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あの日、白い猫は居場所を見つけた

作者: ササニシキ
掲載日:2026/01/29

 今日は、旅立ちの日だった。

 空はどこまでも高く澄み渡り、雲ひとつない青が広がっている。その青空が、まるでこの日を祝福しているかのようだった。


 緩やかな丘の上。青々とした森の入口からは、人の住む街がよく見えた。行き交う人影、立ち並ぶ建物、絶えず動く世界。そこには、森とはまったく違う匂いと音と熱気が渦巻いている。


 森の入口の脇に、一匹の猫が佇んでいた。

 ごわついた毛には枯れ葉や小枝が絡まり、白を基調に灰色や茶色が混ざった体毛は、もはや元の色が分からないほど汚れている。野良生活でくすみきったその姿は、灰色から黒に近いペルシャ猫にも見えなくはない、雑種の猫だった。


 しかし、その瞳だけは違った。

 アンバー色の両眼が、爛々と輝きながら街を射抜いている。


 ――私が、この世界に猫として生まれて……たぶん、二年。

 ――昨日まで、お母さんには狩りを、近所のヤマネコさんには食べられる野草の見分け方を、魔法使いさんにはこの世界の常識を教わってきた。


 胸の内で、猫はそう振り返る。


 ――これだけやったんだもの。きっと、人里に行ってもなんとかなるわよね……!


 根拠はない。けれど、この猫には、それしかなかった。

 なにせ「猫として生きる」のは、これが初めてなのだ。


 物心がついたとき、猫には奇妙な感覚があった。

 今とは別の生を、確かに生きていた気がするのだ。けれど、前世で自分が誰だったのか、どこで何をしていたのかは、まるで霧がかかったように思い出せない。


 それでも、不思議なことに理解できることがあった。

 目の前にいる大きな白い生き物は「猫」という動物であること。

 そして、自分自身もまた猫として生まれたのだという事実。


 そこまでは、すんなりと受け入れられた。

 ――だが、どうしても納得できないことが、ひとつだけあった。


『やっと……やぁっと、虫を食べずにすむわね……!』


 実際に漏れた声は、「んにゃぅ……にゃぅ……」という情けない鳴き声にしかならない。それでも、その中に込められた切実な想いは本物だった。


『人里に降りれば、きっとおいしい食べ物がいっぱいあるはずよ。せめて……火の通ったお肉が食べたい……!』


 そう願いながら、猫は意気揚々と森を後にした。


 街へ向かう道中、地面を這う虫や跳ね回る虫が視界に入る。

 普段なら見つけ次第、食べさせられていた存在だ。


 ――さようなら、みんな。

 ――今日から私は、文明の味を知る猫になるの。


 そんな気持ちで、まだ見ぬ食事への期待だけを胸に、猫は歩き続けた。


 街へ辿り着いたころには、すでに昼時だった。

 空気には香ばしい匂いが満ち、腹の奥がきゅっと鳴る。人の数も増え、自分の何倍も大きな存在が行き交っていた。


 ――踏まれたら、ひとたまりもないわね。


 そう判断し、猫は街の入口付近にある店の屋根へとよじ登り、上から様子をうかがうことにした。


 少し先では、店先に大きな魚を山と並べ、カンカンカンとベルを鳴らして客を呼ぶ魚屋がいる。

 反対側では、回転する肉の塊を削ぎ落とし、野菜と一緒にパンに挟んで提供している店があった。

 そのほかにも、色とりどりの食べ物が所狭しと並び、街全体が活気に満ちている。


 ――知ってるわ。あれ……たしか、ケバブって名前じゃなかった?


 見たことはない。けれど、なぜか知識だけはあった。

 歩き通しで空腹を覚えていた猫は、屋根を降り、ひときわ大きな肉を焼いている店へ、ふらふらと吸い寄せられるように近づいていく。


 鳴いて、少しでも分けてもらえないか――そう考えた、その瞬間だった。


「こら! 店の近くにいられちゃ、客が寄り付かなくなるだろうが! どっか行きな!」


 突然の怒声に、猫はびくりと身を固くする。

 次の瞬間、肉を焼いていた店員の男が、近くにあった水を容赦なく撒きつけてきた。


 ★


 水を浴びた猫は、慌ててその場を離れ、路地裏へ逃げ込んだ。

 それでも諦めきれず、別の魚屋や店の裏へと近づいてみたが、結果は同じだった。追い払われ、怒鳴られ、居場所はない。


 仕方なく、店の裏に置かれたごみ箱を漁り、油っぽい残飯で空腹を満たす。

 虫よりはマシだ。確かにそうなのだが――先ほどまでの高揚感は、文字通り水を差されたように消え去っていた。


 ――……虫よりは、マシよね。

 ――でも、口の中が気持ち悪いわ。水、飲めるところないかしら。


 猫は水の音を求めて歩き出した。


 歩く途中、周囲の視線が気になる。

 しかめ面、憐れむような顔、驚いたような表情。なぜそんな目で見られるのか、理由が分からない。


 気疲れしながらも、やがて噴水のある広場へ辿り着いた。

 やっと口の中を洗える――そう思って水面へ顔を近づける。


 そこに映っていたのは、見慣れないほど無残な姿だった。

 水と油で絡まり合った毛は固まり、残飯まで巻き込んで、まるでドレッドヘアのようだ。


 ――……そりゃ、あんな顔にもなるわね。


 街の人々の反応に、妙に納得していると――

 突然、胴体に鋭い衝撃が走った。


 反射的に飛び退き、唸り声を上げて振り向く。

 そこには、木の枝を構えた五、六歳ほどの少年たちが三人、立っていた。


「このバケモノめ! 僕がたおしてやる!」

「うわ、モップみたいなのが動いた!」

「やだよ……近づくのやめようよぉ……」


 言いたい放題だった。

 猫は『誰がバケモノよ!』と怒りを込めて唸る。少年たちは一瞬怯んだが、すぐに対抗するように枝を振り回し、砂や石を投げつけてくる。


 避けきれなかった衝撃が、体を打つ。

 力加減の分からない攻撃に、恐怖がこみ上げた。


 猫は必死で走った。

 どこへ行けばいいかも分からない。ただ、この場から離れなければならない――その一心で、人の少ない場所を目指す。


 屋根を越え、塀を越え、走り続けて。

 やがて力尽き、建物の隙間に座り込む。


 ――魔法使いさん、人間は動物に優しいって言ってたのに。


 水で冷え切った体。

 枝と石で痛む体。


 猫はその言葉を思い出しながら、静かに意識を手放した。




 ーー目を覚ますと、そこは見知らぬ室内だった。



猫が目を覚ます、数時間前のこと。


 王都から南東へ向かった先に、イスキアという街がある。

 そこからさらに三キロ南へ進むと、「光る湖」と呼ばれる世にも珍しい湖があるという。


 その湖の水を飲めば、どんな病も癒える――。

 そんな噂がまことしやかに語られてはいたが、実際に湖を目指した者で帰ってきた者は一人もいない。そのため、ただの迷信として扱われていた。


 その迷信に、半ば好奇心から引き寄せられた青年がいた。


 名を、ルーカスという。


 耳にかかるほどの長さのダークブラウンの髪は癖が強く、翡翠色の瞳はたれ目がちだ。視力が弱いため、スクエア型の眼鏡をかけている。その姿は、どことなく知的で穏やかな印象を与えていた。


 ルーカスがイスキアへ到着したのは、日が傾き始めたころだった。

 街では食堂や酒場が客寄せを始め、昼間とは違った賑わいを見せている。


「……これは、早めに宿を探したほうがよさそうだな」


 呼び込みに捕まるのが苦手なルーカスは、宿で食べるものを軽く見繕いつつ、空いていそうな宿を探して歩き始めた。


 二件続けて満室を告げられた後、宿が立ち並ぶ区画を外れた先で、人通りの少ない場所にひっそりと建つ宿屋を見つける。

 最後の望みをかけて入り口へ近づいた、その時だった。


 視界の端で、何かが――もぞりと動いた。


 足を止めてそちらを見る。

 そこにあったのは、土や枯れ葉をふんだんに絡め、残飯までこびりついた、モップの塊のようなものだった。


 ――風で動いた……?


 そう思った次の瞬間、モップの塊から、か細い鳴き声が聞こえた。


「……まさか、生き物か?」


 気づいた瞬間、ルーカスの行動は早かった。

 服の袖をまくり、その塊をそっと抱き上げる。


 生ごみの臭いが鼻を突いたが、それよりも、冷え切った毛の奥に確かに感じる体温と、弱々しくも規則正しい心臓の鼓動に、ほっと息をついた。


 ――生きている。


 そのまま宿屋へ駆け込み、宿泊費に上乗せして事情を説明し、治療のために生き物を連れ込ませてほしいと頼み込んだ。

 宿の主人は渋い顔をしたものの、生き物の状態と、珍しく声を荒らげるルーカスの様子に押され、ついに折れた。


 部屋に入ると、ルーカスは備え付けの風呂場へ向かい、ぬるま湯で汚れを洗い流していく。


 泥と油とごみが落ちていくにつれ、次第に輪郭がはっきりしてくる。


 ――猫……だったのか。


 現れたのは、一匹の猫だった。


 何度も石鹸で洗っているうちに、マーブル模様だと思っていた毛並みは、見違えるほどの白へと変わっていく。その下から、真新しい傷がいくつも浮かび上がってきた。


「……どれだけ汚れを溜め込んでいたんだ。

 それに、この状態で……よく生きていたな」


 誰に聞かせるでもなく、ぽつりと零す。


 手慣れた動きで傷に触れないよう注意しながら洗い流し、タオルで水分を丁寧に拭き取った。


 ――骨折はなさそうだ。

 ――ただ……傷が化膿する可能性はあるな。


 タオルに包んだ猫を部屋へ運び、宿のベッドにそっと寝かせる。

 ルーカスは鞄から数種類の薬草を取り出し、猫にも使えるものを慎重に選別した。


 薬草を揉み込むと、ほのかに香る透明で粘り気のある液体が滲み出す。

 それを指先に取り、猫の傷口へ一つ一つ丁寧に塗っていった。


 ――これで、ひとまずは大丈夫だろう。


 処置を終え、改めて猫の姿を見下ろす。


 しっかり洗われたその体は、驚くほど綺麗な白猫だった。


 ――起きたら、何か食べやすいものを用意してやろう。

 ――果物でも買っておけばよかったな……。


 ベッドの縁に背中を預けると、張り詰めていた緊張が一気にほどける。

 旅の疲れが遅れて押し寄せ、ルーカスの意識はそのまま、静かに夢の中へと落ちていった。





 ルーカスが眠りについてから、三時間ほどが経ったころ。

 白猫は、ふと意識を取り戻した。


 最初に違和感を覚えたのは、匂いだった。

 鼻先をくすぐるのは、花のようにやわらかな香りと、薬草の清涼感。森でも街でも嗅いだことのない、落ち着く匂いだ。


 次に目に入ったのは、見知らぬ天井。

 柔らかな明かりに包まれた室内――そして、すぐそばで眠っている、人間の男の姿。


『…………え?』


 混乱したまま、自分の体に目を落とす。


 そこにあったのは、信じられないほど綺麗な毛並みだった。

 汚れも絡まりもない、母猫と同じ、真っ白な毛。


 ――嘘……。


『……白い……!?』


 思わず、声が漏れた。


 その白猫にとって、白い毛並みは誇りだった。

 けれど、野良として生きる中で失われ、もう二度と戻らないものだと諦めていた色でもある。


『すごい……尻尾まで……真っ白……!』


「…………ん……?」


 感極まって身をよじったせいか、ベッドがわずかに軋む。

 眠っていた男が、ゆっくりと目を開けた。


『!?』


 慌てて息を潜めたが、もう遅い。

 男はしっかりとこちらを見ていた。


「……随分、元気になったみたいだな」


 そう言って、穏やかに微笑む。


「あれだけ汚れてたんだ。さぞ、気分もいいだろう」


 その言葉で、白猫は理解した。

 ――この人が、私を綺麗にしてくれたんだ。


『ありがとう! 本当に……本当に気持ちいいわ!』


 言葉は伝わらない。それでも抑えきれず、白猫は男の顔に飛びついた。


「うわっ……!? 危ないだろ」


 驚きの声を上げながらも、男は突き放さない。

 そのまま背中を撫でる、優しい手つき。


「そんなに鳴かれても、俺には猫語はわからないぞ」


 それでも、その声はどこか楽しそうだった。


 撫でられるうちに、白猫の胸にじんわりと温かいものが広がる。

 安心と感謝が入り混じり、ただ「ありがとう」と鳴き続けた。


 しばらくして、男は白猫をそっと持ち上げた。


「そうだ。腹は減ってないか?」


 その瞬間。


 ――ぐるるる。


 はっきりと、お腹の音が鳴った。


「……なるほど」


 男は苦笑しながら頷く。


「猫に向いてるかは分からないが、生ごみよりはずっとマシなものがある。少し待っててくれ」


 そう言って、白猫をベッドに戻し、テーブルへ向かう。


 白猫はその背中を見つめながら、思った。


 ――この人、今まで出会った人間の中で、一番優しい。


 傷の手当てをしてくれて、

 母猫でさえ諦めていた白い毛まで取り戻してくれて。


 ――魔法使いさんじゃないのに……魔法使いみたい。


 改めて自分の体を見下ろしたとき、じわりと視界が滲んだ。


「……どうした?」


 準備を終えた男が戻ってきて、涙に気づき、途端に慌てだす。


「だ、大丈夫か? 痛いのか?」


『だいじょうぶ』


 そう鳴いて応えると、男は恐る恐る白猫を抱き上げた。


 テーブルに運ばれると、そこには――

 火の通った肉が、削ぎ切りにされたような形で皿に盛られていた。


『……!』


 白猫の目が、一気に輝く。


 ――あのお店のお肉……!


 それを見て、男がくすりと笑った。


「さっきまで泣いてたと思ったら、今度は肉を凝視か。

 本当に、表情が忙しいな」


 見られていたことに気づき、白猫は慌てて視線を逸らす。


「俺の夕飯は、パンに野菜と肉を挟んだものなんだが……肉が少し多くてな。よかったら、食べてくれ」


 我慢できなかった。


 白猫は一口、肉に噛りつく。


 冷めているはずなのに、柔らかく、

 口いっぱいに広がる肉の甘みと旨味。


 ――……おいしい。


 虫を追い、噛み、耐えてきた日々が、すべて吹き飛ぶほどの衝撃だった。


 夢中で食べていると、ふと視線を感じる。

 顔を上げると、男は自分の食事に手をつけず、こちらを見ていた。


 ――食べ方、汚かった?


 不安になって口を止めた、その時。


「……確認させてくれ」


 男が、真剣な声で言った。


「人の言葉を、理解しているのか?」


 疑問形だったが、確信が滲んでいる。

 白猫は一瞬だけ迷い、そして――首を縦に振った。


「…………やっぱりか」


 男は目を見開き、低く息を吐く。


「改めて肯定されると……なかなか衝撃だな」


 少し間を置いて、続けた。


「名前は、あるのか?」


 白猫は首を横に振る。

 森では、誰も名前を持たなかった。


「……そうか」


 男は少し考え、


「よければ、名前を付けさせてくれないか?」


 ――名前。


 なくても困らなかった。

 でも――


 ――この人にもらうなら、あってもいい。


 白猫は小さく鳴き、頷いた。


「ありがとう。少し考えさせてくれ」


 そう言って、男は白猫の頭を撫でる。


 最初は緊張したが、次第に心地よさが勝り、

 フェイは喉を鳴らし、無意識にその手に頭を擦りつけていた。


「……フェイ、はどうだ?」


 男は視線を逸らし、照れたように続ける。


「妖精、という意味なんだが……」


 ――妖精みたいだって、思ってくれたのかな。


 胸の奥が、あたたかくなる。


 白猫は、力いっぱい頷いた。


『今日から、私の名前はフェイよ。

 名前をくれて、ありがとう』


 その様子に、男は目を丸くし、やがて柔らかな笑みを浮かべた。


「受け入れてくれてありがとう、フェイ」


 そして、少し改まって。


「俺の名前は、ルーカスだ。

 食事を邪魔して悪かったな。まだあるから、ゆっくり食べてくれ」


 撫でる手が離れ、ルーカスは自分の食事に戻る。


 フェイはそれを確認してから、再び肉に噛りついた。


 ――フェイ。

 ――私の、名前。


 頭の中で何度も反芻しているうちに、

 皿の上の肉は、いつの間にか空になっていた。





 ルーカスがフェイを拾ってから、数日が過ぎていた。


 夜半前。

 宿の部屋の窓辺で丸くなっているフェイを眺めながら、ルーカスはこれまでの出来事を反芻していた。


 ――やはり、フェイは猫としてだいぶ異質だ。


 本来であれば主食となるはずの虫や生肉を、フェイは決して口にしようとしない。

 魚は生でも問題ないようだが、肉に関しては火の通ったものを好んで食べる。

 加えて、致命的と言っていいほどグルーミングが下手だった。


 ――あれでは汚れが溜まる一方だ。


 ある時、ルーカスはふと思い立ち、フェイが毛づくろいをしているところを見たことがないと気づいた。

 直接聞いてみると、フェイは一瞬だけ言葉に詰まるような間を置き、渋々といった様子で前脚を舐め始めた。


 だが、それは長く続かなかった。


 ほどなくしてフェイは口を開け、もがくような仕草を見せた。

 慌てて様子を確認すると、口の中にはグルーミング中に絡まったのだろう、白くて長い毛がいくつも残っていた。


 「……これはまずいな」


 ルーカスは指を入れて毛を取り除いてやった。

 解放されたフェイは、息も絶え絶えといった様子で床に伏せ、恨みがましい視線をこちらに向けてきた。


 ――あの後は機嫌を取るのが大変だった。


 結局、ルーカスがフェイの体を洗うことでどうにか許してもらえたが、

 あの生活でよく病気にならなかったものだと、今さらながら思う。


 最初は渋っていた宿屋の主人も、手当てが行き届き元気になったフェイの姿を見て、厨房以外であれば宿内を連れ歩いてもよいと許可を出してくれた。

 おかげで今では、他の宿泊客からもすっかり人気者である。


 人気が出るのも当然だと、ルーカスは思う。


 光を浴びれば、白銀のような長い毛がきらきらと煌めき、

 蜂蜜を溶かしたような透明感のあるアンバーの瞳が、その毛色と相まって不思議な神秘性を纏わせている。

 そんな猫が人懐っこく近寄ってくるのだから、放っておけるはずがなかった。


 ――今はまだ、勘がいい猫、という程度で済んでいる。


 だが、長く一緒にいれば、

 人の言葉を理解しているという異常性はいずれ隠しきれなくなるだろう。


「……早めに予定を終わらせるとするか」


 思わず漏れた独り言に、フェイがぴくりと耳を動かし、こちらへ近寄ってきた。


 ルーカスはフェイを抱きかかえ、聞かせるように言葉を続ける。


「俺は明日の朝、街の南の森にあるとされている光る湖を探しに行くつもりだ」


 フェイの体が、わずかに強張った気がした。


「出会ったとき、葉っぱや泥を大量につけていただろう。……もしかして、あの森の出なのか?」


 問いかけると、腕の中のフェイは一拍置いて、こくりと頷いた。


「……そうか」


 ルーカスは小さく息を吐き、続ける。


「よければ、案内を頼めないか?」


 フェイは「にゃあ」と機嫌よさそうに鳴き、尻尾を器用に揺らして答えた。


「ありがとう。じゃあ、今日はしっかり寝ないとな」


 そのままフェイを抱いたままベッドに入り、枕元へそっと下ろす。


「明日、戻ってきたらフェイに渡したいものがあるんだ。楽しみにしていてくれ」


 照明を落とし、ルーカスは静かに目を閉じた。


「……おやすみ」


 窓辺では、フェイが小さく喉を鳴らしていた。





 翌朝。


 フェイはルーカスと連れ立って、宿を後にしていた。


 ――出会った日の恩返しをしたいって、ずっと思ってたの。

 ――森を案内するなんて、ちょうどいい機会よね。


 胸の内でそう意気込む一方で、昨夜のルーカスの言葉が引っかかってもいた。


 ――光る湖、ね……そんな湖あったかしら?

 ――森の湖といえば、魔法使いさんの住んでいるあの湖だけど……聞けば、きっとわかるわよね。


 そんな算段を巡らせていると、頭上から重たい溜め息が落ちてきた。


「まさか、街の住人が誰一人として光る湖の場所を知らないとは……」

「森まで歩いて数時間の距離だぞ? 湖があるかどうかも分からないなんて、そんなことあるのか……?」


 ――そういえば。


 フェイは記憶を辿る。


 ――お母さんたちと森で暮らしていた頃、人間を見たことは一度もなかったわ。


 湖はある、と伝えたかった。

 でも、どう伝えればいいのかわからず、フェイはもどかしさに尻尾を揺らすことしかできなかった。


 道中、色とりどりの草花が咲いていた。

 見つけるたびにルーカスは足を止め、慎重に少量ずつ採取しては小瓶に詰め、鞄へと収めていく。


 不思議そうに見つめていると、ルーカスはフェイに見せるように瓶を軽く揺らした。


「俺の故郷はここよりずっと北でね。実家は商家をやっているんだが……」

「これは南の地方にしか生えない、かなり貴重な薬草なんだ」


 そう言って微笑む。


「光る湖もそうだが、この森にどんな薬草があるのか、楽しみでな」


 その表情は心底楽しそうで、フェイは少しだけ羨ましくなった。


 やがて、森の入口が見えてきた。


 森を出てから、まだ数日しか経っていないはずなのに、

 フェイには何か月も経ったように感じられた。


「……随分と鬱蒼とした森だな」

「入る前から、拒絶されているような気分になる」


 その呟きを聞いて、フェイは思わず首を傾げた。


 ――拒絶?

 ――こんなに、穏やかで優しいのに。


 陽の光を受けた森は青々とし、木々の隙間からは柔らかな木漏れ日が差し込んでいる。

 すべてを包み込み、受け入れてくれるような安らぎに満ちていると、フェイには感じられた。


 ――猫と人間じゃ、見え方が違うのかしら。


 そう思いながら、フェイは一歩、また一歩と森へ踏み出した。

 立ち止まったルーカスを先導するように。


「フェイ、待て。猛獣が出るかもしれない。そんなに先に行ったら――」


 背後からの声を聞き流し、フェイは考える。


 この森には、天敵となる鳥や同じくらいの大きさの四足動物はいても、

 人間が言う“猛獣”など存在しないことを、フェイは知っていた。


 ――いったい、何がそんなに怖いの?


 フェイは案内役として、魔法使いの住む湖を目指した。

 入り口の位置からすると北側に出てしまうだろうが、

 あの神秘的な湖を見れば、ルーカスもこの森を気に入ってくれるかもしれない。


 迷いなく進むフェイの背中を見て、腹を括ったのか、

 ルーカスも次第に怯えた様子を見せなくなり、時折薬草を採取する余裕を見せるようになった。


 どれほど歩いただろう。


 山の斜面は険しさを増し、ルーカスの息も上がり始めていた。

 そろそろだと周囲を見回したフェイの視界に、朽ちた木の看板が映る。


 急かすように鳴くと、ルーカスも気づいたらしく、看板へと近づいた。


 眼下には、吸い込まれそうなほど透明な湖が広がっていた。


 フェイは湖の向こう岸を見て、道のりの長さに小さく溜め息を吐く。


 ――ここからでも、魔法使いさんと話せたらいいのに。


 隣を見上げると、突然現れた湖に驚いたのか、ルーカスは目を見開いていた。


「……これは、随分と深い湖だな……」


 しばらく呆然とした後、ルーカスは看板に視線を移す。


「この看板、何て書いてあるんだ……?」


 そのとき。


 足元で、何かがひび割れるような音がした。


 心臓が跳ね上がる。

 耳を澄ます間もなく、音は連続し、視界が大きく揺れた。


 ――え?


 次の瞬間、浮遊感。


 何かに強く引かれた感覚の直後、全身に衝撃が走った。


 水。


 息ができない。


 必死に手足を動かそうとするが、何かががっちりと体を押さえつけ、思うように動けない。

 重みとともに、どんどん沈んでいく。


 恐怖に駆られて目を開けると、そこにいたのはルーカスだった。


 ――あ……。


 落ちる瞬間、引き寄せられ、庇われたのだと理解する。

 ルーカスの体から、血が水に滲み出していた。


 ――どうしよう、どうしよう……!


 水面へ連れて行きたかった。

 けれど、もがくほどに空気が失われ、口から泡が零れていく。


 ――苦しい……くるし……。


 視界が霞み、瞼が閉じかけた、そのとき。


 水中に、男とも女ともつかない声が響いた。


「おや、今日は来客がある日だったかな」

「ぐっすり眠っていたら、お客様を待たせてしまっていたようだ」


 その声を最後に、フェイの意識は闇へと沈んだ。





 そこは、果てがないかと思われる湖の底に建つ家だった。


 一見すると簡素なログハウスのようだが、水中であるにもかかわらず、窓からは仄かな明かりが漏れている。

 水圧に歪む様子もなく、まるでそこだけが水とは切り離された別の空間であるかのようだった。


 その家の主――魔法使いは、ふと目を覚ました。


 ――私の領域に、侵入者か。


 意識を澄ませる。


 ――一匹……いや、二匹だね。


「おや、今日は来客がある日だったかな」

「ぐっすり眠っていたら、お客様を待たせてしまっていたようだ」


 魔法使いはベッドから身体を起こし、そのまま迷いなく玄関へ向かった。


 扉を開くと、そこに広がっていたのは闇だった。

 正確には、光の一切差さない、水底の静かな水の壁。


 だが水は家の中へ流れ込んでくることはない。

 見えない膜に遮られているかのように、ただ揺らぐことなく、そこに“在る”。


 やがて、水の壁の向こうに大きな気泡が浮かび上がった。


 その中には、意識を失った白猫と、人間の男。


「これはまた……珍しいお客様だ」


 魔法使いは一瞬だけ男を睨むように見下ろし、次の瞬間には興味を失ったように視線を外した。


 腕を伸ばし、気泡の中から白猫だけを引き寄せる。

 白猫を抱き上げた瞬間、扉は静かに閉じられ、水の壁は再び闇へと溶けていった。


 ――まさか、また“アレ”を見る日が来るとはね。


 苦々しさを内に押し込め、魔法使いは魔法を発動させる。

 濡れた自身の腕と、白猫の体から一瞬で水分が消え、乾いた空気が戻ってきた。


 それからようやく、状況の整理に入る。


 ――湖で溺れた動物がここへ流れ着くよう、魔法はかけていた。

 ――でも、人間まで来るのは想定外だ。そもそも、この湖には辿り着けないはずなんだけど。


 魔法使いは白猫へと意識を集中させ、記憶の読み取りを始めた。


 ――なるほど……君は、あの日街へ旅立った“小さい君”だったんだね。

 ――そして、あの人間と一緒に森へ来た、と。


 映像の流れを追う。


 ――人除けの魔法は、ちゃんと機能していた。

 ――でも、小さい君が先導していたから、あの人間は弾かれずにここまで来てしまったわけか。


 小さく息を吐く。


 ――これは後で改良が必要だね。


 さらに先の記憶へ。


 ――……崖崩れか。

 ――こんなに身体が冷え切って……可哀想に。


 情報を読み終え、魔法使いは白猫を見下ろした。


 ――それにしても、随分と見違えた。

 ――最初に会った時は、あまりに汚れていて……魔法で辿らなければ、同じ子だと気づけなかったよ。


 ちらりと、閉ざされた扉の方へ視線を向ける。


 ――一緒に来ていた人間とは、強く信頼し合っていたみたいだね。

 ――でも……あの人間は、あと数十分で死ぬ。


 感情の揺らぎはない。


 ――人間の生死なんて、正直どうでもいい。

 ――けれど、小さい君が悲しむのは……それは少し、困るね。


 魔法使いは小さく首を傾げた。


「さて、どうしたものか……」


 そう呟きながらも、白猫を抱き直し、治療を始める。

 体内に入り込んだ水を丁寧に抜き取り、傷ついた内側を魔法で癒していく。


 しばらくすると、白猫の体にわずかに熱が戻り始めた。

 指先ほどの動きがあり、やがて閉じられていた瞼が開く。


 アンバーの瞳に映るのは、黒い靄をまとった魔法使いの姿。


「……やあ」


 穏やかで、どこか懐かしむような声。


「実際に対面するのは、初めてだね」

「――小さい君」





 体が、あたたかな光に包まれている。


 それは日向ぼっこをしながら、うとうとと昼寝をしてしまったときのような心地だった。

 フェイはゆっくりと瞼を開く。


 視界に映ったのは、水面越しでしか見たことのない、黒い靄に覆われた人型の存在。


「実際に対面するのは初めてだね、小さい君」


『……あ、魔法使いさん……?』


「そうだよ。魔法使いだ」

「飲み込んでいた水は取り出しておいたけど、体の具合はどうだい?」


『体調……?』


 その言葉をきっかけに、記憶が一気に蘇った。


 湖。

 崖崩れ。

 冷たい水。

 自分を抱きしめたまま、血を流して沈んでいくルーカス。


『……そうだわ! 私たち、湖に落ちたの……!』

『ルーカスが私を庇って、血が出て、意識がなくて……!』


「落ち着いて、小さい君。深く息を吸って」


『でも……でも……!』


 フェイの脳裏に、最後の光景が焼き付く。

 動かなくなったルーカス。

 助けられない自分。

 冷たい水の中で、ただ沈んでいく無力感。


 恐慌状態に陥ったフェイを見て、魔法使いは静かに白猫をベッドへ下ろした。


「少し待っていなさい。まだ生きてはいるよ」

「連れてくる」


 立ち去ろうとする魔法使いの背を、フェイは黙って見ていられなかった。

 ベッドから飛び降り、必死に後を追う。


 扉の先には、水の壁。

 その向こう、大きな気泡の中でぐったりとしたルーカスが浮かんでいた。


『ルーカス!』


「よいしょ」


 魔法使いは気泡に腕を差し込み、ルーカスの襟首を掴んで引きずり出す。

 床に横たえられたルーカスの身体から、血が広がっていった。


『ルーカス! 目を覚まして……!』

『私はまだ……恩返しもできてないの……!』


「……目を覚ますことはない」

「そのまま心臓が止まる。それだけだ」


『まだ止まってない! お医者さんのところに連れていけば……!』


「小さい君。その身体で、どうやって?」


 淡々とした声。

 いつもの、あたたかく見守る魔法使いとは違う。


「半分死んでいるようなものだ。諦めた方が楽だよ?」


 フェイは首を振った。


『諦めない!』

『たとえそれしか道がなくても、生きてほしい!』

『それでも駄目なら……ルーカスが寂しくならないように、私も一緒に……!』


 初めて向けられた強い拒絶に、魔法使いは目を瞬かせた。


「……どうして、そこまで肩入れする?」

「森を出て、まだ数日の相手だろう?」


 フェイは震えながらも、言葉を絞り出す。


『どんなに汚れていても、ルーカスだけは手を伸ばしてくれた』

『白い毛を、治療を、食べ物を、フェイという名前を、優しい時間をくれたの』

『私は……まだ一緒にいたい』

『大切にしたいと思った相手を想うのは、当然でしょう?』


 長い沈黙。


 やがて魔法使いは、深くため息を吐いた。


「……わかった」

「私は人間が大嫌いだけど」

「小さい君…フェイだったね、フェイは好ましく思ってるんだ」


 フェイを片腕で抱え、もう一方の腕を振るう。

 ルーカスの身体は、水球に閉じ込められた。


「安心して、時間を止めただけだよ」

「別の道を教えよう。ただし――対価がいる」


『対価……?』


「フェイ。君の“体”だ」


『……私は、死ぬの?』


「死なない」

「ただ、猫としての体を手放す」


 フェイは一瞬だけ目を伏せ、すぐに顔を上げた。


『助かる可能性があるなら、私にあるもの何でも捧げるわ』


 魔法使いは静かに魔法陣を描き始めた。

 黒い液体が床を這い、円を成す。


 光。

 熱。

 激痛。


 白銀の毛が燃え、失われていく。


 白銀の毛が燃えるたび、

 ルーカスの声が遠くなる気がした。

 それでも――手を伸ばしたかった。


『――っ!!』


 叫び声すら、炎に飲み込まれる。


 やがて火が消え、灰の中から現れたのは――人間の女だった。


「お疲れさま」

「生まれ変わった気分はどうだい?」


「……これ、は……?」


「フェイ。君は猫の体を対価に、人間の体を得た」


 渡されたローブに包まり、フェイは自分の手を見る。


 ――懐かしい……。


 記憶の奥に眠っていた感覚。


「完全な人間じゃないけどね」

「それでも、この薬を飲ませるには十分だ」

「私がその人間をというか、人間を直接助ける日は永遠に来ない。だけど、今の君なら飲ませる事ができるだろう?」


 戸棚へ向かった魔法使いは1つの瓶を取り出す。その瓶には緑色の液体が入っていた。


「これ自体はただの傷薬だけど、フェイの対価から抽出した残りの魔力を注ぐと……」


 魔法使いの持っていた瓶に白い光が集まると、瓶の中身はうっすらと光る青色の液体に変化していた。


「さあ、これはフェイの対価で作った特別な薬だよ。瀕死の重体までなら治せるはずさ。護身用に持っておくなり、大切な相手が死にかけていたら飲ませてあげるといい」


 作られた薬を、フェイは震える手で受け取った。


「ありがとう……!」


 フェイは涙ぐみながらルーカスに近づき、恐る恐るルーカスの口元へ薬を運ぶ。


 ――お願い。まだ私は感謝の気持ちを貴方に伝えられてないの……!

 

 願いが通じたのか、ルーカスは薬を飲みこみ始めた。


 薬を飲み込んだルーカスの体は光を帯びていき、心なしか体温が戻り始めたように感じる。


「一時間もすれば目を覚ます」

「さあ、送ろう。人間を長居させる気はない」


 水の馬車が現れ、フェイとルーカスを包み込む。


 思い出したとばかりに、魔法使いは言葉を重ねる。

 

「そうだ、言い忘れていたことがある。人間には、この湖も魔法のことも内緒にしていてほしい。彼らは欲深く、領域を侵すことに躊躇いがないからね」


「わかったわ。魔法使いさんは命の恩人だもの、危険な目にはあわせないわ」


「ありがとう、気を付けて戻るんだよ。いつかまた、お話ししにきておくれ」


 魔法使いは手を振るうと馬車が動き始める。


「ええ、また来るわ!」


 フェイも手を振ってそれに応えたのだった。





 水の馬車は森を抜け、草原で静かに足を止めた。

 次の瞬間、馬車も馬も、水が土に染み込むように形を失い、フェイと意識を失ったルーカスだけがその場に残される。


 ――ここから街まで、ルーカスを運ぶのは現実的じゃないわね……。

 起きるのを、待つしかないか。


 そう思いながら、ふと足元に視線を落とす。


 そこに映っていたのは、見慣れない――けれど、遠い過去に覚えのある、人型の影だった。


 ――朝、森へ入ったときは、まさか自分が人間になって、水の馬車でここを出るなんて思いもしなかったわ。


 感慨に浸っていると、微かな声が聞こえた。


「………………ん……」


 ルーカスが、ゆっくりと目を開く。


「……ルーカス! 良かった、気が付いたのね!」


 思わず顔を覗き込むと、彼は眩しそうに目を細め、眉間にしわを寄せた。


「…………誰だ……?」

「……えっ?」

「……あ、すまない。知り合いに黒髪の方はいなかったもので……どこかで会っただろうか?」


 ――……黒髪?


 フェイは、その言葉でようやく思い至る。

 自分が人間になったことは、前世の記憶のおかげで受け入れられていた。

 けれど、何も知らない人から見れば、猫のフェイと今の自分が結びつくはずもない。


 それに――今の自分は、白銀の毛とは似ても似つかない、黒髪の女性だ。


 ――どうしよう。魔法使いさんとの約束で、魔法のことは話せない……。

 ……きっと、話したとしても信じてもらえないわ。


「……それに、ここはどこなんだ? 全身濡れているし、眼鏡も見当たらない……」

「森に入って……崖から…………。……そうだ、フェイ!」


 突然名前を呼ばれ、フェイは息を呑んだ。


 次の瞬間、ルーカスは彼女の両肩を掴み、至近距離で問いかけてくる。


「近くで白猫は見なかったか? フェイという名前の、人懐っこい子で――

 光を浴びると白銀みたいに長い毛が煌めいて、妖精みたいな猫なんだ!

 蜂蜜みたいに透明感のある……アンバーの……瞳が…………」


 勢いよく語られ、フェイは思わず目を逸らす。

 けれど、途中で言葉が途切れ、声が小さくなっていくのが気になって、再び目を合わせた。


 ルーカスは、信じられないものを見るように、彼女を凝視していた。


「…………そうだ。まるで……君の、その瞳の色だ……」


 自分の瞳の色はわからない。

 それでも、気づいてほしくて、フェイは小さく頷いた。


「……っ! いや、そんな馬鹿な……!」


 魔法のことは言えない。

 それでも――猫として過ごした日々の気持ちだけは、伝えたかった。


「……ルーカスに初めて出会った日は、生まれてから一番特別な日になったわ。

 名前をもらったことも、分けてもらったお肉の味も……今でも覚えている」


 ――たとえ、このまま別れることになっても。


「やっと伝えられる。……私を拾ってくれて、ありがとう」


 涙を滲ませながら微笑むその姿に、ルーカスの脳裏で、泣いていた白猫の面影が重なった。


「……本当に、フェイなのか……?」

「……ええ!」


 感極まったフェイは、そのままルーカスに抱きつく。

 けれど、人間の体の感覚に慣れていなかったせいか、勢い余って彼を押し倒してしまった。


 ――よかった……ちゃんと、伝えられた。


「うわっ……!? ……っと、待て。そのローブの中、どうなっている?」


 その言葉で、フェイはようやく気づく。


「……あ」


 気まずそうに固まるフェイを見て、ルーカスは顔を背けたまま、勢いよく立ち上がった。


「すぐ街に戻るぞ。服を買いに行く。……フェイ」


 すたすたと歩き出す背中を追いかけると、彼の耳が赤くなっているのが見えた。


 それを見て、なぜか胸の奥が、じんわりと暖かくなる。


「……っ! ルーカス、待って!

 いーっぱい、話したいことがあるの!」


 フェイは笑顔で、彼の背中を追いかけた。





 フェイが人間になってから、数日後。


 宿屋の主人に訝しげな目を向けられながらも宿泊料金の差額を支払い、一人部屋から二人部屋へと移動したルーカスは、慣れない圧迫感に目を覚ました。


 視界に入ったのは、ベッドの半分を占領するように丸まって眠る、黒髪の女性だった。


「こら、フェイ。自分のベッドで寝ろって、何度も言っているだろう。

 ……人で暖を取るんじゃない」


 名を呼ばれた女性は、寝ぼけたままいやいやと首を横に振り、そのまま布団の奥へ潜り込んでいく。


「……私も何度も言ってるわ。これはもう習性みたいなものなの。

 早々に諦めてちょうだい」


 ルーカスは小さくため息を吐くと、意を決したように布団を思いきりめくり、ベッドから離れた。


「わっ……! すごいわね、ルーカス。寒くないの?」

「大抵のことは、気合いでなんとかなる」

「そういうものかしら?」

「そういうものだ。……それより、そろそろ起きないと朝食を食べ損ねるぞ」

「それは困るわ!」


 フェイはぱっと起き上がり、大きく伸びをした。


「そうだ。猫のフェイに、前に渡したいものがあるって言っただろう?

 調整に時間がかかってしまって、今になったんだが……受け取ってくれるか?」


 そう言って、ルーカスはテーブルの上から何かを持ってくる。


「たしかに言っていたわね。昨日遅くまで作業していたのって、それ?」

「ああ」


 差し出されたのは、革製のブレスレットだった。

 三本の細い革を丁寧に編み込んだそれは、素朴で、どこか温かみがある。


「野良だと危険もあると思って、最初は首輪を渡すつもりだったんだ。

 ……でも、今のフェイには無理だろう。だから、作り直した」


 少し言いづらそうに視線を逸らしながら、ルーカスは続ける。


「俺はこの街での用事が終わったし、そろそろ実家のあるヒェリに帰ろうと思っている。

 ……よかったら、フェイも一緒に来ないか?

 ちょっと……いや、結構遠いが……」


 ブレスレットを差し出されながらのその誘いに、フェイは迷うことなく笑った。


「もちろん!」


 そう言って抱きつくと、ルーカスは驚いたように目を瞬かせ、すぐに困ったように息を吐いた。


 魔法使いは言っていた。

 フェイは人間の体に組みなおされただけの存在だと。


 きっと、自分はルーカスより先に旅立つ。

 それを、フェイはどこかで理解している。


 それでも――猫として生まれ、人の体を得たこの命で、

 最期まで彼のそばにいたいと、そう願った。



「あの日、旅立った森の汚い猫は――

 自分の生きる場所を、見つけたのでした。……なんてね」


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