境界線の一歩
フォレストベアを仕留めた翌朝、シュウは最低限の荷物をまとめ、村の入り口に立っていた。
背後からは、昨日の一部始終を目撃した少年たちの、遠巻きな囁き声が聞こえてくる。
「……本当かよ、あのシュウがフォレストベアを?」
「ああ、間違いない。錆びたナイフ一本で、まるで紙でも引き裂くみたいに……」
「化け物だよ、あいつ。あんな不気味なスキルで……」
畏怖と忌避。
三年間、無能だと蔑まれてきた時よりも、彼らの視線は冷たく、そして鋭かった。だが、今のシュウにとって、そんな声は森の羽虫の羽音ほどにも響かない。
(……軽い。世界が、昨日までとは違って見える)
一歩踏み出すごとに、地面を蹴る脚が自身の意図を超える出力を生もうとする。フォレストベアの肉を喰らい、ステータスが「10.00」上昇した影響は劇的だった。内側に秘められた筋力値は、今や『510』を超えている。
シュウは一度も振り返ることなく、村を去った。
目指すは、数日の距離にある中核都市、レムリア。
そこには、より強力な魔物の情報が集まる『冒険者ギルド』の本支部がある。
「ツノネズミ一万匹の土台はできた。ここからは、質の勝負だ」
街道を走る。
馬車が半日かける距離を、シュウはわずか一時間足らずで駆け抜けた。息一つ乱れない。肺活量も、循環器系も、すべてが「魔物喰い」によって最適化されつつあった。
都市レムリアの巨大な城門をくぐり、喧騒の中を進む。
人々の活気に圧倒されることもなく、シュウは真っ直ぐに剣のマークが掲げられた石造りの建物――冒険者ギルドへと足を踏み入れた。
中には、屈強な男たちや、煌びやかな杖を携えた魔導師たちがたむろしている。
シュウは受付へと歩み寄った。
「……すみません。新規の登録をお願いします」
受付に座っていたのは、狐のような耳をぴんと立てた、凛とした佇まいの女性だった。彼女は手元の書類から顔を上げ、シュウをじろりと眺める。
「新規登録ですね。私は受付のリィネ。……失礼ですが、お名前と、お持ちの『固有スキル』をこちらに記入してください」
リィネと名乗った彼女は、事務的に一枚の魔紙を差し出した。
シュウは迷わず筆を走らせる。
「……『魔物喰い』?」
リィネの声が、わずかに揺れた。
周囲にいた冒険者たちが、一斉にこちらを振り向く。
「おい、聞いたか? 魔物喰いだってよ」
「あのごみ溜めスキルか。魔物の肉を食って腹を壊すのが関の山っていう、ハズレ中のハズレじゃねえか」
「坊や、悪いことは言わねえ。死ぬ前に田舎へ帰って、母ちゃんの飯でも食ってな」
ドッと下卑た笑い声が広がる。
だが、リィネだけは笑わなかった。彼女は、手元の魔紙に浮かび上がった「ある数値」を二度見し、それからシュウの顔をじっと見つめた。
「……シュウさん。あなたのステータス、魔紙が正しく読み取れていないようです。……いえ、それとも」
彼女はギルドの奥にある、巨大な水晶柱を指差した。
「あちらの『測定の柱』へ手を触れていただけますか? 正確なランク判定のために必要なんです」
シュウは無言で歩み寄り、冷たい水晶に手を触れた。
一瞬の静寂。
直後、水晶がこれまでにないほど激しく、どす黒いまでの「深紅」に発光した。
ギルド内が静まり返る。
赤は、強大な力、あるいは「危険」を示す色だ。
「な……なんだ、あの色は!?」
「測定不能……!? まさか、あのガキが?」
リィネは呆然と立ち尽くし、震える声で告げた。
「……身体能力値、計測限界突破。ランク判定……暫定『C』。……いえ、Bマイナスに相当します。……シュウ様、あなた、一体今まで何を食べてきたんですか?」
シュウは静かに手を離し、リィネを見つめ返した。
「……ただの、ネズミだよ。少し、数が多かっただけだ」
その言葉の意味を理解できる者は、ここには一人もいなかった。
だが、この日。
レムリアのギルドに、最も静かで、最も飢えた怪物が産声を上げたことだけは、誰の目にも明らかだった。
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