臨界点(クリティカル)
咆哮が、森の空気を物理的な圧力となって震わせた。
『フォレストベア』。立ち上がれば三メートルを超える巨躯、丸太のような腕、そして鋼鉄をも引き裂く爪を持つ、この森の絶対的な支配者だ。
普通なら、その姿を見た瞬間に足がすくむ。村の少年たちなら腰を抜かして泣き叫ぶだろう。
だが、シュウの瞳に映っているのは「恐怖」ではなく、緻密な「計算」だった。
(……来る)
フォレストベアが、巨体に似合わぬ速度で突進してくる。地響きと共に迫る死の塊。
シュウは動かない。
獲物がその鋭い爪を振り上げ、自らの頭上へと叩きつける寸前――シュウの体が、陽炎のように揺れた。
ドォォォォォン!
凄まじい衝撃音が響き、シュウがさっきまでいた地面が爆発したかのように弾け飛ぶ。
だが、そこにシュウの姿はない。
彼は、ベアの太い腕を「踏み台」にして、宙を舞っていた。
(軽いな)
自分の体が、羽毛よりも軽く感じる。
三年間、毎日欠かさず一万匹以上のツノネズミを食らい続けて蓄積した、累計100以上の筋力と敏捷性の底上げ。それが今、シュウの意図通りに爆発的な出力を生んでいた。
空中で体を反転させ、シュウは錆びたナイフを逆手に握り直す。
狙うは、首の付け根。唯一、硬い毛皮が薄くなっている急所だ。
「――っ!」
着地と同時に、ナイフを突き立てる。
並の人間なら弾かれるはずの一撃。しかし、シュウの細い腕に凝縮された『500』を超える筋力は、錆びた鉄片を神速の弾丸へと変えた。
ズブ、と嫌な感触が手に伝わる。
ナイフは根元まで埋まり、フォレストベアの脊髄を正確に断ち切った。
絶叫すら上げられず、巨獣が膝から崩れ落ちる。土煙が舞い、静寂が戻った。
【ランクC:フォレストベアを討伐しました】
【固有スキル:魔物喰いが発動します】
脳内の声が、いつもより高揚しているように聞こえた。
シュウは荒い息をつきながら、巨体の胸元にナイフを突き立て、その心臓に近い部位を切り出す。
ツノネズミの肉は泥のような味がしたが、このフォレストベアの肉は、触れるだけで指先が痺れるほどの魔力を帯びていた。
シュウはそれを、一気に口に含んだ。
「……っ、あ、ぐ……っ!!」
全身の血管が沸騰するかのような激痛。
これまでの一万回とは比較にならないほどのエネルギーが、シュウの四肢を駆け巡る。骨がきしみ、筋肉が一度断裂しては、より強固に再結合していく音が聞こえるようだった。
【全ステータスが 10.00 上昇しました】
【スキル:『剛力の咆哮(小)』を簒奪しました】
(……10、だと?)
シュウは地面に手をつき、荒い呼吸を繰り返しながら、自分の掌を見つめた。
ツノネズミ千匹分。それが、たった一口で。
三年間、地べたを這いずるようにして積み上げてきた「0.01」という砂の塔が、一気に強固な城塞へと変貌した瞬間だった。
「これなら……いける」
村の連中が笑っていた「ゴミみたいなスキル」。
だが、分母が変われば、その効率は跳ね上がる。弱い魔物で「器」を広げ続け、ようやく自分は、本当の意味での『魔物喰い』のスタートラインに立ったのだ。
「おい……今の音、なんだよ」
背後から、震える声が聞こえた。
振り返ると、そこには村の少年たちがいた。守備隊から借りた剣を手に、顔を青ざめさせて立ち尽くしている。
彼らの視線の先には、絶命したフォレストベアの巨体。そして、その横で口元を赤く染め、錆びたナイフを持つシュウ。
「シュ、シュウ……お前、それ……」
「……ああ。夕食の準備だよ」
シュウは無造作にナイフを振って血を払い、鞘に収めた。
少年たちは一歩、また一歩と後ずさりする。彼らには、シュウの姿が、目の前の魔物よりもずっと恐ろしい「何か」に見えていた。
シュウは彼らには目もくれず、森のさらに深淵を見つめた。
0.01の積み重ねが、自分を変えた。
ならば、この森のすべてを食らい尽くした時、自分は一体どこまで辿り着くのか。
少年の瞳には、もはや村の小さな争いなど、一欠片も映っていなかった。
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