結之話:輪廻
本作では官位をオリジナル用語に置き換えています。
守 :武官
司:文官
上司:大納言相当
柔らかな陽光が差し、涼し気な風が通り抜ける日中。
“とととっ”と、近づいてくる軽やかな足音。
幕に映る小さな影法師が、ひょっこりと顔を出す。
「母上、今日は琴を教えてくださいませ!」
「またですか。あなたは本当に琴が好きね」
「はい!」
吾子の黒髪がさらりと流れ、幼い指が調べを紡いでいく。
拙いながらも、なんとも心落ち着く音色かしら。
十二の頃のわたくしよりも、とっても上手。親として嬉しく思う一方で、この子の才に少し嫉妬してしまう。それに安殿に似たのか、武芸の方も秀でていると聞いている……なんだかにくらしくなってきたわ。
「母君? ……何をなさるのですか」
そっと近づき、子千代の頬をつまむ。ぶっくりとした張り。もっちりとした弾力……本当ににくらしいわね。
「ははきみ、いたいれふ」
「あら、ごめんなさいね」
はっとして子千代の頬から手を離す。あまりにも心地よい感触に、ちょっと夢中になってしまったわ。まあこれも、母親の特権かしら。
「姫様は若君に嫉妬されているのですよ」
「そうなのですか?」
「ええ、姫様の幼き頃の手前は、それはもう……」
割って入る侍女頭の言葉に、子千代がきょとんとした顔をしている。
「これ、余計な事を言わないの!」
「あらあら、これは失礼いたしました」
“ふふふ”と含み笑いを浮かべる侍女頭。彼女の“からかい”は、今になっても衰えていない。
「でも若君の琴の御手前は、本当に目を見張るものがありますね」
「ここ最近、琴を習いたいと、ねだる事が多いせいね」
「あら、男子であれば、体を動かす方が好ましいと聞きますのに、珍しいですね」
「それもそうね。子千代、どうしてです?」
子千代は頬を染めながらも、笑みを浮かべながら口を開く。
「父上のためです」
「安殿の?」
「ご帰還なされた時は、きっと疲れておりましょう。お心だけでも、癒して差し上げたいと思いました」
「まあ……」
子千代が生まれる前は、争いが多い世だったけど、今は大分落ち着いている。それでも全く無いわけではない。現に今も安殿は、子の守の務めを果たすべく戦地へ赴き、一月が経とうとしている。
この子なりに考えた労いなのでしょう。胸がじんわりと温んでくる。
「あらあら、姫様と一緒ですね」
「母君と?」
「ええ、まだ若君が生まれる前の事です。子の守殿のためにと、“書より琴を教えて欲しい”とねだられたのですよ」
子千代の瞳が、きらりとこちらを向く。安殿によく似た面影に顔が火照る。
「ちょっと、いつの話を」
「あら、素敵な事ではありませぬか。親子ですね、姫様」
「もう……敵わないわね」
“ほほほ”と、侍女頭はひとしきり笑い終わると、きりりとした視線を子千代に向ける。
「ですが若君。他の手習いも学ばなければなりませぬよ」
「はい、この前は御祖父様 ――いえ、上司殿に和歌を教わり、筋が良いと褒められました」
「まあ、それは素晴らしい」
「言の葉を知れば、名手になれると」
無邪気に喜ぶ子千代の声に、思わず苦笑が漏れる。親バカならぬ、じじバカかしら。
ふと侍女頭の視線を感じる。
「姫様も同じ様に褒められておりましたよ」
「そうなの?」
これは初耳。“寂しい”だの”堅い“だの言われた覚えしかない。
「はい。ですがある時を境に、聞かなくなりましたね」
「え? それはいつの事かしら」
「そうですね、姫様が十を過ぎた頃でしょうか」
どきりと胸が跳ねる。
十を過ぎた頃?
それは女官だった私が、姫となった頃でもある。
「姫様が詠まれるものは、少々堅苦しゅうございます」
「……文法があっていれば、いいじゃない」
侍女頭は、呆れたような溜め息をつくと子千代に向き合った。
「良いですか、若君。言の葉を覚えるのはとても大事ですが、感情の豊かさを忘れてはなりませぬよ」
「は、はあ……わかりました?」
侍女頭に答えつつ、横目でこちらを見る子千代。なんとも気まずそうな表情。
本当に聡い子。空気を読み気を使うし、礼儀もわかっている。八つにして大人達の会話できる子も、そうはいないでしょうね。それに文武共に嗜み、どちらも優れていると評される。そのせいか周りから、“神童”と呼ぶ声も聞こえてくる。
親から見ても、幅広く優秀な子。
それは“得意”というだけでは、説明しきれないほどに。
ふと、よぎる事がある。
なぜここまでできるのか、と。
一度見た事があるとしたら?
一度試した事があるとしたら?
八つの幼子が、どこで見る? どこで試す?
それは、前世しかない――
名も無き女官だった私が、名のある姫になってから、十年が過ぎようとしている。
戸惑う事もあったけど、愛しの君に出会い、子宝にも恵まれた。幸せな日々を送る中、考えないようにしていた事がある。
元々の姫の魂は、何処にあるのか、と。
遠くにあるのか、近くにあるのか。
他の者の身にあるのか、この身にあるのか。
いくらでも想像できるけど、確かめる術は、ない――
「母君、琴の続きを教えてくださいな」
「――っ!」
気がつくと、子千代と二人きりになっていた。
安殿に似た瞳がこちらを向き、わたくしと同じ濡鴉のような髪が揺れる。
「母君?」
「……ええ、良いですよ」
心安らぐ琴の調べが響き渡る。
拙くも、思いのこもった優しい音色。
遠くで務める父のため。
待ち焦がれる愛しの君のため。
所問わず、時を越えて、紡がれていく。
予定外のエピローグでしたが、今エピソードで完結となります。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!




