弐話目:病弱姫の婚約者
ふと目が覚める。ぱちりとまぶたを動かすけど、暗いまま。辺りはまだ夜中みたい。
もぞりと身を揺らし、手足を動かす。
すうっと息を吸うと、ほのかに香が薫る。
私、本当に生きてるみたい……
ぐっと目をつむり、思い返す。
灯火頼りの帰路にて、迫りくる騎馬。
逃げる間もなく、私は轢かれたはず。
あの時確かに感じたのは、死だ。
でも、生きている。
しかも、下公家の女官ではなく、上公家の姫として。
身分も、齢も別の人。
私が蘇ったわけではない。
在る身から異なる身へ。
それは、魂だけが移ったように思えてしまう。
まるで、輪廻を巡ったみたい。
だとすると、姫の魂は何処に?
急に気だるさが増す体。
頭がぼうっと熱くなる。
そんな話、あるわけないわよね。
きっと熱のせいだわ。
もうひと眠りしよう……
✽ ✽
「ほう、熱はすっかり冷めましたね、姫様」
手慣れた手つきで私を介抱する男性医官。
あれから三日が経ち、すっかり熱は下がっていた。もちろん、私はちゃんと生きている。女官ではなく、姫として。
どうやら熱のせいではなかったようね……
今の所わからないことだらけだけど、失わずに済んだこの命。ちゃんと大切にしよう。
ただ、姫として過ごすしかなさそう。だって周りをぐるりと家臣と侍女で囲まれているのだもの。
「よくぞ、よくぞ、ご回復なされました……」
涙声の家臣達と目が潤む侍女達に、ずきりと胸が痛む。ごめんなさいね、私はあなた達が知っている姫様じゃないの。
ふと廊下の方から、いくつもの足音が聞こえてくる。間を置かず、家臣と侍女はささっと端に寄り平伏する。
「息災か、姫君」
幕越しに響く、軽やかな声。
どこかで聞いたような ……あれは確か、法政局? まさかね。
幕が上がると、上質な着物をゆったりと召した男性と、気品のある着物をさらりと着こなす女性が見えた。
ぼんやりとした記憶が蘇る。この二人は、姫の父君と母君だ。
「お陰様で心地よい気分です、父君」
「それは良きことだ」
にっこり喜色満面の父と、後ろでほっこり笑みを浮かべる母。
本当に、皆から大切にされているのね。
「だがまだ安心するのではないぞ。そなたは、幼き頃から体が弱かったからな」
うんうんと頷く一同。
「念のため、もう二日ばかりは安静にしておいた方が良い」
「お気遣い痛み入ります、父君」
「なに、そなたを案じているのは、我らだけではない」
「と、仰られますと?」
「ほほほ、とぼけなくてもよいぞ、 我が吾子よ」
父君は、ご機嫌な笑い声を上げながら、どこか満足そうに去って行った。
一体何だったんだろう。 わたくしを心配する人がまだいるの?
ふと視線を感じると、母がじっとわたしを見つめていた。
「母君、どうかされましたか」
「……いえ、大事にするのですよ」
「重ねて、ありがとうございまする」
「そなたの名には、御力がありますから。覚えていますね」
「はい、もちろん」
姫の名は法子。仏法や法力にあやかっている。その御力のお陰で病弱な姫は、齢十二を迎えられたと言われているようね。
美しい話なんだけど、ねぇ…… “法の郎女”と陰口を叩かれた身としては、なんとも複雑な気持ちだわ。
さらに幾日が過ぎると、体調はすっかり良くなり、姫としての日常を過ごし始める。
差し込む朝日と共に目覚め、侍女に身支度を整えられていく。
用意された水で顔を洗い、髪を梳かれると、さらりと長い髪が揺れる。鏡を見ずとも、濡鴉のようだとわかる。さすが上公家の姫ね。
「姫様、本日のお召し物ですよ」
「え、ええ」
唯一慣れないのは着付けだけ。可憐で素敵なんだけど、とっても高価そう。ああ、今日のも、女官の給料何年分なのかしら。
着替えが済むと、習い事が始まる。書を習い、和歌を詠み、琴を弾く。これが姫様の仕事。ただの女官では考えられないほど、雅な時間を過ごしている。でも……
ぽぽろん、ぽろろぉん
ききぃん、きんきん
琴にあまり触れた事のない私でもわかる。これはひどい。なんとなく弾けば間延びした音が漂い、力を入れると甲高い音が耳に刺さる。
うーん、力加減がわからない。教師役の侍女頭も、呆れたように首を振っている。
「姫様…… 」
「ごめんなさい、指がうまく動かなくて」
「書の御手前は、とても素晴らしかったのですけどね」
それは毎日、山と積まれた書状を相手にしてましたからね。
「お体も良さそうですし、本日からみっちり琴のお稽古ですね」
「……はい」
きりっとした侍女頭の顔。これは覚悟した方が良さそうだわ。上公家の姫様と言っても、苦労からは逃れられないのね。
ただ、少し引っかかるわね。いくら姫の嗜みとはいえ、ここまで熱が入るものなのかしら。誰に見せるわけでもあるまいに。
習い事が終わると、もっとも緩い時間が流れる。好みの香を焚き、絵巻物を眺めたり、物語を読んだり。なんなら頼めば侍女が読み聞かせてくれる。こんな贅沢な事はない ――と、思っていた。
「なんだか飽きてきたわね……」
人というのはワガママなのか、無いものねだりというか、数日も経てば悪い方に慣れてくる。宮中を走り回っていた頃が懐かしいわ。私ってこんなに仕事中毒だったかしら?
そう言えば、法政府はどうなっているのかしら。山と積まれた書状と、飛び交う印と札 ……あ、やっぱり考えるのはやめましょう。
嫌な想像を振り払った時、侍女頭から声をかけられる。
「姫様、子の守殿がお見えですよ」
「……はい?」
“子の守” ――それは、尊直轄軍である“八方の守”の内、北方を預かる武士団の長のこと。宮中でも噂になっていた人物だったはず。
え、武士がこれから来るってこと?
「そのようなこと、わたしは聞いておりませぬよ?」
「昼頃にお手紙があったではありませぬか」
手紙……そう言われるとあったような。姫生活に浸かりすぎてて、ぼんやりしていたみたい。これは仕方ない。私の落ち度だ。でも、聞かなきゃいけない事がある。
「なんで、武士が此処に?」
「お忘れですか? 姫様の婚約者様ではありませぬか」
「こ、こ、婚約者?!」
「姫様! 大声を出されては、はしたのうございますよ!」
そんな事を言われても、驚かずにはいられない。
私とて元は下公家の女官。結婚は家と家を繋ぐ、重要な政治的手段。拒否する気はさらさらない。特に、宮中で噂になるほど活躍している御方が相手とならば、やぶさかではない。
でも、武士は絶対に嫌!
人を殺める事が、生業なんでしょう?
なんて、穢らわしい!
尊ぶべき命を、なんだと思っているのかしら?
ぎぎっと廊下が鳴り、近づいてくる人の気配。
ちょっと、もうそこまで来てるじゃない!
「姫、失礼いたしますよ」
凛と澱みのない声。心が、魂が浄化されるような心地。
“ダメです!”とか、“お帰り下さい!”の声が出ない。
「熱も下がったと聞きましたので、お見舞いにと参りました」
間違いない。この声には覚えがある。
女官の頃好きだった、“僧”の声。
「姫?」
幾重もの幕を隔てた縁側に座す、烏帽子姿の影法師。
影が身じろぐと、ごとりと固い音が鳴る。
太刀を置いた? 僧ではない?
でも、うすらと見える顔立ちに、見覚えがある。
「……あなたが、子の守殿?」
「ええ、お忘れですか?」
忘れるも何も、私が知りたいのはただ一つ。
「僧じゃなかったの?」




