肆話目:おもふこと
習い事が一段落した日中の頃、侍女頭から一通の文を渡される。
「姫様、子の守殿からですよ」
「まあ……」
あの夜からしばらく、子の守殿は毎夜のように通われている。昼から夕刻にかけて届く先触れ。心が浮つき、顔が熱くなる。
「あら、頬紅は必要なさそうですね、姫様」
「……っ! ちょっと!」
侍女頭によくからかわれるけど、強く否定できない自分がいる。
日が沈みきり弓張月が夜闇に浮かぶ頃、幕の向こうから澄んだ声が聞こえてくる。
「只今参りました。姫」
「ようこそ、おいでくださいました。子の守殿」
「失礼いたします」
衣擦れと、ごとりと固い太刀の音が夜に溶け込む。
ふわりと香が薫る中、月夜の下で和歌を詠み合い、他愛のない会話を交わす。
徐々に心がほぐれ、自然と笑い声がこぼれる。子の守殿の声も丸みを帯びていく。
「そういえば、姫は琴を弾かれないのでしょうか」
「えっと、それは」
姫になりたての頃より弾けるようにはなったけど、まだ披露するほどの自信はない。おたおたしてると、“ふふっ”と、いじらしげな声が聞こえる。
「その時が訪れるのを、楽しみにしておりますよ」
「……はい」
ほっとしつつも、わずかに悔しさを噛みしめる。
ふと、ひやりとした風が帳をすり抜けてくる。
「冷えてきましたね」
「そう、ですね」
「お体に障ります。そろそろお休みになった方が、よろしいかと」
「……そうさせてもらいます」
夜が一層深まると、二人だけの時間は終わり。じわりと滲む寂しさを抑えながら、寝所へと下るしかない。
子の守殿は、縁側の柱に背を預けて夜を過ごしている。未だ“姫は病み上がりですから”と、いつもの場所へ。
戦場では鬼神と恐れられている武士なのに、此処ではそうは見えないほど、優しい御方。守られているようで、心が安らぐ。
子の守殿と言葉を交わしてから、色々と考えるようになった。
確かに人を殺めることは、穢らわしいこと。ただそれは、人を、民を、我らを守ることでもある。
あの御方自身も、お家のため、抗えない主君の命令に従っているだけ。でも、偽れない矜持に準じて、失われた命に祈りを捧げている。
一見器用に見えるけど、魂は不器用な人よね。
ふと、思いがよぎる。
此処に通うのも、わたくしに会いに来るのも、命令されたから?
ずきりとした痛みが、胸を穿つ。
あの御方の本心は、どこにあるのかしら……
確かめる術も、覚悟もない。
今は、ただただ眠ることしかできない。
✽ ✽
“こんっ”と硬い音が小さく響く。衣擦れに紛れ、遠ざかる気配にぱちりと目が覚める。
空はまだ朝焼けに白み、誰も居ない縁側を寒々しく見せていた。
廊下から近づく足音。どきりとするも、ひょいと覗くのは侍女頭だった。
「あら、姫様。お早いお目覚めですね」
「子の守殿は?」
「もうお帰りになられましたよ」
「そう……」
「気を落とさずとも、今宵も訪れてくれますよ」
呆れたような声にのろのろ頷くと、侍女頭から溜め息が漏れる。“処置なし”とでも言いたげね。でもしょうがないじゃない。
なぜまた来てくれると思うの?
やっぱりそれは命令だから?
聞きたいけど、聞けない。まだ知らないことがある。
あの御方のことを知れば、それはわかる?
漠然とした思いを浮かべながら身支度を整え、本日の手習いに臨む。
「ふむ。ちと寂しいの」
「え?」
「よくできているが、行儀が良すぎる。もう少し遊びがあってもよい」
「わ、わかりました」
びっくりした。心の内を読まれたのかと思ったわ。和歌の評価よね。
本日の和歌は、父から直接手ほどきを受けている。それは上公家直々の教え。下公家の女官としては、相当名誉な事。でも……
「姫よ、身が入っていないの」
「……申し訳ありません」
父は溜め息をつくと、口を開いた。
「何か悩み事でも?」
さすが父親という事かしら。見抜いてくるわね……あら、でもこれは良い機会かしら。 そもそも子の守殿との関係は政略結婚。父があの御方のことを知らないはずないじゃない。
ささっと佇まいを直し、父に向き合う。
「わたくし、子の守殿のことを、何も知らないと思いまして」
「ふむ。夫となる者に興味を持つのは良きことだ」
父は感心したような声で話しつつ、一拍置くとそのまま続ける。
「しかし色眼鏡で見ぬよう、“伏せていた”ことでもある ――それでも知りたいのか?」
睨めるような流し目。ぐぐっと迫る威圧感。じとりと冷たいものが背を伝う。
「……是非」
父は深く頷くと、子の守殿のことを話し始める。幼少の頃の出家と、しばらく後に還俗。これは知っている。でも、問題はその後だった。
「なぜ本家に戻されたのです?」
「兄二人を戦で亡くしたのだ」
「そんな……」
「転がり込んできた嫡流の座だが、悲しむ間もないだろう。やるべき事は山とある。嫁取りもその内の一つだな」
苦笑気味に話しつつ、父は続ける。
「それに、寄り付く者や去り行く者。己が立場だけでなく、周囲も変わる。その上で地武士との戦もあるの」
指折り数えられる状況に、ぞわりとする。
「わたくしに、何かできるのでしょうか」
「労ってやりなさい。支えてやりなさい。寄り添う者がいれば、男子は強くあれるぞ」
「……はい」
父の間から下がり、自室へと戻る。
あの御方が抱えているものは、想像以上だった。考えてみれば、還俗とはそういうもの。大人であれば、余程の事があったと容易にわかるはず。本当に十二の娘になったみたい。
「……しっかりしないと」
あの御方とは、思いが違うかもしれない。それでもわたくしにも、できることがある。
揺れないよう“支え”、折れないよう“労る”
それに必要なことは――
「姫様、そろそろ書の準備をいたしますね」
「琴にしましょう」
「はい?」
「ね、子の守殿が、わたくしの琴を聞きたいと仰っていたの。心安らぐような調べはあるかしら」
「かしこまりました」
侍女頭が柔らかな笑みを浮かべる。不思議とその表情には、いつものからかいはなかった。
夜闇に浮かぶ灯火を頼り、手紙を開け、繊細な筆運びに触れる。
『今宵も参ります』
昼日中、子の守殿から届いた先触れ。読み返すのは何度目かしら。折り目が寄れている気がする。いい加減にしないと。
手紙を仕舞い込み、琴を見やる。
弦に軽く触れ、指の運びと調べを確認していく。うん、多分、大丈夫。
「いつもより緊張しているみたいね」
しとりと湿る指先を撫でながら、ふと感じる気配に胸が高鳴る。
「姫様」
恐る恐ると声をかけてきたのは侍女頭だった。
「どうしたの?」
「その、子の守殿の使者が参られまして……」
言いづらそうにしている侍女頭から、手紙を受け取る。これは、あの御方の文字。
「 『火急の件にて、今宵行くことかなはず』 ――ですって」
だらりと力が抜け、ぽとりと手紙が落ちる。
ああ、拾わないと。
ゆるゆる手紙を机に置き、のろのろ寝所へ向かう。
「今日はもう休むわ。明日も琴を教えてちょうだいね」
「姫様……」
“火急の件” ――それは戦だ。法政府務めの文官であれば、誰でもわかる。それに子の守殿が呼ばれたということは、尊の命令。抗えるはずもない。
だから良い。今夜は会えなくても、仕方がない。でも……
寝床に就き衣をかける。
ほわりと温む中、体が震える。
ああ、やっぱり。これは恐怖だ。
わずかに乱れた文字が、こんなに怖いと思わなかった。
これから戦に挑まんとする、あの御方の覚悟が、伝わるよう。
夜が深まる中、ただ一人で祈ることしかできない。
どうか無事に、帰ってきてくださいませ――
琴の調べを空でなぞりながら、あの御方へ、安らぎを継ぐように――




