推しとの合い言葉
僕と推しだけの合い言葉がある。
それは、ライブの途中で必ず言ってくれる言葉だ。
曲が終わり、会場が静かになる一瞬。彼女は少しだけ間を置いて、マイクに向かってこう言う。
「ほら、こっちを見て」
その瞬間、僕は息が止まる。ステージの上から、確かに目が合った気がする。いや、気がするじゃない。合っている。あの言葉は、僕に向けられている。だって、合い言葉なんだから。
初めてそれを聞いた日のことは、今でも鮮明に覚えている。特典会で彼女は少し照れたように言った。
「私たちだけの合い言葉だよ」
僕は何度もその言葉を反芻した。私たちだけ。その響きが、胸の奥で何度も跳ねた。
特別な存在になれた気がした。数千人の中の一人じゃなく、彼女と繋がった唯一の存在に。
それから毎回のライブで、彼女は必ず言ってくれる。
人が多くても、距離があっても、あの一言だけは僕だけのもの。
僕は毎回、その瞬間を待ちながらライブに通った。
何度聞いても、胸が熱くなる。これは僕たちだけの秘密だから。
でも、ある日。
隣で見ていたオタクが泣き出した。
「今日も言ってくれた……」
そう呟いた彼の顔は、幸せそうで、僕と同じだった。
その時、嫌な予感が走った。
終演後、震える手でSNSを開いた。合い言葉で検索するとオタクの投稿がすぐに出てきた。
《今日も合い言葉言ってくれた。私たちだけの。》
凍りついた。スクロールすると、同じような投稿がいくつも出てくる。みんな同じことを言っている。「私たちだけの合い言葉」と。
頭が真っ白になった。信じたくなかった。
後日、勇気を出して彼女に聞いた。声が震えていた。
「あの言葉って……」
彼女は変わらない笑顔で、何でもないように言った。
「ほら、こっちを見てでしょ?みんな喜んでくれるから」
僕たちだけ、なんて、最初からなかった。
それは、誰にでも言える魔法の言葉。特別だと思っていたのは、僕だけだった。
それでも僕は、今日もライブに行く。あの言葉を聞くために。
「ほら」だとわかっていても。




