1
第一章 結婚式と宣告
百合と没薬。大聖堂の扉が開いた瞬間、クレールの鼻腔を満たしたのは、その重たく甘い香りだった。
祝福の香、と人は言う。けれどクレールには、それがどうしても葬送の匂いに思えてならなかった。祖母の棺を見送った日も、こんな匂いがしていた。白い花に埋もれた祖母の顔は、まるで眠っているようで——
「クレール」
背後から、姉のマルグリットの声が飛んできた。低く、苛立ちを含んだ声。
「何をぼんやりしているの。早く歩きなさい」
クレールは小さく頷いて、一歩を踏み出した。
足元の赤い絨毯は、まるで血の道のようだった。その両側には、見知らぬ貴族たちが並んでいる。誰もがクレールを見ていた。品定めをするような、あるいは憐れむような視線で。
(また、だ)
クレールは、無意識に袖口を指で撫でた。
いつもこうだ。人の視線に晒されると、体が強張る。逃げ出したくなる。でも、逃げる場所などない。クレール・ド・モンフォールには、最初からそんな場所は与えられていなかった。
祭壇が近づいてくる。
そこに立つ男の姿が、少しずつはっきりと見えてきた。
銀灰色の髪。青灰色の瞳。噂に違わぬ端正な顔立ち。けれどその美貌には、血が通っていないように見えた。精巧に作られた彫像。あるいは、凍りついた冬の湖面。
レオナール・ド・ヴェルニュ。
「氷の貴公子」と呼ばれる男。今日から、クレールの夫となる人。
クレールは祭壇の前に立った。レオナールは、彼女を一瞥すらしなかった。
司祭が、荘厳な声で誓いの言葉を読み上げ始める。聖歌隊の歌声が、高い天井に反響して降り注ぐ。美しい。けれど、どこか空虚だった。
「——汝、レオナール・ド・ヴェルニュは、この者を妻として迎え、生涯を共にすることを誓うか」
「誓う」
レオナールの声は、低く、抑揚がなかった。まるで契約書の一文を読み上げるような。
「——汝、クレール・ド・モンフォールは、この者を夫として迎え、生涯を共にすることを誓うか」
クレールは、一瞬だけ迷った。
逃げ出すことはできない。逃げたところで、行く場所もない。実家に戻れば、父と姉たちの冷たい視線が待っている。「役立たず」「変わり者」——そう言われ続けた二十七年間。
ならば、ここにいても同じだ。
「……誓います」
声は、思ったよりも落ち着いていた。
指輪が嵌められる。冷たい金属の感触。レオナールの指先も、同じように冷たかった。まるで、血の通っていない人形に触れているようだった。
(この人と、これから一緒に暮らすのか)
クレールは、ぼんやりとそう思った。
不思議と、悲しくはなかった。怒りもなかった。ただ、淡い諦めが、胸の底に沈んでいるだけだった。
披露宴は、クレールにとって苦行だった。
見知らぬ人々に囲まれ、見知らぬ香水の匂いに包まれ、見知らぬ料理を口に運ぶ。笑顔を作るのが、こんなにも疲れることだとは知らなかった。
「おめでとうございます、奥様」
「まあ、なんてお美しい花嫁でしょう」
「公爵様もお幸せですわね」
空虚な言葉が、次から次へと降り注ぐ。クレールは、決まり文句で応じながら、心の中で数を数えていた。あと何時間で、この宴が終わるのだろう。
隣に座る夫は、一度もクレールの方を見なかった。来客と言葉を交わす時も、その声は事務的で、表情は凍りついたまま。
(この人は、本当に人間なのだろうか)
ふと、そんなことを考えた。
すぐに、馬鹿馬鹿しいと思い直した。人間でないはずがない。ただ、感情を表に出さないだけだ。そういう人もいる。クレール自身も、人から「何を考えているか分からない」と言われることがある。
(似た者同士、かもしれない)
その考えは、すぐに打ち消した。彼は公爵だ。権力があり、富があり、人々に畏怖される存在。クレールとは、何もかもが違う。
宴が終わったのは、日が完全に落ちてからだった。
***
新婚の寝室は、広く、寒々しかった。
天蓋付きの大きな寝台。壁を覆う重厚な織物。暖炉には火が入っていたが、部屋の隅々まで温めるには足りなかった。
クレールは、部屋の真ん中に立ち尽くしていた。
何をすればいいのか、分からなかった。花嫁の夜——そう呼ばれるものについて、姉たちから聞かされたことはある。けれど、それが自分の身に起こることだとは、どうしても実感が湧かなかった。
扉が開いた。
レオナールが入ってきた。礼服のままだったが、上着のボタンは外されていた。その仕草だけで、彼が疲れているのだと分かった。
沈黙が落ちた。
暖炉の薪が爆ぜる音だけが、静寂を破っていた。
「君には、最初に伝えておくことがある」
レオナールは、窓際に立ったまま言った。クレールの方を見ていなかった。
「この結婚は、領地のためのものだ」
分かっている。今さら言われるまでもない。
「君のモンフォール家が持つ南部の街道は、我が領に必要だった。それが、この縁組の目的だ」
声は、相変わらず抑揚がなかった。感情の欠片も感じられない。
「だから、君を愛するつもりはない」
クレールは、黙って聞いていた。
「好きに暮らせばいい。何をしても構わない。ただし——」
そこで初めて、レオナールがクレールの方を見た。
青灰色の瞳。冷たい、というより——何も映していないように見えた。湖面に映る空のように、深く、空虚だった。
「公爵夫人としての最低限の体裁は守ってもらう。公式の場には出席すること。それ以外は、好きにしていい」
「……」
「何か質問は?」
クレールは、少し考えた。
怒るべきなのかもしれない。悲しむべきなのかもしれない。けれど、どちらの感情も湧いてこなかった。
むしろ——安堵していた。
期待されないなら、失望させることもない。放っておいてもらえるなら、自分の好きなように過ごせる。それは、クレールにとって——悪いことではなかった。
「私の部屋は、どこですか」
その質問に、レオナールがわずかに眉を動かした。
それが驚きなのか、困惑なのか、失望なのか——クレールには分からなかった。けれど、どうでもよかった。
「東棟に用意してある。案内させる」
「ありがとうございます。おやすみなさい」
クレールは、淡々と礼を言って、部屋を出た。
振り返らなかった。
だから、気づかなかった。
彼女が去った後、レオナールがわずかに目を細めて、その背中を見つめていたことに。
その目に、ほんの一瞬——何か、複雑な光が宿っていたことに。




