼女が落ち着くまでそばにいた。
やがてリセリスは、恥ずかしそうに目を伏せた。
「……ごめんなさい」
「何が?」
「こんなに、泣いてしまって」
ヴァルセリスは首を横に振った。
「謝ることじゃない」
「……優しくされたの、久しぶりで」
その言葉が胸に沁みた。
「なら、少しずつ慣れていけばいい」
リセリスは顔を上げた。
「……何に、ですか?」
ヴァルセリスは微笑んだ。
「誰かがお前を心配してくれることに」
リセリスはしばらく彼を見つめていた。
それから、おずおずと大きな頭を近づけ、彼の肩に額を預けた。
不器用で、どこか子供のような仕草だった。
ヴァルセリスはその意味を理解し、静かに鱗を撫でた。
「少し休め。ここから出る方法は、そのあと考えよう」
リセリスは目を閉じた。
長い年月を経て初めて、誰かがそばにいるまま眠りについた。
王都までの旅には九日かかった。
翼を痛めたリセリスは飛ぶことができず、ヴァルセリスとともに山道を歩いた。
初めの数日は、二人ともあまり喋らなかった。
リセリスはまだ人間を怖がっていたし、ヴァルセリスもまた、巨大な竜がこれほど臆病で繊細な心を持つことに戸惑っていた。
けれど、旅が進むにつれて会話が増えた。
ある朝、川辺で休んでいるとき、ヴァルセリスはリセリスが赤い林檎ばかり選ぶことに気づいた。
「なぜ赤いものが好きなんだ?」
リセリスは爪の間に林檎を挟んだ。
「甘いからです」
「それはわかる」
「それから……昔のことを思い出すので」
「昔?」
彼女は林檎を見つめた。
「庭があったんです。窓のそばに林檎の木が一本あって、春には白い花が咲いて、秋には枝いっぱいに実がなって……」
ヴァルセリスは黙って聞いた。
「一度、まだ青い実を取って食べたことがありました。あんまり酸っぱくて、泣いてしまって」
彼は笑った。
「誰かに食べさせられたのか?」
「いいえ」
リセリスは少し黙った。
「……自分で選んだんです」
「そうか」
「それが、嬉しかったんです」
ヴァルセリスは首を傾げた。
「酸っぱい林檎を食べたことが?」
リセリスは首を横に振る。
「自分で選べたことが、です」
彼はその意味を完全には理解できなかった。
けれど、彼女の声に滲む寂しさには気づいた。
それ以上は尋ねなかった。
その日の午後、通りかかった村で赤い林檎を一袋買った。
リセリスは目を丸くした。
「全部、私のですか?」
「いや。いくつかは私が食べる」
「まあ、欲張りですね!」
ヴァルセリスは吹き出した。
リセリスも笑った。
二人が初めて、何の遠慮もなく笑い合った瞬間だった。
だが、ブリュマヴァルの村では、そうはいかなかった。
リセリスの姿を見た村人たちが悲鳴を上げた。
衛兵は槍を構え、母親たちは子供を家へ連れ込んだ。
リセリスは立ち止まった。
「ヴァルセリス……」
「大丈夫だ」
「……帰ったほうが、いいのでは」
「ここで補給しなければならない」
ヴァルセリスは前へ出た。
「武器を下ろせ! この竜は私の保護下にある!」
すると、人垣の中から白髪の老人が現れた。
厚い毛織物の上着を着て、顔には深い皺が刻まれている。
「その化け物が、孫を殺したんだ!」
リセリスは顔を上げた。
覚えていた。
崖崩れに巻き込まれた馬車。
落ちてくる岩。
助けようとしたけれど、間に合わなかった小さな命。
老人は涙を浮かべていた。
「まだ九つだったんだぞ!」
リセリスは頭を下げた。
「……ごめんなさい」
「喋るな!」
彼女は目を閉じた。
「もっと早く、行けていれば……」
老人は怒りに震えた。
「そこにいたなら、なぜ助けなかった!」
ヴァルセリスが口を開く。
「彼女が崩落を起こしたわけでは――」
「いいんです」
リセリスが静かに遮った。
「……悲しいのは、当然ですから」
老人は拳を握りしめ、やがて背を向けた。
人々も少しずつ散っていった。
誰もリセリスには近づかなかった。
その夜、村外れで休んでいると、ヴァルセリスは彼女が星空を見上げているのを見つけた。
「眠れないのか」
リセリスはしばらく黙っていた。
「……九歳だったんですね」
ヴァルセリスは近くの岩に腰を下ろした。
「ああ」
「名前も、知らなかった」
彼女は目を伏せた。
「もっと強ければ、助けられたのかなって……時々、考えるんです」
「誰もが救えるわけじゃない」
「……わかっています」
涙が鱗を伝った。
「でも、わかっていても……悲しいんです」
ヴァルセリスは何も言わなかった。
しばらくして、小さな袋を差し出す。
「これを」
リセリスが顔を上げる。
袋には赤い林檎が六つ入っていた。
「……林檎?」
「この村で一番甘いそうだ」
リセリスの瞳が輝いた。
「いくらしたんですか?」
「気にするな」
「ヴァルセリス……」
「リセリス」
彼女は小さくため息をついた。
「……わかりました」
林檎を一つ取り、かじる。
甘い果汁が口に広がった。
「……おいしい」
「そうか」
リセリスは少し考えたあと、爪で林檎を慎重に割った。
小さな一切れを彼に差し出す。
「一緒に食べませんか?」
ヴァルセリスは受け取った。
二人は雪の降る夜、静かに林檎を分け合った。
ふと、近くの家の窓に小さな女の子がいるのに気づいた。
リセリスが目を向けると、少女は慌ててカーテンの陰に隠れた。
彼女は寂しそうに目を伏せる。
けれど、少しすると少女がまた顔を出した。
小さな手を上げる。
リセリスは驚いた。
それから、ゆっくり爪を持ち上げた。
少女が笑った。
母親が現れるとすぐに隠れてしまったけれど、その笑顔は旅のあいだずっと、リセリスの心を温めていた。
王都への到着は、大騒ぎになった。
衛兵たちは槍を構え、商人は荷車を置いて逃げ出し、子供たちは泣き始めた。
リセリスは城門の前で足を止めた。
「ヴァルセリス……」
「落ち着け」
「やっぱり、帰りませんか?」
「王に報告しなければならない」
「でも、みんな怖がっています」
ヴァルセリスは彼女を見た。
「私も初めて会ったときは怖かった」
「……覚えています」
「今では、お前を入城させるために衛兵全員と口論している」
リセリスは小さく笑った。
「それは、進歩でしょうか」
「大進歩だ」
そこへケイドリックがやって来た。
白地に金糸の刺繍が入った軍服を着て、濃い青の外套をまとっている。
リセリスを見るなり、彼は足を止めた。
そして、ヴァルセリスを見た。
「竜を連れて帰ったと聞いたときは、何かの冗談かと思った」
「私は冗談が得意ではありません」
「それはよく知っている」
ケイドリックは巨大な白竜を見上げた。
「……想像以上だな」
リセリスが頭を下げる。
「はじめまして、殿下」
ケイドリックは目を見開いた。
「喋った!」
リセリスは目を閉じた。
「……本当に、看板を作ろうかしら」
ヴァルセリスが笑い出す。
ケイドリックは首を傾げた。
「看板?」
「旅の途中からの冗談です」
リセリスはむっとした。
「冗談ではありません。わりと真剣です」
ケイドリックも笑った。
だが、すぐに表情を引き締める。
「ヴァルセリス。父上は相当お怒りだ」
「覚悟しています」
「討伐を命じた竜を、生きたまま連れて帰ったんだからな」
リセリスがうつむく。
ヴァルセリスは静かに言った。
「彼女には名前があります。リセリスです」
ケイドリックは竜を見た。
リセリスがおずおずと爪を上げる。
「……よろしくお願いします」
王太子は額に手を当てた。
「これは長い会議になりそうだ」
アルデマール王は、二時間近くヴァルセリスの報告を聞いた。
会議は一部の重臣だけを集めた小広間で行われ、リセリスは庭で待たされていた。
鎖こそつけられていないものの、周囲には武装した兵士が立っている。
彼女はなるべく槍の穂先を見ないようにしていた。
室内では、ヴァルセリスが地下の魔力の流れについて説明していた。
山の亀裂。
リセリスの傷。
そして、落石から自分を庇ってくれたこと。
話を終えると、国王はしばらく黙っていた。
「城塞すら破壊できる竜が、村を守っていたと?」
「陛下。彼女の言葉だけを信じてほしいとは申しません。事実を調べる時間をいただきたいのです」
「その間、竜はどうする」
「王家の保護下に置いていただきたく存じます」
「保護だと?」
ケイドリックが口を開いた。
「東庭園の旧王族別邸はいかがでしょう。市街地から離れていますし、十分な広さもあります」
国王は眉をひそめた。
「誰が責任を負う?」
ヴァルセリスは即答した。
「私が」
国王は彼をじっと見つめた。
「お前は自分の立場を危うくしている」
「承知しております」
「名誉もだ」
「はい」
「……そこまでして守る価値があるのか、その竜には」
ヴァルセリスは洞窟で泣いていたリセリスを思い出した。
私、生きていても……?
まっすぐ王を見た。
「あります、陛下」
沈黙が落ちた。
やがて国王はため息をついた。
「一か月だ。その間に証拠を示せ」
ヴァルセリスは頭を下げた。
「ありがとうございます」
「まだ礼を言うな。何かあれば、お前が責任を取るのだぞ」
「心得ております」
ケイドリックは小さく笑った。
ひとまず、時間を得た。
それだけでも大きな前進だった。
東庭園の旧王族別邸は、蔦の絡まる石壁に囲まれていた。
広い敷地には古い木々が立ち並び、砂利道の先には小さな池がある。
二階建ての屋敷は青い瓦屋根を持ち、大きな窓から午後の日差しが差し込んでいた。
リセリスは門の前で立ち止まった。
「……ここ、ですか?」
ヴァルセリスが頷く。
「調査が終わるまで、ここで暮らしてもらう」
リセリスは庭を見渡した。
金色の瞳が大きくなる。
「……きれい」
ゆっくり進み、池を覗き込む。
水草の間を魚が泳いでいた。
それから、一本の大きな樫の木を見上げる。
「……あの下で眠ってもいいですか?」
「好きな場所を選べばいい」
リセリスは振り返った。
「本当に?」
「ああ」
「決められた場所に、いなくても?」
「屋敷を壊さない限りは、自由にしていい」
リセリスは自分の大きな尾を見た。
「……気をつけます」
彼女は樫の木の下に体を横たえた。
葉の隙間から陽光が落ち、銀の鱗に小さな金色の模様を作る。
リセリスは目を閉じた。
「……好きです、ここ」
ヴァルセリスはその姿を見つめていた。
長い旅を終えて、ようやく安心できる場所を見つけたようだった。
「食事を運ばせよう」
リセリスがぱっと顔を上げる。
「食事ですか?」
「ああ」
「……お願いしてもいいですか?」
「何だ?」
「林檎を……」
ヴァルセリスは笑った。
「赤いものだな?」
金色の瞳が輝いた。
「はい!」
「わかっている」
嬉しそうに尾を振った瞬間、近くの植木鉢が倒れた。
ぱりん、と乾いた音がする。
二人は割れた鉢を見た。
リセリスは固まった。
「……あ」
ヴァルセリスが彼女を見る。
リセリスは申し訳なさそうにうつむいた。
「……もう、屋敷を壊してしまいました」
ヴァルセリスは堪えきれずに笑った。
リセリスも、つられて笑った。
最初の夜は、思っていたより難しかった。
使用人たちは樫の木の下に藁と毛布を敷き、池のそばに食べ物を置いてくれた。
リセリスは何度も礼を言った。
けれど、日が暮れると使用人たちは屋敷へ戻り、門が閉められた。
庭には静けさが戻った。
リセリスは眠れずにいた。
明かりの灯った窓を眺める。
遠くから話し声が聞こえた。
食器の触れ合う音。
笑い声。
床を歩く足音。
しばらく、屋敷の中にいる自分を想像した。
椅子に座って。
同じ食卓を囲んで。
誰かの話を聞きながら夕食を食べる。
けれど、自分の大きな前脚を見た途端、想像は消えた。
扉を通ることすらできない。
「……馬鹿みたい」
小さく呟き、毛布に頭を預けた。
眠ろうとした。
だが、記憶が戻ってくる。
蝋燭の灯る部屋。
冷たい声。
消えていく人間の手。
「いやっ!」
リセリスは飛び起きた。
その声に驚いた鳥たちが樫の枝から飛び立つ。
荒い息を繰り返しながら、辺りを見回した。
ここは庭だ。
あの部屋ではない。
鎖もない。
誰も自分を罰しようとしていない。
それでも震えが止まらなかった。
「……夢よ。ただの、夢……」
そのとき、足音が聞こえた。
リセリスが顔を上げると、ランプを持ったヴァルセリスが近づいてきた。
白いシャツに黒いズボン。髪は少し乱れている。
「リセリス?」
彼女は慌てて体を起こした。
「ご、ごめんなさい! 起こしてしまいましたか?」
「叫び声が聞こえた」
「……何でもありません」
ヴァルセリスは彼女を見た。
金色の瞳が濡れている。
「悪い夢でも見たのか」
リセリスはうつむいた。
「……はい」
ヴァルセリスは近くの石に腰を下ろした。
「話したいか?」
彼女は首を横に振った。
「……まだ、話せません」
「そうか」
それ以上は聞かなかった。
しばらく二人で黙っていた。
やがてリセリスが尋ねた。
「……お部屋に戻らないのですか?」
「もう少ししたらな」
「明日もお仕事があるのでしょう?」
「少しくらいなら大丈夫だ」
リセリスは彼を見つめた。
「……ここにいなくても、いいんですよ」
ヴァルセリスは微笑んだ。
「わかっている」
「じゃあ、どうして?」
彼は星空を見上げた。
「私が、そうしたいからだ」
リセリスは黙った。
それから、ゆっくり頭を下ろし、彼の近くに置いた。
ヴァルセリスは銀色の鱗を撫でた。
「少し眠れ」
リセリスは目を閉じた。
葉擦れの音が聞こえる。
しばらくして、彼女は小さく尋ねた。
「ヴァルセリス……」
「何だ?」
「……いつか、怖い夢を見なくなる日が来るでしょうか」
彼は少し考えた。
「わからない」
リセリスが目を開ける。
ヴァルセリスは続けた。
「でも、目が覚めたときに、もう安全なんだと思い出せる日が来るといいな」
リセリスはじっと彼を見つめた。
そして、また目を閉じた。
「……それは、素敵ですね」
彼は彼女の寝息が穏やかになるまで、そばにいた。
オデリアーヌ・フォン・ローゼンヴェイルがリセリスと初めて会ったのは、その三日後だった。
青い馬車で別邸を訪れた彼女は、侍女と二人の護衛を連れていた。
クリーム色のドレスには緑の花の刺繍が入り、金髪は絹のリボンでまとめられている。
手には白い布をかけた籠を持っていた。
ヴァルセリスが門で出迎える。
「こんなに早く来てくれるとは思わなかった」
「別の日にしたほうがよかった?」
「いや、嬉しいよ」
オデリアーヌは笑った。
「なら、そんなに驚かないで」
彼の手を借りて馬車を降り、庭を見渡す。
「……どこにいるの?」
ヴァルセリスが樫の木を指さした。
リセリスは池で水浴びをする小鳥たちを眺めていた。
二人に気づいて顔を上げる。
オデリアーヌは足を止めた。
「……思っていたより、ずっと大きいのね」
「みんなそう言う」
彼女は深呼吸した。
「失礼な態度は取りたくないわ」
「無理に近づかなくてもいい」
オデリアーヌは彼を見た。
「あなたが命を懸けて守った相手でしょう? だったら、きちんと挨拶くらいしたいもの」
ヴァルセリスは嬉しくなった。
「ありがとう」
二人はゆっくり近づいた。
リセリスは興味深そうに見つめていた。
「こんにちは」
オデリアーヌがびくりとする。
「……喋るのね!」
リセリスは目を閉じた。
「……やっぱり、看板が必要ですね」
ヴァルセリスが笑い出した。
オデリアーヌは不思議そうに彼を見る。
「看板?」
「ちょっとした冗談だ」
彼女は上品に微笑んだ。
「オデリアーヌ・フォン・ローゼンヴェイルと申します」
リセリスは頭を下げた。
「はじめまして、オデリアーヌ様」
「ヴァルセリスから聞いているわ。彼を助けてくれたのですってね」
リセリスは目を伏せた。
「誰でも、同じことをしたと思います」
「そうかしら」
オデリアーヌは少し考えたあと、籠を持ち上げた。
「あなたに、お土産を持ってきたの」
リセリスの目が大きくなる。
「……私に?」
「ええ」
白い布を取ると、中には小さな林檎のタルトが並んでいた。
リセリスはそっと顔を近づけた。
「……いい匂い」
オデリアーヌは笑った。
「今朝、焼いたのよ」
「ご自分で?」
「料理人に手伝ってもらったけれどね」
リセリスはタルトを見つめた。
「……きれい」
「食べてみて」
彼女は爪で慎重につまみ、口へ運んだ。
金色の瞳がぱっと輝く。
「おいしい!」
オデリアーヌは嬉しそうに笑った。
「よかった」
「生地がさくさくしています! どうやって作るんですか?」
「冷たいバターを使うの。生地をこねすぎないことも大切ね」
リセリスは真剣に聞いていた。
「バター……」
オデリアーヌは瞬きをした。
「お料理をしたことがないの?」
リセリスは大きな爪を見た。
「……この手では、ありません」
オデリアーヌも爪を見つめた。
それから、くすりと笑った。
「確かに、大変そうね」
「とても大変です」
その日は、菓子や王都の市場、春の舞踏会について話した。
リセリスは人間の習慣に興味津々だった。
なぜ食事に何種類ものフォークを使うのか。
なぜドレスにはあんなにたくさんの布が必要なのか。
そして、なぜ貴族の女性たちは、扉に引っかかりそうな大きな帽子をかぶるのか。
「通るとき、困りませんか?」
オデリアーヌは笑った。
「困ることもあるわ」
「では、どうして?」
「流行だからよ」
リセリスはしばらく考えた。
「……人間って、不思議な生き物ですね」
ヴァルセリスが眉を上げた。
「竜に言われるとは思わなかった」
「私は扉を通れないような帽子はかぶりません」
「帽子がなくても、普通の扉は通れないだろう」
リセリスはむっとした。
オデリアーヌが声を上げて笑う。
三人はしばらく笑い合った。
リセリスは、その時間が嬉しかった。
誰も彼女を怪物として見ていなかった。
ただ、客人として迎えてくれていた。
帰り際、リセリスは深く頭を下げた。
「今日は、本当にありがとうございました」
オデリアーヌは微笑んだ。
「また来るわ」
リセリスの耳がぴんと立つ。
「……約束ですか?」
オデリアーヌはその真剣な表情に少し驚いた。
けれど、すぐに頷いた。
「ええ。約束」
その夜、リセリスは樫の木の下で何度もその言葉を思い出した。
また来るわ。
もしかしたら。
本当に、友達ができたのかもしれない。
それから数週間、リセリスの毎日には小さな楽しみが増えていった。
ある朝、料理人のミレルダが大きな鍋を持って庭にやって来た。
茶色い髪を白い布でまとめた、ふくよかな中年女性だった。
初めはリセリスを怖がっていたが、彼女がスプーン一本を壊さず持とうと四苦八苦している姿を見てから、考えを改めたらしい。
「リセリス様」
「はい?」
「今日は野菜のスープですよ」
リセリスは顔を近づけた。
「いい匂いです」
ミレルダは鍋を台の上に置いた。
「その前に、一つ聞いてもいいですか?」
「何でしょう?」
「竜って、どれくらい食べるんです?」
リセリスは黙った。
鍋を見る。
ミレルダを見る。
「……正直に言っても?」
「もちろん」
「この鍋いっぱいでも、食べられると思います」
ミレルダは目を丸くした。
リセリスは慌てて付け加えた。
「でも、鍋は食べません! まだ使えそうですし!」
ミレルダは大笑いした。
「こりゃあ、給金を上げてもらわないとね!」
リセリスも笑った。
それからミレルダは、彼女のために特別な量の食事を作るようになった。
焼きたてのパンを持ってきてくれることもあれば、果物を届けてくれることもある。
リセリスが林檎のタルトを大好きだと知ると、作り方を教えてくれることになった。
最初の授業は散々だった。
リセリスが爪で小麦粉とバターを混ぜようとしたところ、粉があたり一面に飛び散ったのだ。
ミレルダは真っ白になった。
リセリスも真っ白だった。
二人は顔を見合わせる。
その瞬間、リセリスがくしゃみをした。
小麦粉の雲が庭中に広がった。
ミレルダは一瞬呆然とし、それから腹を抱えて笑い出した。
リセリスもつられて笑った。
夕方、ヴァルセリスが訪れると、二人はまだ片づけをしていた。
「……何があった?」
リセリスが粉まみれの爪を上げる。
「お料理の練習です」
ヴァルセリスは庭を見回した。
そして、ミレルダを見た。
「消防隊を呼んだほうがいいか?」
ミレルダが吹き出す。
リセリスは頬を膨らませるように口を尖らせた。
「まだ何も燃やしていません!」
「それは安心した」
別の日、リセリスはニロという少年と出会った。
七歳の男の子だった。
茶色の髪はいつも跳ねていて、青い瞳は好奇心に満ちている。
父親は別邸の修繕を担当する大工で、母親が家業で忙しい日には、ニロを連れてくることがあった。
その日、ニロは池のそばで遊んでいた。
父親が作ってくれた木の船を浮かべていたのだ。
白い小さな帆がついている。
けれど、風が吹いて船が池の中央へ流されてしまった。
ニロは枝で取ろうとした。
届かない。
やがて、泣き始めた。
リセリスは樫の木の下から泣き声を聞いた。
「どうしたの?」
ニロが振り返る。
そして、悲鳴を上げた。
「ドラゴン!」
リセリスは慌てて後ずさった。
「ご、ごめんなさい。驚かせるつもりは……」
ニロは出口を見た。
それから、池を見た。
「……ぼくの船」
リセリスは視線を追った。
「あれ?」
ニロは頷いた。
「お父さんが作ってくれたの」
「取ってあげましょうか?」
少年は警戒しながら彼女を見た。
「……できるの?」
リセリスは自分の長い尾を見た。
「たぶん」
池に近づき、尾の先を水に入れる。
ところが、波が立って船が遠ざかってしまった。
「遠くなっちゃった!」
リセリスは固まった。
「……気づいています」
もう一度、慎重に尾を動かす。
今度はうまく船を岸へ寄せられた。
そっとニロの前に置く。
「はい、どうぞ」
少年は船を抱きしめた。
「ありがとう!」
リセリスは笑った。
「どういたしまして」
ニロはしばらく彼女を見つめていた。
そして、尋ねた。
「人間、食べる?」
リセリスは瞬きをした。
「食べません」
「子供も?」
「食べません」
ニロは首を傾げた。
「友達がね、ドラゴンは騎士を食べるって言ってた」
リセリスは少し考えるふりをした。
「なるほど。だからヴァルセリスは、いつも私を見ると心配そうな顔をするのかもしれませんね」
ニロが笑った。
リセリスも笑った。
「ぼく、ニロ!」
「私はリセリスです」
「リ……リセ……リセリ……」
リセリスは微笑んだ。
「リスでいいですよ」
「リス!」
少年は船を持ち上げた。
「一緒に遊ぼう!」
リセリスは動きを止めた。
「……私と?」
「うん!」
彼女は大きな前脚を見た。
「壊してしまうかもしれません」
ニロは少し考えた。
そして、にっこり笑った。
「じゃあ、リスは島ね!」
「……島?」
「そう! ぼくが船で、リスの周りを探検するの!」
リセリスは笑った。
「わかりました」
それから一時間近く、ニロはリセリスの脚の周りに船を浮かべ、海賊や宝物、海の怪物の話を作って遊んだ。
リセリスは魔法の島になり、山になり、最後には宝物を守る女王になった。
父親が迎えに来たとき、ニロは銀色の大きな頭のそばに座り、夢中で話していた。
男は立ち尽くした。
リセリスが慌てて顔を上げる。
「す、すみません。お子さんを勝手に……」
けれど、ニロは父親のもとへ駆け寄った。
「お父さん! リスはぼくの友達なんだ!」
男は竜を見た。
それから息子を見る。
「……友達?」
「うん! 船も取ってくれた!」
リセリスは頭を下げた。
「少し、お手伝いしただけです」
大工はしばらく黙っていた。
やがて、ぎこちなく頭を下げた。
「……息子を見ていてくださって、ありがとうございます」
リセリスは目を丸くした。
「そ、そんな。お礼なんて……」
男は小さく笑った。
「それでも、ありがとうございます」
二人が帰ったあと、リセリスは長いこと動かなかった。
ひどい言葉なら、いくらでも覚えている。
けれど、あんなふうに感謝されたのは久しぶりだった。
その一言が、どんな宝石よりも大切に思えた。
オデリアーヌも、しばらくは別邸へ通っていた。
初めの頃は、その時間を楽しんでいた。
リセリスはいつも嬉しそうに迎えてくれるし、ミレルダは二人のためにお茶と菓子を用意してくれる。
オデリアーヌは、リセリスがドレスや舞踏会の話を聞くのを好きだと知った。
ある日、挿絵の美しい本を何冊か持っていった。
リセリスは夢中になってページを覗き込んだ。
「わあ……!」
オデリアーヌが一枚めくる。
青いドレスをまとい、宝石の冠をつけた王女の絵だった。
「私、このお話が好きなの」
リセリスは顔を近づけた。
「幸せそうですね」
「王子様に出会う場面なの」
「そのあと、結婚するんですか?」
オデリアーヌは笑った。
「ええ」
リセリスはしばらく絵を見つめていた。
そして、尋ねた。
「……恋をするって、どんな気持ちなんでしょう」
オデリアーヌが顔を上げる。
「どうして?」
リセリスは目を伏せた。
「よく、わからなくて」
オデリアーヌは本を閉じた。
庭を眺めながら、少し考える。
「いろんな気持ちが混ざっているのかしら」
「たとえば?」
「嬉しいとか、怖いとか……期待したり、不安になったり」
リセリスは真剣に聞いていた。
「誰かを好きになると、その人と一緒にいたくなるの。今日あったことを話したいし、相手の悩みも聞きたい。一緒に思い出を増やしていきたいって思うのよ」
「……怖いのは、どうしてですか?」
オデリアーヌは寂しそうに微笑んだ。
「大切な人になるからよ」
リセリスはうつむいた。
「それは……苦しそうですね」
「そうね。苦しいこともあるわ」
オデリアーヌは胸元の蝶のブローチに触れた。
「でも、素敵なこともたくさんあるの」
リセリスはブローチを見た。
「ヴァルセリスからの贈り物ですか?」
「ええ」
「きれいですね」
オデリアーヌは優しく指で撫でた。
「子供の頃、私が蝶を好きだったことを覚えていてくれたの」
リセリスは微笑んだ。
「……きっと、とても愛しているんですね」
オデリアーヌの胸が温かくなった。
「そうだといいわ」
リセリスは本へ目を戻した。
少し迷ってから、尋ねる。
「……竜を好きになる人も、いると思いますか?」
オデリアーヌは驚いた。
「竜を?」
「はい」
少し考えた。
「……わからないわ」
リセリスの耳が下がる。
「そう、ですよね」
オデリアーヌはその表情を見て、胸が痛んだ。
「でも、誰だって愛される資格はあると思う」
リセリスは顔を上げた。
「……本当に?」
「ええ」
リセリスは嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます」
そのときのオデリアーヌは、まさか後になって、この会話を思い出すたびに胸が痛むようになるとは想像もしていなかった。
変化は、小さなすれ違いから始まった。
ヴァルセリスは地下魔力の調査に追われていた。
ケイドリックが古文書を集め、学者たちが別邸へ足を運ぶようになった。
ヴァルセリスも地図を調べ、報告書を作り、リセリスの話を聞くために長い時間を費やした。
オデリアーヌは最初、理解していた。
大切な任務なのだ。
けれど、彼が自分に会いに来る時間は、少しずつ減っていった。
ある日、彼女は夕食に招待した。
料理は自分で選び、食卓には白い花と蝋燭を飾らせた。
以前ヴァルセリスが褒めてくれた、深い緑色のドレスを着た。
八時になっても、彼は来なかった。
九時になり、料理を温め直すよう命じた。
十時を過ぎた頃、使いが到着した。
手紙だった。
調査で問題が起き、今夜は行けなくなったと書かれていた。
オデリアーヌはしばらく紙を見つめた。
それから丁寧に折り畳む。
「……ありがとう」
使いが去ると、彼女は食卓を見た。
蝋燭は短くなり、料理の香りも薄れていた。
ゆっくり椅子に座る。
侍女が近づいた。
「お嬢様、お料理をお下げいたしましょうか」
オデリアーヌは少し間を置いて答えた。
「……ええ」
侍女が皿を片づけ始める。
彼女は向かいの空席を見つめた。
そして、蝶のブローチに触れた。
「……忙しいのよね」
自分に言い聞かせる。
けれど、その夜、眠る前に涙がこぼれた。
翌日、ヴァルセリスは謝りに来た。
オデリアーヌは庭で薔薇を切っていた。
「昨夜はすまなかった」
彼女はすぐには顔を上げなかった。
「お手紙は読んだわ」
「会議が長引いてしまって」
「そうでしょうね」
ヴァルセリスが近づく。
「特別な夕食を用意してくれていたんだろう」
オデリアーヌは鋏を置いた。
「特別な夕食じゃないわ」
彼は驚いた。
彼女は寂しそうに笑う。
「ただ、あなたと一緒に食事がしたかっただけ」
ヴァルセリスは黙った。
「それが一番、悲しいの」
「オデリアーヌ……」
「高価な贈り物も、大きな宴もいらない。ただ、あなたと過ごす時間が欲しいの」
彼は目を伏せた。
「……君の言うとおりだ」
オデリアーヌは深呼吸した。
「最後に、任務の話をせずに二人で散歩したのはいつだったか、覚えている?」
ヴァルセリスは考えた。
答えが出てこなかった。
オデリアーヌは苦笑した。
「私も、思い出せないわ」
彼は彼女の手を取った。
「寂しい思いをさせていた」
「……ええ」
「すまない」
オデリアーヌは指を握り返した。
「リセリスを助けるのをやめてほしいわけじゃないの」
「わかっている」
「でも、あなたの人生から、私が消えてしまうのは嫌なの」
ヴァルセリスは胸が痛んだ。
「そんなことにはさせない」
彼女は彼を見つめた。
「……だったら、行動で見せて」
ヴァルセリスは彼女を抱きしめた。
「約束する」
その午後、二人は一緒に過ごした。
庭を歩き、結婚式の話をし、日取りについても考えた。
オデリアーヌは幸せだった。
けれど、帰り際にヴァルセリスが「明日は早く別邸へ行かなければ」と口にしたとき、彼女の胸に小さな棘が刺さった。
笑顔で見送った。
何も言わなかった。
しかし、その夜、鏡の前でドレスを脱ぎながら、リセリスの話をするときのヴァルセリスの顔を思い出した。
あんなに自然に笑う彼を、最近自分は見ていない。
「……馬鹿ね」
鏡の中の自分に呟く。
「竜に嫉妬するなんて」
けれど、不安は消えなかった。
一方、リセリスにも変化が起きていた。
ヴァルセリスの訪問を、以前よりずっと楽しみにするようになったのだ。
足音が聞こえると、すぐに顔を上げる。
遅い日は、門のほうを何度も見てしまう。
帰ってしまうと、庭が急に静かになったように感じる。
ある午後、ヴァルセリスが樫の木の下で本を読んでいると、リセリスはずっと彼を見つめていた。
彼が顔を上げる。
「どうした?」
リセリスは慌てて目を逸らした。
「な、何でもありません」
「さっきから見ているだろう」
「考え事をしていたんです」
「それは危険だな」
リセリスはむっとした。
「失礼ですね!」
ヴァルセリスは笑い、本へ目を戻した。
リセリスはまた彼を見た。
額に少しかかる黒髪。
左眉の近くにある小さな傷跡。
本を読むときの真剣な顔。
胸の奥が、ふわりと温かくなる。
オデリアーヌの言葉が浮かんだ。
誰かを好きになると、その人と一緒にいたくなるの。
リセリスはうつむいた。
……違う。
そんなはずはない。
ヴァルセリスには婚約者がいる。
美しくて、優しくて、自分にお菓子を持ってきてくれた女性だ。
リセリスは目を閉じた。
こんなこと、考えちゃいけない。
「リセリス?」
突然呼ばれて、びくりとした。
「は、はい!」
ヴァルセリスは不思議そうに見た。
「具合でも悪いのか?」
「とても元気です」
「今日は静かだな」
「竜にも考え事をする権利くらいあります」
「もちろんだ」
リセリスは目を伏せた。
彼に知られたくなかった。
自分でも、まだよくわからない気持ちだった。
けれど、その夜、樫の木の下で彼の笑顔を思い出すと、胸が苦しくなった。
怖かった。
ヴァルセリスが怖いのではない。
彼が、自分にとってあまりにも大切な存在になり始めていることが。
オデリアーヌとリセリスの友情は、少しずつぎこちなくなっていった。
初めは、ほんの小さなことだった。
訪問を取りやめる。
会話が短くなる。
ヴァルセリスが来ると、笑顔が消える。
やがて、噂が広まった。
貴族たちの集まりで、オデリアーヌは窓辺に立つ二人の婦人の会話を耳にした。
「アスターフェルト卿、毎日のように竜のところへ通っているそうよ」
「婚約者がお気の毒ね」
「もしかしたら、魔法でもかけられたのかしら」
二人は小さく笑った。
オデリアーヌは近づいた。
「婚約者は公務を果たしているだけです」
婦人たちは慌てて振り返った。
「ローゼンヴェイル様!」
オデリアーヌは微笑みを崩さなかった。
「根拠のない噂は、お控えいただけると嬉しいわ」
二人は謝罪した。
けれど、彼女が離れたあと、最後の一言が聞こえた。
「……可哀想に。ご本人だけが気づいていないのね」
その夜、オデリアーヌは鏡の前に座った。
白い肌。
緑の瞳。
多くの貴族から美しいと褒められてきた顔。
舞踏も、音楽も、屋敷の管理も学んできた。
それなのに、どうして鱗に覆われた竜に負けているような気がするのだろう。
そんな考えを抱く自分が、恥ずかしかった。
リセリスを嫌いになりたくはなかった。
タルトを食べて喜んだ姿も覚えている。
何度も礼を言ってくれたことも。
けれど、ヴァルセリスが彼女の話をするときの笑顔も、忘れられなかった。
そして、悲しみと怒りの境目が、次第にわからなくなっていった。
ある午後、オデリアーヌは知らせもせずに別邸を訪れた。
ヴァルセリスは樫の木の下で本を読んでいた。
リセリスは前脚に頭を乗せ、楽しそうに聞いている。
「それで?」とリセリス。
「王子は、魔女だと思っていた女性が、実は王の行方不明の娘だったと知るんだ」
リセリスはため息をついた。
「なんて回りくどいお話でしょう」
「なぜ?」
「最初から王子様に本当のことを話せば、全部解決したのでは?」
「それでは二十ページで終わってしまう」
「そのほうが効率的です」
ヴァルセリスは笑った。
リセリスも笑う。
オデリアーヌは足を止めた。
その笑い声を、知っていた。
けれど、自分の前では長いこと聞いていない気がした。
「……ヴァルセリス」
彼が立ち上がる。
「オデリアーヌ! 来るとは聞いていなかった」
「そうでしょうね」
リセリスも顔を上げた。
「こんにちは、オデリアーヌ様」
「……こんにちは」
声は丁寧だった。
けれど、どこか冷たかった。
オデリアーヌは本を見た。
「読み聞かせまでしてあげているのね」
「人間の物語に興味があるそうで」
「本当に、親切なのね」
ヴァルセリスは眉をひそめた。
「何かあったのか?」
「いいえ」
オデリアーヌは微笑んだ。
「ただ、あなたに婚約者がいることを、まだ覚えているのかと思っただけ」
空気が凍りついた。
リセリスは目を逸らした。
ヴァルセリスは本を閉じる。
「オデリアーヌ、それは……」
彼女は自分の言葉に傷ついていた。
寂しいと伝えたかっただけなのに。
「……ごめんなさい。今のは言いすぎたわ」
ヴァルセリスが近づく。
「話そう」
「いいの」
オデリアーヌは小さく頭を下げた。
「邪魔をしてしまったわね」
彼が引き止めるより早く、背を向けた。
馬車の中で、彼女は両手で顔を覆った。
ヴァルセリスが悪いのか。
リセリスが悪いのか。
それとも、自分なのか。
もう、わからなかった。
その夜、リセリスは池のほとりにいた。
月光が銀色の鱗を照らしている。
ヴァルセリスはオデリアーヌを送り届けるため、王都へ戻っていた。
帰る前には、明日また来ると言ってくれた。
リセリスは水面を見つめた。
巨大な竜の顔が映っている。
そっと前脚を伸ばし、水に触れた。
その瞬間、指先を金色の光が走った。
鱗が消え、白く細い人間の手が現れる。
リセリスは驚いて手を引いた。
光は消えた。
再び、巨大な爪に戻っていた。
「……まだ、なのね」
彼女は目を閉じた。
蝋燭の灯る部屋。
白いドレス。
冷たい声。
『誰もが恐れる姿で生きなさい』
リセリスは震えた。
忘れようとしてきた夜だった。
けれど最近、記憶が鮮明になっている。
特に、ヴァルセリスのそばにいると。
それが怖かった。
なぜなら、彼女は今、かつて諦めた願いを抱き始めていたからだ。
誰かに愛されたい。
ただ、それだけの願いを。
オデリアーヌが主催する慈善の催しは、それから二週間後に開かれた。
王家の庭園には白いリボンと硝子の灯籠が飾られ、花々が美しく並べられた。
招待客たちは華やかな衣装で集まっていた。
オデリアーヌは何日も準備を重ねていた。
集まった寄付金は、地震で壊れた街道の修復に充てられる予定だった。
ヴァルセリスは、リセリスも参加させてほしいと頼んだ。
オデリアーヌは初め、断った。
「まだ怖がっている人もいるわ」
「だからこそ、彼女を知ってもらう機会になる」
「みんながあなたのように考えるわけじゃないのよ」
「だから、少しずつ理解してもらう必要がある」
オデリアーヌはドレスの布を握った。
「……彼女のことになると、いつも答えがあるのね」
ヴァルセリスはため息をついた。
「喧嘩をしたいわけじゃない」
「私だって、したくないわ」
結局、彼女は許可した。
ただし、リセリスには庭の端にいてもらうことにした。
リセリスは文句を言わなかった。
催しの最中、何人かの子供が彼女のところへやって来た。
その中にニロもいた。
「リス!」
「こんにちは、ニロ」
「見て! 冠を作ったんだ!」
リセリスは頭を下げた。
ニロは小さな白と黄色の花で編んだ冠を、角に引っかけた。
「これでお姫様みたい!」
リセリスは動きを止めた。
「……お姫様?」
「うん! ドラゴンのお姫様!」
リセリスは何か言おうとした。
けれど、声が出なかった。
金色の瞳に涙が浮かぶ。
ニロは慌てた。
「気に入らなかった?」
「ううん。違うの」
リセリスは少年の目の高さまで顔を下ろした。
「とっても、嬉しい」
「じゃあ、どうして泣くの?」
彼女は少し考えた。
「……誰かにお花をもらったの、久しぶりだったから」
ニロは眉をひそめた。
「誕生日にも?」
リセリスは寂しそうに笑った。
「……誕生日にも」
ニロは小さな腕を広げ、彼女の鼻先に抱きついた。
「じゃあ、また持ってくる!」
リセリスは目を閉じた。
そっと少年の肩に顔を寄せる。
「……ありがとう、ニロ」
その様子を、ヴァルセリスが見ていた。
ニロが去ると、彼は近づいてきた。
「よく似合っている」
リセリスが顔を上げる。
「冠が、ですか?」
「ああ」
「からかわないでください」
「からかっていない」
彼女は角の上の花を見ようと、首を動かした。
「……本当に?」
ヴァルセリスは微笑んだ。
「本当だ。綺麗だよ、リセリス」
彼女は固まった。
ヴァルセリスは気づかずに続ける。
「陽の光に当たると、鱗が銀みたいに輝く。瞳も、ほかのどんな生き物とも違う」
リセリスは慌てて目を逸らした。
「……そんなこと、簡単に言わないでください」
ヴァルセリスは瞬きをした。
「なぜ?」
「だって……」
リセリスは黙った。
彼に説明できるはずがなかった。
長い年月、怪物だの化け物だのと言われ続けてきたこと。
自分の姿が嫌いになってしまったこと。
それなのに今、目の前の人が怖がりもせず、美しいと言ってくれたこと。
「……恥ずかしいんです」
ヴァルセリスは小さく笑った。
「そうか。なら、少し気をつけよう」
リセリスは答えなかった。
けれど、その夜は花の冠を角につけたまま眠った。
オデリアーヌは、庭の反対側からその光景を見ていた。
一人の貴婦人が近づく。
「不思議な光景ですこと」
オデリアーヌは何も言わなかった。
「婚約者様は、ずいぶんあの竜をお気に入りのようね」
「公務ですわ」
「もちろん」
婦人は微笑んだ。
「でも、あんなに優しい顔をなさるところ、初めて見ましたわ」
オデリアーヌは、胸の奥で何かが音を立てて壊れるのを感じた。
その夜、客が帰ったあと、彼女はリセリスを探した。
池のそばにいた。
「オデリアーヌ様」
リセリスは嬉しそうに顔を上げた。
「今日は参加させていただいて、ありがとうございました」
オデリアーヌは腕を組んだ。
「楽しかった?」
「はい。子供たちが、とても優しくしてくれました」
「ヴァルセリスに構ってもらえたのも、嬉しかったでしょうね」
リセリスは瞬きをした。
「……え?」
「とぼけないで」
彼女は思わず後ずさった。
オデリアーヌは深呼吸した。
何度も頭の中で考えた言葉だった。
けれど、実際に口にすると、自分でも驚くほど冷たかった。
「ヴァルセリスには仕事があるの。家族も、将来も。あなたの相手ばかりしているわけにはいかないのよ」
「……迷惑をかけるつもりは」
「だったら、彼にとって自分が特別な存在だと思わないで」
リセリスはうつむいた。
「……ごめんなさい」
その謝罪を聞いても、オデリアーヌの胸は晴れなかった。
むしろ、苦しくなった。
それでも、言葉を止められなかった。
「忘れないで。あなたがここにいられるのは、ヴァルセリスが同情したからよ。命令どおりにしていたら、今頃あなたは死んでいたの」
リセリスは動かなかった。
「……知っています」
「だったら、自分の立場をわきまえて」
オデリアーヌは背を向けた。
リセリスが何か言う前に、歩き去った。
自室へ戻ると、鏡の前に座った。
美しいドレス。
乱れのない髪。
けれど、自分の目をまともに見られなかった。
初めてタルトを持っていった日のことが浮かぶ。
あんなに喜んでくれたのに。
一瞬、戻って謝ろうと思った。
だが、ヴァルセリスが銀の鱗を撫でていた光景を思い出し、彼女は蝋燭を吹き消した。
ヴァルセリスは、リセリスの様子がおかしいことに気づき始めた。
以前のように嬉しそうに迎えてくれない。
本を読んでほしいとも言わない。
持ってきた林檎にも、ほとんど手をつけなかった。
ある日、池のそばに枯れた花の冠が置かれているのを見つけた。
「具合が悪いのか?」
「……いいえ」
「なら、どうした?」
「何でもありません」
ヴァルセリスは近くに座った。
「前は、もっとよく喋っていただろう」
リセリスは目を伏せた。
「……少し、うるさかったのかもしれません」
彼は顔を上げた。
「誰に言われた?」
リセリスは黙った。
「リセリス」
「……あなたに迷惑をかけたくないんです」
ヴァルセリスは不安になった。
「どういうことだ?」
リセリスは水面を見つめた。
「婚約者がいて、立場があって、あなたを頼りにしている人がたくさんいるのに……私は、偶然あなたの前に現れただけの竜です」
「それだけじゃない」
「……多くの人には、そう見えます」
ヴァルセリスは立ち上がった。
「誰がそんなことを言った?」
リセリスは目を閉じた。
「……お願いです。誰のことも、怒らないでください」
それで、何かあったのだとわかった。
けれど、彼女は名前を言わなかった。
ヴァルセリスも、それ以上は追及しなかった。
ただ、日が暮れるまでそばにいた。
帰ろうとしたとき、リセリスが呼び止めた。
「ヴァルセリス」
「何だ?」
「……誰かに期待されることを、全部投げ出したくなったことはありますか?」
彼は少し考えた。
「あるよ」
「……それでも、どうして?」
「私を信じてくれる人がいるからだ」
リセリスは寂しそうに笑った。
「……誰かに信じてもらえるって、素敵ですね」
ヴァルセリスは彼女の頭に手を置いた。
「私は、お前を信じている」
リセリスは目を閉じた。
その手の温かさに、少しだけ救われた気がした。
けれど、彼が帰ったあと、一筋の涙がこぼれた。
事態が悪化したのは、噂が広まり始めてからだった。
リセリスが家畜を食べた。
ヴァルセリスに魔法をかけた。
王都で地震が増えたのは、竜が来たせいだ。
王宮には抗議の声が寄せられた。
ケイドリックはヴァルセリスを呼び出した。
「厄介なことになった」
「噂は事実ではありません」
「わかっている。家畜の件は、商人たちの窃盗だったと確認が取れた」
「なら、発表すべきです」
「もちろんだ。ただ、別の問題がある」
ケイドリックは書類を机に並べた。
「一部の告発には、貴族の署名がついている」
ヴァルセリスは目を通した。
その中に、見覚えのある家紋があった。
ローゼンヴェイル家。
彼の表情が変わった。
「……オデリアーヌ?」
ケイドリックは厳しい顔をした。
「本人が文書を書いたかどうかはわからない。だが、竜の追放を求める嘆願書に名前がある」
ヴァルセリスは何も言わず、部屋を出た。
オデリアーヌは屋敷の庭で薔薇を切っていた。
深緑のドレスを着て、花を丁寧に選んでいる。
「リセリスを追放する嘆願書に、署名したのか」
彼女は鋏を止めた。
「……ヴァルセリス」
「答えてくれ」
少しの沈黙。
「……ええ」
ヴァルセリスは胸が沈むのを感じた。
「なぜだ」
「誰かが、現実を考えなければならないからよ」
「告発は嘘だった」
「どうして、そんなに言い切れるの?」
「調べたからだ」
「いつも、あの竜を庇うのね!」
オデリアーヌは声を荒らげた。
「何があっても、必ず理由を見つけて正当化する!」
「正当化しているんじゃない。証拠の話をしている」
「あれは怪物よ!」
ヴァルセリスは動きを止めた。
オデリアーヌは肩で息をしていた。
「貴族の令嬢じゃない。私たちの社会の人間でもない。そもそも、人間ですらないのよ!」
「だからといって、不当に扱っていい理由にはならない」
「じゃあ、私は?」
涙が頬を伝った。
「私の気持ちは? 私の立場は? もう、どうでもいいの?」
ヴァルセリスは黙った。
その問いは、痛かった。
「傷つけるつもりはなかった」
「でも、傷ついたわ」
オデリアーヌは涙を拭わなかった。
「あなたがあの子の話をするたびに。約束を破るたびに。あの子の名前を呼んで笑うたびに……」
ヴァルセリスは目を伏せた。
彼女を寂しくさせていたことは、否定できない。
「……君が傷ついたのは当然だ。もっと早く、話を聞くべきだった」
オデリアーヌの表情が少し緩んだ。
けれど、彼は続けた。
「だからといって、何もしていない相手の人生を壊していいわけじゃない」
彼女の顔が強張った。
「……だったら、選んで」
ヴァルセリスは顔を上げた。
「何を?」
「私か、あの竜か」
庭に風が吹いた。
薔薇が揺れる。
ヴァルセリスは、かつて一緒に未来を夢見た女性を見つめた。
優しく、困っている人を放っておけないオデリアーヌを知っている。
けれど、今の彼女が嫉妬から誰かを傷つけようとしていることも、見えていた。
「……その選択には応じられない」
オデリアーヌの顔から血の気が引いた。
「……もう、選んだのね」
「罪のない者を見捨てないと決めただけだ」
「同じことよ」
ヴァルセリスは、彼女に届く言葉を見つけられなかった。
胸を締めつけられながら、その場を去った。
その夜、リセリスは庭を出ることにした。
衝動ではなかった。
噂も聞いていた。
使用人たちの視線も感じていた。
そして、その日の午後、食事を置きに来た衛兵が小さく呟いたのを聞いてしまった。
「……最初から討伐していればよかったものを」
リセリスは、皆が眠るのを待った。
それから、ゆっくり翼を広げた。
傷は、飛べる程度には治っていた。
庭を出る前に、ヴァルセリスがいつも座っていた場所を見た。
そこには、読みかけの本が置かれていた。
王女が救いを待つ物語。
リセリスは本が夜露に濡れないよう、爪でそっと屋根の下へ押した。
「……ありがとう」
小さく呟く。
「どこへ行くつもりだ?」
背後から声がした。
リセリスはびくりとした。
門のそばに、ヴァルセリスが立っていた。
まだ騎士の制服を着ている。
リセリスは翼を畳んだ。
「……山へ、帰ろうかと」
「別れも言わずに?」
「……そのほうが、楽だと思ったんです」
ヴァルセリスが近づいた。
「なぜ?」
リセリスは目を逸らした。
「……私が、あなたの人生を壊しているから」
「そんなことはない」
「婚約者に嫌われて、貴族たちに追放を求められて、街の人たちも怖がって……」
声が震えた。
「あなたまで、大切なものを失っている」
ヴァルセリスは彼女の前で足を止めた。
「リセリス。私を見てくれ」
彼女はゆっくり顔を上げた。
「誰かが何を選ぶかは、お前の責任じゃない」
「……でも、私が来なければ」
「お前に会わなければ、私は今でも、竜はみんな怪物だと思っていただろう」
リセリスは黙った。
ヴァルセリスは鼻先に手を置いた。
「お前は、私が仕えてきた多くの人たちより、ずっと思いやりがある」
「……そんなこと、言わないでください」
「本当のことだ」
リセリスは目を閉じた。
「ヴァルセリス……実は、まだ話していないことがあるんです」
彼は待った。
彼女は、すべてを打ち明けようとした。
人間だった過去。
呪い。
竜になる前の自分。
けれど、怖くなった。
人間だったと知れば、騙していたと思われるかもしれない。
今の優しさを、失ってしまうかもしれない。
「……いえ。何でもありません」
ヴァルセリスは追及しなかった。
代わりに、外套につけていた銀の徽章を外した。
騎士に任じられた日に授かったものだった。
それを、彼女の前の石に置く。
「子供の頃、師匠に言われたことがある」
リセリスは徽章を見た。
「……何ですか?」
「騎士の剣は、強い者だけを守るためにあるんじゃない、と」
彼は顔を上げた。
「私は、忘れていたんだ」
ヴァルセリスは静かに続けた。
「お前に従ってほしいから、ここにいてほしいわけじゃない」
「……でも、約束しました。言うことを聞くって」
「なら、その約束は終わりにしよう」
リセリスは目を丸くした。
「……え?」
「お前は自由だ。行きたいなら、どこへでも行けばいい」
彼女は一歩下がった。
「……ここに、いたいと言ったら?」
ヴァルセリスは微笑んだ。
「そうしてくれたら、私は嬉しい」
リセリスの胸の奥で、何かが震えた。
忘れていた感覚。
ずっと昔に失ったもの。
一瞬、首元の鱗に金色の光が走った。
ヴァルセリスが驚く。
「今の光は?」
リセリスは慌てて翼を畳んだ。
「な、何でもありません。時々あるんです」
けれど、その夜、彼女は遠い昔の言葉をはっきりと思い出していた。
『自分の命が自分のものだと知ったとき、牢獄は崩れ始める』
リセリスは震えた。
まだ、真実を話す勇気はなかった。
三日後、大地が揺れた。
最初は小さな振動だった。
木々の梢が揺れ、厩舎の馬がいなないた。
次の瞬間、地の底から何か巨大なものが這い上がってくるような轟音が響いた。
ヴァルセリスは王宮の中庭にいた。
噴水のそばに、大きな亀裂が走る。
「全員、避難しろ!」
兵士たちが走り出す。
王都では鐘が鳴り響き、建物が激しく揺れていた。
瓦や石が通りへ落ちる。
ヴァルセリスは転んだ女性を助け起こし、部下に広場の避難誘導を命じた。
そのとき、咆哮が響いた。
空を見上げる。
リセリスが王都の上を飛んでいた。
銀色の翼が陽光を受けて輝いている。
「ヴァルセリス!」
声が屋根の上に響く。
「地下の魔力が、もう抑えきれません! このままだと、王都が沈みます!」
ヴァルセリスは山で見た亀裂を思い出した。
警告。
地震。
すべては、リセリスが王都へ来るより前から始まっていた。
「止められるのか!」
リセリスは答えなかった。
その沈黙が、彼を不安にさせた。
「リセリス!」
「……やってみます」
「どういう意味だ!」
「……生きて戻れるか、わかりません」
ヴァルセリスの血の気が引いた。
「駄目だ!」
リセリスは彼の前へ降りた。
「ここには、何千人もいるんです」
「別の方法を探す!」
「時間がありません!」
再び大地が揺れた。
塔が傾く。
悲鳴が広がった。
リセリスは街を見渡した。
負傷者を運ぶ兵士たち。
子供を抱きしめる母親。
瓦礫の中を逃げる老人。
そのとき、聞き覚えのある声がした。
「リス!」
ニロだった。
母親とともに、崩れたバルコニーの下に閉じ込められていた。
リセリスはすぐに駆け寄った。
爪で梁を持ち上げ、ヴァルセリスが二人を引っ張り出す。
「来てくれると思った!」
ニロは泣きながら言った。
リセリスは鼻先で、そっと頭を撫でた。
「今すぐ逃げて」
「リスも来る?」
彼女は少年を見つめた。
「……頑張ります」
次の揺れで、近くの回廊が崩れた。
ヴァルセリスは悲鳴を聞いた。
オデリアーヌだった。
王宮での会合に出席していた彼女は、瓦礫の下に取り残されていた。
大きな石柱が、今にも落ちそうになっている。
リセリスは誰よりも早く動いた。
オデリアーヌの上に身を投げ出し、落下した石を背で受け止める。
鱗が砕け、血が飛び散った。
オデリアーヌは顔を上げた。
緑の瞳と、金色の瞳が合う。
「……どうして?」
リセリスは苦しそうに息をした。
「……危なかったから、です」
「でも、私は……」
「……知っています」
リセリスは石柱を押しのけた。
ヴァルセリスがオデリアーヌを助け起こす。
「彼女を安全な場所へ!」
リセリスが叫んだ。
オデリアーヌは何か言おうとした。
けれど、声にならなかった。
自分が傷つけた相手が、ほかの誰かを助けるために飛び去る姿を、ただ見送ることしかできなかった。
リセリスは王都の上空へ舞い上がった。
地面には、黒い蛇のような亀裂が何本も走っている。
そこから青い魔力の柱が噴き上がっていた。
この現象を、彼女は知っていた。
何か月も山で抑え続けてきたものだ。
けれど、ついに自然の障壁が壊れてしまった。
残された方法は一つしかない。
自分の魔力をすべて使い、中心から亀裂を封じる。
代償もわかっていた。
竜の体は、呪いによって魔力の器に変えられている。
その力をすべて放てば、器は砕ける。
自分も消えてしまうかもしれない。
リセリスは目を閉じた。
人間だった頃の記憶が浮かぶ。
蝋燭の灯る部屋。
白いドレス。
冷たい声。
『誰もが恐れる姿で生きなさい。自分の命が誰のものでもないと知るまで』
長い間、彼女はその言葉を永遠の罰だと思っていた。
許しを請うた。
言うことを聞いた。
誰かに、生きていてもいいと認めてもらおうとした。
けれど、ヴァルセリスは言った。
お前は自由だ。
リセリスは目を開いた。
今、彼女は誰かに命令されて動いているのではない。
許しが欲しいわけでもない。
感謝されたいわけでもない。
ただ、助けを必要としている人たちがいる。
自分には、助ける力がある。
それだけだった。
「……ヴァルセリス」
彼女は小さく呟いた。
「私に、教えてくれてありがとう」
翼を大きく広げた。
金色の光が全身を包み始める。
通りにいた人々が空を見上げた。
巨大な白竜が、二つ目の月のように輝いていた。
ヴァルセリスは、彼女が何をしようとしているのか悟った。
「リセリス!」
彼女には聞こえていた。
振り返る。
一瞬、二人の目が合った。
「やめろ!」
リセリスは微笑んだ。
「……生きていていいって言ってくれて、ありがとう」
そして、王都の中心へ向かって飛び込んだ。
光が弾けた。
巨大な金色の結界が、街全体を包み込む。
亀裂が閉じ始める。
崩れかけていた塔が止まる。
地震が、ゆっくりと収まっていった。
やがて光が消えたとき、銀色の竜の姿はどこにもなかった。
ヴァルセリスは夜になるまで彼女を探した。
石をどけ、梁を持ち上げ、兵士たちに落下地点を尋ねた。
誰も知らなかった。
やがて、崩れた広場の片隅で、小さなものを見つけた。
花の冠だった。
焦げていたが、白い花がいくつか残っている。
ヴァルセリスは震える手で拾い上げた。
ニロが角に載せた日のことを思い出す。
笑い声。
林檎をねだる声。
本の続きをせがむ声。
そして、自分の意思でここに残ると決めた夜。
ヴァルセリスは瓦礫の中に膝をついた。
「……リセリス」
声が震えた。
「ここにいていいって、言っただろう……」
花の冠を胸に抱く。
「こんなふうに、いなくなっていいとは……言っていない……」
騎士になって以来、初めて人前で声を上げて泣いた。
王国は生き延びた。
その後の数週間、人々は家を建て直し、城壁を修復し、負傷者の手当てに追われた。
ケイドリックは、エルドリア山脈で起きていた災害について改めて調査を命じた。
学者たちは、リセリスの説明が正しかったことを証明した。
白竜は地震を起こしていたのではない。
ずっと、地震を抑えていたのだ。
真実が公表されると、多くの人々が旧王族別邸の庭を訪れた。
花を置く者。
林檎を供える者。
木彫りの小さな竜を持ってくる者。
ニロも、新しい花の冠を持ってきた。
池のそばに置き、母親に尋ねた。
「リス、お空から見てくれるかな」
母親は答えられなかった。
オデリアーヌも庭を訪れた。
宝石も、華やかなドレスも身につけていなかった。
花の前に膝をつき、長いこと動かなかった。
やがて、呟いた。
「……ごめんなさい」
返事はなかった。
彼女は、謝るには遅すぎることがあるのだと知った。
数日後、ヴァルセリスがローゼンヴェイル家を訪れた。
オデリアーヌは、かつて二人で何度も語り合った応接室で彼を迎えた。
彼の表情を見た瞬間、用件がわかった。
「……婚約を解消しに来たのね」
ヴァルセリスは黙っていた。
やがて頷く。
オデリアーヌは目を伏せた。
「……そうだと思った」
「何もなかったように、続けることはできない」
「わかっているわ」
彼女の手が震えていた。
「ずっと、あの子が私のものを奪っていると思っていたの」
ヴァルセリスは何も言わなかった。
「でも、あなたは最初から、私の持ち物なんかじゃなかった」
涙が頬を伝う。
「私が、自分で壊してしまったのね」
ヴァルセリスは悲しかった。
かつて知っていた、優しいオデリアーヌを忘れたわけではない。
けれど、彼女の選択をなかったことにもできなかった。
「……いつか、自分を許せる日が来るといい。そして、今度は違う選択ができるように」
オデリアーヌは寂しそうに笑った。
「あなたも、いつか……私たちの思い出を、苦しまずに振り返れるといいわ」
ヴァルセリスは静かに頭を下げた。
そして、屋敷を去った。
オデリアーヌは窓辺に立ち、馬車が見えなくなるまで見送った。
彼女は国を追放されたわけでも、誰かに罰を与えられたわけでもない。
ただ、一緒に生きていくはずだった人を失った。
そして、その喪失が、自分自身の選択から始まったことを理解していた。
一か月が過ぎた。
ヴァルセリスは騎士としての務めを続けていた。
けれど、以前とは少し変わっていた。
命令を受けても、必ず理由を考えるようになった。
人間以外の知性ある種族を守るための法整備も、王太子に進言していた。
そして、時間ができると旧王族別邸の庭を訪れた。
樫の木は変わらず立っていた。
池も、そのままだった。
ただ、ひどく静かだった。
春のある午後、ヴァルセリスは林檎の入った籠を持って庭へ来た。
馬鹿げた習慣だとは思っていた。
それでも、毎回持ってきてしまう。
樫の木のそばに林檎を置く。
「……北の橋が、ようやく直ったよ」
誰もいない庭に話しかけた。
「ケイドリックが、これで商人たちも通れるようになると言っていた」
風が葉を揺らした。
ヴァルセリスは寂しそうに笑った。
「お前の像もできたんだ。……ただ、彫刻家は角を少し大きく作りすぎたな」
返事はない。
彼は、いつも本を読んでいた石に腰を下ろした。
しばらく池を眺めていると、背後から声がした。
「……失礼な方ですね」
ヴァルセリスは動きを止めた。
女性の声だった。
柔らかく、聞き覚えのある声。
「女性に会いに来たのに、林檎の一つも勧めてくださらないなんて」
心臓が激しく鳴った。
ゆっくり振り返る。
樫の木のそばに、一人の少女が立っていた。
年の頃は二十三ほど。
腰まで届く長い銀髪は、月の光を集めたように輝いている。
白い肌。
整った顔立ち。
そして、何千もの瞳の中にあっても、彼が決して見間違えない金色の目。
白いワンピースを着て、腰には青いリボンを結んでいた。
手には、小さな花の冠を持っている。
ヴァルセリスは立ち上がった。
息ができなかった。
「……そんな」
少女は微笑んだ。
金色の瞳に涙が浮かぶ。
「お久しぶりです、騎士様」
彼は一歩近づいた。
もう一歩。
「……リセリス?」
少女は頷いた。
ヴァルセリスは、触れれば消えてしまうのではないかと恐れるように近づいた。
「でも、お前は……」
「はい」
彼女は自分の手を見下ろした。
「私も、死ぬと思っていました」
ヴァルセリスは手を伸ばした。
頬に触れる寸前で止まる。
「……触れても?」
リセリスはその手を取り、自分の頬に当てた。
温かかった。
生きている。
ヴァルセリスは目を閉じた。
そして、彼女を抱きしめた。
あまりに強く抱きしめたので、リセリスが小さく声を上げた。
「ヴァ、ヴァルセリス! 苦しいです!」
彼は慌てて腕を緩めた。
「すまない」
けれど、離さなかった。
リセリスは笑った。
それから、泣いた。
二人は樫の木の下で、長いこと抱き合っていた。
やがてヴァルセリスが少し体を離した。
「……何があったのか、教えてくれ」
リセリスは深く息を吸った。
「私は、昔……人間だったんです」
ヴァルセリスは黙って聞いた。
「ずっと前に、呪いをかけられました。誰もが恐れる姿に変えられて、家にも帰れなくなって……」
「誰が、そんなことを」
リセリスは目を伏せた。
「私が逆らったことを、許さなかった人です。ずっと、自分の姿には戻れないと思っていました」
彼女は花の冠を撫でた。
「呪いは、私の心に結びついていたんです。自分の命は誰かに許してもらわなければならないものだと信じている限り、私は竜のままでした」
ヴァルセリスは、あの夜の金色の光を思い出した。
「私がお前との約束を解いたとき……」
「はい。あのときから、呪いが弱まり始めたんです」
リセリスは頷いた。
「でも、まだ怖かった。誰かの言うことを聞かなければ、また一人になってしまう気がして」
「そして、地震のときに……」
「自分で選びました」
彼女の声は穏やかだった。
「王都を守ったのは、命令されたからじゃありません。感謝してほしかったからでもありません。ただ、死んでほしくない人たちがいたから」
ヴァルセリスは彼女の手を握った。
「……どうやって助かった?」
「魔力を放ったとき、竜の体が崩れ始めました。死ぬのだと思ったんです。でも、壊れたのは呪いのほうでした」
リセリスは自分の手を見つめた。
「気がつくと、地下の古い部屋に倒れていました。何日も意識が戻らなかったみたいで……ようやく外に出たところを、農家の方たちに助けてもらったんです」
ヴァルセリスは涙を浮かべたまま、笑った。
「手紙くらい送ってくれればよかったのに」
リセリスは恥ずかしそうに微笑んだ。
「……お金がなかったんです」
彼は目を丸くした。
彼女は続けた。
「それに、人間の手で文字を書くのも久しぶりで……自分の名前すら、うまく書けなくて」
ヴァルセリスは笑い出した。
涙の混じった、心からの笑いだった。
リセリスは優しく見つめた。
「……戻ってくるのが、怖かったんです」
「なぜ?」
「もう、竜ではないから」
ヴァルセリスは眉をひそめた。
「どういうことだ?」
リセリスはドレスを握った。
「あなたが知っているのは、白い竜のリセリスです。庭で暮らして、林檎を食べて、あなたのお話を聞いていた……」
声が震えた。
「今の私を見て、もう好きではなくなってしまったらって……」
ヴァルセリスは彼女を見つめた。
それから、両手を取った。
「リセリス」
彼女が顔を上げる。
「竜だったお前を守ろうとしたとき、人間かどうかなんて気にしていなかった」
金色の瞳に涙が浮かんだ。
「今、人間になったからといって、それが変わるはずもない」
「ヴァルセリス……」
「私が大切に思っていたのは、子供たちを助けるお前だ。何も悪くないのに謝ってばかりいたお前だ。私の読む本に文句を言って笑って、正しいと思い込んでいたことを、もう一度考えさせてくれたお前なんだ」
彼は少し近づいた。
「そのお前が、今、目の前にいる」
リセリスは泣き出した。
ヴァルセリスは銀色の髪を優しく撫でた。
「だから、ここにいていいのかなんて、もう聞かなくていい」
彼女は涙の中で笑った。
「……ずっと、ここにいたいと言ったら?」
ヴァルセリスは微笑んだ。
「なら、これからは林檎をもっとたくさん買わないとな」
リセリスは声を上げて笑った。
そして、彼の胸に額を寄せた。
「……愛しています、ヴァルセリス」
彼は目を閉じた。
この一か月、何度も夢に見た言葉だった。
今も夢なのではないかと思った。
けれど、リセリスはここにいる。
生きている。
温かい。
自分を抱きしめている。
「私も愛している、リセリス」
彼女が顔を上げた。
ヴァルセリスはゆっくり身をかがめる。
そして、かつて誰もが恐れた白竜が眠っていた樫の木の下で、二人は初めて唇を重ねた。
その春、アルサリオン王国には新しい物語が広まった。
竜を討つよう命じられた騎士の話。
命乞いをした白竜の話。
人の姿を失っても、優しさだけは失わなかった少女の話。
そして、何千もの命を救った奇跡の話。
白竜は死に、その光から美しい乙女が生まれたのだという者もいた。
神の奇跡だと語る者もいた。
ヴァルセリスは、そうした噂をわざわざ訂正しようとはしなかった。
それよりも、庭で本を読む時間を大切にした。
リセリスは今では自分の手で本を持てる。
それでも、彼に読んでもらうのが好きだった。
ある午後、ニロが駆け込んできた。
リセリスの前で足を止め、不思議そうに見上げる。
「お姉ちゃん、白いドラゴンを知ってる?」
リセリスはヴァルセリスと顔を見合わせた。
「……少しだけね」
ニロは新しい花の冠を持ち上げた。
「リスにあげたかったんだけど、お空に行っちゃったんだって」
リセリスは少年の前に膝をついた。
「きっと、喜んでくれたと思うわ」
ニロは彼女をじっと見た。
「お姉ちゃん、リスと同じ目をしてる」
リセリスは微笑んだ。
「そう?」
「うん。笑った顔も似てる!」
ヴァルセリスは笑いを堪えるため、口元を手で覆った。
ニロは花の冠をリセリスの頭に載せた。
「じゃあ、これ、お姉ちゃんにあげる!」
彼女は花に触れた。
金色の瞳が潤む。
「……ありがとう。大切にするね」
ニロが帰ると、ヴァルセリスが近づいてきた。
「よく似合っている」
リセリスは眉を上げた。
「竜だった頃にも、同じことを言いませんでした?」
「本当のことだからな」
彼女は微笑んだ。
それから、彼の手を取った。
二人は並んで屋敷へ向かう。
リセリスは、もう隠れなくてよかった。
逃げなくてよかった。
生きていてもいいかと、誰かに尋ねる必要もなかった。
ようやく、帰る場所を見つけたのだ。
騎士に所有されたからではない。
誰かに許されたからでもない。
二人が、自分の意思で一緒にいることを選んだから。
そして、それこそが――
ただ愛されたかった銀竜の少女が、ずっと夢見ていた幸せだった。
この短編小説を最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます。
楽しんでいただけたなら幸いです。もしよろしければ、コメントや星評価をいただけると大変嬉しいです。
お時間を割いていただき、そして私の物語に目を通してくださったことに、心から感謝いたします!




